ルカによる福音書7章36節から50節までを朗読。
47節「それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。
私どもは、日々、食べたり遊んだり、いろいろな仕事をしたりします。それらの事は突き詰めると「生きる」ことです。生きるのは何のため、誰のために生きているのか、その動機、理由付け、目的が必ずあります。小さなことでも、何かしようとするときに、そこにちゃんとそれなりの理由があって、こうしたいとか、こういうことを求めているから、これをしているのだという動機があります。生まれたとき、自分が計画して、願って、この家でこの親の許(もと)に生まれようとした人は誰もいません。おぎゃー、と生まれてからこのかた、ズーッと生きなければならない。生きる動機は自分のため、私の人生、私の時間、私の何かを求めて、それを一つの動機として生きている。成長してくると、人のため、家族のためにと、考えるようになりますが、子どものころはほとんどが自分のためです。人のためになんてあまり感じない。
K先生のところのお子さん方を見ていますと、K君やY君ぐらいのころは、ただ、自分のためにだけ毎日生きています。衝動的といいますか、情動的といいますか、人間の生まれながらに持っている感情や欲情に従って生きています。語弊があるかもしれませんが欲の塊です。では、大人は違うかと言うと、似たようなものです。それがストレートに表れてくるのは子どものころです。自分が欲しいものはやみ雲に欲しくなる。そして嫌なことは、絶対に嫌だといって拒む。ところが、年を取ってくると、その辺は心得ていますから、あまりストレートに出さなくて、ちょっと囲って飾り立てて、うまく自分の欲を通していく。考えて見ると、人間は自分の自己充足、自分が満足する、自分が満たされることを求めて生きています。その結果、いろいろなことであちらこちらにぶつかります。お互いが、自分の欲しいものを手に入れようとするから。
だから、K先生の子どもたちを見ていますと、3人おりますから、それぞれが争いになります。K君やY君たちになると、段々激しくなりまして、つかみ合いはするは、け飛ばす、突き倒す、見ていると、こちらがハラハラします。大人はあそこまではしないなと思いながら、考えてみたら、大人はもっとひどいことを大きな仕組みの中でやっている。国と国が、あるいは人と人とが、面と向き合いぶん殴りはしないけれども、別の形で相手をやっつける。K君たちを見ていますと、段々と争いが激しくなる。争いの元(もと)は、実に単純です。自分は遊んでいながら、横にいる弟が遊んでいるおもちゃを見ると、それを取りたくなる。自分は遊んでいるのだから、それでいいのではないかと思いますが、どうしても自分がしたいと思ったら、それをしなければおれない。だから、せっかく楽しんで遊んでいる弟の物を横から取り上げる。弟は気にいらないから怒ります。お兄ちゃんであろうとなんであろうと、ガーッと引っかく。
そのように自分の欲のために人は生きている。子どもを見ていると、こちらも反省させられます。自分はあんなふうに生きているのかな、あそこまではないよな、と思いながら、別の形で似たようなことをする。でも、そうやって兄弟でやりあって、そこで学ぶことももちろんあります。ここは我慢しなければいけない。これをしたら、やられて痛い思いをすることを学習しますから、したくてもグッと我慢するようになります。
ところが、我慢して済むのだったらいいのですが、段々そういうものがストレスになっていく。また心身症にまで発展していくことがあります。だから、大人の社会になってくると、会社勤めがうまくいかない、あるいはいろいろな新しい環境になじまない、自分の思いが通らない、自分の願ったようにいかないことで、自分のしたいことだけをするために、多くの人々に迷惑を掛け、周囲の人に嫌われる。それが私たちの現実です。それは、自分を中心にして、自分の思いを遂げようとして生きているからです。そうである限りいつまでたっても解決できません。争いは絶えません。弱肉強食、弱い者は打ち倒されて強い者はどんどん伸びていく。最近、日本の社会もそのように変わってきたようで、格差社会という、弱者は切り捨てられていく社会になってきました。人が神様から離れて勝手な生き方をし始めた結果がそこにあることは事実です。ところが、その生き方は結局行き詰る。自分の自己充足、自分の欲望を求め、自分の安心と自分の幸せだけをやみ雲に追い求めて、その行き先は滅びしかない。
だから、今、世界中が、いろいろな問題の中におかれています。環境問題だとか、人種問題であるとか、教育、政治、いろんなところで破たんしています。それは、自分たちの国、あるいは一つの集団がその目的を達しようと、自分のために生きようとするために、身勝手な生き方になってしまう。それが今世界が直面している事態です。政治家や世界の指導者たちが、知恵を出してそれを食い止めよう、変えようとしていますが、変えることができないと思います。自分たちが楽なように、自分が好きなように生きていく。自分たちのために生きていく。その行き着く先は滅びしかない、地球が滅んでいくでしょう。聖書にも「滅ぶときがくる」とありますから、そのとおりだと思います。これはもう人の力や知恵ではどうにも防ぎようがない。そういう行き詰った、滅びに向かっている私たちを哀れんでくださったのが神様です。
神様は私たちの生き方を全面的に造り変えて救おうとしてくださいます。イエス様がこの地上に救い主として来てくださった目的は、まさに、そこです。生まれながらに持っている生き方の根本的な動機付け、自己中心で、わがままで、自分の欲望を充足し、自分の情動で生きている者が、もっと違ったもので生きる者となる。イエス様が私たちのために十字架に死ぬことによって、罪をあがなってくださったばかりでなく、実は神様が私たちを愛していることを証明したのです。ですから、「ヨハネの第一の手紙」4章の言葉にありますように「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」。「神がわたしたちを愛して下さって」と、その愛、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」と言われるように、限りない大きな愛を注いでくださいました。
それは、それまで知らなかった生き方、愛による生き方です。では、人の心に愛がなかったかというと、愛に似たものはあります。人間的な意味の親子の愛であるとか、友情であるとか、あるいは男女の愛であるとか、そのようなものも広くいえば愛に違いありません。しかし、人の持っている愛の根本は、究極には自己愛です。自分のための愛です。親が子どもを愛するといっても、それは完全に自分を捨てきった愛ではない。どこかでやはり打算があり、自分のための愛であります。男女の愛だってそうです。お互い若い二人が愛し愛されて、さぁ、結婚しましょうという話になりますが、そのときの愛だって、自分に相手が必要だから、自分にとって利益があるから愛しているようなものです。そのように、私たちの愛はどうしても罪の汚れといいますか、ある限界から出られない。そこを超えていくことができない。これは私たちが直面する大きな問題です。どんなに家族を愛していても、ある一定のところまではできるがそれから先へ進まない。
世の中でもそうです。人のためにいろんなことを尽くします。しかし、それはあくまでも、自分が損をしない程度、自分が困らない程度のことはするけれども、それまでです。それ以上のことはできない、そこが行き止まりです。それに対して、神様が私たちを愛してくださった愛は、「そのひとり子を賜わったほど」なのです。「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」。まさに、神様は御自分が人となって、神の位を捨て、この世に来てくださった。そればかりか、罪なき方が罪人とされて、命を捨ててくださった。いうならば、自分を捨ててくださった、ここに愛があるのです。このような愛は神様の愛以外にはないのです。それと似たようなものはほかにもあるでしょうが、神様の愛はイエス様の十字架を通してでなければ表されないのです。
世の中にもいろいろな宗教があり神々がいますが、人をここまで愛する神様はいません。「ヨハネの第一の手紙」4章に「神は愛である」と、神様が愛そのものであると語られています。そしてその愛の本質は何かといいますと、「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」といいます。
ローマ人への手紙5章6節から8節までを朗読。
6節に「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである」。ここに「弱かったころ」、「不信心な者」、まだイエス様も神様も信じようとしない、自分勝手でわがままな生き方をしていた私たちのために、「時いたって」とあるように、神様が救いのときを定めてひとり子イエス様をこの地上に送ってくださいました。そればかりか、あの十字架に死んでくださったことによって、私たちを愛してくださいました。さらに8節に「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」。私たちを愛するがゆえに、イエス様が罪を赦(ゆる)すあがないの供え物となってくださった。これは、ただ神様による以外にありえない愛です。神様は、私たちを愛してくださって、滅ぶべき罪の塊である者をあえて選んで、イエス様の救いに引き入れてくださいました。そして私たちの罪を赦してくださって、ここに「愛がある」というのです。私たちは、今、神様から大きな御愛を受けて、愛の許しの中に今日もあることを知らなければならない。
「ルカによる福音書」7章36節以下に戻りますが、イエス様が一人のパリサイ人の家に食事に招かれています。ところが、その食卓についていたときに、一人の女の人が香油を入れた石膏のつぼを持って来たのです。そして38節に「泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った」。食事の席で、イエス様に一人の女性が近づいて、涙ながらにイエス様の足をぬらした。そして、足を「髪の毛でぬぐう」という、女の人にとって髪の毛は、ある意味で大切なものでしょうが、そんなことをいとわないで、「その足に接吻して」、さらに「香油を塗った」。香油は安いものではない。
そのとき39節に「イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、『もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから』」。ところが、この女の人は不道徳な罪を犯していた女性でした。その当時の社会では「罪の女」と言われたのです。一説には「ヨハネによる福音書」にある姦淫(かんいん)の現場をとらえられた女の人であったといわれていますが、その辺はよくわかりません。いずれにしても、世の人々から非難され、糾弾(きゆうだん)される、罪人とされた女性だった。その人が、イエス様に自分のできる限りのものをささげたのです。イエス様に彼女の思いを表したのです。そのときパリサイ人は、「イエス様が預言者であるなら、この女がどんな人かすぐにわかるはずだ。変な人に近寄られて平気でいるなんて、イエス様はたいした人ではない」と、パリサイ人はイエス様を軽べつした。そのとき、イエス様はちゃんと彼の心を知っていて、シモンに「あなたに言うことがある」と。一つの例えをお話しになりました。金貸しが二人の人にお金を貸した。一人は五百デナリ、もうひとりは五十デナリ。ところが二人とも返すことができないので、その人は許してやった。その結果、どちらの人が彼を多く愛するだろうか? 実にわかりやすい例えです。パリサイ人のシモンは43節に「多くゆるしてもらったほうだと思います」。それはそうです。どっちがありがたいと思うか? それは大きな五百デナリ、いうなら五百万円の借金をなしにしてもらった人と、五千円をもういいよといわれた人と、どちらの喜びが大きいか。それは皆さん、誰だって五百デナリという大金を「返さなくていい」といわれた人のほうが、感謝感激です。その人に足を向けて寝られないくらいに恩義を感じます。それは当然でしょう。
だから、イエス様は、43節に「あなたの判断は正しい」と。シモンは愚かな人ではな。ちゃんと物事の判断ができる人であった。ところが、44節に「それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、『この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった』」。シモンは、パリサイ人といいますから、恐らく当時の社会では、指導者的な、ある程度世の中で尊敬を受ける人物だったと思います。ましてや、イエス様をあえて食事に招くというのですから、粗末なことをしているわけではない。イエス様に自分の善行を誇りたかったと思います。だから、ここで、イエス様はシモンとこの女の人を比較しています。シモンはイエス様が来ても別に足を洗う水をくれなかった。シモンは、一応イエス様を自分の家に招いたのですが、本当に謙そんな思いで招いたとは思えません。
皆さん、ご存じのようにカナの婚宴で水がめがありました。外から来たお客さんの身を清めるための水がめです。ところが、この時にはその足を洗う水をくれなかったのですから、シモンがイエス様をどこかで、自分よりもさげすんでいたといいますか、話題になっている人物だからひとつうちに呼んで、話のひとつでも聞いてやろうかぐらいです。イエス様を、先生として、預言者として、あるいは救い主としての扱いをしていたのではない。だから、4節にあるように「あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた」。そればかりか45節に「あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった」。「接吻」とは一つの親愛の情を表すその土地の習慣だと思います。日本人はそんなことをしませんが、でも日本人でも親しい人に久しぶりに会ったら、手を握って、ああよく来たねとやるでしょう。友達と何十年ぶりで幼なじみと会ったら、手を握ってよく来たね、というではありませんか。このとき、シモンはイエス様にそれほど親しみを覚えていない。足を洗う水も出さないくらいですから、その辺に座ってくださいというくらいの気持ち。先生どうぞと、イエス様をたいへんに尊敬していたわけではない。
ところが、この女の人はそうではなかった。彼女は、涙で足を洗って、髪でふき、そして接吻して本当にイエス様に対して親愛の情どころか、一切をささげたのです。香油を塗ってイエス様を愛している。47節に「それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。まず、この女の人はどうしてそんなにまでイエス様を愛しているのか。それは、この女の人がイエス様からどんなに大きな罪を赦されたかということを知っていたのです。シモンがいうように、「この人は罪の女である」。恐らく彼女は自分が世間から嫌われ、多くの人々から罪人だと、後ろ指を指される自分であることを知っていました。そして、そこからなんとか変わりたいと願っていたことでしょう。しかし、どうしてもできなかった彼女に対して、イエス様が赦してくださった。イエス様の大きな御愛に感謝し、感じたのです。そしてなんとしても、イエス様のためにと自分のありったけのものを持って、応えているのです。
47節に不思議な言い方をしています。「この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされている」とあります。多く愛したから・・・罪はゆるされるのだろうか? え!ちょっと違うのではないだろうか。多く赦されたから多くを愛しているのではないだろうかと思います。確かにイエス様は、先ほどの「ローマ人への手紙」5章にありましたように、私たちが「弱かったころ、不信心な者であった時、罪人であった時」に、イエス様のほうが、まず私たちを愛してくださいました。私たちを愛して、罪を赦してくださったとあります。ところが、ここでは逆にこの女の人が多くを愛したから、多くの罪が赦されたと言っています。これは非常に大切なことですが、イエス様の愛、神様の愛を、私たちがどれ程愛されているかを、本当に受け止めるのは自分の身をイエス様にささげるとき、初めてその愛が完成するのです。イエス様から愛されていることを知っているだけでは駄目です。それを知った私たちが、では、イエス様にどれ程自分をささげるか、イエス様が私たちをこんなに愛してくださったから、私も主よ、あなたのためにと、全身全霊をもって応えていくとき、イエス様が愛してくださった御愛の深さ、大きさを、自分のものとしてしっかりと握ることができる。イエス様が二千年前にあの十字架にかかって私の罪を赦してくださったことを知ったとしても、もしそれに応答して、そのことを感謝して、そのことを真剣に自分のためであったと認めて、イエス様に仕えて、ご愛に応答する。イエス様の喜ばれるところに、この女の人のように多く愛していくときに、私たちもイエス様の御愛を具体的に体験することが出来ます。確かにそうだと思います。神様が限りなき愛をもって愛してくださっていますと、口で言うのはたやすいことです。それを自分のものとして、どれだけ大きくイエス様の御愛を自分に取り込んでいくかは、その御愛にどれだけ応えるかかっている。
十字架に「事畢(をは)りぬ」と一切の私たちの罪を赦してくださった。私たちは今神様から赦されて生きているのです。その赦された喜びを味わうには、私たちが多くの人を許し愛するときに具体化してきます。それがない限り、あくまでも、そこで止まってしまう。神様が与えてくださった御愛を自分のものとして取り込んでいくには、イエス様の御愛を信じて具体的な生活の中で主の御愛に応えて歩んだところだけが、実は私たちのものになるのです。
この女の人は、イエス様が愛してくださったことを知っていましたから、そのイエス様の御愛をもっと実感するといいますか、具体的に自分のものとして受け止めるために、イエス様の所に来て涙を流して足をぬらし、髪の毛で足をぬぐい、香油を注いだのです。だからイエス様は「この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされている」。これは、まさに、真理です。神様は私たちを愛してくださいました。ただ、主の御愛をどれほど具体的に自分のものとして受け止めたかどうかは私たちにかかっている。
ヨハネの第一の手紙3章16、17節を朗読。
16節に「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」とあります。確かにそうです。ここまでは本当にそうです、感謝です、と言います。私どものために命を捨てたことによって、神様がどんなに愛してくださるかを知ります。その後に「それゆえに」とあるでしょう。「それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」。この「兄弟のためにいのちを捨てるべきである」と言われると、道徳的な行為、具体的な何かを強制されているように思われるかもしれませんが、そうではありません。神様がこんな限りなき愛をもって、命を捨てて愛してくださったことを知ったなら、それをもう一度自分のものにするために、その御愛に応えてどれ程人を愛するかにかかってくる。自分がどれ程許されたかを知るならば、多くの人を許さなければおれない。私たちが許せば、その許した分だけ、神様から愛されている自分であることを知り、神様の御愛を自分のものとすることができる。ですから、16節の言葉の半分だけでは神様の御愛を半分しか知らないのです。
だから、「ルカによる福音書」に戻りますが、47節に「この女は多く愛したから」、この女の人がイエス様を愛した愛は、その前にイエス様が愛してくださったことを知っていたから、だからイエス様を愛したのです。それに対して、イエス様は「その罪はゆるされている」と言われました。しかもその後に「少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」とあります。神様が私を愛してくださったと感謝感激しますが、それだけで終わっているかぎり、そこで止まってしまう。それでは自分のものにならない。今度は御愛を信じて、この女の人のようにイエス様のために自分を捨てるのです。イエス様がこんなに愛してくださったのだから、主のために自分を捨てていく。先ほどの「ヨハネの第一の手紙」に「兄弟のためにいのちを捨てる」と、「兄弟のため」とはイエス様のためにです。イエス様がそんなに愛してくださったからこそ、私たちも「兄弟のためにいのちを捨てる」。
その動機が、イエス様の御愛、イエス様が命を捨てて許してくださったことに絶えず立っていなければ、神様の御愛を具体的に味わうことができません。いうならば陣取り合戦です。神様が注いでくださった限りない大きな御愛を、どれだけたくさん自分のものとしていくか。これが地上での歩みです。信仰によってキリストの御愛に応答していく生涯は、神様の御愛を自分のものとして取り込んでいくことです。それには、イエス様がそうしてくださったように、私たちもまた、「その兄弟のためにいのちを捨てる」。それは人のためにするのではなくて、実は心の奥にイエス様がどんなに愛してくださったかを味わい知るためです。神様の御愛を自分のものとして受け止めるために大切なのはここです。
このとき女の人がイエス様のところに来て、涙を流し、香油を塗り、髪の毛でぬぐい、接吻してやまない。彼女はイエス様のためならば命でも何でも、どんなものでも捨てる覚悟があった。それ故にこそ、この女の人はイエス様の御愛を自分のものとすることができた。今この女の人と同じように、罪の者であり、罪の女である私たちが、主の十字架の御愛を私たちのものとするために、私たちもまたその友のために命を捨てる。それはイエス様のためです。イエス様の御愛に応答して初めて愛が完成されます。そうでない限り、いつまでも絵に書いた神様の全き御愛を眺めているだけです。それを自分のものとしていこうではありませんか。具体的な生活の一つ一つの事柄で、自分を主にささげる。私たちが主を愛して、主の御愛にどれだけ自分をささげるか。それによって、主の御愛の大きさ、深さ、長さ、高さを味わい知ることができ、ご愛を本当に確信する、あるいは自分のものとする。
47節に「この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである」。「この女」とは誰でもない私たちのことです。イエス様にすべてをささげて、主の御愛に応えていくとき、その応えた分だけ、神様に愛されていることを確かなこととして、味わい知ることができます。そして、「その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。大きな御愛をしっかりと自分のものとして受け止めたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。
47節「それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。
私どもは、日々、食べたり遊んだり、いろいろな仕事をしたりします。それらの事は突き詰めると「生きる」ことです。生きるのは何のため、誰のために生きているのか、その動機、理由付け、目的が必ずあります。小さなことでも、何かしようとするときに、そこにちゃんとそれなりの理由があって、こうしたいとか、こういうことを求めているから、これをしているのだという動機があります。生まれたとき、自分が計画して、願って、この家でこの親の許(もと)に生まれようとした人は誰もいません。おぎゃー、と生まれてからこのかた、ズーッと生きなければならない。生きる動機は自分のため、私の人生、私の時間、私の何かを求めて、それを一つの動機として生きている。成長してくると、人のため、家族のためにと、考えるようになりますが、子どものころはほとんどが自分のためです。人のためになんてあまり感じない。
K先生のところのお子さん方を見ていますと、K君やY君ぐらいのころは、ただ、自分のためにだけ毎日生きています。衝動的といいますか、情動的といいますか、人間の生まれながらに持っている感情や欲情に従って生きています。語弊があるかもしれませんが欲の塊です。では、大人は違うかと言うと、似たようなものです。それがストレートに表れてくるのは子どものころです。自分が欲しいものはやみ雲に欲しくなる。そして嫌なことは、絶対に嫌だといって拒む。ところが、年を取ってくると、その辺は心得ていますから、あまりストレートに出さなくて、ちょっと囲って飾り立てて、うまく自分の欲を通していく。考えて見ると、人間は自分の自己充足、自分が満足する、自分が満たされることを求めて生きています。その結果、いろいろなことであちらこちらにぶつかります。お互いが、自分の欲しいものを手に入れようとするから。
だから、K先生の子どもたちを見ていますと、3人おりますから、それぞれが争いになります。K君やY君たちになると、段々激しくなりまして、つかみ合いはするは、け飛ばす、突き倒す、見ていると、こちらがハラハラします。大人はあそこまではしないなと思いながら、考えてみたら、大人はもっとひどいことを大きな仕組みの中でやっている。国と国が、あるいは人と人とが、面と向き合いぶん殴りはしないけれども、別の形で相手をやっつける。K君たちを見ていますと、段々と争いが激しくなる。争いの元(もと)は、実に単純です。自分は遊んでいながら、横にいる弟が遊んでいるおもちゃを見ると、それを取りたくなる。自分は遊んでいるのだから、それでいいのではないかと思いますが、どうしても自分がしたいと思ったら、それをしなければおれない。だから、せっかく楽しんで遊んでいる弟の物を横から取り上げる。弟は気にいらないから怒ります。お兄ちゃんであろうとなんであろうと、ガーッと引っかく。
そのように自分の欲のために人は生きている。子どもを見ていると、こちらも反省させられます。自分はあんなふうに生きているのかな、あそこまではないよな、と思いながら、別の形で似たようなことをする。でも、そうやって兄弟でやりあって、そこで学ぶことももちろんあります。ここは我慢しなければいけない。これをしたら、やられて痛い思いをすることを学習しますから、したくてもグッと我慢するようになります。
ところが、我慢して済むのだったらいいのですが、段々そういうものがストレスになっていく。また心身症にまで発展していくことがあります。だから、大人の社会になってくると、会社勤めがうまくいかない、あるいはいろいろな新しい環境になじまない、自分の思いが通らない、自分の願ったようにいかないことで、自分のしたいことだけをするために、多くの人々に迷惑を掛け、周囲の人に嫌われる。それが私たちの現実です。それは、自分を中心にして、自分の思いを遂げようとして生きているからです。そうである限りいつまでたっても解決できません。争いは絶えません。弱肉強食、弱い者は打ち倒されて強い者はどんどん伸びていく。最近、日本の社会もそのように変わってきたようで、格差社会という、弱者は切り捨てられていく社会になってきました。人が神様から離れて勝手な生き方をし始めた結果がそこにあることは事実です。ところが、その生き方は結局行き詰る。自分の自己充足、自分の欲望を求め、自分の安心と自分の幸せだけをやみ雲に追い求めて、その行き先は滅びしかない。
だから、今、世界中が、いろいろな問題の中におかれています。環境問題だとか、人種問題であるとか、教育、政治、いろんなところで破たんしています。それは、自分たちの国、あるいは一つの集団がその目的を達しようと、自分のために生きようとするために、身勝手な生き方になってしまう。それが今世界が直面している事態です。政治家や世界の指導者たちが、知恵を出してそれを食い止めよう、変えようとしていますが、変えることができないと思います。自分たちが楽なように、自分が好きなように生きていく。自分たちのために生きていく。その行き着く先は滅びしかない、地球が滅んでいくでしょう。聖書にも「滅ぶときがくる」とありますから、そのとおりだと思います。これはもう人の力や知恵ではどうにも防ぎようがない。そういう行き詰った、滅びに向かっている私たちを哀れんでくださったのが神様です。
神様は私たちの生き方を全面的に造り変えて救おうとしてくださいます。イエス様がこの地上に救い主として来てくださった目的は、まさに、そこです。生まれながらに持っている生き方の根本的な動機付け、自己中心で、わがままで、自分の欲望を充足し、自分の情動で生きている者が、もっと違ったもので生きる者となる。イエス様が私たちのために十字架に死ぬことによって、罪をあがなってくださったばかりでなく、実は神様が私たちを愛していることを証明したのです。ですから、「ヨハネの第一の手紙」4章の言葉にありますように「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」。「神がわたしたちを愛して下さって」と、その愛、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった」と言われるように、限りない大きな愛を注いでくださいました。
それは、それまで知らなかった生き方、愛による生き方です。では、人の心に愛がなかったかというと、愛に似たものはあります。人間的な意味の親子の愛であるとか、友情であるとか、あるいは男女の愛であるとか、そのようなものも広くいえば愛に違いありません。しかし、人の持っている愛の根本は、究極には自己愛です。自分のための愛です。親が子どもを愛するといっても、それは完全に自分を捨てきった愛ではない。どこかでやはり打算があり、自分のための愛であります。男女の愛だってそうです。お互い若い二人が愛し愛されて、さぁ、結婚しましょうという話になりますが、そのときの愛だって、自分に相手が必要だから、自分にとって利益があるから愛しているようなものです。そのように、私たちの愛はどうしても罪の汚れといいますか、ある限界から出られない。そこを超えていくことができない。これは私たちが直面する大きな問題です。どんなに家族を愛していても、ある一定のところまではできるがそれから先へ進まない。
世の中でもそうです。人のためにいろんなことを尽くします。しかし、それはあくまでも、自分が損をしない程度、自分が困らない程度のことはするけれども、それまでです。それ以上のことはできない、そこが行き止まりです。それに対して、神様が私たちを愛してくださった愛は、「そのひとり子を賜わったほど」なのです。「わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」。まさに、神様は御自分が人となって、神の位を捨て、この世に来てくださった。そればかりか、罪なき方が罪人とされて、命を捨ててくださった。いうならば、自分を捨ててくださった、ここに愛があるのです。このような愛は神様の愛以外にはないのです。それと似たようなものはほかにもあるでしょうが、神様の愛はイエス様の十字架を通してでなければ表されないのです。
世の中にもいろいろな宗教があり神々がいますが、人をここまで愛する神様はいません。「ヨハネの第一の手紙」4章に「神は愛である」と、神様が愛そのものであると語られています。そしてその愛の本質は何かといいますと、「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない」といいます。
ローマ人への手紙5章6節から8節までを朗読。
6節に「わたしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さったのである」。ここに「弱かったころ」、「不信心な者」、まだイエス様も神様も信じようとしない、自分勝手でわがままな生き方をしていた私たちのために、「時いたって」とあるように、神様が救いのときを定めてひとり子イエス様をこの地上に送ってくださいました。そればかりか、あの十字架に死んでくださったことによって、私たちを愛してくださいました。さらに8節に「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」。私たちを愛するがゆえに、イエス様が罪を赦(ゆる)すあがないの供え物となってくださった。これは、ただ神様による以外にありえない愛です。神様は、私たちを愛してくださって、滅ぶべき罪の塊である者をあえて選んで、イエス様の救いに引き入れてくださいました。そして私たちの罪を赦してくださって、ここに「愛がある」というのです。私たちは、今、神様から大きな御愛を受けて、愛の許しの中に今日もあることを知らなければならない。
「ルカによる福音書」7章36節以下に戻りますが、イエス様が一人のパリサイ人の家に食事に招かれています。ところが、その食卓についていたときに、一人の女の人が香油を入れた石膏のつぼを持って来たのです。そして38節に「泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った」。食事の席で、イエス様に一人の女性が近づいて、涙ながらにイエス様の足をぬらした。そして、足を「髪の毛でぬぐう」という、女の人にとって髪の毛は、ある意味で大切なものでしょうが、そんなことをいとわないで、「その足に接吻して」、さらに「香油を塗った」。香油は安いものではない。
そのとき39節に「イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、『もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから』」。ところが、この女の人は不道徳な罪を犯していた女性でした。その当時の社会では「罪の女」と言われたのです。一説には「ヨハネによる福音書」にある姦淫(かんいん)の現場をとらえられた女の人であったといわれていますが、その辺はよくわかりません。いずれにしても、世の人々から非難され、糾弾(きゆうだん)される、罪人とされた女性だった。その人が、イエス様に自分のできる限りのものをささげたのです。イエス様に彼女の思いを表したのです。そのときパリサイ人は、「イエス様が預言者であるなら、この女がどんな人かすぐにわかるはずだ。変な人に近寄られて平気でいるなんて、イエス様はたいした人ではない」と、パリサイ人はイエス様を軽べつした。そのとき、イエス様はちゃんと彼の心を知っていて、シモンに「あなたに言うことがある」と。一つの例えをお話しになりました。金貸しが二人の人にお金を貸した。一人は五百デナリ、もうひとりは五十デナリ。ところが二人とも返すことができないので、その人は許してやった。その結果、どちらの人が彼を多く愛するだろうか? 実にわかりやすい例えです。パリサイ人のシモンは43節に「多くゆるしてもらったほうだと思います」。それはそうです。どっちがありがたいと思うか? それは大きな五百デナリ、いうなら五百万円の借金をなしにしてもらった人と、五千円をもういいよといわれた人と、どちらの喜びが大きいか。それは皆さん、誰だって五百デナリという大金を「返さなくていい」といわれた人のほうが、感謝感激です。その人に足を向けて寝られないくらいに恩義を感じます。それは当然でしょう。
だから、イエス様は、43節に「あなたの判断は正しい」と。シモンは愚かな人ではな。ちゃんと物事の判断ができる人であった。ところが、44節に「それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、『この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった』」。シモンは、パリサイ人といいますから、恐らく当時の社会では、指導者的な、ある程度世の中で尊敬を受ける人物だったと思います。ましてや、イエス様をあえて食事に招くというのですから、粗末なことをしているわけではない。イエス様に自分の善行を誇りたかったと思います。だから、ここで、イエス様はシモンとこの女の人を比較しています。シモンはイエス様が来ても別に足を洗う水をくれなかった。シモンは、一応イエス様を自分の家に招いたのですが、本当に謙そんな思いで招いたとは思えません。
皆さん、ご存じのようにカナの婚宴で水がめがありました。外から来たお客さんの身を清めるための水がめです。ところが、この時にはその足を洗う水をくれなかったのですから、シモンがイエス様をどこかで、自分よりもさげすんでいたといいますか、話題になっている人物だからひとつうちに呼んで、話のひとつでも聞いてやろうかぐらいです。イエス様を、先生として、預言者として、あるいは救い主としての扱いをしていたのではない。だから、4節にあるように「あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた」。そればかりか45節に「あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった」。「接吻」とは一つの親愛の情を表すその土地の習慣だと思います。日本人はそんなことをしませんが、でも日本人でも親しい人に久しぶりに会ったら、手を握って、ああよく来たねとやるでしょう。友達と何十年ぶりで幼なじみと会ったら、手を握ってよく来たね、というではありませんか。このとき、シモンはイエス様にそれほど親しみを覚えていない。足を洗う水も出さないくらいですから、その辺に座ってくださいというくらいの気持ち。先生どうぞと、イエス様をたいへんに尊敬していたわけではない。
ところが、この女の人はそうではなかった。彼女は、涙で足を洗って、髪でふき、そして接吻して本当にイエス様に対して親愛の情どころか、一切をささげたのです。香油を塗ってイエス様を愛している。47節に「それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。まず、この女の人はどうしてそんなにまでイエス様を愛しているのか。それは、この女の人がイエス様からどんなに大きな罪を赦されたかということを知っていたのです。シモンがいうように、「この人は罪の女である」。恐らく彼女は自分が世間から嫌われ、多くの人々から罪人だと、後ろ指を指される自分であることを知っていました。そして、そこからなんとか変わりたいと願っていたことでしょう。しかし、どうしてもできなかった彼女に対して、イエス様が赦してくださった。イエス様の大きな御愛に感謝し、感じたのです。そしてなんとしても、イエス様のためにと自分のありったけのものを持って、応えているのです。
47節に不思議な言い方をしています。「この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされている」とあります。多く愛したから・・・罪はゆるされるのだろうか? え!ちょっと違うのではないだろうか。多く赦されたから多くを愛しているのではないだろうかと思います。確かにイエス様は、先ほどの「ローマ人への手紙」5章にありましたように、私たちが「弱かったころ、不信心な者であった時、罪人であった時」に、イエス様のほうが、まず私たちを愛してくださいました。私たちを愛して、罪を赦してくださったとあります。ところが、ここでは逆にこの女の人が多くを愛したから、多くの罪が赦されたと言っています。これは非常に大切なことですが、イエス様の愛、神様の愛を、私たちがどれ程愛されているかを、本当に受け止めるのは自分の身をイエス様にささげるとき、初めてその愛が完成するのです。イエス様から愛されていることを知っているだけでは駄目です。それを知った私たちが、では、イエス様にどれ程自分をささげるか、イエス様が私たちをこんなに愛してくださったから、私も主よ、あなたのためにと、全身全霊をもって応えていくとき、イエス様が愛してくださった御愛の深さ、大きさを、自分のものとしてしっかりと握ることができる。イエス様が二千年前にあの十字架にかかって私の罪を赦してくださったことを知ったとしても、もしそれに応答して、そのことを感謝して、そのことを真剣に自分のためであったと認めて、イエス様に仕えて、ご愛に応答する。イエス様の喜ばれるところに、この女の人のように多く愛していくときに、私たちもイエス様の御愛を具体的に体験することが出来ます。確かにそうだと思います。神様が限りなき愛をもって愛してくださっていますと、口で言うのはたやすいことです。それを自分のものとして、どれだけ大きくイエス様の御愛を自分に取り込んでいくかは、その御愛にどれだけ応えるかかっている。
十字架に「事畢(をは)りぬ」と一切の私たちの罪を赦してくださった。私たちは今神様から赦されて生きているのです。その赦された喜びを味わうには、私たちが多くの人を許し愛するときに具体化してきます。それがない限り、あくまでも、そこで止まってしまう。神様が与えてくださった御愛を自分のものとして取り込んでいくには、イエス様の御愛を信じて具体的な生活の中で主の御愛に応えて歩んだところだけが、実は私たちのものになるのです。
この女の人は、イエス様が愛してくださったことを知っていましたから、そのイエス様の御愛をもっと実感するといいますか、具体的に自分のものとして受け止めるために、イエス様の所に来て涙を流して足をぬらし、髪の毛で足をぬぐい、香油を注いだのです。だからイエス様は「この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされている」。これは、まさに、真理です。神様は私たちを愛してくださいました。ただ、主の御愛をどれほど具体的に自分のものとして受け止めたかどうかは私たちにかかっている。
ヨハネの第一の手紙3章16、17節を朗読。
16節に「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った」とあります。確かにそうです。ここまでは本当にそうです、感謝です、と言います。私どものために命を捨てたことによって、神様がどんなに愛してくださるかを知ります。その後に「それゆえに」とあるでしょう。「それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである」。この「兄弟のためにいのちを捨てるべきである」と言われると、道徳的な行為、具体的な何かを強制されているように思われるかもしれませんが、そうではありません。神様がこんな限りなき愛をもって、命を捨てて愛してくださったことを知ったなら、それをもう一度自分のものにするために、その御愛に応えてどれ程人を愛するかにかかってくる。自分がどれ程許されたかを知るならば、多くの人を許さなければおれない。私たちが許せば、その許した分だけ、神様から愛されている自分であることを知り、神様の御愛を自分のものとすることができる。ですから、16節の言葉の半分だけでは神様の御愛を半分しか知らないのです。
だから、「ルカによる福音書」に戻りますが、47節に「この女は多く愛したから」、この女の人がイエス様を愛した愛は、その前にイエス様が愛してくださったことを知っていたから、だからイエス様を愛したのです。それに対して、イエス様は「その罪はゆるされている」と言われました。しかもその後に「少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」とあります。神様が私を愛してくださったと感謝感激しますが、それだけで終わっているかぎり、そこで止まってしまう。それでは自分のものにならない。今度は御愛を信じて、この女の人のようにイエス様のために自分を捨てるのです。イエス様がこんなに愛してくださったのだから、主のために自分を捨てていく。先ほどの「ヨハネの第一の手紙」に「兄弟のためにいのちを捨てる」と、「兄弟のため」とはイエス様のためにです。イエス様がそんなに愛してくださったからこそ、私たちも「兄弟のためにいのちを捨てる」。
その動機が、イエス様の御愛、イエス様が命を捨てて許してくださったことに絶えず立っていなければ、神様の御愛を具体的に味わうことができません。いうならば陣取り合戦です。神様が注いでくださった限りない大きな御愛を、どれだけたくさん自分のものとしていくか。これが地上での歩みです。信仰によってキリストの御愛に応答していく生涯は、神様の御愛を自分のものとして取り込んでいくことです。それには、イエス様がそうしてくださったように、私たちもまた、「その兄弟のためにいのちを捨てる」。それは人のためにするのではなくて、実は心の奥にイエス様がどんなに愛してくださったかを味わい知るためです。神様の御愛を自分のものとして受け止めるために大切なのはここです。
このとき女の人がイエス様のところに来て、涙を流し、香油を塗り、髪の毛でぬぐい、接吻してやまない。彼女はイエス様のためならば命でも何でも、どんなものでも捨てる覚悟があった。それ故にこそ、この女の人はイエス様の御愛を自分のものとすることができた。今この女の人と同じように、罪の者であり、罪の女である私たちが、主の十字架の御愛を私たちのものとするために、私たちもまたその友のために命を捨てる。それはイエス様のためです。イエス様の御愛に応答して初めて愛が完成されます。そうでない限り、いつまでも絵に書いた神様の全き御愛を眺めているだけです。それを自分のものとしていこうではありませんか。具体的な生活の一つ一つの事柄で、自分を主にささげる。私たちが主を愛して、主の御愛にどれだけ自分をささげるか。それによって、主の御愛の大きさ、深さ、長さ、高さを味わい知ることができ、ご愛を本当に確信する、あるいは自分のものとする。
47節に「この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである」。「この女」とは誰でもない私たちのことです。イエス様にすべてをささげて、主の御愛に応えていくとき、その応えた分だけ、神様に愛されていることを確かなこととして、味わい知ることができます。そして、「その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。大きな御愛をしっかりと自分のものとして受け止めたいと思います。
ご一緒にお祈りをいたしましょう。