goo blog サービス終了のお知らせ 

ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

南三陸町から石巻・その7(御前湾から女川湾):2012年7月の記録

2017-09-21 17:23:33 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

雄勝石を釉薬にしたという青い器があるが、その焼き物のごとく、綺麗に輝く雄勝湾を眺めながら、湾の南側に沿って進み、女川へと出る。


女川に入ると、カツオとウミネコが迎えてくれた。

看板の装飾だけれど。

さすがに、カツオはウミネコの相手ではないだろうが、何やら物言いたげなウミネコの顔が面白い。

「よう、また来たかい。待ってたぞ。」といったところか。


女川には北と中央と南とに、3つの湾がある。

北は御前(おんまえ)湾わんだ。(ただし、御前湾を含み竹ノ浦の岬の端まで雄勝湾の範囲)


少しばかり丘陵の森の間を行くと、やがて開けて海が見える。

そこが御前湾で、指ヶ浜(さしのはま)漁港があった。 


色々と苦労も多いはずだが、それでも漁港に漁船が戻っているのを見るとほっとする。

生業なりわいを取り戻す一歩を、踏み出せることは大事なことだから。


御前浜おんまえはま海水浴場の辺りは、道端の柵が歪んでいた。


浜辺も荒れている。


岬がいくつかあって、その合間に尾浦や竹浦、桐ヶ崎と漁港があるのを見ながら、曲がりくねった山間の道を進んでいく。

その道路は、所々、崩れて工事中になっていた。 


竹浦漁港辺りから、道は女川湾沿いになる。


雄勝を出てから、通ってきた湾岸の道沿いは、店が無い。

御前湾を過ぎると、木々に囲まれた道が続く。


一段低い所に、仮設住宅が見える箇所がある。

この辺りは、暮らしに必要な物を買うにも難儀だと聞いていたが、実際に通ってみてよく分かった。


嬉しいことに、こうした事情を察して、移動販売として来てくれる人がいるという。

被災地で、必要な物を売りに来てくれるというのはありがたい。

昔は売り歩きが多かったが、こうした形で見直されるのはいい。

人との交流と、信用を大事にした商人の心意気はいいものだ。


崎山公園も過ぎれば、女川港の中心地だった女川浜に近づいていく。


南三陸町から石巻・その6(雄勝町):2012年7月の記録

2017-09-21 17:11:27 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

追波川(北上川)を渡り、しばし山間を進むと、やがて雄勝町に入る。

特産品は、魚介の他、雄勝石とその加工品。

町の入り口を示す案内にも、雄勝硯の飾りがあった。


西の硯けん上山じょうさんを背後に、奥まった雄勝湾が漁港を成している。

その雄勝港に沿って、町があった。

・・・はずであった。


流れ込む水は重く、押すのも引くのも物凄いなのだと思い知る。

湾岸にぎっしりと並んでいた家や店が無い。

代わりに、壊れた町の断片や港の物が積まれている。


残っている建物も、酷く傷んでいる。

弓なりの道を行くと、雄勝庁舎が目の前に現れた。 

庁舎入り口には、既に「津波襲来」を伝える碑が建てられていた。


 

敷地内に、仮設の商店が作られている。


壊れた庁舎の中から、鳥の声がした。


イソヒヨドリがいる。

庁舎から雛の声が聞こえ、子育ての真っ最中だった。


生ぎでんだもの。

痛いことも辛いこともあっけど、あれ食いたいとか、おもしぇなぁとか思う時だってあんだよ。

そういう声が、聞こえてくるようだ。



雄勝湾に沿って幾分道を戻り、南側の道を進んでいく。

波打ち際の見える所で、海を見ると、水面の下の石が透けている。

雄勝の海は、何と澄んでいることか。


震災で沈んだ物が多くあるが、この海を守るために、幾度も海底掃除を行っているそうだ。


雄勝湾に沿った、庁舎の対岸の方に来ると、呉壷くれつぼという地区がある。

そこに、支倉六右衛門造船の地という碑があった。


江戸の初期、政宗公は、イスパニア(スペイン)領だったメキシコと交易しようと、イスパニアやローマに使節を派遣する。


そのために西洋式の帆船が造られた。

船の名は、「サン・ファン・バウティスタ」という。

その造船地と伝わるのが、雄勝町だ。


ただし、出航の地は、石巻湾の月浦だとされている。

ということは、雄勝で造船された「サン・ファン・バウティスタ」は、牡鹿半島をぐるりと回って月浦に出た後、使節団を乗せて正式に出航したのかもしれない。


造船の地と言われる場所から、雄勝湾を望む。

湾内には、青い水面に養殖の浮きが映える。雄勝はホタテの養殖が盛んな所。

また、たくさんのホタテが水揚げるよう願っている。


南三陸町から石巻市・その5(新北上大橋付近):2012年7月2日の記録

2017-09-21 16:59:01 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻
追波湾へと流れ込む北上川は、それは見事な葦原を育み、ゆったりとして、人は小さく屈託も溶けて流れるように思う程、広々と満ち足りた光景であった。

だが、あの日の津波は、葦原も、河畔の家や学校も押し潰していった。
新北上大橋が、広大な川の左右を繋ぐ。




この大橋も、津波の力で一部が欠損したのだが、緊急修復された。

大川小学校が、橋の袂に見える。



ここでは、何とかして助かりたかったはずの教師と児童が津波に消えた。

公表されている様々な証言からは、どこへ逃げたら良いか、次にどうするか迷っていた様子が浮かび上がる。

なぜ、判断が遅れたのか、失った命の重さを思えば、口惜しくて考えずにはいられない。


大川小学校は、背後に山があって湾が見えず、前には北上川が洋々と流れている。




おそらく、普段は海を意識しないような場所であったろうと思われる。
この地形では、津波への危機感が薄らぐかもしれない。

とはいえ、教育機関には地域の指導的役割もあり、学校は大切な命を預かる場だからこそ、地域を先導するくらいの意識で、災害対策を練っていて欲しかった。


しかし、災害への対応は学校だけのことではなく、地域全体で取り組む必要がある。


犠牲者を思うと、胸元に何かを当てて押し付けられるかのように苦しくなる。
この人々が、私らに伝えようとしていることや、教えたいことは何だろうか。

それを考えると、誰に何の責任かを重視するのではなく、どうすれば良かったのかを検証し、地域全体で対策を練って欲しいと切に願うのであった。


今、北上川は、ゆったりとして洋々と追波湾へと注ぐ、かつての姿を取り戻しはじめている。



川面に浮かぶように茂る緑が、新たに姿を現していたのだ。

それは、生きることの輝きを、私らに伝えているように思う。

再生することは、失った者への感謝や敬意や、努力に報いることだと、教えてくれている気がする。

 
 

南三陸町から石巻市・その4(北上川河口):2012年7月2日の記録

2017-09-18 17:10:36 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

追波湾沿いの道を進むと、漁船が多く出ている漁港が見えた。大室漁港である。

何と美しい風景だろう。港から小島が見えるのも風情がある。


大室では、神楽の伝承がなされているそうだ。津波直後も、皆が同じ苦境に立ったからこそ、「やるのだ」という意欲を失わなかったという。


大室漁港を過ぎると、白浜漁港を通り、次第に河口へと近づいていく。


北上町には、追波湾に流れ込む大きな川がある。

もとは北上川支流の追波川だった。


明治に北上川の安定を図って、河口を二つに分散させるように工事し、本流を追波川に合流させたため、今はこの追波川が北上川となっている。


一方は石巻市街地を通って石巻湾へ、もう一方は北上町の追波川へと合流させて追波湾へと流れ込んでいるのだ。


長塩谷や立神の辺りは、海と川の境目で、波と川の流れが交じり合う様子も見える。


この辺りは、河口沿いに津波で壊れた車が積み上げられたり、土嚢が置かれていたりする。

 

道路が水際に近く、傷みが酷いので護岸と共に工事中で、少し陸地側を通行するように道路が整備されていた。


その道を進むと、吉浜小学校の前を通る。

(最上階まで空っぽで、上まで浸水したことが分る)


3・11津波の時、校内に残っていた児童と職員合わせて10名は、屋上に逃げて何とか助かった。

しかし、近くにあって避難所となっていた北上支所の庁舎で、児童を含む多くの方が犠牲になっている。


そこから先は、樋門や水門も破壊され、改修が必要な箇所が目につく。

(月浜第二水門)


この辺りの道路も、被災直後は堤防の決壊で分断されていたが、緊急復旧工事が進められて今では通行可能になっている。



月浜第一水門に差し掛かる。

震災時には水門は閉じたそうだが、道が傷んで周辺も荒れており、津波が水門を越えていったのが窺える。

被害の酷かった地域だが、国土交通省などの情報を見ると、余震の多発する中、震災の3日後には工事に着手していた。


必要な道を確保し、安全な道への整備と、河川施設の復旧や海岸保全など、日々努力が続いている。

土木作業に当たられる方々の尽力に感謝だ。


南三陸町から石巻市・その3(追波湾に沿う十三浜):2012年7月2日の記録

2017-09-18 14:59:29 | 東北被災地の歩み:南三陸・石巻

道は、志津川から石巻市北上町に入り追波湾(おっぱわん)沿いへと移る。


追波湾も、北東の岬から北上川(追波川)の河口まで、小滝、大指(おおざし)、小指(こさし)、相川、小泊、大室と小室、白浜と漁港が点在していた。

         


この地域を「十三浜」といい、地図を辿ると、その名の通り十三の集落がある。

(上記八つの漁港の他、追波、吉浜、月浜、立神(たてがみ)、長塩谷(ながしおや))
 
(参考:みやぎ地図百科/NGOパルシック)



小指辺りから、道が海に近いため、所々で端が崩れているのを目にする。
隧道(ずいどう:トンネル)を抜けると、海が直ぐそこだった。


相川漁港が見える。




この辺りは、岸に歪みがあったり、砂利が多かったりして傷みが激しい。

道路の舗装が剥がれているばかりでなく、国道が途切れていた。




分断されたのは相川沢川を渡る部分で、迂回路があったので、そちらを通る。







その脇にあったのが、相川小学校だ。
崩れた赤い屋根の建物がのしかかり、枠ごと壊れた窓に歪んだ手すりなど、酷く痛んでいて全体が波をかぶったとみられ、津波の凄さを思わせる。




学校の裏手に山があり、そこへ逃げて助かったという。

(参考:大川小学校事故検証「事実情報に関するとりまとめ」
    /東京都教育委員会 被災地視察報告書)

恐ろしい津波が去り、片づけが進められた十三浜は、青釉の皿のごとき穏やかな海が、傷を和らげている。





三陸の海は、海藻や魚介をもたらし、爽快で見事な景色を作り出している。

海は、自然の理のままに動き、到底人の力の及ばぬ度量の持ち主だ。
そして海は、時に人を怖がらせるが、それ以上に様々な贈り物をくれる存在である。



そういえば、志津川と北上町の境には、昔話が伝わる岬がある。

「神割崎(かみわりざき)」という岬だ。



藩政時代のこと、その浜に鯨が打ち上げられたが、丁度村の境界だったため、鯨がどちらの物かでもめたところ、落雷で岬が2つに割れたという。

人々は驚嘆し、神のお裁きだと思い、鯨を仲良く分けて境界もここに定めたと伝わっている。

(参考:南三陸町観光協会/石巻市役所)


この日は寄らなかったが、名勝と讃えられる所なので、また行ってみたいと思う。 

しかも神割崎は、年に2回、岩の割れ目を通って朝日が昇るのを見られることで有名だ。(2月中旬と10月下旬、どちらも1週間程とのこと)

神割崎では、早朝から元気な人ならば、早起きは三文の徳どころか、寿命も延びそうな素晴らしき光景をみられるだろう。