卯月九日、日本橋江戸さくら通りも名残の花、陽光浴びて光る。
百貨店前を通りかかると、今上陛下ご成婚の際の儀装馬車が見えた。
これぞ日本橋の袂にも、残花と遅咲きの桜の微笑み。
卯月九日、日本橋江戸さくら通りも名残の花、陽光浴びて光る。
百貨店前を通りかかると、今上陛下ご成婚の際の儀装馬車が見えた。
これぞ日本橋の袂にも、残花と遅咲きの桜の微笑み。
8年前の今日、諏訪神社に立ち寄っていた。
震災から一か月を過ぎ、桜が咲き始めた頃だった。
当時住んでいた家は、郡山遺跡のすぐ傍で、近くに諏訪神社があった。
ゆえに正月や、どんと祭の時にお参りし、親しみのある場所。
ここの桜も咲いているかと寄ってみた。
すると、鳥居がない。
(2011年4月14日撮影:仙台市太白区郡山 諏訪神社)
震災で倒壊したらしく、そっと脇に置かれていた。
名石の稲井石、別名仙台石で作られた鳥居だった。
今は、新しく朱色の明神鳥居になっている。
さて、段を上ると、大きな桜が我らを迎えてくれた。
降りそそぐような枝垂れの桜が咲き始め、震災の傷を和らげる。
(2011年4月14日撮影:仙台市太白区郡山 諏訪神社の桜)
震災の前年だ。
9年前の今日、金紋両國の看板を掲げた酒店の前を通る。
(2010年4月13日撮影:気仙沼魚町 角星)
唐桑を回って、気仙沼へと出かけた。
この日、唐桑は雨上がりの霧に包まれて幻想的だった。
(2010年4月13日撮影:唐桑 御先神社傍の遊歩道にある八隻曳)
気仙沼の町には趣のある店が並ぶ。
震災後、津波に流されてしまった。
金紋両國の酒店も、二階だけになって流されていた。
(↓2011年12月29日撮影:流され残った角星の二階)
この酒店の屋号は角星。
両國は、陸中(一関)で作り、陸前(気仙沼)で売った酒。
(角星が酒造りを始めた明治の頃、岩手と宮城は陸中と陸前という国だった。よって両国に渡る酒として名付けた。
参考:株式会社角星)
なんとこの店、震災から5年を経て、復元された。
今また、気仙沼の魚町で往時の面影を残し、輝いている。
新しいお札の意匠が発表された。
一万円札が渋沢栄一ということで、昨年訪れた渋沢資料館の思い出を振り返る。
江戸の頃、狐火が見えると有名になった飛鳥山。(北区王子)
大正の頃、ここに渋沢栄一が邸を構えた。
今は渋沢史料館となり、戦災で焼け残った大正期建築の晩香廬と青淵文庫も見られる。
(↓晩香廬(ばんこうろ):2018年9月撮影)
渋沢栄一は、新たな工農商の実業を築き、民間外交にも尽力した人物。
晩香廬(ばんこうろ)は、賓客をもてなす洋風茶室である。
渋沢は、ここでも様々な人々と交流した。
渋沢が、様々な事業で関わった人々との写真が残っている。
その中に、懐かしい顔があった。
「新平さんではないか。」
奥州市水沢の偉人、後藤新平である。
水沢は、伊達政宗の従弟である留守宗利が入って以来、留守家の所領地。
新平は、幕末に留守家に仕え、明治に平民となって胆沢県庁の給仕となった。
そうした少年期だったが、人材発掘に長けた安場保和に見いだされる。
新平は、後に医師から政界にまで身を投じて活躍した。
仕事では挫折もしたが、志は挫けずに貫いた。
終生、公共公益と自治の精神を貫いた人であった。
(↓東京都復興記念館 2018年11月撮影)
この志は、渋沢栄一と共鳴するものであった。
渋沢は、慶喜に仕えた幕臣だが、慶喜の弟と共に留学して帰国後に明治政府の一員となる。
その後、経済界に身を置き、渋沢が志したのは「道徳経済合一」であった。
私益に走らず、公益につながる誠実な商いこそ、永続する事業となって私益にもなる。
後藤新平との出会いは、関東大震災後の救済と復興事業がきっかけであった。
後藤と渋沢は、官民の間柄で、協力して救済と復興事業にあたる。
人々の命を守り豊かな世へと、広い街路や公園を配し、安全と美観を備えた商業都市を目指したのであった。
渋沢は17歳年上で、後藤とは年は違えども、志に相通ずるものがあった。
二人の抱いた公益の志は、今こそ、我々が見直すべき世の在り方への道しるべではなかろうか。
さて、現在も渋沢旧邸内に残る、晩香廬と青淵文庫は、美しい建築物である。
(↓青淵(せいえん)文庫・外観:2018年9月撮影)
渋沢の祝い事の際、渋沢に寄贈されたもので、晩香廬は賓客のもてなし、青淵文庫は書庫として使われていたという。
(↓青淵文庫内部:2018年9月撮影)
何気なく訪ねたのだが、心に残る場所である。
渋沢の生きた時代を、現在の同地に立って、わずかに交錯するひと時であった。
※2018年9月掲載記事再編集
参考:北区王子 渋沢史料館/奥州市水沢 後藤新平記念館/
墨田区 東京都復興記念館/内閣府防災担当「帝都復興の展開」
卯月の三日は、時折強風あれども、青空で陽光温かく、桜は見頃だった。
御成道を北へ、荒川を渡れば川口。
西川口駅から少し西へ行くと、水路に行き当たる。
仙台なら広瀬川が町を貫くが、川口も芝川が町を貫く。
治水のために様々な水路を通して、運輸にも利用した。
そういう風土が、ちょっと似ている町だ。
少し水路に沿って北へ進むと、左手に桜が見えた。
桜の方へ行くと、なんと、見事な並木道であった。
この辺りは、川口と戸田と蕨の三市が接している。
桜並木の道は、戸田と蕨市の遊歩道がつながっていた。
戸田側は「喜沢の桜」、蕨側は「南町桜並木」。
露店も出ており、明るく楽しい。
戦後、急速に町は変わっていく。
昔の風景、自然が失われゆく事を憂い、有志が環境整備に取り組んだ。
この遊歩道も、かつては水路だったが暗渠とし、桜も植え替えられたという。
市民の思いが、桜花爛漫の並木道を作り上げたのだった。
おかげで、春は花、夏は木陰の道で、人々が喜びや楽しみを分かち合える。