女川を出て、万石浦沿いに石巻へと向かう。
万石浦にも、養殖の浮きがたくさん水面に並んでいる。
万石浦では、津波で多くの養殖稚貝を失ったが、それでも残っていたのが見つかったため、養殖業者で分け合って地場産の養殖も出荷も再開できたという。(水産庁で事例を紹介している)
護岸の整備が急がれるが、応急に大型土嚢が並べられる箇所もある。
万石浦に沿った鉄道(石巻線)は、復旧工事が進められていた。
現在も復旧に向けて、努力中だ。
道なりに進むと、やがて渡波(わたのは)小学校の校舎が見える。
津波で壊れた1階の窓をふさぐように、子ども達の描いた、明るい花の絵が飾られていた。
この校舎は、来年度の末までに修復工事をして、再来年度には再びこの校舎で授業が再開される予定だ。
渡波では、連れ合いの知人が家を再建した。
元の場所が居住可能とされたので、慣れ親しんだ場所を離れず、同じ場所に家を建てたのである。
同じ地で再出発して、地域の再生を見守りたいのだろう。
ちなみに、大福餅は昔、鶉餅(うずらもち)や鶉焼と呼ばれていたが、これを江戸の商人(あきんど)が大きく作って、腹ぶと餅や大ふく餅といって売り出したという。当時は塩味だったそう。
その後、腹太餅や大ふく餅は、また小振りになって砂糖の入った甘い餡になり、それを大福餅と呼ぶようになったという。
(参考:『嬉遊笑覧』喜多村信節(筠庭)著 江戸末期随筆)
文字通り、災害という苦労の後で、再建した家に福がたくさん訪れるようにと願っている。