23年前の今日、1985年5月31日、長女元美が誕生しました。
ものすごいお産でした。産科が混んでいたために、ベットが開いているうちにと急に入院して産むことになりました。「赤ちゃんが、大きくなってもなんだからね。産んじゃおう。」私は、まだまだだと思いながらも、何も知らず、ただドクターのいう言葉に従いました。
「まだまだ全然だ。子宮口がガッチリ閉じている。」とドクターも言っていたのですが…「今はそうして産んじゃうんだね。」と母。後で分かったことですが、ビショップスコアが16点満点中0点だったようです。(ビショップショップスコアというのは、母体がどれだけお産の準備状況になっているか点数で表したものです。)
5月29日朝、母体がまだまだ、お産する状態でないにもかかわらず、入院して産むことになったのです。お産が近づいて入院した人は何もしないか飲み薬かですが、私の場合は、子宮口を人工的に開かせるために、バルーンという風船を子宮に入れる処置をしました。その上に25時間かかる陣痛促進剤の点滴です。小児用で1滴の量が少ないうえ、3秒に1滴とごくごく少量ずつ体の中に落としていくのです。(点滴の中身であるオキシトシンとプロスタグランディンは危険なので現在、併用は禁止されています。)
助産師さんが、産道をやわらかくする注射を失敗して、左腕が膨れてしまいました。そこで点滴を始めてすぐ、側管といって点滴の途中から先ほど失敗した注射をしました。
と、そのとたん!大変な事が起こりました。私は、体中から血が飛び出るような後にも先にも経験した事がないものすごい衝撃におそわれました。「気持ち悪い!!気持ち悪い!!」と叫んで看護師さんのほうにしがみつきそうになりました。すぐ点滴を抜いてくれたと思います。しばらくすると、婦長さんも来ていて、鼻に酸素吸入されているのが分かりました。もうしばらくすると、ベッドの周りをぐるっと看護師さんたちに囲まれて、足元のほうにドクターがいるのが分かりました。何分ぐらい経ったでしょうか。やっと落ち着いて腕を見ると、腕は真っ白で、青い血管がういていました。汗ばんでいるようでもありました。そして、びりびりとしびれていました。足もびりびりと痺れているので、手と同じになっているのかな、とぼやっと思いました。
25時間かけ、3秒に1滴の点滴の輸液が、側管から注射することで何百倍のスピードで私の体に流れ込んできたのです。後に裁判のとき、助産師の学校を卒業して2ヶ月足らずの助産師さんは、学校では陣痛促進剤のことは習わないと証言していました。
子どもの児心音が15分間も測定できなかったと書いてありました。
病棟にいた若いドクターは「何で入院した。この薬は時期が来ていないと使っても駄目なんだよ。」と言っていました。そのまま私は陣痛室に3日いました。陣痛室で10食でたよ。と言ったら驚かれたぐらいです。
いったん家に帰ろうかと言っていたら、破水しました。羊水はかなりの混濁した状態で、胎児の状態の悪さが分かりました。31日その夜21時48分元美は生まれました。というより、無理やりお腹から出されました。
今にして思うと尋常でない陣痛でした。何度も子宮口を押し開けて、助産師さんたちが私のお腹に乗って押し出しました。(その後、長い間お腹に手の痕がついていました。)吸引も何度も何度もしました。やっと生まれました。私はというと、耳鳴りで聞こえない状態です。しゃべろうにも、口をパクパクしているだけで声が全然出ません。立ち上がろうとしたら、全く足に力が入らないで倒れこみそうになりました。看護師さんたちに抱えられて分娩室からベッドに移りました。
分娩は痛いというレベルを超えていました。2年後に次女をお産したとき、4000グラムを超えていたにもかかわらず、楽に生まれてびっくりしました。元美のときの、何百分の一、いえ何千分の一の楽さだと思いました。みんなは、それが普通のお産だよと言います。
ぐったりして生まれてきておっぱいもなかなか飲めないので、元気になるようにと元の字をとって元美と名づけました。
妊娠中何事もなく経過して、29日の朝、入院するときエレベーターの中でドスン、ドスン動いていた元美、あれが元気だった元美を感じた最後になりました。
その後の7・8年の辛さは筆舌に尽くしがたいものがあります。思い出しても涙が出ました。しかし、今はもう泣くことはありませんけどね。
23歳になった元美に、心からおめでとうと、名前に思いを込めたとおり元気に生きてくれていてありがとうと言えます。
「愛する富士市を、愛せる富士市に」小沢映子公式ホームページ
http://www4.tokai.or.jp/ozawa/
ものすごいお産でした。産科が混んでいたために、ベットが開いているうちにと急に入院して産むことになりました。「赤ちゃんが、大きくなってもなんだからね。産んじゃおう。」私は、まだまだだと思いながらも、何も知らず、ただドクターのいう言葉に従いました。
「まだまだ全然だ。子宮口がガッチリ閉じている。」とドクターも言っていたのですが…「今はそうして産んじゃうんだね。」と母。後で分かったことですが、ビショップスコアが16点満点中0点だったようです。(ビショップショップスコアというのは、母体がどれだけお産の準備状況になっているか点数で表したものです。)
5月29日朝、母体がまだまだ、お産する状態でないにもかかわらず、入院して産むことになったのです。お産が近づいて入院した人は何もしないか飲み薬かですが、私の場合は、子宮口を人工的に開かせるために、バルーンという風船を子宮に入れる処置をしました。その上に25時間かかる陣痛促進剤の点滴です。小児用で1滴の量が少ないうえ、3秒に1滴とごくごく少量ずつ体の中に落としていくのです。(点滴の中身であるオキシトシンとプロスタグランディンは危険なので現在、併用は禁止されています。)
助産師さんが、産道をやわらかくする注射を失敗して、左腕が膨れてしまいました。そこで点滴を始めてすぐ、側管といって点滴の途中から先ほど失敗した注射をしました。
と、そのとたん!大変な事が起こりました。私は、体中から血が飛び出るような後にも先にも経験した事がないものすごい衝撃におそわれました。「気持ち悪い!!気持ち悪い!!」と叫んで看護師さんのほうにしがみつきそうになりました。すぐ点滴を抜いてくれたと思います。しばらくすると、婦長さんも来ていて、鼻に酸素吸入されているのが分かりました。もうしばらくすると、ベッドの周りをぐるっと看護師さんたちに囲まれて、足元のほうにドクターがいるのが分かりました。何分ぐらい経ったでしょうか。やっと落ち着いて腕を見ると、腕は真っ白で、青い血管がういていました。汗ばんでいるようでもありました。そして、びりびりとしびれていました。足もびりびりと痺れているので、手と同じになっているのかな、とぼやっと思いました。
25時間かけ、3秒に1滴の点滴の輸液が、側管から注射することで何百倍のスピードで私の体に流れ込んできたのです。後に裁判のとき、助産師の学校を卒業して2ヶ月足らずの助産師さんは、学校では陣痛促進剤のことは習わないと証言していました。
子どもの児心音が15分間も測定できなかったと書いてありました。
病棟にいた若いドクターは「何で入院した。この薬は時期が来ていないと使っても駄目なんだよ。」と言っていました。そのまま私は陣痛室に3日いました。陣痛室で10食でたよ。と言ったら驚かれたぐらいです。
いったん家に帰ろうかと言っていたら、破水しました。羊水はかなりの混濁した状態で、胎児の状態の悪さが分かりました。31日その夜21時48分元美は生まれました。というより、無理やりお腹から出されました。
今にして思うと尋常でない陣痛でした。何度も子宮口を押し開けて、助産師さんたちが私のお腹に乗って押し出しました。(その後、長い間お腹に手の痕がついていました。)吸引も何度も何度もしました。やっと生まれました。私はというと、耳鳴りで聞こえない状態です。しゃべろうにも、口をパクパクしているだけで声が全然出ません。立ち上がろうとしたら、全く足に力が入らないで倒れこみそうになりました。看護師さんたちに抱えられて分娩室からベッドに移りました。
分娩は痛いというレベルを超えていました。2年後に次女をお産したとき、4000グラムを超えていたにもかかわらず、楽に生まれてびっくりしました。元美のときの、何百分の一、いえ何千分の一の楽さだと思いました。みんなは、それが普通のお産だよと言います。
ぐったりして生まれてきておっぱいもなかなか飲めないので、元気になるようにと元の字をとって元美と名づけました。
妊娠中何事もなく経過して、29日の朝、入院するときエレベーターの中でドスン、ドスン動いていた元美、あれが元気だった元美を感じた最後になりました。
その後の7・8年の辛さは筆舌に尽くしがたいものがあります。思い出しても涙が出ました。しかし、今はもう泣くことはありませんけどね。
23歳になった元美に、心からおめでとうと、名前に思いを込めたとおり元気に生きてくれていてありがとうと言えます。
「愛する富士市を、愛せる富士市に」小沢映子公式ホームページ
http://www4.tokai.or.jp/ozawa/
辛い出来事を聞かせていただきビックリです