いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(81)「義とされる」

2013年12月11日 | 聖書からのメッセージ
ローマ人への手紙3章21節から31節までを朗読。

今朝は、24節に「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」。
クリスマスの物語に語られているように、今から約2000年以上前に、神の御子が人となり、この世に生まれてくださいました。そのことによってイエス様の救いが始まりました。といっても、神様はすべてのものが造られた創世の時代から、すべての人を救おうとしてくださったのです。創世記を読みますと、エデンの園を追われたアダムとエバが、神様から羊の毛衣(けごろも)、皮の着物を着せられて追放された記事があります。本来裸であった彼らが羊の衣をまとう姿は、やがてくるイエス様の救いを彼らの上に注いでくださった、備えてくださった証詞です。神様は人間を御自分のものとして造られました。そればかりでなく、失われた私たちに対して救いの道を備えて絶えず呼びかけ、帰れと招いてくださっています。

イエス様の救いが日本に伝えられたのは豊臣秀吉の時代、その少し前からでしょうが、それ以前の人は、イエス様のことを知らないで死んだではないか、昔の人もイエス様を知っていたら信じただろうと言われます。しかし、神様は、決して捨てていたのではない。「ローマ人への手紙」1章に、神様は天地万物の創造者であることを、すべての被造物、造られたものの中に証ししているから、神様のことを知らなかったという言い訳は成り立たないと語っています。だから、イエス様が生まれる前の時代、まだ福音が伝えられなかった時代の人たちに必要な救いの道を備えていてくださる。確かに、イエス様はまだであったけれども、救いはイエス様が父なる神様の御許(もと)にるときから始まっている。これは聖書が約束している事です。

だったら、今でもイエス様を信じなくても救われるのかというと、そうではない。今は既にイエス様がこの世に来てくださって、福音を聞いています。だからこそ、私たちに問われることがあるのです。負わせられた責任があります。イエス様のことを聞いていながら、それを信じないことが罪なのです。イエス様が来てくださったのに、信じなければ神様の救いにあずかることができません。だったら、私は聞かなかったらよかったと思いますが、聞いてしまった以上、時間を巻き戻すことはできません。だから、こうやって、ここに導かれて神様のお話を聞く、御言葉を通して神様に心を向ける恵みの時が与えられています。

昔、父に私もそう言ったのです。そんなに早くから信じなくても、いよいよとなった時に信じればいいのではないか。死ぬ間際になってイエス様!と言えば救われるのだから。父が「ばかだな、その時になって信じられるはずがない」と言うのです。今思うと、確かにそのとおりで、愚かなことを言ったものだと思います。神様が私たちにを救ってくださる時は「今」以外にありません。「今は恵みの時、今は救いの日」、今という時に、福音に導きいれられたということ自体が、神様の業であり、その時を逃しては、他の人たちはどうであれ、私たちの救いがないのです。神様は一人一人に救いの手を差し伸べていてくださる。だから、それぞれの人が問題や事柄を通して、神様の呼びかけに早く応えるようにと願い、祈ることが私たちの努めです。

私たちが人を救うことはできません。神様はすべての人々を救う救いの道を備えているのです。そして、その時があるのです。それが早くなってほしい。またそのことに早く気付いてほしい。またすべての人々がそれを求めてほしいというのは私たちの切なる願いです。だから、家族のために、友人、知人、親戚のために、何とかしてイエス様の救いにあずかってほしいと祈るのはそのために祈るのです。祈らないと神様は救ってくれないという、そんな問題ではありません。神様はちゃんとそれぞれの人々を救おうとして、救いの道を開いてくださっています。ただ、その人たちがまだ気付かない。かつては、私たちもそうでした。気付かないでほかのものを頼りとし、ほかのものを神として、そして迷っていた。先ほど歌った讃美歌に「さまよう人々、立ち返りて」とありましたが、さまよっていた私たちに、立ち返るべき機会と場所、その時を定めている。それは、私たちが何かしてできることではない。ただ、言えることは、神様どうぞ哀れんで、早くその人たちがあなたを知ることができますように、信じることができるようにしてあげてくださいと、主の哀れみを求めて、どうぞ!滅ぼさないで、許してやってくださいというのが、私たちの祈りです。ですから、私たちは、そのために切に祈っていきたいと思います。それは、私たちに神様が、求めている大きな御用でもあります。

イエス様の福音は、伝えられた時より以前の人には無効であるとか、以後の人は有効であるというような、乱暴なわけ方はできません。神様が一人一人に人生を通して語りかけてくださる時があります。自分の人生を振り返った時に、あの日あの時に、あそこで神様が声をかけてくださった。その結果、今恵みの中に置かれていると感謝することがあります。そのような時をすべての人に備えているのです。ただ、その時がいつであるか、私たちにはわかりません。しかし、必ず、その時があることは、聖書に約束されていることです。

イエス様の救いが二千年前にこの地上に具体的に現されました。それから聖霊が注がれ、イエス様は天に帰られましたが、その後、多くの弟子たちが、イエス様の福音を携えて各地に散らばっていきました。これもまた人が計画したのではありません。神様は御自分の計画によって、弟子たちを招いてくださり、使命を与え、遣わしてくださったのです。それによって、世界にイエス様の福音が宣べ伝えられました。これは、本当に大きな恵みです。ところが、長い年月を経ていくうちに、イエス様の福音にいろいろな混ざり物と言いますか、ほかの事柄が入ってきます。そして、教会という制度、そのようなものが出来上がってきました。これがカトリック教会です。今世界で一番大きなキリスト教の勢力を誇っています。カトリック教会はイエス様の福音を語りますが、それよりもむしろ、この世にあって、教会組織、それに所属する教会員の相互の交わりであるとか、その社会性とか、そのようなものを重んじる形になって、イエス様が段々と遠く、薄くなってしまった。そして、とうとうルターという宗教改革者が現れまして、16世紀のヨーロッパでカトリック教会への批判が生まれました。

その時、問題となったのは、神様から罪を赦されるには何が必要なのか? ということです。カトリック教会は、自分たちがよろしいと言った人は罪が赦される。イエス様の救いを一人一人に許可する権威は教会にあると言うのです。聖書にはどこにもそのようなことは書いてないのですが、マタイによる福音書16章にあるように、イエス様が弟子たちに「あなたは、わたしをだれと言うか」と問われたとき、ペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えます。イエス様は大変喜んで、お前はペテロ・岩だからその上に教会を立てよう、あなたに天国を開くかぎを授けようと言われた。それを根拠にして神様の代理者となったのです。今ローマの郊外にバチカン市国と言いますが、サンピエトロ寺院(聖ペテロ寺院)があります。ペテロが殉教し、埋葬された所に立てた。ペテロの上にわたしの教会を建てるという、イエス様の言葉を文字通りに理解したのです。そして天国のかぎを授けようと。だから、カトリック教会が天国の門を開くかぎを握っているのです。教会が認めたらそのかぎによって天国に入る。開けてもらえなければ地獄に行くという、とんでもない間違いを犯した歴史があります。そのために贖宥状(洗礼を受けた後に犯した罪の赦しを認める)というものを売ったのです。教会が発行する認定書です。あなたは天国に入れます、罪が赦されました、という罪を免除する札のようなものをお金で売ったのです。それ程に教会が堕落したと言いますか、信仰から遠くなってしまった時代があります。そのために、お金持ちは買うことができますが、貧しい人は買えない。いくらしたのかわかりませんが、結構高いお金だったろうと思います。そのためにカトリック教会は大財産を築きました。今私たちも警戒しなければならない事ですが、人が勝手にいろんな組織をつくり、人間の力で業を進めようと、サタンが働いてきます。

ヨーロッパに行きますと、カトリック教会の壮麗なること、いったいどこからこのようなお金が出てきたかな、と思うくらいに財宝の山です。先だって、ローマに行きました折りに、バチカンを訪ねました。バチカンの宝物館に宝物があるのです。世界中の王侯貴族から集めた金銀財宝が山のように陳列されています。なんだかイエス様の福音とはかけ離れた世界を見せられました。ペテロとパウロが、エルサレムで神殿に上っていく時に、生まれながらの足の不自由な人がいまして、物乞いをしていました。ペテロとヨハネが、「わたしたちを見なさい」言った。その人が二人を見たとき、「金銀はわたしには無い」と言ったのです。確かに彼らは無一文でした。ところが、いまやカトリック教会は、「金銀はある」と言うほど、財を築くことに一生懸命になってしまった。ペテロとヨハネが「しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と言った。その当時のカトリック教会には「わたしにあるもの」がないのです。あげようといっても空っぽです。イエス様がいない。今はもちろん変わってきましたから、その当時とは違うとは思いますが、宗教改革時代のカトリック教会は、そのように堕落した状態だったのです。

その時、カトリック教会の修道僧であったルターはたいへん心を痛めて、もう一度聖書をよく読みました。昔は、一般の人々は聖書を持たなかったのです。その後グーテンベルグが印刷機を発明して、いろいろなものが印刷されるようになりましたが、それまでは教会に羊皮紙に書いたものとか、いろいろな形で手書きした原稿のようなものはありました。だから、一般の人は聖書を読む習慣がなかった。ミサがあるとか、礼拝のときに一部分を読むだけで、一般の人たちは家に帰って読むことはない。今は恵まれていますね。いつでもどこででも、こうやって聖書を、神様の御言葉を読むことができる。

昔、カトリック教会は主に四福音書と言われるマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書を中心に、それだけに限っていたのです。後の部分は、参考程度にはしたのでしょうが、それほど大切に思っていなかった。ところが、ルターは自分でしっかりと聖書を読み始めたのです。そうして、ここ3章21節以下のところで、激しい神の聖霊の働きによって、一瞬にして悟りを与えられる。びっくりしたのです。それは、21節以下にありますように「しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。22 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである」。そこには、なんらの差別もない。この御言葉に出会ったとき、ルターは衝撃を受けたのです。それまで、贖宥状をもらわなければ義とされない、神様から罪が赦されないと思っていた。買えない人は駄目、買える人はいくらでも買ったらいい。自分が罪を犯して悔い改めるごとに買わなければいけない、そうしないと赦されないというのですから、その数たるや膨大です。そのような中で、ルターも生まれ育って、教育されました。ところが、ここに何とあるのか。いくら繰り返し読んでも、その現実の姿とは違います。「イエス・キリストを信じる信仰による神の義」「すべて信じる人に与えられるものである」。「すべて信じる人」を神様は義とされる。「義」と言いますのは、哲学者や神学者が説明するのは本当に難しいのですが、わかりやすく言うと、神様の御心にかなうもの、これが「義」です。神様が「よし」とおっしゃってくださること、神様の前に罪を赦された状態。そのことを新約聖書では、「神の子とされる」という言い方をしています。これは神の義であります。「義」という言葉自体は正しさを現わすのです。法律的にも罪を犯さないこと、あるいは、罪に対して厳しくとがめだてをする、裁きをする、これが「義」です。

具体的な刑法に反する、刑事罰を受けるような、盗んだり、人を殺したりとか、傷つけたりというようなことを行います。その時、それ相応の罰を与える、償いを求める、それが義です。正しいことが実行される。神様の義は私たちに求められる神様の正しさ、それをどうやったら私たちがいただくことができるのか? 考えてみると、私たちは神様の前に義とされる自分であるとは到底思えません。今日、はばかることなく、どこもやましいことなく、心に刺される思いもなく、神様の前に立てるかと言われると、自分なりには正しいと思うけれども、神様の前にはちょっと難しいかなと、どんな人でも心に思います。他人にはわかりません。外側から見て、あの人は神様の前に決してとがめられるような人ではない。普段からにこやかだし、謙遜だし、絵に描いた仏さんみたいな人だ、という人であっても、その心の中はわかりません。私たちはこの世で肉を持って生きているかぎり、どこかで罪を犯している。その罪に対して、神様は必ず報われる、裁かれるに違いないと思います。

だから、何が不幸なこと、思いがけない災い、事件や事故やそういうものにあたったら、何か悪いことをしたのではないだろうか、何かの罰が当たったと一瞬思ってしまう。それは無意識のうちに心の中に、私は今死んだら地獄だなと、そのように自分をとがめる思いがある。そこが神様の義です。そのような、ほんのわずかな、髪の毛一筋ほどの穢(けが)れをも許さない正しいお方は神様だと、多くの人は知っています。神様という方はほんのわずかな穢れも罪もお赦しにならない。人間ですらも、自分が正しいと思うと、相手を非難しますね。

先だっても、わたしは車で接触事故をしたのです。そのとき私は正しいと思ったのです。制限速度もオーバーしていないし、車線もきちっと守っている。私がまっすぐ行っているのに、横から車線変更のために寄ってきてぶつかったのです。とにかく警察に連絡して、それで終わったのです。後で保険会社に電話をしました。「こういうことになりました」と。保険会社は「先生、そういう時は、先生のほうも2割くらい負担してもらわんといかんですね」と。「エ!どうしてよ。こっちは悪くないのに!向こうが100%だよ」と言いました。その方が「いや、そうは言っても、お互い走っていて、注意義務がありますから、やはり向こうが100%とは気の毒ですから、先生のほうも2割くらい保険から……」「もちろん出します」「でも、先生のほうは車両保険に入っていないから後は自腹ですね」と言われました。

私たちは、己の義、私が正しいと主張したがる。神の義は神様の正しさを通す。ところが、私たちは自分の義を主張することによって、神様の義を拒んでいる。これが私たちの罪です。ですからその少し前のところを読みますと、

ローマ人への手紙3章10節から18節までを朗読。

人間はどのような者であるかが語られています。10節に「義人はいない、ひとりもいない」。そのとおりです。私はその事故を通して教えられました。つい自分は義人だと思うのです。ところが、聖書には「義人はいない」と言うのです。神様の目から御覧になるとき、神様の物差しで私たち一人一人を測られるならば、どんなに義人だと言い張っている人も、神様の義に当てはまらない。神様の測る尺度から見れば、とことん罪の塊です。だから11節以下に「悟りのある人はいない、神を求める人はいない。12 すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている」、何の役にも立たない存在となってしまっている。そんなことはない。私は家族のために役立って、こんなに用いられて、「お母さん、あなたがいなければうちはやっていけない」と言われている。ところが「無益なもの」と言われるのです。神様の尺度で測られたら、本当にそうだと思います。
柘植先生が岡山のほうで伝道をしておられたとき、ある晩の集会でに「義人はいない、ひとりもいない」との御言葉でお話をしました。そうしたら、たくさんの聴衆の中の一人が、パッと立ち上がって「義人はいないと? 俺は義人だ!」と憤慨して席を立って出て行った。とにかく集会が終わって、柘植先生は宿舎の旅館に帰って寝(やす)んでいると、夜中に女中さんが「先生、先生、ちょっと起きてください」と言う。「なんですか」「今、先生にお客さんが見えています」。夜中だけれども仕方がないと、先生が起きてその部屋に行ってみた。そこには、夕べ席を立った中老の男性がしょんぼりと座っている。そして先生が入って来られて座られたら、「先生、申し訳ありません」とひれ伏してしまって、涙流して……。よく聞いてみると、その村の小学校の校長先生だった。大正時代ですから、校長先生、警察官、郵便局長と、これは名士です。この人たちは人々の尊敬の的ですから、品行方正でなければいけない。民の模範となるべき人たちです。その校長先生が、柘植先生の前にひれ伏して、「先ほどは、本当に先生に失礼なことを申しました。“私は、義人だ!”とそう言って席を立って、せっかくの先生の集会を台無しにしたばかりでなく、怒って帰りましたけれども、家に帰ってよくよく自分を省みると、実は、こういう人にも言えない罪を犯しています」。そう言って、先生の前に次々と自分の過去を洗いざらいに悔い改めたのです。

そう言われると、私たちも皆そうです。自分を振り返ってみると「義人はいない、ひとりもいない」。しかも13節以下に「開いた墓」「人を欺き」「くちびるには、まむしの毒があり」と。私はよく言われる、「おじさんが優しい人だと言うのは、初心者。おじさんほど厳しい人はない」と。「自分が傷ついているときに、その傷の上に塩を塗りこむようなことを言う」と言うのです。私はそれを聞いた時にこの御言葉を思い出しました。「くちびるには、まむしの毒があり」と、「ああそうだ、自分の唇には、まむしの毒がある。これは人を殺すな」と思います。私どもはそのような罪の塊です。だから、誰でも弱さを持っていますから、世間ではいろいろな宗教がその弱さに付け込んでくる。私たちにこうせよ、ああせよと。よくあるでしょう。水子供養と言うのがあります。女性の方にとっては一番の心の痛みです。日の目を見ないままに、命を失った自分の子どものことを忘れられませんから、それを食い物にする輩がいる。それは自分に罪があるということをみな知っているからです。

しかし、22節に「それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義」。私たちがどんな罪の塊であっても、イエス・キリストを信じる者を神様の標準にふさわしい義なるものとしてくださると。これは素晴らしいですね。それでお幾らくらいかかりますか?など、ありません。「信じる者」です。そこに「すべて信じる人」と、「すべて」です。例外はありません。男であろうと女であろうと、若かろうと年を取っていようと、どこの国の、人種も地域も、時代も関係なく「すべて信じる人に与えられる」。その後に「なんらの差別もない」。牧師であろうとそうでなかろうと、金持ちであろうとそうでなかろうと、差別がない。等しく同じように、神様は「神の義」を与えてくださる。そして23節に「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなって」、そうですね。先ほども、申し上げたように、私たちはどこかで常に罪を負うています。その呵責(かしゃく)と言いますか、それをつい思い浮かべてはがっかりし、落胆し、失望します。神の栄光がない。しかし、24節に「彼らは、価なしに」、なんと、ただです。しかも「神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」。イエス様の十字架が立てられているから、イエス様が、神様ののろいを受けて、義を全うしてくださった。何にもしないまま、いいよ、いいよと、罪を赦してしまうのだったら、神様の権威が失われます。親が子供と約束して、守れないときはこういう罰を受けると決めたなら、それを実行しなければ親はバカにされます。なんだ、お父さん、あんなことを言っても、どっちみち何もしないのだからと、厳しいことを言っても通じなくなる。もし、神様が、「私はこんな罪を犯しました」、「ああ、そうかそうか、わかった、そんなものは不問に付すから」と、ただそれだけであったら、神様の正しさ、力、権威、神様が神様であることを失ってしまいます。世の中にいろいろな神様がありますが、何かささげものをすれば許してもらえる。お賽銭(さいせん)を上げたり、ご祈祷をしたりすれば許してもらえる神様は、たくさんありますが、罪の代償を神様のほうが用意してくださっている。私たちの罪の責任を神様が負われるのです。これは、驚くべき事です。

神様は私たちの罪を罰しなければおれない方です。私たちはこのままでは神様に受け入れられない罪の塊です。と言って、私たちが神様の前にごめんなさいと、いくら死んでおわびをしますと言ったところで、神様の義を全うすることはできません。といって、神様は、じゃ、もう目をつぶるというわけにもいかない。そこでどうしたか? 人の思いをはるかに超えたご計画によって、御自分のひとり子を罪びととしてくださった。あの十字架に神様の刑罰を下されました。だから、パウロがガラテヤ書で「わたしはキリストと共に十字架につけられた」と告白しています。神様からのろわれ刑罰を受けた者だと言っているのです。

24節に「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」。イエス様は私のために十字架に死んでくださって、一切の罪を赦して、死んだ者をもう一度新しく造り変え、今、私たちを神様の前に義なる者としてくださっている。そのことを、深く感謝して受けたいと思います。私たちを義なる者としてくださっている。

ですから25節に「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった」。神様の正しさ、神様の権威と力を明らかにするために、ひとり子イエス様を十字架に釘付けなさったのです。25節「すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが」、神様は忍耐をもって、私たちの罪を見逃してくださった。ところが、26節に「それは、今の時に、神の義を示すためであった」。最初に申し上げたように、私たち一人一人に神様の救いのときを定めてくださいました。それが、今、私のための救いのときです。皆さん、一人一人にそのときが定められて、イエス様が私の罪のあがないとなって死んでくださったと、信じさせてくださった。その先に「こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである」。「神みずからが義となり」とは、神様の正しさ、刑罰が文字通り実行される。それと同時に、刑罰を受けた者の罪が赦されるように、私たちに対する義も明らかにされます。これは深い神様の奥義です。福音の奥義です。神様の義も全うされ、私たちの罪が赦され、義なる者とされるという二つの事柄が、あの十字架に実現したのです。

神様の義を受けるのはどうすればいいのか? 26節に「こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである」。ただこれだけです。ほかに何にもない。私たちはキリストによる神の義を受けて、神の子どもとせられ、罪を赦されたのですから、私たちのうちになお、何かやましい思いがあるとしても、もはや、それは過去のことです。神様はとがめない。この主の許しを日々心にしっかりと受けて、今日も主の義によって立たせていただいていることを感謝し喜んで、主をほめたたえていこうではありませんか。

28節に「わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである」。あの宗教改革者ルターは、聖書を読んでこの言葉に至ったとき、「信仰のみ..による」と読んだのです。ここに「信仰によるのである」と口語訳聖書に記されていますが、「信仰のみ..による」のだと。贖宥状や教会の制度や組織や、誰か人の言葉で赦されるのではない。ただ、イエス・キリストを信じるだけで、罪を赦されて、神の子どもとして主の御前にやがて帰り、永遠の御国の命に私たちを移し替えてくださる。神の義をまとう者としてくださったと信じるのです。

24節に「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」。ただ、一方的な神様のあがないによって、罪を赦されどこを取っても罪のない全き者と、私たちをしてくださっている。見えるところは不完全なところがいろいろたくさんあります。しかし、それは終わった事です。今は、イエス・キリストが私を義としてくださったと、そこを信じて、十字架に目を向けていくだけです。どうぞ、絶えずこのことに心を向けて、今日も主が私を赦し、義としてくださっている。神様!あなたの前に私は立っていますと、はばかることなく、遠慮なく主を呼び求め、主と親しい交わりを日々持たしていただきたいと思います。

ご一緒にお祈りをいたしましょう。