goo blog サービス終了のお知らせ 

ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

南三陸町から石巻・その9(石巻市渡波):2012年7月の記録

2017-09-23 14:57:42 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

女川を出て、万石浦沿いに石巻へと向かう。

万石浦にも、養殖の浮きがたくさん水面に並んでいる。


万石浦では、津波で多くの養殖稚貝を失ったが、それでも残っていたのが見つかったため、養殖業者で分け合って地場産の養殖も出荷も再開できたという。(水産庁で事例を紹介している)


護岸の整備が急がれるが、応急に大型土嚢が並べられる箇所もある。


万石浦に沿った鉄道(石巻線)は、復旧工事が進められていた。 

現在も復旧に向けて、努力中だ。


道なりに進むと、やがて渡波(わたのは)小学校の校舎が見える。

津波で壊れた1階の窓をふさぐように、子ども達の描いた、明るい花の絵が飾られていた。


この校舎は、来年度の末までに修復工事をして、再来年度には再びこの校舎で授業が再開される予定だ。


渡波では、連れ合いの知人が家を再建した。


元の場所が居住可能とされたので、慣れ親しんだ場所を離れず、同じ場所に家を建てたのである。

同じ地で再出発して、地域の再生を見守りたいのだろう。


7月に、我が家も紅白餅を貰ったが、大福餅で美味しかった。


ちなみに、大福餅は昔、鶉餅(うずらもち)や鶉焼と呼ばれていたが、これを江戸の商人(あきんど)が大きく作って、腹ぶと餅や大ふく餅といって売り出したという。当時は塩味だったそう。


その後、腹太餅や大ふく餅は、また小振りになって砂糖の入った甘い餡になり、それを大福餅と呼ぶようになったという。

(参考:『嬉遊笑覧』喜多村信節(筠庭)著 江戸末期随筆)


文字通り、災害という苦労の後で、再建した家に福がたくさん訪れるようにと願っている。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。