いこいのみぎわ

主は我が牧者なり われ乏しきことあらじ

聖書からのメッセージ(74)「沖へこぎだせ」

2013年12月04日 | 聖書からのメッセージ
ルカによる福音書5章1節から11節までを朗読。

4,5節に「話がすむと、シモンに『沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい』と言われた。5 シモンは答えて言った、『先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう』」とあります。
この記事は、イエス様が、ガリラヤ湖の岸辺で、集まって来た多くの人々に、神様の福音について、恵みについてお話をなさったときのことです。そこで神様の御思い、私たちがどのように神様に従うべきであるかを、詳しくお話しになりました。「マタイによる福音書」などにも書いてありますが、実は、そのお話しをなさったのが、このガリラヤ湖、ゲネサレ湖畔とも言いますが、この湖の岸辺でした。このとき、たくさんの人々がイエス様のお話を聞こうとしてやって参りました。今のようにドーム球場があるわけではないし、広場があるわけでもありません。ただ、湖が下の方にあって、その岸がなだらかな斜面になっているようなところ。私は行ったことがありませんが、そのような話を聞いています。すり鉢状になっているときは、上の方から下に向かって話すよりは、下から上に向かって話すのが一番声が届きます。そのころ、スピーカーや拡声器があったわけではないから、イエス様は生の声で話す以外にない。一番下の所は水際ですが、人が押し寄せて来たら、イエス様との距離がなくなりますので、イエス様が考えたのが、船に乗って話をすることです。ちょうど、そこに二そうの小船が寄せてあった。漁師たちが夜通し漁をして、帰ってきて、道具を納めている、仕事納めをしているところでした。そこへイエス様が来られて、後にシモン・ペテロと言われる、シモンの船に頼んだのです。実はシモンとは初対面ではありません。ちょっと読んでおきたいと思います。

ルカによる福音書4章38,39節を朗読。

イエス様がいつものように会堂に参りまして、神様にお祈りをし、また、そこでお話もなさったのでしょう。それが終わって、どういう関係であるかわかりませんが、ペテロの家に招かれています。行きましたところ、ペテロのしゅうとめが病気になって高熱で休んでいる。皆が、お祈りをしてやってくださいと言いまして、イエス様は枕元でお祈りをしたのです。そうしましたら、熱が一気に消えて元気になりました。そればかりでなく、イエス様をもてなしているのです。

その後、ガリラヤ湖畔に参りましたときに、人がたくさん集まって来た。さぁ、どうしようかと、イエス様が思ったときに、ふと見ると、何日か前に家族の病気を癒してあげたシモンが船で仕事仕舞いをしている。近づいて行って、シモンに「乗せてくれ」と言ったのです。これはもう断れません。義理のお母さんを癒してもらったのですから。シモンはイエス様を乗せました。なぜなら、一晩中漁をして疲れているので、これ以上イエス様に付き合うことは、恐らく義理がなかったらしなかったと思います。「もう仕事が終わったのです。今から船を出すのは嫌ですよ」と言われたらおしまいです。イエス様は目を留めたら、ちゃんとそれを逃がさない。シモンの家に行ったとき、シモンを見ていたのです。それで、シモンの家に行って、おしゅうとめさんを癒してあげました。まぁ、恩を売っておいたのです。聖書の記事を読んでいますと、思いがけないところでつながりがあります。神様のなさることは、そのような深い、思いがけない関連があるのです。将棋でよく先を読むというでしょう。先を見て、今ひとつコマを打ちます。そんな所に打ってどうするのだ、なんの役にも立たないと思っていたら、回りまわってゲームが進んできたら、エッ!こいつがあったために!ということになります。神様のなさることは実に奥深い。そしてすべてのものをきちっとご支配しているのです。私たちの計り知れない神様の大きな出来事の中の一コマとして今日があり、そして今があるのです。

船に乗って、少し岸を離れた所から、そこにいる人々にお話をなさった。恐らくペテロは聞きたくもなかったと思いますが、仕方がない。船に乗っていますから逃げ出すわけにはいかないし、しかもイエス様の足元に座っていると思うのです。ボートを考えてみたらわかると思いますが、何人かしか乗れない小さな船で、イエス様が立ってお話をなさる。ペテロは船を止めて、揺るがないようにいかりを置いて、コントロールしながら、そこで聞くともなしに聞いていました。

イエス様の話を段々と聞いているうちに、恐らく心が変わっていったと思います。イエス様のお話が終わったときに、「シモンに『沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい』」と言われました。沖へこぎ出しなさいと。沖へ出ることは、イエス様が私たちにも求めている事です。毎日の生活は習慣化されて、ひとつのことを繰り返していると、それによって安心になります。だから、こうやって、皆さんが礼拝に来られて座る場所は大体決まるでしょう。時々ほかの人が座っていて、別の所に座ると、居心地が悪いのです。このようなことを、心理学ではポジション・ハビットと言います。自分の居場所をきちっと決めて、同じ場所に座っていると安心する。それは場所ばかりではなくて、生活習慣とか、している事が、朝起きて夜寝るまで、毎日同じペースで、同じことを、同じ時間にすることで安心を得ようとします。だから、食べるものも、大体似たりよったり、特に年を取ってくると、毎日同じ物を食べて安心、珍しい物など、「年だからいらない」となります。食べるものすら大体決まったものを食べると安心です。海外旅行などもってのほかとなります。何を食べさせられるかわからないという不安は避けたい。このような形で日々の生活が固定していく。ある意味では決まってきて、それによって安心しようとします。

ところが、神様に従って生きるとは、神様を信頼して安心を得るように変わるのです。イエス様は、「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる」(ヨハネ14:27)とおっしゃいました。私たちの心に平安が得られるのは、イエス様を信じて、神様に信頼する者と変わることによるのです。ところが、私たちは自分の生活のリズムを守ること、毎日同じことをして、同じものを食べて、そしてできるだけ普段と変わらない、いつも同じことが繰り返されることで安心を得ようとする。だから、それが壊れないように、いろいろな手立てを考える。朝起きて、自分の健康状態をチェックして、これでよし、いつもと同じだ。朝食を食べて、食欲がある、これくらいでいいと、生活の一つ一つのことを決まったようにすることによって安心する。だから、ときに思いがけないこと、考えもしないことが、突然起こったときに、うろたえるのです。え!どうしよう。一体どうなったのだ。どうなるのだろうという不安が、心を襲ってきます。それを何とか避けたいと思って、毎日同じように、同じことをして、同じように……、ということになってしまいます。

イエス様は、ヨハネによる福音書16章に「あなたがたは、この世ではなやみがある」とおっしゃいます。悩みとは、私たちが握っている安心、平安を壊してくるもの、不安に陥れる事柄、これが悩みです。生きている間、常に私たちが思ったとおり、自分の考えたとおり、毎日決まったとおりということはできない。必ず、とんでもないことが起こって、ガチャガチャとかき回されて、うろたえることがある。そのようなときにも、イエス様を信頼して、お言葉に従っていくとき、聖書の言葉を信じて、思いを委ねていくとき、安心を得ることができるのです。しかし、イエス様に委ねて従っていく人生は、ある意味では波乱万丈、決して同じことの繰り返しではありません。

4節にありますように、「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」。これは、イエス様が私たちに毎日求めておられることです。いつも、自分が安心する場所、自分がこれでいいと思うところ、自分が納得できるところ、これで自分は楽だと思えるところにばかり居ては駄目だよと。「沖へこぎ出す」、沖へ出て行ったらどうなるかわからない。これから先何があるかわからない。そして「網をおろして漁をしてみなさい」。沖へ出て、そこで、イエス様がおっしゃるように、「網をおろして」……。

釣りの好きな人が結構いますが、釣りをするのは大変です。船を出すために準備をする。夕方くらいから出かけて行って、夜中の1時2時くらいに帰って来る。全然釣れないこともある。往復の燃料代も掛かる。それでいて、えさも用意する、道具も用意する。そして自分の身の回りの物も用意して、出かけます。帰って来ると、汚れた道具を全部洗って、全部始末するだけでも随分手間と時間が掛かります。出かけるのに1時間、帰って来てから1時間半から2時間くらい、そうやって全部始末をしないと、船も傷んでくる。だから、船の手入れもしなければならない。私はそんな話を聞いて、自分にはできないと思いました。釣りには向かないと思いました。漁師さんは、そのようなことを毎日しているのです。

ところが、イエス様は「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と、いとも簡単におっしゃいます。けれども、シモンとしては、これは大変なことだと思います。しかも、網といっても、金魚すくいをするような小さな網ではない。おそらく数人がかりで水の中へ下ろして、引き上げるときには水を含んでいますから、大変に重たい。それでいて、魚が取れなかったら、完全な無駄骨です。「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」。イエス様は、私たちにそのようにお求めになります。毎日決まったこの生活が壊されないで、明日も続いてくれたら、これで幸せと思っている。しかし、そんなものはいつ壊れるかわからない。いや、必ず壊れるに違いない。その時に、神様のお言葉を信じて、信頼して、神様の御手に自分を委ねていかなければ、安心を得ることができません。どんなことが起こってきても、今ある生活が壊れようと、自分の健康を失うことがあっても、尚、安心しておれるところは、イエス様が私たちと共にいてくださって、イエス様のお言葉に信頼する以外にないのです。イエス様は共にいてくださって、毎日の生活に絶えず「沖へ出て網をおろして漁をしてみなさい」とおっしゃるのです。安心がある、平安だと思っている、満足だと思っている生活を離れて、イエス様のお言葉に従って、沖へ出ていく。

神様はいつもいろいろな問題を与えられます。思いがけないことが起こるとき、ここで沖へこぎ出して網をおろせと、イエス様が言われるときです。普段経験しない出来事や、思いがけない困難、苦しいことに出会ったとき、主が沖へ出よとおっしゃるのです。つい、問題が起こると、引っ込みがちになります。こんなこと、早くなんとか通り過ぎてほしい、この悩みから早く解放してほしいと思います。しかし、イエス様は、そうはおっしゃらない。そのような問題や困難、悩みに遭ったとき、沖へ出なさいと。その問題の中で、喜んで自分を神様のお言葉に信頼して、沖へ出て行くことです。そして網をおろす。言い換えると、そこで求められる困難といいますか、そこでの業を担うことです。イエス様は沖へ出て網をおろせといわれるけれども、それをしたら一体どのような結果になるだろうか、うまくいくだろうか、いかないだろうかと、そのようなことばかりを考えて、踏み出そうとしなければ、驚くべき結果を得ることができません。

この時も4節以下に「話がすむと、シモンに『沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい』と言われた。5 シモンは答えて言った、『先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした』」。イエス様は、いとも簡単に、網をおろせ、と言われるが、シモン・ペテロは、先祖代々、このガリラヤ湖の漁師だったのです。専門家です。そのシモンは、前の晩、一晩中かかって漁をしたけれども何にも取れなかった。現実、目の前に事実があるのです。ところが、イエス様は、「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」とおっしゃいます。私たちはいつもこの二つの事の狭間に落ち込みます。目の前に見えている事柄、あるいは、自分の経験したこと、あるいは、これは明らかに無駄だと思えること、また、苦労を伴うであろうと思う事、いろいろなことが見える。これはできない。こんなことは私にはできない。そう言って、そこを避けようとします。しかし、イエス様は、「沖へこぎ出して」と求められるのです。行ってみてどうなるのだろう。結果はわかりません。イエス様に信頼するというのは、そこなのです。イエス様が、「出よ」とおっしゃいますから、「はい」と従って出て行く。このとき、シモンは、はっきりと「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした」と、自分の経験をちゃんと語っています。それを認めたのです。イエス様、今から出かけて行っても取れるかどうかわかりません。だから、止めておきましょうとも言えます。ところが、ここでシモンは、「しかし、お言葉ですから」と言うのです。イエス様、あなたがそうおっしゃるのですから、沖へ出て網をおろしましょう。そして網をおろしました。

6節に「そしてそのとおりにしたところ」とあります。「そしてそのとおりにした」のです。そうしたとき「おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった」と記されています。大変な大漁になった。たくさんの魚が取れたのです。とうとうシモンの船では載せられなくて、別の船に加勢に来るように応援を頼みました。そして二隻の船にいっぱいに入れて、「そのために、舟が沈みそうになった」。恐らく、シモンは長い漁師の生活の中でこんなことは初めてだったと思います。それまでも大漁だったことはあったでしょう。しかし、これほどのことはなかったと思います。このとき初めて、自分の常識、自分の決まりきった生活の枠といいますか、生活の生き方、それが木っ端みじんに砕かれてしまったのです。自分の考えていることなんて、到底役に立たないことを知りました。

そのあとの8節に「これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です』」。このとき、ペテロはイエス様の前にひざまずいて、「私は罪深いものでありました」と悔い改めました。なぜならば、イエス様のお言葉を聞いて、それを疑っていたのです。結果的には従ったのですが、前の晩、一晩中働いたときに何も取れなかったではないですか。彼は、100%OKで従ったのではないのです。せっかく先生がおっしゃるから、「しかし、お言葉ですから」と。しかし、そこで従ったとき、自分の常識を覆す、あるいは、自分の存在自体すらもあやふやになるような、とんでもない大きな出来事に出会ったのです。それまで、長年、漁師であった自分の誇りがあったでしょう。それをより所にしていたかもしれません。ガリラヤ湖は隅から隅まで何もかも知り尽くして、どこでどのようにしたら魚が取れるかも知っている自分でありながら、前の晩取れなかった。そのような自分が、イエス様のお言葉に従ったとき、常識を覆す、人の思いをひっくり返す事態が起こったのです。これが、「わたしは罪深い者です」と告白していることです。私は何の役にも立たない者、知恵も力も何にもありませんと、告白したのです。

10節に「シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、『恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ』」。このとき、イエス様は、シモンに、「さぁ、もう一つ沖へこぎ出して網をおろしてみなさい」と求めたのです。もちろん、そのような言葉ではありませんが、10節の終わりに「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。イエス様は、実にねんごろにペテロを顧みてくださったのです。「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」。このお言葉が、やがてペテロの生涯を造り変えていく。それはペテロだけではなくて、皆さん、私たち一人一人の生涯を、新しく造り変えて、人を漁(すなど)る者としてくださいます。その後の11節に「そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った」。このとき、ペテロはそれまでの自分の生活の基盤であった、自分の安心があった場所、まさに平安のある場所から沖へこぎ出していく、イエス様に従っていくのです。どうぞ、私どももイエス様に従う者と変えられたいと思います。日々の生活の中で、主が絶えず「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」とおっしゃいます。私どもはいろいろな思いがけない事態や事柄や、困難を引き受けなければならない。何かの犠牲にならなければならない。あるいは、自分の何かを捨てなければならないような問題や事柄の中に置かれます。そうすると、つい、そんなのは嫌だ、そんなことはできない、私はどうなる、と自分の立場を考え、自分を守ろうとします。そうである限り、いつまでも新しくなることはできません。今あるところを離れて、今ある生活を捨てて、そして主が引き受けよ、と言われる、主が求めておられるところに従っていくところに、大きな慰めと望みがわいてくるのです。

マタイによる福音書11章28節から30節までを朗読。

この29節に「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」とおっしゃいます。イエス様は、「あなたがたを休ませてあげよう」とも言われます。うれしいですね。イエス様が、何もかも引き受けてくれて、台所の仕事もしないでいい、買い物もしないでいい、家族の世話もしないでよくなった、と言うのではありません。私たちの休みはどのようにして得られるかと言うと、「わたしのくびきを負うて」と。イエス様と共にその重荷を負うていくのです。イエス様と共に重荷を負うというのは、主の御言葉に従うことです。いろいろな問題の中にあるときに、そこで主の御言葉を握って、網をおろすのです。くびきを負うというのは、ここなのです。先ほど、イエス様がペテロに、「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」とおっしゃいました。ペテロにとっては、そんな苦労すること、疲れること、嫌なことですが、「しかし、お言葉ですから」と、そのお言葉によって重荷を自分に引き受けたのです。そのときに、驚くようなおびただしい魚を与えてくださいました。イエス様は私たちに慰めと休みを与えてくださいます。だから、ここ29節の後半に「そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」。確かに、ペテロは網をおろす肉体的な苦労はあったと思います。筋肉痛になったかもしれない。肩が凝ったかもしれない。その余分な労力を使って、へとへとになったかもしれないけれども、魂は喜びにあふれたのです。彼はイエス様に従う者と変わったのです。これが、私たちにイエス様が与えてくださる安らぎです。

もう一度、「ルカによる福音書」5章11節に「そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った」。「いっさいを捨てて」、しかもここで、「舟を陸に引き上げ」と、廃業するのです。今までその船が彼らの生活を支える命綱だった。それがより所だったのです。しかし、彼らはそのより所を船からイエス様に乗り替えてしまう。これがいのちに生きる道です。そのためにイエス様は、「沖へこぎ出して」とおっしゃいます。皆さんに、今、与えられている問題や、事柄がありますか。嫌だなぁと思うこと、こんなことは避けたいなぁ、苦しいと悲鳴を上げそうな事の中で、そこでもう一度、イエス様のお言葉に従って、くびきを共にしていこうではありませんか。「沖へこぎ出して網をおろしてみなさい」と。労力を使えばいいのです。そうするとき、私たちの人生の場所が船からイエス様に替わっていきます。ペテロの生涯は、そこから新しい生涯に変わりました。

このペテロの生涯はまだまだ波乱が続くきますが、その生涯の始まりは、「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」とのみ言葉が新しいいのちに生きる道だったのです。イエス様は、私たちにも、「見よ、わたしはすべてのものを新しくする」とおっしゃいました。私たちに期待していることがあります。そのために、「沖へこぎ出して、網をおろして漁をしなさい」と。どうぞ、与えられた問題がありますならば、あるいは、これがなければ平安だと思う事柄があるならば、その問題を受けようではありませんか。主が、沖へ出て網をおろせとおっしゃいます。ペテロがそう言ったように「主よ、お言葉ですから」と、主のお言葉に従って歩んでいくとき、神様は驚くような結果を与えてくださるばかりでなくて、それまでこれがなければと思っていたものが、イエス様にお従いする喜びの中に、新しいいのちへと引き入れてくれるのです。今日この所から、主が、私たちに求めていてくださる「沖へこぎ出して」、今いる安住の地を離れて、問題があり、困難があるその所で、網をおろして、主のお言葉に従って、労苦をいとわないでいくとき、そこに神様は結果を与えてくださるばかりでなく、私たちをして新しいいのちにあふれさせてくださいます。

11節後半に「いっさいを捨ててイエスに従った」と、この一言は大きいですね。これによって、ペテロの生涯はガリラヤの一漁師で終わらなかったのです。全世界の多くの人々から聖徒ペテロと呼ばれる者へと変わったのです。ローマに行きましたら、聖ペテロ寺院がバチカンにあります。そこは、ペテロが処刑された場所に立てられた教会だと言われていますが、小さな名もないガリラヤの一漁師であった彼を、そんな人物にまで、神様は変えてくださいました。イエス様はあなたに目を留めて、新しいものに造り変えて、栄光から栄光へと主と同じ姿にしてくださいます。どうぞ、このお言葉に従って、主にお従いする道を選ぼうではありませんか。

ご一緒にお祈りをいたしましよう。