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ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
他所で見る東北の足跡や繋がり、町の今昔や輝きを発信。

桜巡り帳7頁目:日本橋

2019-04-19 14:41:56 | ゆるゆる歩き:自然

卯月九日、日本橋江戸さくら通りも名残の花、陽光浴びて光る。

 

 

百貨店前を通りかかると、今上陛下ご成婚の際の儀装馬車が見えた。

 

 

 

これぞ日本橋の袂にも、残花と遅咲きの桜の微笑み。

 

 


あの日のまちかど第19景 太白区郡山

2019-04-14 19:49:53 | ゆるゆる歩き:旧跡

8年前の今日、諏訪神社に立ち寄っていた。

震災から一か月を過ぎ、桜が咲き始めた頃だった。

 

当時住んでいた家は、郡山遺跡のすぐ傍で、近くに諏訪神社があった。

ゆえに正月や、どんと祭の時にお参りし、親しみのある場所。


ここの桜も咲いているかと寄ってみた。

すると、鳥居がない。


(2011年4月14日撮影:仙台市太白区郡山 諏訪神社)


震災で倒壊したらしく、そっと脇に置かれていた。


名石の稲井石、別名仙台石で作られた鳥居だった。

今は、新しく朱色の明神鳥居になっている。


さて、段を上ると、大きな桜が我らを迎えてくれた。

降りそそぐような枝垂れの桜が咲き始め、震災の傷を和らげる。

 

 (2011年4月14日撮影:仙台市太白区郡山 諏訪神社の桜)


あの日のまちかど第18景 気仙沼と唐桑

2019-04-13 19:16:02 | ゆるゆる歩き:町や通り

震災の前年だ。

9年前の今日、金紋両國の看板を掲げた酒店の前を通る。


(2010年4月13日撮影:気仙沼魚町 角星)


唐桑を回って、気仙沼へと出かけた。

この日、唐桑は雨上がりの霧に包まれて幻想的だった。



(2010年4月13日撮影:唐桑 御先神社傍の遊歩道にある八曳)



気仙沼の町には趣のある店が並ぶ。


震災後、津波に流されてしまった。

金紋両國の酒店も、二階だけになって流されていた。

 

(↓2011年12月29日撮影:流され残った角星の二階)


この酒店の屋号は角星。

両國は、陸中(一関)で作り、陸前(気仙沼)で売った酒。

(角星が酒造りを始めた明治の頃、岩手と宮城は陸中と陸前という国だった。よって両国に渡る酒として名付けた。

参考:株式会社角星

 


なんとこの店、震災から5年を経て、復元された。

今また、気仙沼の魚町で往時の面影を残し、輝いている。

 

 


渋沢栄一「道徳経済合一」の志

2019-04-09 11:55:35 | ゆるゆる歩き:博物館など展示施設

新しいお札の意匠が発表された。

一万円札が渋沢栄一ということで、昨年訪れた渋沢資料館の思い出を振り返る。

 


江戸の頃、狐火が見えると有名になった飛鳥山。(北区王子)

大正の頃、ここに渋沢栄一が邸を構えた。

今は渋沢史料館となり、戦災で焼け残った大正期建築の晩香廬と青淵文庫も見られる。

 

(↓晩香廬(ばんこうろ):2018年9月撮影)

 

 

渋沢栄一は、新たな工農商の実業を築き、民間外交にも尽力した人物。

晩香廬(ばんこうろ)は、賓客をもてなす洋風茶室である。

渋沢は、ここでも様々な人々と交流した。

 

渋沢が、様々な事業で関わった人々との写真が残っている。

その中に、懐かしい顔があった。

 

「新平さんではないか。」

 

奥州市水沢の偉人、後藤新平である。

水沢は、伊達政宗の従弟である留守宗利が入って以来、留守家の所領地。

 

新平は、幕末に留守家に仕え、明治に平民となって胆沢県庁の給仕となった。

そうした少年期だったが、人材発掘に長けた安場保和に見いだされる。

 

新平は、後に医師から政界にまで身を投じて活躍した。

仕事では挫折もしたが、志は挫けずに貫いた。

 

終生、公共公益と自治の精神を貫いた人であった。

 

(↓東京都復興記念館 2018年11月撮影)

 


この志は、渋沢栄一と共鳴するものであった。


渋沢は、慶喜に仕えた幕臣だが、慶喜の弟と共に留学して帰国後に明治政府の一員となる。

その後、経済界に身を置き、渋沢が志したのは「道徳経済合一」であった。

 

私益に走らず、公益につながる誠実な商いこそ、永続する事業となって私益にもなる。

 

 

後藤新平との出会いは、関東大震災後の救済と復興事業がきっかけであった。

後藤と渋沢は、官民の間柄で、協力して救済と復興事業にあたる。


人々の命を守り豊かな世へと、広い街路や公園を配し、安全と美観を備えた商業都市を目指したのであった。


渋沢は17歳年上で、後藤とは年は違えども、志に相通ずるものがあった。

二人の抱いた公益の志は、今こそ、我々が見直すべき世の在り方への道しるべではなかろうか。

 


さて、現在も渋沢旧邸内に残る、晩香廬と青淵文庫は、美しい建築物である。

(↓青淵(せいえん)文庫・外観:2018年9月撮影)

 

渋沢の祝い事の際、渋沢に寄贈されたもので、晩香廬は賓客のもてなし、青淵文庫は書庫として使われていたという。


 (↓青淵文庫内部:2018年9月撮影)



何気なく訪ねたのだが、心に残る場所である。

渋沢の生きた時代を、現在の同地に立って、わずかに交錯するひと時であった。

                          ※2018年9月掲載記事再編集

 

 

 

 

 

参考:北区王子 渋沢史料館/奥州市水沢 後藤新平記念館/

   墨田区 東京都復興記念館/内閣府防災担当「帝都復興の展開」


桜巡り帳 6頁目:川口 戸田 蕨

2019-04-08 23:30:33 | ゆるゆる歩き:自然


卯月の三日は、時折強風あれども、青空で陽光温かく、桜は見頃だった。

御成道を北へ、荒川を渡れば川口。

西川口駅から少し西へ行くと、水路に行き当たる。


仙台なら広瀬川が町を貫くが、川口も芝川が町を貫く。

治水のために様々な水路を通して、運輸にも利用した。

そういう風土が、ちょっと似ている町だ。


少し水路に沿って北へ進むと、左手に桜が見えた。

桜の方へ行くと、なんと、見事な並木道であった。



この辺りは、川口と戸田と蕨の三市が接している。


桜並木の道は、戸田と蕨市の遊歩道がつながっていた。

戸田側は「喜沢の桜」、蕨側は「南町桜並木」。



露店も出ており、明るく楽しい。

 

 

 

戦後、急速に町は変わっていく。

昔の風景、自然が失われゆく事を憂い、有志が環境整備に取り組んだ。

この遊歩道も、かつては水路だったが暗渠とし、桜も植え替えられたという。



市民の思いが、桜花爛漫の並木道を作り上げたのだった。

おかげで、春は花、夏は木陰の道で、人々が喜びや楽しみを分かち合える。