「ヨハネによる福音書」6章60節から65節までを朗読。
63節「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」。
この御言葉はイエス様とユダヤ人たちとの会話の中で語られたものであります。イエス様はそこで非常に過激なことを語っておられます。53節に「イエスは彼らに言われた、『よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない』」とありますが、人の子の肉を食べその血を飲まなければというのですから、これを聞いたユダヤ人たちはびっくり仰天したのです。人肉を食べるとか、血を飲むなど、そんな馬鹿げた話があるものかと思いました。しかも、48節には「わたしは命のパンである」とも言われた。パンは当然食べるものであり、飾っておくものでもありません。入れ物に使うわけでもありません。イエス様はご自分を命のパンだ、わたしを食べないと命がないと言われる。それを聞いていたユダヤ人たちは「とんでもないことを言う人だ」と。しかも彼らはイエス様の弟子であったとも言われています。イエス様と一緒にいて、生活ぶりを親しく知っていたと思います。
だから、60節「弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、『これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか』」とつぶやく。弟子たちですらも「これはひどい言葉だ、とんでもないこと言う」と。そのときにイエス様が言われたのが、63節「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」。「霊」という言葉を使っておられますが、それに対して「肉」という言葉を対比しています。「霊」のことには敬遠すると言いますか、あまり触れないでいてしまいますが、イエス様が言われるのは「霊」の問題です。「人の子の肉を食べず、また、その血を飲む」ということも、文字どおり肉体であるとか、生臭い具体的な何かの肉とか血のことを言っているのではありません。ところが、ユダヤ人たちはそのようにしか考えようがない。イエス様は、「あなたがたに話した言葉は霊である」と言われるように、イエス様の語る言葉、そこに込められている神の霊、その霊の力を受けること、私たちがその霊によって生きる者とならなければならないとイエス様は語っているのです。
霊というと、なかなか分かりにくい。聖霊であるとか御霊であるとか、霊であるとか、霊魂であるとか言われると、「あるような、ないような、分かったような、分からんような、もやっと霧の中に入り込んでしまう」と思われるかもしれませんが、こればかりはまさにそのとおりで霧のようなものであります。あるやらないやら分からないというのが、正直なところだと思うのです。しかし、これを抜きにして、私たちの信仰はあり得ない。聖書を読んでよく分かると思いますが、「霊」について語っていることがほとんどです。使徒行伝やパウロの書簡でもそうですが、常に霊に関して、御霊については、悪しき霊についてなど様々なことが語られています。それを抜きにしたなら、聖書は意味がない。「では、その霊はいったい何か」と。私たち人間は肉体をもってこの世に生きていますが、それとは違う霊的な存在であることをもっとはっきり自覚したいと思います。霊が何であるか、証明もできませんし、手で触ることも、見せてあげることもできません。「これが霊ですよ。見てご覧なさい。ここにあるでしょう」と言えません。霊が何であるか、いくら言葉を尽くしても説明できません。分かってもらえないのが当然です。頭脳や知識で、あるいは何か人間の持っている肉体的な機能、能力で霊を推し量ることはできないのです。だから、まず霊について考えるとき、霊は説明のつかないものであるということを大前提で受け入れていただきたい。分からない、ということが当然なのです。肉体的な知識として、あるいは言葉で説明できる範囲のことしか、私たちは理解しようとしません。生まれながらに、そのような肉に生きているかぎり、どうしてもそこに限りがある。だから、霊について手ごたえがあるとか、はっきり言葉で説明できることは期待できませんから、だから、初めからそのことは理解しようと思わない。ではどうするか。信じるのです。私は肉にある存在であると同時に、霊にある存在でもある。「神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」と「創世記」に語られているように、すべての人々に神様は霊を宿してくださった。神の姿かたちに似る者として、神様の霊が私たちの内に与えられている。ところが、その霊をどこかにしまい込んで、押し殺して、それに思いを向けないで、それを信じようとしないで、ただ肉の生活だけを追い求めている。それが神様から離れて行った大きな原因です。そして、私たちは神様の与えられた霊に従って生きるのではなく、自分の悪しき霊、サタンの霊に囚われてしまった。これも聖書にあるとおりです。悪しき霊、罪の奴隷となって、肉なるものに結び付けられてしまう。逃げようのないところに置かれてしまっていた。これが罪の姿です。神様から離れて、人が自分勝手な思いに、自分勝手な歩みに引き出されたのは、罪が働いて悪しき霊が私たちを捕らえたからです。だから、パウロは「私たちの内に罪という悪しき霊が働いて、そして私たちを神様から引き離してしまった」と語っています。何とかして、私を捕らえている悪いサタンの力から解放してくれるものはないだろうか、私には良き願いがあり思いがある。神様の霊は完全に死んでしまったわけではない。押し殺されて息絶えようとしている私たちの内にある神の霊は、何とかして私たちを神様の御心にかなう者にしようと絶えず働き続けている。だから、私たちに「こうしたい」、あるいは「これはやめよう」と願いを起こさせるが、することもやめることもできない。「ああ、我悩める人なるかな」とパウロが言う。それは自分のうちに二つの力があって、わたしを奪おうと争っている。しかも、サタンの力が強くて、わたしはそれに捕らえられてしまったのだというのが、パウロの罪の実相と言いますか、罪にある人の姿の理解、考え方です。そのように言われてみると、私たちの内にもそういうものがあります。常に、私たちの内には何か相逆らうものが常に働いている。神様を求める、永遠を思う思いを神様が与えてくださっている。私たちは神の霊によって初めて生きる者となるのです。ところが、神の霊が働くことができないように、サタンが私たちを奪い取って、神の霊から私たちを切り離してしまう。私たちを自分の思うがまま、己(おのれ)を神として、神様を拒んで、自分のわがままな自我、あるいは情欲に従って生きるようにと、私たちを引っ張っていく。これがサタンの霊、悪の霊、この世に働くもろもろの霊と語られています。そのような霊が私たちの内に常に働いて、私たちを苦しめてきたのです。
私どもはこの地上にあっていろいろな悩みに遭います。それは肉にある悩みです。病気であるとか、あるいは家族の問題であるとか、あるいは経済的な問題であるとか、そのような悩みに遭います。そうすると、物質的な欠け、不足が補われること、自分の生活状況が改善されて思うように願うように、自分の思い描いたような人生や事柄が次々と起こってくれば安心だと思います。では、すべてが整ったから安心かというと、そうはならない。なぜかというと、私たちをそのような物質的な条件を満たすことへ、サタンは私たちの思いを振り向けているからです。だから、いろいろなことで私たちは悩みますが、イエス様が言われるように、神様に立ち返りさえすれば、思い煩う必要がないのです。神様の霊に満たされるとき、私たちにいのちが注がれる。神様とのパイプ、つながりをその度回復することができる。それがイエス様による救いです。サタンの力、悪の霊の力に捕らえられて、神様の思いとは違う方向へ引っ張られていた私たち。それによって支配されたために、世にあって受ける出来事を感謝できない、喜べない。不安と恐れと心配と憤りとつぶやきが次々とわいてくるのは、条件が問題なのではない。外側の目に見える生活、境遇やそういうものが問題なのではない。サタンの力に私たちが捕らえられ、支配されているから、それを受け入れられない。だから、そこから解放してくださったのです。これが十字架のあがないです。イエス様は私たちを神の霊に結び付けてくださるために、十字架に死んでくださった。だから、私たちは霊によって生きている者であることを、はっきりと知っておきたいと思います。
ある方が脳溢血で人事不省になり、入院しました。家族の方が駆けつけましたが、反応がありません。呼びかけても応答しない。揺すっても反応しない。その姿を見たときに「もう駄目かな」とも思われたようです。しかし、家族が「恐らく耳は聞こえているかもしれない、と思って耳元でお祈りをしてきました」と言われました。私はそのときに、霊の問題をしっかり理解しておかなければいけないと思いました。肉体が死んだら霊も一緒に死ぬかというと、死なないのです。「霊はこれを授けた神に帰る」(伝道 12:7)とあります。肉体は死んでしまって、「ご臨終です」と医者が死を宣告します。そのとき、私たちの魂、神様から与えられた神の霊はそれを授けた神様のところへ帰って行きます。それまでは私たちの内に霊が宿っているのです。だから、無意識になったから、いわゆる危篤状態になって何の反応もしなくなったから、お祈りしたって駄目だというのは間違いです。この霊は地上でその人の肉体が解放されるまで留まります。肉体の機能が停止して、意識もなくなり、心臓も鼓動しなくなり、体温が下がってきて、血圧もなくなって、どの時点であるかは分かりませんが、ある瞬間に神様は、「人の子よ、帰れ」と、その霊を引かれるのです。その霊が引かれる瞬間まで、肉体はどんな状態になっていようと、霊はそこに生きているのです。「お祈りしたって聞こえていないかもしれない」、あるいは「賛美したってそれを受け止める脳が死んでいるのだし、言葉が分かるだろうか」と考えますが、霊は私たちの肉体を通して交わりを持つのではないのです。神様がその霊に働きかけるのです。だから、私たちが祈る祈りは、その人に聞かせるために祈るのではないのです。確かに、いま臨終で生きるか死ぬか戦っているその人に向かって、励まそうと思って祈るかもしれませんが、祈りのあて先は、その人ではなく神様です。だから、神様に私たちが祈るとき、神様はその祈りをその方に届けてくださる。神の霊はその人の魂にある霊に語りかけてくださる。人が霊的な存在であることの証詞です。私たちは霊によって神様とつながっているのです。私たちはそれぞれ神様の霊を頂いてここに集まっています。隣りの人同士が直接交わることはありません。私たちはすべて神様に集約されると言いますか、神様の所に集まった思いが、一人一人に届くのです。「先生、こんなにお祈りしても、相手の人は私が祈っていることを知っているでしょうか」と尋ねられます。「いや、知らないと思いますよ」「知らないのだったら祈っても仕方がありませんね」「いや、そんなことはない」と。わざわざ言いに行く人がいる。「あなたのために祈っとるからね。このことが心配やろう。あのことも心配、あんたのこと祈っているから」「そんなこと、言わんでもいい」と言う。「でも、先生、言わんと分からんじゃないですか」。そうじゃないのです。私たちが祈るのは神様に求めるのです。神様は一人一人の魂、霊に語ってくださるのです。私が語るのではなく、また、祈っている人がその人に語るのではないことを知っておいていただきたい。神様が一人一人に届いてくださるのです。だから、私たちはその方のために祈るのです。たとえその人が、家族の人が、意識不明の中にあっても、神様はその人の魂を握っているのです。霊をきちんと置いてくださっている。
その霊に働きかけてくださるのが神様です。このことをはっきり知っておいていただきたい。だから、お互い同士分からないことはいくらでもあります。夫婦であっても、何十年一緒に生活をしても、親子であっても、相手のことは分かりません。私たち一人一人が神様と霊的なつながりがあるのであって、横のつながりはあまり意味がない。愛するご主人や奥さん、そばにいても何を考えているやら、よく分からないでしょう。お互い年も取ってきて、言うことも訳が分からなくなる。そういうときに、相手を非難しても仕方がない。「もう少し元気を出してよ。若かったときはどうだった」と、そんなことをいくら言ったって仕方がない。私たちは神様に向かってすべてを伝えるのです。そうすると、神様が一人一人に働かれる。働くとは、神の霊が一人一人の内にわざを起こしてくださる。それで、死んだ人はどうなるか? と。死んだ人の霊も、死んでその辺で風になって吹いているという話ではない。はっきりと神様の所へ帰って、神様が握ってくださっている。時に言われます、「先生、死んだ母のためにお祈りをしてもいいでしょうか」と。「いいですよ。神様に死んだ私の愛する母を守ってくださいと祈っても構いませんよ」と。死んだ人はもういないのではありません。確かに肉体は消えました、目に見えません、生活はありません。しかし、「霊はこれを授けた神に帰る」。神様に手の中に、この地上に生きたあの人の霊、この人の霊をきちっと神様は……、年金の記録のように消えはしませんから、神様は一人一人すべての人の魂、霊をきちんと管理してくださいます。
63節に「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」。私たちが生きるというのは、内に宿っている神の御霊がいのちにあふれて、元気に満ちていることが生きることです。その神の霊を養うにはどうするか。「神の霊が乏しそうだから、栄養剤でも飲もうか」とはなりません。ビタミン剤を飲んで霊が元気づくことはありません。それは全然お門違いです。では、私たちの内の霊はどうやったら元気づくのか。それを活性化するものはいったい何か。それがここにある「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」。神様のお言葉を通して、私たちに神様から力を与えられること。これが霊の生きることです「内なる人を強くしなさい」(エペソ 3:16)と神様は求めている。内なるもの、言うならば、神様によって与えられている内に宿っている霊が、神様の御霊、神様の霊に結びついて、いよいよそれが強くなること。そのため御言葉に私たちがしっかりと結びついていく。また御言葉を通して注がれる神様のいのちを受けることにほかなりません。
イエス様が洗礼を受けた後、荒野に導かれて、40日間断食をし、サタンに試みられました。そのとき、最初の試みはまさにそこです。おなかがすいて空腹なった。それを知ったサタンがイエス様に「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエス様は「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と答えました。確かにおなかがすいたからパンを食べるのは、肉体を養うために大切なことです。皆さんもそのために一生懸命に働く。あるいは病院に行っていろいろと血液検査をして栄養が足りているかどうかと測る。食生活に一生懸命気を使います。では、私たちは内に宿っている霊のためにどれだけ気を使っているでしょうか。私たちの内に宿っている霊が、本当にいのちに輝いて喜びと感謝にあふれているかどうか? これは、私たち自分自身にも分かることです。いろいろなことに不平不満が募(つの)ってくるとき、「これも神様の恵みでした」と言えない思いが心にあるとき、私たちの霊がやせてきている。力を失って千鳥足になっているときです。「何をしようか。今日はすることなすことちぐはぐで、ちょっと厄日やな」なんて思う。厄日ではありません。心が、魂が、霊が、力を失ってヨタヨタしているのです。そこをきちんと知らなければならない。私たちはいつも肉体を養うことには一生懸命に熱心になって、あちらの病院、こちらの病院に行ったり、あの薬この薬を飲むでしょう。それに対して、魂を養うことにどれほど力を尽くしているでしょうか。内に宿っている霊をいのちに輝くものにしようと、どれほど熱心になっているか。神様を求めて、神様のみ声を聞く。ここにいのちがあるのです。聖書のお言葉を聞き、毎日聖書のお言葉を通して神様との交わりを持つこと。これが霊を生かしていくただ一つの方法、道筋です。63節に「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」。私たちはいつもこの神の霊によって生かされているのです。
「ローマ人への手紙」8章12,13節を朗読。
12節に「果すべき責任を負っている者であるが」とあります。なるほど私たちはこの地上に生きる責任があります。「おれは退屈した。もう生きあきた。早く死のう」と、死ぬわけにはいかない。やはり最後まで、神様が「よし」とおっしゃるそのときまで、生きる責任があります。だからといって、そこにありますように「肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない」。言うならば、私たちの肉体のために、身体的に長生きするように、障害なくと言いますか、スムーズに生きていけるように一生懸命努力することが目的ではなくて、私たちはいま肉に生きてはいますが、私たちが果たすべき責任は内にある霊に従って生きることです。だから13節に「なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである」と。ただひたすらに自分の健康だけとか、自分の生活の条件とか、そんなことばかりを一生懸命考えて、自分の霊がどういう状態にあるか考えようとしない、それに関心を向けようとしないかぎり、その人生は滅びであります。ところが、そこにありますように「霊によってからだの働きを殺す」、私たちが霊に従うことを優先することです。肉に従って生きるのではなくて、霊に従って生きることを努めて行きますならば「あなたがたは生きるであろう」。喜びと感謝と望みに生きることができます。やがて、この肉体を脱ぎ捨てて神様の所へ帰る喜び、望みにつながって行きます。だから、私たちはこの地上にあって何を熱心にすべきか? それは肉にある生活を一生懸命に励むのではなく、私たちに宿されている霊に従う生活、神様と共に生きるように努める。そのために力を尽くすこと、これがいま私たちのなすべき最善の事です。できるだけ健康でいて、ピンピンコロリン、一瞬にして死ねるように、死ぬにも元気がいるから健康でなければ死ねないから、といって一生懸命自分の肉体を養い、鍛えても、魂が、神の霊がやせ衰えて干からびてしまっていたら、どうにも救いようがありません。滅びであります。そうではなくて、いつもキリストの霊、神の霊に結びついて絶えず新しいいのちに生きていくこと。これが私たちの救いであり、いま生きるべき道筋です。「外なる人は滅びても」とあります。肉なるものは次々と消えていきます。しかし「内なる人は日ごとに新しくされていく」(Ⅱコリント 4:16)。私たちは日々神の霊に結びついて、神様からのいのちを受けていきたい。そのいのちは肉体の命のことではありません。私たちの魂が喜びと感謝と望みにあふれていることです。そうなるために私たちは、常に神の、キリストの言葉によって生きる者でありたい。
「ヨハネによる福音書」6章63節、「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」。どんなことをしてみても、神様が「人の子よ、帰れ」と言われたとき、私たちは裸で帰って行きます。いくらこの地上にあって、肉体を養うために積み蓄えようとも、それは何のいのちにもなりません。私たちに最も必要なのは霊なのです。魂です。この霊は神様と結びついて生きるとき、初めていのちに輝くことができます。だから、「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」。しかもそのいのちである主は「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲みなさい」とおっしゃいます。キリストのすべてを食べること、私たちの内に取り込んでしまう。そのための地上の生涯なのです。肉にある思いを実現するために生きているのではなくて、キリストが私たちの内に宿ってくださって、本当に生きる者となって、神様の御許(みもと)に帰ることです。そのために、私たちにこの地上の日々が与えられている。
このことをしっかりと心に置いて、私たちは肉に生きているのではなく、霊に生きる者であることを知っておきたい。また、私の内にも神様の霊が宿っているのだと確信して、その霊に導かれる日々でありたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
63節「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」。
この御言葉はイエス様とユダヤ人たちとの会話の中で語られたものであります。イエス様はそこで非常に過激なことを語っておられます。53節に「イエスは彼らに言われた、『よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない』」とありますが、人の子の肉を食べその血を飲まなければというのですから、これを聞いたユダヤ人たちはびっくり仰天したのです。人肉を食べるとか、血を飲むなど、そんな馬鹿げた話があるものかと思いました。しかも、48節には「わたしは命のパンである」とも言われた。パンは当然食べるものであり、飾っておくものでもありません。入れ物に使うわけでもありません。イエス様はご自分を命のパンだ、わたしを食べないと命がないと言われる。それを聞いていたユダヤ人たちは「とんでもないことを言う人だ」と。しかも彼らはイエス様の弟子であったとも言われています。イエス様と一緒にいて、生活ぶりを親しく知っていたと思います。
だから、60節「弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、『これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか』」とつぶやく。弟子たちですらも「これはひどい言葉だ、とんでもないこと言う」と。そのときにイエス様が言われたのが、63節「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」。「霊」という言葉を使っておられますが、それに対して「肉」という言葉を対比しています。「霊」のことには敬遠すると言いますか、あまり触れないでいてしまいますが、イエス様が言われるのは「霊」の問題です。「人の子の肉を食べず、また、その血を飲む」ということも、文字どおり肉体であるとか、生臭い具体的な何かの肉とか血のことを言っているのではありません。ところが、ユダヤ人たちはそのようにしか考えようがない。イエス様は、「あなたがたに話した言葉は霊である」と言われるように、イエス様の語る言葉、そこに込められている神の霊、その霊の力を受けること、私たちがその霊によって生きる者とならなければならないとイエス様は語っているのです。
霊というと、なかなか分かりにくい。聖霊であるとか御霊であるとか、霊であるとか、霊魂であるとか言われると、「あるような、ないような、分かったような、分からんような、もやっと霧の中に入り込んでしまう」と思われるかもしれませんが、こればかりはまさにそのとおりで霧のようなものであります。あるやらないやら分からないというのが、正直なところだと思うのです。しかし、これを抜きにして、私たちの信仰はあり得ない。聖書を読んでよく分かると思いますが、「霊」について語っていることがほとんどです。使徒行伝やパウロの書簡でもそうですが、常に霊に関して、御霊については、悪しき霊についてなど様々なことが語られています。それを抜きにしたなら、聖書は意味がない。「では、その霊はいったい何か」と。私たち人間は肉体をもってこの世に生きていますが、それとは違う霊的な存在であることをもっとはっきり自覚したいと思います。霊が何であるか、証明もできませんし、手で触ることも、見せてあげることもできません。「これが霊ですよ。見てご覧なさい。ここにあるでしょう」と言えません。霊が何であるか、いくら言葉を尽くしても説明できません。分かってもらえないのが当然です。頭脳や知識で、あるいは何か人間の持っている肉体的な機能、能力で霊を推し量ることはできないのです。だから、まず霊について考えるとき、霊は説明のつかないものであるということを大前提で受け入れていただきたい。分からない、ということが当然なのです。肉体的な知識として、あるいは言葉で説明できる範囲のことしか、私たちは理解しようとしません。生まれながらに、そのような肉に生きているかぎり、どうしてもそこに限りがある。だから、霊について手ごたえがあるとか、はっきり言葉で説明できることは期待できませんから、だから、初めからそのことは理解しようと思わない。ではどうするか。信じるのです。私は肉にある存在であると同時に、霊にある存在でもある。「神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」と「創世記」に語られているように、すべての人々に神様は霊を宿してくださった。神の姿かたちに似る者として、神様の霊が私たちの内に与えられている。ところが、その霊をどこかにしまい込んで、押し殺して、それに思いを向けないで、それを信じようとしないで、ただ肉の生活だけを追い求めている。それが神様から離れて行った大きな原因です。そして、私たちは神様の与えられた霊に従って生きるのではなく、自分の悪しき霊、サタンの霊に囚われてしまった。これも聖書にあるとおりです。悪しき霊、罪の奴隷となって、肉なるものに結び付けられてしまう。逃げようのないところに置かれてしまっていた。これが罪の姿です。神様から離れて、人が自分勝手な思いに、自分勝手な歩みに引き出されたのは、罪が働いて悪しき霊が私たちを捕らえたからです。だから、パウロは「私たちの内に罪という悪しき霊が働いて、そして私たちを神様から引き離してしまった」と語っています。何とかして、私を捕らえている悪いサタンの力から解放してくれるものはないだろうか、私には良き願いがあり思いがある。神様の霊は完全に死んでしまったわけではない。押し殺されて息絶えようとしている私たちの内にある神の霊は、何とかして私たちを神様の御心にかなう者にしようと絶えず働き続けている。だから、私たちに「こうしたい」、あるいは「これはやめよう」と願いを起こさせるが、することもやめることもできない。「ああ、我悩める人なるかな」とパウロが言う。それは自分のうちに二つの力があって、わたしを奪おうと争っている。しかも、サタンの力が強くて、わたしはそれに捕らえられてしまったのだというのが、パウロの罪の実相と言いますか、罪にある人の姿の理解、考え方です。そのように言われてみると、私たちの内にもそういうものがあります。常に、私たちの内には何か相逆らうものが常に働いている。神様を求める、永遠を思う思いを神様が与えてくださっている。私たちは神の霊によって初めて生きる者となるのです。ところが、神の霊が働くことができないように、サタンが私たちを奪い取って、神の霊から私たちを切り離してしまう。私たちを自分の思うがまま、己(おのれ)を神として、神様を拒んで、自分のわがままな自我、あるいは情欲に従って生きるようにと、私たちを引っ張っていく。これがサタンの霊、悪の霊、この世に働くもろもろの霊と語られています。そのような霊が私たちの内に常に働いて、私たちを苦しめてきたのです。
私どもはこの地上にあっていろいろな悩みに遭います。それは肉にある悩みです。病気であるとか、あるいは家族の問題であるとか、あるいは経済的な問題であるとか、そのような悩みに遭います。そうすると、物質的な欠け、不足が補われること、自分の生活状況が改善されて思うように願うように、自分の思い描いたような人生や事柄が次々と起こってくれば安心だと思います。では、すべてが整ったから安心かというと、そうはならない。なぜかというと、私たちをそのような物質的な条件を満たすことへ、サタンは私たちの思いを振り向けているからです。だから、いろいろなことで私たちは悩みますが、イエス様が言われるように、神様に立ち返りさえすれば、思い煩う必要がないのです。神様の霊に満たされるとき、私たちにいのちが注がれる。神様とのパイプ、つながりをその度回復することができる。それがイエス様による救いです。サタンの力、悪の霊の力に捕らえられて、神様の思いとは違う方向へ引っ張られていた私たち。それによって支配されたために、世にあって受ける出来事を感謝できない、喜べない。不安と恐れと心配と憤りとつぶやきが次々とわいてくるのは、条件が問題なのではない。外側の目に見える生活、境遇やそういうものが問題なのではない。サタンの力に私たちが捕らえられ、支配されているから、それを受け入れられない。だから、そこから解放してくださったのです。これが十字架のあがないです。イエス様は私たちを神の霊に結び付けてくださるために、十字架に死んでくださった。だから、私たちは霊によって生きている者であることを、はっきりと知っておきたいと思います。
ある方が脳溢血で人事不省になり、入院しました。家族の方が駆けつけましたが、反応がありません。呼びかけても応答しない。揺すっても反応しない。その姿を見たときに「もう駄目かな」とも思われたようです。しかし、家族が「恐らく耳は聞こえているかもしれない、と思って耳元でお祈りをしてきました」と言われました。私はそのときに、霊の問題をしっかり理解しておかなければいけないと思いました。肉体が死んだら霊も一緒に死ぬかというと、死なないのです。「霊はこれを授けた神に帰る」(伝道 12:7)とあります。肉体は死んでしまって、「ご臨終です」と医者が死を宣告します。そのとき、私たちの魂、神様から与えられた神の霊はそれを授けた神様のところへ帰って行きます。それまでは私たちの内に霊が宿っているのです。だから、無意識になったから、いわゆる危篤状態になって何の反応もしなくなったから、お祈りしたって駄目だというのは間違いです。この霊は地上でその人の肉体が解放されるまで留まります。肉体の機能が停止して、意識もなくなり、心臓も鼓動しなくなり、体温が下がってきて、血圧もなくなって、どの時点であるかは分かりませんが、ある瞬間に神様は、「人の子よ、帰れ」と、その霊を引かれるのです。その霊が引かれる瞬間まで、肉体はどんな状態になっていようと、霊はそこに生きているのです。「お祈りしたって聞こえていないかもしれない」、あるいは「賛美したってそれを受け止める脳が死んでいるのだし、言葉が分かるだろうか」と考えますが、霊は私たちの肉体を通して交わりを持つのではないのです。神様がその霊に働きかけるのです。だから、私たちが祈る祈りは、その人に聞かせるために祈るのではないのです。確かに、いま臨終で生きるか死ぬか戦っているその人に向かって、励まそうと思って祈るかもしれませんが、祈りのあて先は、その人ではなく神様です。だから、神様に私たちが祈るとき、神様はその祈りをその方に届けてくださる。神の霊はその人の魂にある霊に語りかけてくださる。人が霊的な存在であることの証詞です。私たちは霊によって神様とつながっているのです。私たちはそれぞれ神様の霊を頂いてここに集まっています。隣りの人同士が直接交わることはありません。私たちはすべて神様に集約されると言いますか、神様の所に集まった思いが、一人一人に届くのです。「先生、こんなにお祈りしても、相手の人は私が祈っていることを知っているでしょうか」と尋ねられます。「いや、知らないと思いますよ」「知らないのだったら祈っても仕方がありませんね」「いや、そんなことはない」と。わざわざ言いに行く人がいる。「あなたのために祈っとるからね。このことが心配やろう。あのことも心配、あんたのこと祈っているから」「そんなこと、言わんでもいい」と言う。「でも、先生、言わんと分からんじゃないですか」。そうじゃないのです。私たちが祈るのは神様に求めるのです。神様は一人一人の魂、霊に語ってくださるのです。私が語るのではなく、また、祈っている人がその人に語るのではないことを知っておいていただきたい。神様が一人一人に届いてくださるのです。だから、私たちはその方のために祈るのです。たとえその人が、家族の人が、意識不明の中にあっても、神様はその人の魂を握っているのです。霊をきちんと置いてくださっている。
その霊に働きかけてくださるのが神様です。このことをはっきり知っておいていただきたい。だから、お互い同士分からないことはいくらでもあります。夫婦であっても、何十年一緒に生活をしても、親子であっても、相手のことは分かりません。私たち一人一人が神様と霊的なつながりがあるのであって、横のつながりはあまり意味がない。愛するご主人や奥さん、そばにいても何を考えているやら、よく分からないでしょう。お互い年も取ってきて、言うことも訳が分からなくなる。そういうときに、相手を非難しても仕方がない。「もう少し元気を出してよ。若かったときはどうだった」と、そんなことをいくら言ったって仕方がない。私たちは神様に向かってすべてを伝えるのです。そうすると、神様が一人一人に働かれる。働くとは、神の霊が一人一人の内にわざを起こしてくださる。それで、死んだ人はどうなるか? と。死んだ人の霊も、死んでその辺で風になって吹いているという話ではない。はっきりと神様の所へ帰って、神様が握ってくださっている。時に言われます、「先生、死んだ母のためにお祈りをしてもいいでしょうか」と。「いいですよ。神様に死んだ私の愛する母を守ってくださいと祈っても構いませんよ」と。死んだ人はもういないのではありません。確かに肉体は消えました、目に見えません、生活はありません。しかし、「霊はこれを授けた神に帰る」。神様に手の中に、この地上に生きたあの人の霊、この人の霊をきちっと神様は……、年金の記録のように消えはしませんから、神様は一人一人すべての人の魂、霊をきちんと管理してくださいます。
63節に「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」。私たちが生きるというのは、内に宿っている神の御霊がいのちにあふれて、元気に満ちていることが生きることです。その神の霊を養うにはどうするか。「神の霊が乏しそうだから、栄養剤でも飲もうか」とはなりません。ビタミン剤を飲んで霊が元気づくことはありません。それは全然お門違いです。では、私たちの内の霊はどうやったら元気づくのか。それを活性化するものはいったい何か。それがここにある「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」。神様のお言葉を通して、私たちに神様から力を与えられること。これが霊の生きることです「内なる人を強くしなさい」(エペソ 3:16)と神様は求めている。内なるもの、言うならば、神様によって与えられている内に宿っている霊が、神様の御霊、神様の霊に結びついて、いよいよそれが強くなること。そのため御言葉に私たちがしっかりと結びついていく。また御言葉を通して注がれる神様のいのちを受けることにほかなりません。
イエス様が洗礼を受けた後、荒野に導かれて、40日間断食をし、サタンに試みられました。そのとき、最初の試みはまさにそこです。おなかがすいて空腹なった。それを知ったサタンがイエス様に「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエス様は「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」と答えました。確かにおなかがすいたからパンを食べるのは、肉体を養うために大切なことです。皆さんもそのために一生懸命に働く。あるいは病院に行っていろいろと血液検査をして栄養が足りているかどうかと測る。食生活に一生懸命気を使います。では、私たちは内に宿っている霊のためにどれだけ気を使っているでしょうか。私たちの内に宿っている霊が、本当にいのちに輝いて喜びと感謝にあふれているかどうか? これは、私たち自分自身にも分かることです。いろいろなことに不平不満が募(つの)ってくるとき、「これも神様の恵みでした」と言えない思いが心にあるとき、私たちの霊がやせてきている。力を失って千鳥足になっているときです。「何をしようか。今日はすることなすことちぐはぐで、ちょっと厄日やな」なんて思う。厄日ではありません。心が、魂が、霊が、力を失ってヨタヨタしているのです。そこをきちんと知らなければならない。私たちはいつも肉体を養うことには一生懸命に熱心になって、あちらの病院、こちらの病院に行ったり、あの薬この薬を飲むでしょう。それに対して、魂を養うことにどれほど力を尽くしているでしょうか。内に宿っている霊をいのちに輝くものにしようと、どれほど熱心になっているか。神様を求めて、神様のみ声を聞く。ここにいのちがあるのです。聖書のお言葉を聞き、毎日聖書のお言葉を通して神様との交わりを持つこと。これが霊を生かしていくただ一つの方法、道筋です。63節に「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」。私たちはいつもこの神の霊によって生かされているのです。
「ローマ人への手紙」8章12,13節を朗読。
12節に「果すべき責任を負っている者であるが」とあります。なるほど私たちはこの地上に生きる責任があります。「おれは退屈した。もう生きあきた。早く死のう」と、死ぬわけにはいかない。やはり最後まで、神様が「よし」とおっしゃるそのときまで、生きる責任があります。だからといって、そこにありますように「肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない」。言うならば、私たちの肉体のために、身体的に長生きするように、障害なくと言いますか、スムーズに生きていけるように一生懸命努力することが目的ではなくて、私たちはいま肉に生きてはいますが、私たちが果たすべき責任は内にある霊に従って生きることです。だから13節に「なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである」と。ただひたすらに自分の健康だけとか、自分の生活の条件とか、そんなことばかりを一生懸命考えて、自分の霊がどういう状態にあるか考えようとしない、それに関心を向けようとしないかぎり、その人生は滅びであります。ところが、そこにありますように「霊によってからだの働きを殺す」、私たちが霊に従うことを優先することです。肉に従って生きるのではなくて、霊に従って生きることを努めて行きますならば「あなたがたは生きるであろう」。喜びと感謝と望みに生きることができます。やがて、この肉体を脱ぎ捨てて神様の所へ帰る喜び、望みにつながって行きます。だから、私たちはこの地上にあって何を熱心にすべきか? それは肉にある生活を一生懸命に励むのではなく、私たちに宿されている霊に従う生活、神様と共に生きるように努める。そのために力を尽くすこと、これがいま私たちのなすべき最善の事です。できるだけ健康でいて、ピンピンコロリン、一瞬にして死ねるように、死ぬにも元気がいるから健康でなければ死ねないから、といって一生懸命自分の肉体を養い、鍛えても、魂が、神の霊がやせ衰えて干からびてしまっていたら、どうにも救いようがありません。滅びであります。そうではなくて、いつもキリストの霊、神の霊に結びついて絶えず新しいいのちに生きていくこと。これが私たちの救いであり、いま生きるべき道筋です。「外なる人は滅びても」とあります。肉なるものは次々と消えていきます。しかし「内なる人は日ごとに新しくされていく」(Ⅱコリント 4:16)。私たちは日々神の霊に結びついて、神様からのいのちを受けていきたい。そのいのちは肉体の命のことではありません。私たちの魂が喜びと感謝と望みにあふれていることです。そうなるために私たちは、常に神の、キリストの言葉によって生きる者でありたい。
「ヨハネによる福音書」6章63節、「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」。どんなことをしてみても、神様が「人の子よ、帰れ」と言われたとき、私たちは裸で帰って行きます。いくらこの地上にあって、肉体を養うために積み蓄えようとも、それは何のいのちにもなりません。私たちに最も必要なのは霊なのです。魂です。この霊は神様と結びついて生きるとき、初めていのちに輝くことができます。だから、「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」。しかもそのいのちである主は「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲みなさい」とおっしゃいます。キリストのすべてを食べること、私たちの内に取り込んでしまう。そのための地上の生涯なのです。肉にある思いを実現するために生きているのではなくて、キリストが私たちの内に宿ってくださって、本当に生きる者となって、神様の御許(みもと)に帰ることです。そのために、私たちにこの地上の日々が与えられている。
このことをしっかりと心に置いて、私たちは肉に生きているのではなく、霊に生きる者であることを知っておきたい。また、私の内にも神様の霊が宿っているのだと確信して、その霊に導かれる日々でありたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。