いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(101)「聞き従う恵み」

2013年12月31日 | 聖書からのメッセージ
サムエル記上15章17節より23節までを朗読。

22節に「サムエルは言った、「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる」。

これはイスラエルの初代の王となったサウル王様の失敗について語られた箇所です。イスラエルには、それまで王様もなく、神様に仕える士師と呼ばれる人たちが指導者となって、12部族の民を導いていました。しかし、周囲の国々を見ますと、しっかりした強い王様がいて統率されている。それに倣って、自分たちもあのような王様が欲しいと思ったのです。その当時、神様は祭司サムエルを立てて、イスラエルの民を導こうとなさった。ところが民は、それよりも王様が欲しいと願いました。

サムエルは神様に、民は王様を立てて欲しいと願っているからどうしましょうか?と祈りました。神様は、彼らがそのように望むなら、そうすればいいと言われ、王様をいただくこと、王様の下で生活する民の生活ぶり、それがどのようなものであるのかよく教えなさいと命じました。サムエルは民を集めまして、あなたがたは王様を欲しいと言っているが、王様は絶対君主であって、あなたたちのことを何でも聞いてくれるわけではなく、あなたたちが王様に従わなければいけない、それでもいいのか、と言いました。人々は「いいです」と言ったのです。それで神様は一人の人を選びなさいと命じ、選ばれたのがキシの子サウルという人です。彼はベニヤミン族の出身です。12部族の中でも、ベニヤミン族というのは小さな弱小のグループです。その中からイスラエルの王様になるのは、言うならば小派閥で自民党の総裁になるようなものです。なかなかうまく事がいかない。大きな有力派閥から総裁が出れば、皆がヨイショして担いでくれますが、名もないわずかなグループから選ばれて総裁になったら大変です。非難中傷されるから、なんとか機嫌をとりながら、人気を保とうとする。サウル王様も初めは自分のような者が王様になるなんて、とんでもないことだ。もっとほかにいい人がいるに違いないと言って、固辞(こじ)したのですが、神様はあなたがせよとおっしゃる。初めのうちは、サウル王様はそんなにまで神様から期待されているのかと思って、謙そんになってその職を受けたのです。だから、初めのころは神様を大切にしていた。

ところが、王様になって月日がたつにつれて、「こんなものか、おれでも少しはできるではないか」と思う。だから、気持ちが神様から離れていく。神様から離れるというのは、心が高ぶるのです。高慢になる。私たちでもそうです。神様を離れているとき、高慢になっている。私が何とかすればいい、私でできることがある。私だって少しは役に立つ、と思う。神様もいいけれども、今は必要ない。あからさまにそこまでは思わないが、気がつかないうちに、寝ても覚めても神様に頼らなければおれない状態から少しずつ変わっていく。これは皆さんも長い信仰生活の中で、繰り返し体験したことでしょう。その度にクシャッとなり、神様からしかられて、立ち返ってきたのですが、人は強情です。悟りが鈍い。何度も繰り返します。一番気をつけなければならないところです。あのダビデ王様ですら、事情境遇がよくなって、神様の恵みの中に置かれたはずですが、神様を忘れました。そしてとんでもない失敗をしてしまいました。神様を無視してしまう、ないがしろにする。

サウル王様も全く同じでした。彼も初めのうちは、自分がこの務めを全うできるだろうか、王様としてやれる自信がないから、ひたすら神様により頼んでいました。そうすると、段々と事態がよくなってくるにつれて、心が高ぶってくる。と同時に、神様を離れて、人を見るようになる。人がどのように反応するだろうか、どう喜ぶだろうか、こうしたら人は何と言うだろうかと。「神様が」というよりは、周囲の人たち、殊に彼は弱い小さな部族の出身ですから、周囲のご機嫌を取らなければならない。民から見放されたらおしまいだと思っていました。ところが、自分が王様に立てられた理由は、神様が一方的に彼を選んでくださったことにほかならない。だから、神様が後ろ盾となっている。決して民が彼を選んだのではない。それなのに神様より民を気にする。民から持ち上げられ、民から人気を博して、世論調査の支持率によって、王様になっていると思った。思い違いしたのです。

ペリシテ人との戦いのときに、民を集めて戦いに出ようとしました。しかし、まだ神様の祝福を受けていないので、祭司サムエルに連絡したところが、一週間後に行くから待てとのことでした。待っていたが、なかなか来ない。とうとうサウル王様は、祭司が果たすべき事を自分が取って代わって、勝手にやってしまった。そのときにも神様から叱られました。王様のために戦おうと集まった人たちが、待っていてもサムエルは来ないから、戦いに行くのをやめようと、皆帰ってしまいそうになったものですから、大慌てでサムエルがすべきところを代わってやってしまった。神様を押しのけたようなものです。それが終わったとき、サムエルはやってきて、「あなたは何をしたのですか」と問われました。あなたの来るのが遅かったから、これじゃたまらないと思って早くしておきましたと。そのときも失敗したのです。それでも神様は彼の悔い改めを受け入れてくださいました。

ところがその後です。15章1節から3節までを朗読。

このとき、サムエルがサウル王様のところにきて、神様の命令を伝えました。「主は、わたしをつかわし、あなたに油をそそいで、その民イスラエルの王とされました」と。あなたがイスラエルの王であるのは、誰に仕えるためか、誰によって任命されたのか、サムエルはサウル王様に申し渡しています。あなたは神様から選ばれて、神様によって王として位に就いたのだ。だからあなたが聞くべき相手はただお一人、神様以外にない。あなたをここに遣わして、使命を与えた神様に応えなければならないと、サムエルは言いました。

これは私たちも絶えず神様から求められている事です。神様は私たちを尊いイエス様のいのちを代価としてあがなって、神の民としてくださった。それは、私たちの人柄がいいから、どこか取り柄があるから、値打ちがあるからではなくて、捨てられて当然であった者、無きに等しい者、無能なる者をあえて選んでくださいました。一方的に神様が私たちを選んで神の民としてくださいました。だから、かつて神様を離れていた古い時代、古い自分を捨てて、死んだ者が新しく生かされて、今、神の民としていただいています。だから、今、誰のために生きるのかをはっきりしておきましょう。 パウロが「ローマ人への手紙」14章で言っているように、「生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである」。神様が、今、私たちをここに置いてくださっている。家族でもなければ、自分がしたいからでもない。私たちが聞くべき相手は神様以外にありません。人の意見を聞いたり、世に倣ったり、神様以外のいろいろなものに従うために生かされているのではない。一方的な御愛によって選び召され神の民として、神様のお言葉を聞く、従う以外に使命はない。このことをしっかりと心に置いておきたい。

私もいつもそのことを教えられるのです。神様のあわれみにあずかって、伝道者として、献身者として召し出され、福岡の地に遣わされて来ました。これまで、こんなはずではなかったと、自分の思うことと違うことがたくさんありました。こんなのやってられるか!と神様に文句も言いたくなることもあります。でも、いつも問われることは、ここに遣わされたのは何のためであったのか。今、福岡に私がいるのは自分で選んで来たわけではない。それまでは自分で選んで生きてきました。こういう学校に進み、ここに行きたいと思って、そこに行きました。このような仕事をしたい、それでここに職場があるから、この町に行こうと自分で選んで来ました。ところが、福岡に来たのは私が行きたいから、福岡は生活がしやすそうだから、老後はあそこで送りたいと思ってきたのではない。誰が遣わしたのか? 神様です。神様が私をここへ遣わしてくださいました。このことをはずしたら、つぶれてしまうだろうと思います。いつもそこに立ち返らなければならない。いろいろな問題があると、逃げ出したくなる。ところが、そうはできません。自分の思いではない。自分の好き嫌いで事をするわけにはいかない。使命を与えて、遣わしてくださった神様が、「居れ」と言われるかぎり、私はいつまでもここに居る。神様が私をここに連れて来たのです。神様が「行け」と言われたら動きますが、そうでないかぎり、動きません。なぜなら、神様がここに置いているのですから。そこに立つとき、私は初めて力を得ることができるのです。
皆さんも、どこかに逃げ道がある、と思っている間は駄目です。神様がこの主人と結婚させたのだし、この家族を与えてくださって、このような境遇に置いてくださった。神様が動かされないかぎり、私は動かないと、神様に喰(く)らいつかなければ立っていけません。ちょっと気に食わないことがあったら、もうやめた、こちらにしよう。何か思うようにいかないことがあったら、もうやめた、ぐらぐらしたとか、すぐに自分の気持ちで行動する。神様は何を求めているのか?私たちの生きる責任は、神様に対して果たすべきものがある。だから、家族や周囲の者が、あんたなんか用もない、しようもないとか言われても、何をされようとも、神様がおれと言われるのですから、そこに居なければならない。これを徹底しないと、神様の前に歩むことができない。

15章1節「主は、わたしをつかわし、あなたに油をそそいで、その民イスラエルの王とされました。それゆえ、今、主の言葉を聞きなさい」。ここでサムエルは、私の言うことを聞きなさい、と言ったのではない。ここに「主の言葉を聞きなさい」と。あなたは神様に選ばれ、召され、導かれて、今ここにある。言い換えると、あなたは神様に仕えている者でしょう。だから神様の言葉を聞きなさいと言ったのです。私たちに対しても神様はそのことを求めています。あなたは自分の思いで、自分の考えで生きているのではない。自分の願いを、自分の夢を実現するために生きているのでもない。私たちは、今、神様のものなのです。「生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のもの」。私たちが果たすべき責任は、神様に対してあるのです。

このときに「主の言葉を聞きなさい」とサムエルは言いました。神様は、アマレクびとを滅ぼしつくせと求めました。持ち物も女も子供も、幼子も乳飲み子も、また牛も羊もらくだも、いっさい生きとし生けるもののすべてを滅ぼしつくせ、ということです。しかもその理由がふるっています。エジプトからイスラエルの民が導き出されてカナンの地を目指して進んでいたときに、アマレクびとの領地を横切らなければならなかった。それが近道だったのです。なんとか通らせてくださいと頼んだところが、アマレクびとはイスラエルの民がそういう口実で自分たちの土地を奪うに違いないと思って、イスラエルの民に、出て行け、通ってはいかんと断った。それでとうとう民は、アマレクの地を遠回りして行くことになったのです。恐らく、出エジプト記の記事から、サウル王様の時代まで何百年かの年月がたっている。神様はしつこい。逆に言いますと、それだけ真実な方です。何百年前の江戸の敵(かたき)を長崎でというくらいの神様ですから、味方につけたら絶大です。敵に回したら怖い。だから私たちは幸いです。神様が私たちの味方となってくださる。わたしはあなたの後ろ盾だと。だからイスラエルの民がアマレクびとから、軽くあしらわれたことに対して、神様のほうが報いている。だから、私たちクリスチャンは神様が後ろ盾ですから、皆さんを悪く言う人がいたら、また皆さんを非難する人、あるいは悪く扱う人があったら、神様は必ずそれに報いなさる。だから、自分で報復しなくていい。イスラエルの民は、アマレクびとがあんなひどいことを先祖にしたから、おれたちがやっつけようといった話ではなく、神様のほうがそれを忘れない。だから「復讐はわたしのすることである」と言われます。自分で復讐することはいらない。報いてくださる神様を信じていく。人がなんと言おうと黙っておけばいい。神様が報いなさるときのほうが怖いからです。だから、2節に「万軍の主は、こう仰せられる、『わたしは、アマレクがイスラエルにした事、すなわちイスラエルがエジプトから上ってきた時、その途中で敵対したことについて彼らを罰するであろう』」と。何百年か前の話を今持ち出して、サウル王様にアマレクびとを撃(う)てと言われます。4節以下にサウル王様は、民を集めまして、このアマレクびとを撃つことにしたのです。

8、9節を朗読。

戦いに行って勝利しました。しかし、彼はアガグという王様は生け捕りにして、羊や牛のいいものは残しておいて、「値うちのない、つまらない物を滅ぼし尽した」。そうやって、彼らは凱旋(がいせん)しました。それでカルメルに戦勝記念碑を立て、凱旋門を造って、大勝利を祝っていました。ところが、神様は、サムエルにあなたの民、イスラエルはなんということをしたのか、わたしの言葉に聞き従わないと言われます。
15章10、11節を朗読。

神様は、サムエルに、なんて情けないのだろう、と嘆いているのです。「わたしはサウルを王としたことを悔いる」と。何がいけなかったのか。サウル王様が神様から受けた恵みに対して真実に応えなかったのです。ここが神様の心を痛める大きな原因です。神様がイエス様を殺してまで、私たちを救わなければよかった、もったいないことをしたと悔やまれないように、わたしたちもイエス様の命を無駄にしてはならない。私たちはあがなわれた民であることをどれほど感謝し、謙遜に主に仕えているだろうかと問いたい。榎本をあんなにしなければよかったと言って悔やまれたら困ります。「サウルを王としたことを悔いる」。なぜなら、「彼がそむいて、わたしに従わず、わたしの言葉を行わなかったからである」。それを聞いて、神様の思いを知り、サムエルは「夜通し、主に呼ばわった」とあります。早速、サムエルは、サウル王様が有頂天になっているところにやって来ました。

13節に「サムエルがサウルのもとへ来ると、サウルは彼に言った、『どうぞ、主があなたを祝福されますように。わたしは主の言葉を実行しました』」。サムエルが神様の思いを知って、急いでやって来ました。サウル王様はサムエルに「どうぞ、主があなたを祝福されますように」と言いますが、本来は祭司が王様に言うべきことです。ところが、このとき既にサウル王様は、神様よりも偉くなっている。だから「どうぞ、主があなたを祝福されますように」、祭司風情(ふぜい)の者は、おれの前にひざまずけと言わんばかりです。かつて、サムエルによって油注がれ、神様の選びにあずかったはずであった彼が、立場を逆転させたのです。そして「わたしは主の言葉を実行しました」。実にふてぶてしいといいますか、厚かましいのです。

そのときに14節に「サムエルは言った、『それならば、わたしの耳にはいる、この羊の声と、わたしの聞く牛の声は、いったい、なんですか』」。戦利品として奪ってきた羊や牛、それが「メーメー」「モーモー」鳴いている。あの声は何だ? 15節にサウルは「人々がアマレクびとの所から引いてきたのです。民は、あなたの神、主にささげるために、羊と牛の最も良いものを残したのです。そのほかは、われわれが滅ぼし尽しました」。ここでサウル王様は「人々が取ってきた」と、自分は逃げたのです。人々がそうしたのであって私は知りません。サウル王様は主の言われるとおりにしました、と大見得を切ったのですが、羊や牛の声を、あれは何だ? と言われたときに、しまった、と思ったのです。これは大変なことになったと思った瞬間に、「人々が……」と言ってしまった。サウル王様はごめんなさいと言えなかった。心がちょっと神様からずれたのです。私たちも神様の前にそのような生き方をする限り、いのちがありません。ここでサウル王様は、「人々がアマレクびとの所から引いてきたのです」と。しかも「民は、あなたの神、主にささげるために、羊と牛の最も良いものを残したのです」。民は「神様にささげるのですから」と言って取ったのだから、いいではないかと。実に考え方としては合理的です。もったいない、そんな滅ぼしてしまって、立派な傷のない動物、これは神様にささげるためだからいいではないか。自分の懐は痛みませんから。そのような合理主義が神様の前でもつい働く。そのとき彼らは神様をないがしろにしたのです。

17、18節を朗読。

このときサウル王様は、「人々が」と言った。王様として自分の責任、立てられた使命、神様に期待されている事を放棄したのです。いくら自分が小さくて、民の言葉のほうが強かったとは言うが、あなたは神様から使命を与えられた王ではないか。王ならば民を治めるべきではないかというのです。これはサウル王様の大変な思い違いでした。神様に立てられた王として、神様に果たすべき責任があるのです。

18節以下「そして主はあなたに使命を授け、つかわして言われた、『行って、罪びとなるアマレクびとを滅ぼし尽せ。彼らを皆殺しにするまで戦え』。19 それであるのに、どうしてあなたは」と。サムエルはサウル王様に対して「あなたは主の声に聞き従わないで」と言っている。サウル王様はまだ問題の重大さに気がついていない。「いや、民が聞かなかったので、私は王様ではあるけれども、弱くて小さいのだし、皆がそういうのを止めるわけにもいかないでしょう」と言う。「多数決ですよ」と、「皆がそうですよ」と言われたら、途端にシュンとなる。親でもそうですね。子供を教育するときに「そんなことをしたら駄目じゃないの」。「いや、クラス皆がしている」と言われたら、シュンとなって、「ああ、そうなのか」と引いてしまう。サウル王様はまさにそうなのです。皆がそう言ったから……。ところが神様は「あなたは主の声に聞き従わないで、主の目の前に悪をおこなった」と責められました。

サウル王様は20節以下に「サウルはサムエルに言った、『わたしは主の声に聞き従い、主がつかわされた使命を帯びて行き、アマレクの王アガグを連れてきて、アマレクびとを滅ぼし尽しました。21 しかし民は滅ぼし尽すべきもののうち最も良いものを、ギルガルで、あなたの神、主にささげるため、ぶんどり物のうちから羊と牛を取りました』」と。とことんサウル王様は自分を弁護する。ああ言えばこう言う。こう言えばああ言う。私どももどこかで神様にいつも言い訳をするときは、危険です。「神様、だってそうではありませんか、あの人がこう言ったのですから、だから私がこうしたのは、仕方がないと思います。私ももちろん悪いとは思いますが、向こうがもっと悪いのですよ」と、心の中で言い訳をしているときがある。そのような時、神様が「お前だよ、お前がいけないのだよ」と言われているのに、なかなか認めない。サウル王様もここで「おまえが罪を犯した。おまえが聞かなかったじゃないか」と言われたのに、「いえ、そうじゃありません。私は取りあえず行って、言われたとおりのことをしたのです。しかし、民がその中からあれを取ろう、これを取ろう。そしてそれを神様にささげたいと言うから、それもいいかな、と思って」と、言い訳です。どうぞ、神様の前に潔(いさぎよ)くへりくだる、砕けた悔いた心になりましょう。ここがダビデ王様とサウル王様との決定的な相違点です。

預言者ナタンがダビデの所へ来たときに、「あなたがその人です」と言われた。ダビデは「わたしは主に罪をおかしました」、ピシャッと一瞬にして、彼は神様の手に自分を委ねました。サウル王様はこれほど言われても、まだいやそうでもない、他人(ひと)がした、あの人がした。こうだった、ああだったと逃げ回る。ここがその後の二人の人生を大きく分けた決定的な出来事でした。今でもそうです。私たちが神様の前に素直にへりくだって、きちっと従う姿勢をとるかどうか。「間違っていた。これは主の御心ではない」と思ったとき、スパッと一線を引けるかどうか。これが神様の祝福にあずかる決定的な違いになります。

ですから、22節に「サムエルは言った、『主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか』」。言い換えますと、燔祭や犠牲以上に、神様はあなたが従うことを喜ばれるのですよ。私たちに対しても神様は従うことを喜んでくださいます。私たちは神様のためにあれもしようか、これもしようか、このようなことをして神様をお喜ばせしようかと、そんな業や事柄、あるいは自己犠牲をして、何とか神様のためにと尽そうとしますが、そんなことをしなくても、ただ日々の生活の小さなことから大きなこと、どんなことの中にも心へりくだって、主を求めていくこと。主が「駄目だよ」とおっしゃったら「はい」と従うこと。主が「行け」とおっしゃったら、たとえ嫌でも何があっても行くべきところには行きます。出処(しゅっしょ)進退、そこを潔く神様に従っていくことが大切です。これを神様が喜んでくださる。22節に「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる」。従うこと、聞くこと、聞かなければ従えません。従うと言いますのは、聞いているからです。いつも神様の前に自分を低くして、素直に神様に従順でありたいと思います。

神様が求めること、語ってくださること、御霊が私たちの心に思わせてくださる、願わせてくださる事柄があります。わかるでしょう、皆さんも。これは神様が私にこうしなさいと言われる。でも大抵それは嫌なこと、自分が願わないことが多い。つい人の顔色を見たり、人の言葉に従ったりして、後で嫌な思いをすることになる。私たちはどのようなときにでも、神様の前にへりくだって、心を低くして……。サウル王様が失敗した原因はここです。サムエルが、「あなたは、神様に選ばれて油注がれて、神様がイスラエルの王とされたのに」と言っています。今、自分の力でここにこうしているのではなく、神様のあわれみがあり、許しがあって、今日もこの家族を託していただき、この業を与えられ、この境遇の中においているのは主ですと、そこで謙遜になることです。これが欠けたとき、私たちは神様から離れていきます。

このとき、サウル王様は神様から捨てられました。23節「そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである」。「強情」、かたくなと言います。なかなか自分ではわからない。自分は極めて柔軟な、柔らかい人間だと思う。ところが、そばから見ていると、こんな強情な人はいないと思われるのです。自分の外側から自分を見る目を持っておくことが大切です。私は強情なところがあるなと認めること。これは謙遜でなければできません。集会の座席一つでも強情でしょう。いつも座っている席に、誰かほかの人が座っていたら、「済みません、ちょっとどいてください」と、ほかに空いている席があっても、譲らない。私たちは気がつかないうちに強情になります。神様の前に「砕けた悔いた心」、素直な従いやすい心を絶えず持ち続けていきたいと思います。

23節に「そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。ここではっきりと「あなたが主のことばを捨てたので」と、神様からサウル王様は退けられるのです。だからといって、次の日から王の位を追われて、世をさまよう者になったわけではありません。王の位には留まっていました。しかし、そこには神様の祝福と恵みはなかった。そのいちばん明らかな姿は、サウル王様が悪夢にうなされるようになる。心に平安を失いました。とうとうあのペリシテびととの戦いの中でたまらなくなって、口寄せ、いわゆる霊媒者の許に行って、亡くなったサムエルを呼び戻すようなことをする。そして、ついに戦いの真っ只中で死んでしまいます。ダビデ王様の生涯とサウル王様の生涯の決定的な違いはここにあります。私たちも神様から捨てられることのないように、絶えず主の御声に聞き、主の祝福と恵みの中に生きる者となりたいと思います。そのために謙遜になること。そこにありますように「従うこと」「聞くこと」、これは素直にならなければ聞けません。私たちはいつもへりくだった謙遜な砕けた悔いた心をもって、主の前に歩む者となりたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましよう。