安い税金と小さな政府を切望するふきあえずのブログ

安全で暮らしやすい日本をつくりたい
そんな想いを綴っていくブログにしたいと思います

神道とは入れ物。。。中身のない袋は立たない

2023-09-29 02:14:51 | 神道
前回の日記で、どう描くべきか迷い、結局書けなかったことがあります
私は、拙いながらも経験した霊的な体験から、「自分自身が過去世において日本神道に多少の関係のあった魂である」、との自覚があります
その神道好きだった私が実は最近、神道に対して非常に失望しているのです
名前はあえて申し上げませんが、神道には主宰神と呼ばれる存在がおられます
現在の天皇家は、その主宰神の肉体子孫であり末裔という事になっており、だからこそ万世一系で尊いとされ、信仰されています
しかしながら、その信仰が実は「張りぼて」であったことが明らかになり、中身がなかったことが最近明らかにされました

実はかくいう私も、その神道の信仰が「張りぼて」であったという事に納得がいかず、自分なりに勉強したわけです
その結果、「神道の信仰の中身は仏教と儒教であった」という結論に達しました
このあたりのことには異論もあるでしょう、これは私自身の独断の見解であることも確かなのですが
私自身がいま率直に感じていることは、「神道は仏教を受け入れ、仏教の信仰を受け入れることで存続を許された」ということです

前回の日記で、イエス自身がユダヤ人であったにもかかわらず、イエスへの信仰を受け入れなかったユダヤ人と
キリスト教を国教として受け入れたローマ帝国の、その後の明暗について書きましたが
これは今回の日記の伏線であって、本当は、その前回の日記を例に上げながら日本神道の本質を明らかにしたかったのです
結論から言うと、仏教公伝以降、聖徳太子や行基によって広まった仏教によって、日本という国の存続が許されたのではないかと考えられます
なぜかと言いますとね。。。日本神道には、民衆を教化し、道徳や倫理観を植え付けるだけの「中身」がなかったからです
その空っぽだった袋に中身を詰めたのが「仏教」であったわけです

聖徳太子や行基のやったことをよくよく調べてみてください。。。彼らは仏教寺院を数多くつくることで、大衆教化につとめています
確かに、国をまとめるためには神話が必要であり、神道の主宰神の子孫を天皇として、国の中心に据える必要がありました
だから、神仏習合という事が起きたのではないかと、私は今の結論としてそう思っています
アメリカでは建国の父たちが想起した独立宣言によって国を一つにまとめようとしたように、中心となる理念がなければ、国はまとまらないわけです
ですが、実際にアメリカを偉大な国にしたのはWASP、つまり白人のプロテスタントたちでした
ですから、建国後のアメリカ人の倫理観と資本主義の精神を培ったのは、実はプロテスタントの信仰であることがわかります
一方の日本では、天皇を中心に国を一つにまとめるために、日本神話の主宰神を神話の創造神として抱いたわけです
そして中身は仏教を中心とし、大衆教化して国民の道徳心を養っていきました

だんだん、私が何を言いたいのか分かってきた方もいらっしゃると思います
つまり早い話、今の天皇制、神道には、「中身が欠落している」ということなのです
日本の保守の方々は、とても天皇家を尊重されています。。。それは分かるのですが
ただ世界有数の歴史を持つ伝統がある、というだけで尊いというのは、私には理解できないのです
同じことはイギリス王家にも言えることですが、信仰を中心に据えなければ、皇室や王室は存在意義がないのです
問題はその信仰の中身です

本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)と反本地垂迹説(はんほんちすいじゃくせつ)という二つの説を聞いたことがありますでしょうか?
神仏習合、つまり神と仏は本来同じものである、という日本独自の宗教観から発達した二つの説で
本地垂迹説は仏が方便として地上に現した姿が神道の神である。。。という、仏が中心の世界観で、これが本来の説です
反本地垂迹説は神に代わって仏が方便として教えを説いている。。。という、仏より神が偉いとするもので、これは伊勢神道中心の世界観です
反本地垂迹説は、基本的に異端であって、本来は仏の方が中心で、神は仏の名代として地上に姿を現す。。。というのが正しいわけです
なぜなら、神道の神を古事記や日本書紀でお読みになられたら分かると思いますが、非常に下世話で、神らしくない記述が沢山あるからです
これで神を信仰せよ。。。と言われても、きっと教養のある現代人は困惑するのではないでしょうか?
反本地垂迹説をとなえた人は、きっと伊勢神宮にまつられている神道の主宰神に信仰を集めたいと思ってのことでしょうけれども
弟の粗暴さにあきれて、拗(す)ねて岩戸がくれしたような人を神として崇めなさいと言われても、それは現代人に通用する話ではないでしょう

逆に仏教はどうでしょうか?
仏教には、随分と哲学的になって唯物論化してしまったものが沢山ありますが、それでも、いまなお人間の生き方として
学ぶべき教えが沢山あるわけです
ソクラテスやプラトンがイデアの世界(この世を去った魂の世界)を説き、ギリシャ哲学を構築したように
仏教もまた、釈迦はこの世を去った世界を説き、魂の本質からみた人間の本来の生き方を説きました
普遍的な教えとはこういうもので、時代を下っても、仏の教えの本質は変わらず、現代人にも学ぶべきものがたくさん残されているわけです
聖武天皇は仏に帰依(きえ)し、行基に命じて大仏建立を推進しました
これは余談ですが、私が直感で感じるのは、そうして朝廷が仏に帰依したことから、神道はその後の存続を許されたのだと思います
それが霊的世界観から見た、仏教と神道の関係性であり、やはり、仏の教えの下に神道の神々が存在する、と見て良いでしょう
仏教公伝以降、朝廷が仏教を排斥し、異端として迫害していたとしたら。。。。今の神道はなかったと思います。。。率直にそう思います
実は聖徳太子の時代にその(異端排斥の)試みはあったわけで、聖徳太子・蘇我氏の連合軍が物部守屋という有力者に敗北していたら
日本の仏教は排斥の憂き目にあっていたかもしれないのです。。。聖徳太子と物部守屋の戦いは、実は宗教戦争だったのです


ここから下は、分かる方には分かる。。。ということで、分からない方には「なんのこっちゃ」な話になります
ですので、分からない方は完全スルーしてください。。。お願いします

実のところ、前回私が言ったこと。。。「日本人は今後、千年、二千年、それ以降の時代まで、迫害を受ける民族になる可能性がある」
という話は、この上に書いた、仏教と神道の宗教戦争の話や、イエスとピラトとユダヤ人の話と関連があります
日本神道の主宰神は、あろうことか仏を排斥してしまいました
その時代その時代に、いつも普遍的な教えを説く救世主や仏という存在は現れます
その時代には、同時代人は気がつかなくとも、仏や救世主は教えを説いているものなのです
その教えを受け入れ、学ぶ者たちにはその後の繁栄がもたらされ
その教えを拒否し、排斥し、法を説く者をないがしろにする者たちには、その後、重いカルマがのしかかることになります
まだ完全に未来が決まったとは言えないので、確たることは言えないのですが
正直、近い将来、日本人には強烈な反作用が来るであろうと、私は予想しています
それは天罰と言ったものではなく、原因と結果の法則にのっとったものです
だからこそ、その事実を伝える必要があるからこそ、サバイバルしないといけないのだと考えています

今日は意味不明なことを書いています
拙い文章を最後までお読みいただき、ありがとうございました。。。それではまた
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする