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ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

少しずつ変わる石巻市街:2013年2月19日の記録

2017-09-24 15:13:04 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

かつて、葛西清経が城を構えたという石巻の日和山。

如月の風はさすがに冷たく、市街地にあれども海と川を眼下にした山であることを思い知った。

日和山公園の展望場所に立ち、かじかむ手で写真機を構える。

昨年は、桜の頃にここから海と町を眺めた。


昨年4月と比べて、大きく変わったわけではなく、やはり傷んだ海岸沿いの寒々しい風景が広がる。

(2012年4月日和大橋付近↓:右端の白い建物は石巻私立病院)


(2013年2月↓)


それでも、町全体を一つ一つ良く見ると、少し違っているのが分る。

北上川方面を見ると、対岸の川口町は、工場や魚類冷凍冷蔵庫などの間にいくつか残っていた住宅が無くなっていた。解体が進んだのだ。

(2012年4月:川口町鈴木造船所辺り↓)


(2013年2月19日↓)

 

鈴木造船所の近く、青い囲いと川ふちにある「震災廃棄物仮置き場」だが、前年はまるで造成地のように積まれていたものが、その10か月後には随分減っている。

(2012年4月↓)


(2013年2月19日↓)

 

 

川を左手に右側へ目を移すと、石巻湾に沿った南浜町が見える。今では空き地だらけだ。

昨年残っていた茶色い屋根の2階建てと、青い屋根の3階建ての集合住宅も解体されていた。

(2012年4月↓)


(2013年2月↓)

 

に沿って、長く堤防のように積まれていた町の破片が、今は片付いている。

変わって、護岸のために白い土嚢が積まれているのが見えた。

(2012年4月石巻湾沿い↓)

 

(2013年2月↓)


少しずつ、少しずつ、新たな町へと向かって動いている。


春を待つ雄勝の石に花の菓子:2013年1月の記録

2017-09-24 14:53:26 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

2013年1月27日の仙台は雪景色。

前日の日差しに、だいぶん雪が解けたと思いきや、翌日はまた真白な綿のように雪が敷き詰められていくこの頃。

新たな雪は柔らかい。小さく軽やかな雀も、舞い降りた先の足元が柔らかく、さすがに埋まってしまった。

めんこいめんこい。 


暦は、あと七日もすれば節分で、その翌日に立春を告げるのだが、こちらで野に花が咲くのはもっと先のこと。

雪明りが美しいとはいえ、時々花の彩も恋しくなって春が待ち遠しくなろう。


そんな時に、馴染みの店で季節の花を楽しむ。

ただし、その店は和菓子屋だ。

職人の手業で咲く、小さな甘い花々も心を和ませる。

先日は、凛として力強さや明るさを漂わせる、水仙と寒牡丹を求めた。


この菓子の花々を、より美しく咲かせる器がある。

「雄勝石」の銘々皿だ。


雄勝は、津波で多くを失った町。

あの日、普段は穏やかで美しい雄勝湾が暴れ、町が飲み込まれた。

住む場所も仕事場も、数分で押しつぶされていく恐ろしさ、それを目にした人々の心を思うと、むせぶほど切ない。

(↓2012年7月4日の石巻市雄勝町) 


そこは、海の幸と玄昌石が豊かな町であった。

雄勝の石は、漆黒の美しさが活かされ、昔は硯で有名だった。

今、津波からの再起を目指す中で、雄勝石は硯だけでなく、様々な器としても活用されている。


手にした銘々皿は、黒地に柔らかな光沢があって、縁ふちの割り模様は岬の岩を思わせ、石肌がさざ波のように見える。


そこに花の菓子を乗せると、良く引き立ち、一層鮮やかになった。

雪解けの始まった丘に咲くようだ。


寒牡丹は厳しい寒さを受け止めて咲き、水仙は雪中にも咲き始めて春を知らせる。

被災地で努力する人々の姿も、寒中の花に似る。


菓子の花を乗せ、雄勝の石に宿った春を見ながら思う。

この明るさが、きっと雄勝にも広がっていくようにと。



志津川・残存する物の記憶:9月の記録①

2017-09-23 18:45:14 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

前年10月の訪問から、およそ11ヶ月を経た志津川(南三陸町)は、一見あまり大きな変化は無いが、それでも一つまた一つと変わりつつある。

(2011年10月26日撮影①↓)


(2012年9月6日撮影①↓)


昨年は波にえぐられた町に草もなく、町の破片が高く積みあがっていたのが、今年は緑が茂り、破片もだいぶん少なくなってきている。


(2011年10月②↓)

 

(2012年9月②↓)点灯していないが、新しい信号機が設置されている。


解体を待つ建物もまだ残っているが、今年6月には残っていた志津川病院が、9月には解体されて無くなっていた。


昨年10月の志津川病院は、足元に大きな石が転がっていて、右肩に船が乗りあがっていた。

病院の奥には、サンポート(日用品、食品、食堂を含む商業施設)と、高野会館(冠婚葬祭)も見える。


(2011年10月26日撮影↓)



今年の6月には、乗りあがった船もそのままに病院は残っていたが、大きな石は除かれ、東側から解体が始まっていた。

左端に、シートが掛けられた建物と重機、サンポートの印が見える。


(2012年6月6日撮影↓)


9月には、サンポートも志津川病院も解体されていた。

手前や隣に建物が無くなり、高野会館だけが残っている。


(2012年9月5日撮影↓



津波直後から、町役場の防災対策庁舎は、骨組みだけになって残っていた。

多くの命が犠牲となったことから、地元では解体を望む声が出た一方で、震災遺構として保存したいとの声も出て揺れ動きながら、解体を待っている。


(2011年10月撮影)



防災庁舎では、犠牲になった方が多いが、波をかぶりながら声を掛け合い支え合って、屋上で懸命に手すりにつかまり、生き残った人もいる。


みんなで助かりたかっただろう。

だが、どうにもできないほどの津波が襲ったのだ。生き残った人の心もどれほど痛いか。


当時、記録を撮る仕事を担当していた職員が、津波の状況写真を撮っていた。(南三陸町のホームページで公表されている。)


その記録は、辛い記憶でもある。

それでも、これからを生きる人々とこれからの町のために、津波に襲われながら残存するものは、本当に大切な町の記憶であると思う。


痛みを伴う遺構も、写真も、どれほど大事なことを後世に教えることか。


そこに生きた人々の努力

助かった人々の支えあい

たくさんの喜怒哀楽が日々生み出されていた町があったこと

僅かの間にその町を失ってしまうほどの力を持つ津波のこと


それを私らは、決して忘れてはいけない。


(2012年9月撮影の防災対策庁舎)

 
 

南三陸町から石巻・その9(石巻市渡波):2012年7月の記録

2017-09-23 14:57:42 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

女川を出て、万石浦沿いに石巻へと向かう。

万石浦にも、養殖の浮きがたくさん水面に並んでいる。


万石浦では、津波で多くの養殖稚貝を失ったが、それでも残っていたのが見つかったため、養殖業者で分け合って地場産の養殖も出荷も再開できたという。(水産庁で事例を紹介している)


護岸の整備が急がれるが、応急に大型土嚢が並べられる箇所もある。


万石浦に沿った鉄道(石巻線)は、復旧工事が進められていた。 

現在も復旧に向けて、努力中だ。


道なりに進むと、やがて渡波(わたのは)小学校の校舎が見える。

津波で壊れた1階の窓をふさぐように、子ども達の描いた、明るい花の絵が飾られていた。


この校舎は、来年度の末までに修復工事をして、再来年度には再びこの校舎で授業が再開される予定だ。


渡波では、連れ合いの知人が家を再建した。


元の場所が居住可能とされたので、慣れ親しんだ場所を離れず、同じ場所に家を建てたのである。

同じ地で再出発して、地域の再生を見守りたいのだろう。


7月に、我が家も紅白餅を貰ったが、大福餅で美味しかった。


ちなみに、大福餅は昔、鶉餅(うずらもち)や鶉焼と呼ばれていたが、これを江戸の商人(あきんど)が大きく作って、腹ぶと餅や大ふく餅といって売り出したという。当時は塩味だったそう。


その後、腹太餅や大ふく餅は、また小振りになって砂糖の入った甘い餡になり、それを大福餅と呼ぶようになったという。

(参考:『嬉遊笑覧』喜多村信節(筠庭)著 江戸末期随筆)


文字通り、災害という苦労の後で、再建した家に福がたくさん訪れるようにと願っている。


南三陸町から石巻・その8(女川):2012年7月の記録

2017-09-21 17:54:59 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

以前に訪れたのは、前年の2月末。

その5ヶ月後、震災からは1年と4ヶ月が経っていたが、変化はあったろうか。


2月には、震災による廃棄物がたくさん積まれていた。(2012/2/28撮影↓)


その後、女川の震災がれきは、3月に東京都が受け入れを開始し、運搬された。

おかげで、解体や片づけが進んだように思われる。


広域処理には賛否あり、色んな事を言う人がいる。

けれども、現地に行ってみると、やはり震災がれきを早く移動したい気持ちが分る。


置き場の確保のために、道をふさいでいる場所もあった。(↓2012/2/8)

処理がままならずに置き場が一杯になれば、次の解体や片づけが進まないだろうと察せられる。

そうなると、港の整備や漁業の再開も遠のく。港の町にとって大きな問題だった。


実際、震災で出た町の破片が運ばれて行ったことで、次の片づけが進められ、道路や港の整備も進んでいったように思う。


2月には、旧マリンパル女川や銀行の建物が残っていたが、7月には解体が住み、手前の横倒しになった建物だけが残っていた。

(2月の様子↓ 横倒し建物の左にマリンパル、奥に銀行)

(7月の様子↓)

この横倒しの建物は、江島(えのしま)共済会館という建物だ。


江島会館は、津波の伝承のために残したいという意向と、撤去して欲しいという意向の間で、保存するかどうか迷いながら残されていた。


女川魚市場の仮事務所では、周辺に資材が置かれ、整備が進められる様子。

(2月の仮事務所周辺↓)



(7月の仮事務所周辺↓)


2月には、まだ町の破片があちこちに残っていた港。

仮橋が置かれているようだが、片付けに利用しているのだろうか。

(2月の様子↓)


7月には、橋の先の土地が削られていた。壊れた舗装や礫を片付けたためか、少し地形が変わっている気がする。(↓7月の様子)


2月には、湾岸の舗装は割れてでこぼこになっていた所が多かったが、7月には砂利敷きで平地となっている部分もあった。

護岸の整備も始めている様子だ。