(注意) 個人専用 記録資料  

迷い込んだ一般の方は、そのままスルーしてください。
【修正中】

少年院で学んだこと 社会復帰を目前に控えて

2013-06-17 21:24:28 | 日本ニュース(少年関連)

――■■――    ――■■――    ――■■――    ――■■――   ――■■――   


少年院で学んだこと 社会復帰を目前に控えて(前篇)
WEDGE 6月17日(月)12時40分配信
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130617-00010003-wedge-soci


少年院では、少年たちが二度と犯罪に手を染めないように導くため、どのような教育が行われているのか。社会復帰を控えたある少年と、その担当法務教官にインタビューした。

 * * *

 A少年が少年院に入ったのは15歳。すでに両家公認の婚約者がいて身ごもっていた。

 中学時代から解体屋で働き、東日本大震災から4カ月後には被災地に入り瓦礫の撤去作業に加わった。道が失われ、歩くところもない中をひたすら道具を担いで現場に向かった。その荒涼たる景色に「自分がいくら頑張っても何も変わらないんじゃないか」と絶望感を覚えた。片道1時間以上も掛かる道程は、臭気がきつく虫やハエがまとわりついた。「帰りたい……」。心が折れそうになった。けれど左右別々の靴を履いて、失った家族を探している被災者たちを見て胸が痛んだ。「つらいけど、仕事をしているところを見せたい」と思った。

 作業は1週間。被災地では車の中か持って行ったテントに寝泊まりしたが、最終日だけは壊れたホテルに宿泊した。その夜は自衛隊が引いたお風呂に入り、体を休めることができた。

 「仕事をしているときは不良仲間とはつきあっていないんです。充実してたんです。それなのに、ほんの半年くらいで取り返しがつかないほど変わってしまいました」

 と自身の過去を語った。
上級生が良いお手本に 全体の秩序にも繋がる
 社会復帰を間近に控えた少年と法務教官に会うため、5月某日 茨城県の初等・中等少年院「水府学院」を訪れた。

 水府学院では全体が4つの寮に分けられ、各寮約20人が集団生活をしている。そこに5~6名の職員がいくつかの勤務形態に分かれ24時間体制で指導に当たっている。当直のときは、少年たちとはほぼ同じ空間の中で過ごしていることになる。

 さらに隣接する官舎では、緊急時に職員がすぐに駆けつけられる体制が整えられていることも、この仕事の特殊性を表している。

 いったい職員に心の休まる時はあるのだろうか? 

 その疑問を佐藤淳次長にぶつけたところ「あるような、ないような、ですね。でも、これが私たちの仕事ですから」と飾り気のない答えの中にも仕事への気概が溢れていた。

 A少年の担任T法務教官に会う。

 「子どもたちは4人部屋で多い時は5人で共同生活になったりもします。基本的には畳の部屋です。布団を敷いたらぎゅうぎゅうですよ。寝相が悪くて体が当たっちゃうなんてことは当たり前。それでも就寝中は私語は禁止です。多少は話しているんでしょうけど、寝ている時間でも職員が巡回していますからね。各部屋は、部屋割の段階で上級生と下級生を配置して、改善が進んでいる子とそうでもない子をいっしょにします。先輩の姿を見て育つ。それでなんとなく自治が保たれるようになっています」

 少年院を出た後の健全な生活の維持と、促進の観点から、私的でプライベートな内容は固く禁じられている。これに違反すれば規律違反として厳しい措置がとられる。

 こうした規律違反を抑制するため、入ってから1カ月半程度は上級生が指導係として、付きっ切りで集団生活に必要なルールや言葉づかい、態度などを指導する体制をとっている。

 「これは上級生が悪の親玉にならないためでもあるんです。少年院に入って来る子は誰もが認められたいって思っています。我々が認めているか、認めていないかが関心事ですから、認められようと努力します。自分もここを出るときは、上級生のようになっていなければならないという思いから上級生の行動を学ぶんです」

 この上級生が良いお手本になれば双方にメリットが生まれ、水府学院全体の秩序にも繋がっていくという仕組みだ。

 

両親の離婚、不登校、解体の仕事…A少年の背景
 小さいころから両親のケンカを見て育った。その後、両親は離婚。兄弟3人は父親に引き取られたが、両親の離婚以来さびしい思いをし続けた。

 小学生の頃は野球が大好きな少年だった。しかし「結果が全て」と考えていた(もしくは教えられた)A少年は、活躍している周りの人間と自分を比べ、「結果が出せない俺に価値はない」「必要ない人間なんだ」と思い込んだ。

 また、同時に学業の方も遅れがちになり中学1年で「ただ座っているだけ」の状態となり、中学2年で「行く意味がない」と一時不登校になった。再び登校し始めたところ「もう学校へは来ないでくれ」と担任教師に突き放され完全な不登校となる。この時、遊んでいるだけじゃ親に迷惑を掛けるからと母親の紹介で解体屋に働きに行くことになった。

 ここで本稿冒頭に記した解体屋の作業員として、福島県相馬市の被災地に入った。ここで家族を探し歩く人や、過酷な環境の中でも活動する自衛隊を見た。

 その後、学校にはなかった充実感を覚えつつも、ささいなことから仕事に行けなくなった。高校進学後、自分の居場所が欲しいと暴走族に入り、ただの時間つぶしのつもりが次第にエスカレートしていった。ある事件を起して保護観察処分となり、その期間中に再度事件を起して「水府学院」へ。ほんの半年くらいの間に起きた変化である。

 そして中学時代、被災地の瓦礫撤去作業中に見た自衛隊の姿が、いま彼の社会復帰を支える希望になっている。
 写真を拡大

 
 写真を縮小

 
少年院では様々なカリキュラムが組まれ、木工や陶芸などに取り組む時間もある。
「個人別教育目標」の達成に向けて
 ―個人別教育目標については「ルポ・少年院の子どもたち~「気づき」を与える少年院の矯正教育「外の目」の理解の必要性」に記してあります。― http://wedge.ismedia.jp/articles/-/2068

 少年ごとに鑑別所から処遇の方針が伝えられ、それに基づき少年院では「個人別教育目標」が立てられる。

 仮退院、社会復帰へと導くためのプランであり、A少年の場合は、11.5カ月間で以下の3つの教育目標を達成させることになっている。

 A少年の個人別教育目標と導入部分のステップ。(詳細は省略します)

1.「非行に対する抵抗感を高め、非行断絶の決意を固めさせる」
非行少年は共感性が低く、初期段階では被害者のことに触れても理解できないため、非行をすることによって自分にどんなデメリットがあるのか。非行は加害者の家族にとっても悪影響を及ぼすことを学ばせる。段階ごとに小さなステップを上がりながら、被害者のことを理解し、非行が自他に与える影響や害悪について考えさせる。

2.「自己効力感を高め健全な生活思考を身につけさせる」
自己効力感とは、「自分には出来る」という自分自身に対する自信や期待感ということである。非行少年は学校、勉強、部活動など長続きせずに諦めがちである。そこで、与えられた課題や課業に地道に取り組ませ、結果よりも、取り組むこと、継続することの大切さを学ばせる。段階ごとに小さなステップを上がりながら、忍耐力、継続力を養い、困難なことにも主体的に取り組み、周囲に認められる行動ができるよう学ばせる。

3.「父親としての自覚を持たせ堅実な生活設計を具体化させる」
命の大切さや、父親の役割とは何かを考えさせ、父親としての責任感と自覚を持たせる。少年院では様々なカリキュラムが組まれ、木工や陶芸などに取り組む時間もある。

 少年院に入ってから仮退院まで、進級段階に合わせて、それぞれの目標を小さなステップに分け、一つひとつを丹念にクリアさせながら社会に適応させていく。

 ただ、どんな少年も一直線にゴールに向かうことはない。複数の教官が連携し、様々な形でアプローチを繰り返しながら、少年の気づきを促していく。そこにはとても聞き出すことのできないような、人間的な葛藤があることは想像に難くない。

 誤解のないように書いておきたい。

 今回の取材は、管理はされていても、監視された中で行われたわけではない。少年が過度に緊張しないよう一番身近な教官に同席を願って、極力雰囲気を和らげようと当直室の畳の上に胡坐をかいて行われた。


子どもが生まれてからの変化
 当直室に入ってくるなり、A少年は「こんにちは!お久しぶりです」という張りのある声で挨拶をくれた。ラグビー講座や視覚障害者柔道選手の初瀬勇輔さんの講話で会っていたからだ。

 目をキラキラと輝かせた、運動部の高校1~2年生というのが見た目の正直な印象である。

 厳たる生活の中で会話に飢えていたのか、次々に言葉が飛び出した。

 「鑑別所ではずっと一人でした。ここに来て集団生活をするんですが、勝手に話をしたらいけないんですよ。好きにしゃべれないなんて、自分の権利を奪われたような気がして入ったばかりの頃は受け入れることができませんでした」

 意見交換の場でも、当初は自分の考えを一方的に伝えるだけで、周囲との適切なコミュニケーションが取れなかった。A少年自身にここで変わりたいなんていう思いはなく、ただ「出たい」「帰りたい」という反発心にも似た気持ちだけだった。

 しかし、水府学院に来て2カ月後、婚約者に子供が生まれ、頑なな心に変化が訪れた。

 「変わりたいと思ったきっかけは、子どもが生まれるのに立ち会えなかったからです。不安だった。大きなお腹も見てやれなかった。命がけで生んで、それなのに平然と赤ん坊を抱いて面会に来た。一番大切な時期に自分は何もできなかった。だから一日でも早く帰れるような生活を送ろうと思った。それがキッカケです」

 「あとは婚約者から手紙をもらい「頑張れ」って書かれていて心強かった。応援されていると思ったら、ただ帰りたいという思いから、頑張ってから帰りたいと思うようになって、資格を取ったり、勉強できるようになろうと変わっていったんです」

 「それからは周りと打ち解けて、素の自分が出せるようになっていきました」

 以前は「結果が全て」といつも結果だけを求めて、自分をダメ人間だと諦めていたが、今では結果よりも努力することが大切だと知り、努力し続けることに充実感を覚えている。目下漢字検定3級にチャレンジ中で、毎日休まず勉強していること自体が楽しいと思えるようになってきている。

 また、「窮屈な中でもみんなでルールを守って、楽しむことが大切なんだと知りました。たとえばラグビー講座で仲間を応援したり、みんなで笑い合ったりすることも。これが本当の自由なんじゃないかなと思えるようになったんです」とも語っている。

 自身の変化の中でも一番変わったところは、先のことを考え「今」を行動するようになったことだ。以前は今が楽しければそれで良かった。集まって騒いで、そこに安心感があった。周囲から否定されたり、社会から除外されているような視線を感じていたから、同じような仲間といることで安心感を得ていた。「それがみんなといっしょにいた理由でした」と今ではそれが自分の心の弱さだったことに気づいている。

 「今では一人になりたいし、自分と向き合いたい。今なら一人でもいられると思う」。それに非行仲間よりも「子供といっしょに遊びたい」と思うようになっている。

 社会復帰を目前に控えた今の思いを聞いてみた。

 「以前の仲間は地元にいます。彼らは自分を探し求めてくると思います。覚悟の上です。でも来たら『子供がいるから』と断らないとだめ。父親としての自分の責任です。18歳になったら自衛官候補生を受験したい。そのためにいま勉強しているんです。家族を安定して養っていくためには自衛隊だと思っています。これ、水府学院で気づいたんですが、日本は恵まれた国です。海外には貧しい国々がたくさんあって、困っている人たちが大勢います。自分は自衛官になって、そんな国の人たちのために何かしてあげたいと思っています」
T教官のまなざし
 「彼は元々、暴走族に入っていても暴力をふるうような子ではありませんでした。人の役に立ちたいという思いが強い子で、小学生の頃から消防士に憧れていたようです」

 「両親が離婚してさびしい思いをしてきたので、自分が家庭を作ったら子供にはさびしい思いをさせたくないという子なんです。いまでは父親になることの自覚や責任をひしひしと感じています」

 本稿取材にあたって、水府学院の職員の方々には多大なるご協力をいただきました。深く感謝しております。 (後篇につづく)

大元よしき (ライター)

前へ123次へ
3ページ中3ページ目を表示
【関連記事】
少年院で学んだこと 社会復帰を目前に控えて(後篇)
「気付き」を与える少年院の矯正教育 「外の目」の理解の必要性
障害者アスリートが 少年院で伝えたかったこと
過ちを犯した手が人を救う手に 命の大切さを学ぶライフセービング講座

 

――■■――    ――■■――    ――■■――    ――■■――   ――■■――   


コメントを投稿