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ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

桜巡り帳5頁目:王子

2019-04-07 18:18:32 | ゆるゆる歩き:自然

狐も花見をしているだろか。

卯月二日は花曇り、桜は満開でひらりひらりと花びらが降りてくる。


王子は若一宮(王子神社)も稲荷社もあり、古来聖地として人々が寄った。

 

王子の飛鳥山が、桜の名所と名高いのは、江戸の頃から。

将軍吉宗が、紀州と繋がりのある王子神社に飛鳥山を寄進し、桜を植えたのが始り。



吉宗公の施策で飛鳥山に桜が植えられ、十数年かけて桜は見事に咲きそろうようになった。

水茶屋も多く建てられ、庶民が花見の宴ができる場として開かれる。

こうして飛鳥山は、桜の名所として今もなお賑わう所となった。

 

 

当地は、すでに平安の頃から聖地であったとされる。


後の鎌倉時代になって、若一王子宮(にゃくいちおうじぐう)と飛鳥山と呼ばれるようになった。

この辺りを安堵していた豊島氏が、熊野から勧請したのが由来とされる。


(熊野の阿須賀神社は、裏山の蓬莱山が御神体。神社と山が隣接したあたり、熊野と王子の神社が似ている。王子神社の御祭神は五柱で、総称を王子大神と呼ぶ。)

 

 


飛鳥山を下りて神社へ向かう途中で、音無川の傍に扇屋がある。

時々立ち寄る店で、関東に来て気に入りの店の一つ。

江戸時代には料理屋だったが、今は名物の卵焼きだけを売っている。



これが絶妙の甘さと食感で、卵の香りと旨味が豊かで見事。

花と共に忘れられぬ名物。

 

 

 

参考:北区岸町二丁目町会「王子神社の歴史」/王子神社御由緒/新宮市観光案内「阿須賀神社」/

北区飛鳥山博物館「飛鳥山碑」/北区飛鳥山博物館だより36「コン吉のへえ~そうなんだ飛鳥山」/

国立国会図書館「錦絵でたのしむ江戸の名所」/

北区飛鳥山博物館 浮世絵ギャラリー「江戸高名会亭尽えどこうめいかいていづくし)」


桜巡り帳4頁目:麹町 番町 市ヶ谷

2019-04-05 20:20:08 | ゆるゆる歩き:町や通り

この辺りも、坂道の多い町だ。

千鳥ヶ淵の西側、五味坂から行人坂や東郷坂を通って市ヶ谷駅へ。


五味坂の上に、滝廉太郎の居住地跡の碑があった。

 

 

この時季、武島羽衣の詩と共に美しき調べが思い浮かぶ。

まさに今相応しい歌、『花』(組曲『四季』の第一曲)は、滝廉太郎の作曲だ。



そこから南側に見える下り坂は、袖摺坂。

昔は、行き交う人の袖が触れるほど狭い道だったという。



ここは、桜の木はないが、歌の情景を思い浮かべる桜巡りの一つに数えた。


さらに、途中で番町文人通りに少し入ってから、行人坂へ出る。


行人坂は法眼坂の一部で、昔、斎藤法眼または宅間法眼の屋敷があったことが名の由来だという。


行人は行者や学僧のことで、法眼は僧の階位だが、仏師の宅間法眼が関係するのだろうか。

しかし、ここは旗本屋敷町で宅間上杉氏もおり、様々に混同した説が出ている気がする。



参考:千代田区「千代田区内の坂」/麹町わがまち情報館「連合町会町域案内」・番町文人通り案内/

大石学『坂の町江戸東京を歩く』/やさしいデジタル地図江戸古地図



 

行人坂を下ると、すぐに次の上り坂になる。

これが東郷坂。

 

東郷坂の脇に、東郷元帥記念公園がある。

その名の通り、東郷平八郎邸があった所。


公園内では子供の遊ぶ傍らに、大きく枝を広げた桜が咲いている。


公園を横目に進むと、靖国通りに出る。

市ヶ谷駅近くのこの通りも、沿道に桜がいっぱいだ。





桜巡り帳3頁目:千鳥ヶ淵

2019-04-01 00:09:25 | ゆるゆる歩き:自然

言わずと知れた、明治期からの桜の名所。

 

 

千鳥ヶ淵の花見は、1881(明治14)年にアーネスト・サトウが、英国公使館前に植えた桜がきっかけだった。

この桜は、1897(明治30)年に東京府(1868~1943:現在は東京都)へ寄贈された。

 

翌1898年、最初の桜の周りに、さらに植樹がなされて桜並木ができる。

この時から、千鳥ヶ淵沿いは桜の名所として親しまれることとなった。

 

 

大正時代に桜はさらに増え、昭和には千鳥ヶ淵緑道が整備され、一層賑わうようになったのである。

 

参考:環境省「千鳥ヶ淵周辺の景観・サクラの特性、現状」/千鳥ヶ淵周辺案内板

 

 


千鳥ヶ淵を、明るく縁取る桜に見とれつつ、足元を見れば、そこにもまた群れる草花が濠を彩る。



斜面に群がる紫の花は、おそらくオオアラセイトウ。

 


道沿いに群がる蔓のついた草花は、おそらくカラスノエンドウ。 


 

 

ボート場付近では、背の高い菜の花もあった。

淡い紅と黄色と紫と、花々がそろって出迎えてくれて楽しい。

 

 

ちなみに、桜の再生保存のために募金活動も行われていた。

僅かばかり募金箱に入れたら、係の方が笑顔で桜模様の飴を下さり恐縮。

 


千鳥ヶ淵緑道の端っこでは、寒芍薬がお辞儀している。



酒宴でなくとも、のんびり歩いての花見もいいものである。

 


桜巡り帳2頁目:乃木坂

2019-03-30 18:20:43 | ゆるゆる歩き:旧跡

萩藩毛利家下屋敷の跡を右手に見て、赤坂方面へと道を進む。

間もなく、道は高くなって下にも通りが見え、陸橋になっていると気付く。

すると目の前に、木立とレンガの建物が見える乃木公園があった。


入り口からすぐ、レンガのアーチの向こうに桜が見える。


アーチをくぐれば、脇にレンガの厩、奥に旧乃木邸があった。

 


乃木希典は、明治の軍人である。

だが、その生き方を見ると、乃木大将は侍というのが相応しく思う。

艱難と忍耐の人生であった。


軍旗を失い、子を失い、部下を失い、自責に耐えて人のために尽くす。

最期は、明治天皇の大喪儀で弔砲と梵鐘の鳴る中、妻と共に殉死した。


アーチから覗いた桜は、棗の隣にある。

旅順の壮絶な戦場の一角に、その棗の親木はあった。


旧乃木邸は窓から中が見え、写真や遺品、自害の部屋も見える。


ぐるりと回って庭に出ると、一角に瘞血之處があった。


庭から脇への出入り口を抜けると、乃木神社がある。


逆境の中で厳格に生きた乃木大将は、痛みを知るゆえに憐憫仁慈の人でもあった。

苦悩深き大将を支え、添い遂げた妻もまた仁慈の人である。


乃木大将と妻の情けを、世の人々が返す形となったのがこの神社だ。

今、乃木邸や社殿に寄り添う桜が咲いている。


参考:港区 旧乃木邸/乃木神社由緒・御祭神事績/国立古文書館アジア歴史資料センター



桜は、じっと耐えて時を待ち、伸びやかに微笑む様に思える。

そして、今を生きる人々と、喜びを共にする。




桜巡り帳1頁目:六本木 けやき坂から龍土町美術館通り

2019-03-28 21:53:54 | ゆるゆる歩き:町や通り

桜の花が街を彩り始め、好天で汗ばむ陽気となった三月末の水曜日、桜巡りを楽しむ。


けやき坂通りの突き当りに、中高層建築に囲まれてひっそり鎮座する小さな神社がある。

その名を桜田神社という。



路地のような参道を入ると、段の上の真正面からそれた所に社殿が見える。



段を上がると、奥には小さな庭があって、見上げる程の桜が周囲の建物を覆い隠すように枝を広げていた。

その枝は、淡く紅をさす白っぽい花をたくさんつけている。


始まりは、治承四年に源頼朝の命により祀られたとされる。

当時は、霞山櫻田明神と称して桜田門外に鎮座していたが、江戸初期に当地に遷座したとのこと。


名の由来は、頼朝が奥州平定の御礼として田地を寄進し、その御神田を囲むように桜を植えたことによるという。


今はささやかな佇まいだが、創建の頃は霞山(霞が関)にてさぞ見事な桜田であったろう。


参考:東京都寺社案内「港区西麻布の神社」/東京都神社庁「港区の神社」/港区『麻布地区の旧町名由来一覧』



そこから北の方へと歩を進める。

六本木通りの道すがら、これまた高層建築の隙間に、美しい枝垂桜と山門が見えた。

 

 

光専寺である。

この寺は、二代将軍秀忠公の御台所、お江の葬儀と法事に従事した。

当地は、お江の火葬地であるという。


参考:麻布地区総合支所 麻布を語る会「麻布未来写真館」/東京都寺社案内「港区の寺院」


さらに、六本木交差点を乃木坂方面へと折れる。

東京ミッドタウン前で、龍土町美術館通りに入った。

通りの中央が桜並木になっている。

 

通りの先は国立新美術館と政策研究院。

 

龍土町美術館通りを戻ると、突き当りが東京ミッドタウン。

 

建築物も見事だが、どこもかしこも桜がきれいであった。