最近、自殺の報道が増えている。いじめ自殺だなんだといってるのがどうも見てて腹が立ってくるのだ。
最近の報道によれば、文科省のいじめによる自殺の認知数は0件だという。しかし、最近はよく「いじめられたので死にます」という遺書を残して死ぬ子供が後を絶たない。このような遺書があっても、文科省はいじめによる自殺だと認定しないのか、ふざけているという論調だ。
いくらなんでも、こんな遺書があればいじめによる自殺だろう。私も最初はそう思って見ていたのだが、話を聞いているとどうやら理由が分かってきた。
「いじめ」行為があったかどうか、これは聞き取りなどによってある程度特定できるのだろう。しかし、その「いじめ」行為が「自殺」の原因になったのか、つまりいじめ殺したのかというとそれは因果関係において疑問だというのだ。
つまり、いじめたことが原因で、めぐりめぐってその子が自殺したとする。遠因としていじめはあったのだろう。しかしそれが直接の原因かというと、不可避の因果関係があったのかどうかというと、それは難しい。
同じいじめを受けても死ぬ子と死なない子といる。また、普通じゃ死なないようなことでも死んでしまう子もいる。となると、どんな場合においても、結果として自殺をしたら、その原因が全ていじめにあると見てしまうのは問題なのだ。
軽く「オイ」と言っただけで死んでしまった子がいたとしよう。忘れ物をした子に対して「なんで忘れるんだよ」と言っただけでいじめに感じて、死んでしまったとしよう。これが「いじめによる自殺」だとすれば、それはあまりにいじめたとされた側にとっては荷が重くないか。
まずはその行為がどの程度のものか。人権を無視したようなものか、冗談や常識的な範囲の叱責だったのか。まずそれを考えてみなければならない。
でも、そうやって考えていくと、たとえボッコボコに殴られても、服を切り裂かれて放置されても、頭からうんこかけられたとしても、そういうことは犯罪であって、先生なり警察なりに言えば対処してくれるはずだ。これをできない子供の方にも問題はあろう。いや、ここでいう問題とは、いじめられたことに対してのものではなく、その後に対するものだ。
いじめ自体についてはいじめた側が100%悪い。いじめられる側に何らかの問題点があったとしても、能動的な行動に出て良い言われはないのだから、いじめ自体に関してはいじめた側が確実に悪い。しかし、対処の仕方が悪い場合がある。
そのような犯罪行為を甘受する必要はどこにもない。死ぬ必要もない。通報するなり逃げるなりすることは出来たはずだ。学校に行きたくなければいかなくてもいいのである。他に方法があるのに死を選ぶのは本人の勝手であろう。
いじめられたことに対する責任はいじめた側に100%あるが、死んでしまったことについての責任は、死を選んだ側に100%ある。これは確実である。しかし、結果として死んでしまったことで、いじめた側やそれに気づかなかった学校側の責任が重大になると勘違いしている人がいるのは問題である。自殺によって学校側の責任が過重されることは、絶対にあってはならない。
確かにいじめることは異常であって、人間的に問題があるのだが、だからといって命を奪うつもりでやってる人間は殆どおるまい。殺すつもりでいじめるのは殺人もしくは殺人未遂だが、そのような凶悪なものと一緒にしてよいものではない。
さらに、死ねば自分は困難から逃れられるが、残された者はどうなるのか。親がどれだけ悲しむと思うのか。そう考えると自殺とは自分勝手そのものである。
はっきりいって「世の中に死ななきゃならないほどの困難などない」のである。あるとすれば、回復の見込みのない病気で治療が苦痛な場合くらいだ。だいたい、死ななきゃならないほどのことってなんだ?
人間関係?リセットしてしまえ
いじめ?通報するか、やりかえすかしろ
借金?自己破産してしまえ
鬱?病院にいけ
このように、死ななければならないことなどこの世にはない。これらに対処することが出来ないから、死を選ぶのであろう。それはもう、自己責任である。
確認してほしいのは、たとえどんなに苦しくても「死ぬのは本人の自由意志によるもの」であり「自分勝手な行為」だということだ。そもそも自殺は犯罪だ。単に死んだ人が罰せないだけのことだ。自分への同意殺人ということになろう。つまり、自殺は悪いことなのである。
それと問題なのは、自殺した子の親だ。さも学校が悪いかのようにいう。学校など何十人もの子を見ているのだから、お前の子供だけ見てられるかっての。なんで我が子の気持ちを理解してやれないのか。親に相談しやすい環境であれば、死を選ぶ前に親に相談していただろう。親が学校に行かせないこともできたろう。自殺の責任は、いじめた奴以上に親にあると私は思う。なぜ、親がいじめを察知して学校に通報しないのか、いじめた奴を問いつめてその親に文句を言わないのか。改善できないなら別の学校に通わせるなどの対策をしないのか。それらが出来るのは親しかいないというのに。
学校が気づかなかったのが悪いと取り乱して教師や校長を罵倒している映像が流れているが、何を偉そうにしているのかと思う。もしその子がその光景を見ていたら、お前もだろと言ってるだろう。
そして、一部の遺族や支援団体の、これらを美談にしたがる動き。これには反吐すら出る。今朝、報道2001を見ていたら、ジェントルハートという団体の人が出ていた。いじめに関する活動をしているようなのだが、死ぬ前に子供が言った言葉を、素朴なイラストとともに掲げているのだ。なにかの標語みたいでもあるし、ちびギャラリーの作品みたいでもある。自分勝手に死んだ者の発言をこのような素敵な絵にしようと思うのが分からない。それを感動に転化させようとするのも分からない。死を美談にしようとしている動きには、邪悪なものを感じてしまう。偽善とか言うまえに末恐ろしいものを感じてしまう。
自殺は自分勝手な悪行か、もしくは精神状態が異常であったために突発的に起きた事故であって、美談などでは断じてない。
それと、遺書が公開されて、学校やいじめた相手が相当の悪人だったかのように報道されてしまうのも問題だ。仕返し感覚でエキセントリックな遺書を残して死ぬことを助長してしまう。なにより死を美しいものとして、かわいそうかわいそう言うものだから、そう扱われたくて死んで行く者も出てくるだろう。
暴走行為をかっこわるくする目的で暴走族のことを珍走団という動きがあるが、いじめや自殺についても、同様なかっこ悪い名前を付けるべきだ。どちらも自分らが悪いことをしている自覚がないのが一番の原因だろう。
いまの報道では、いじめも自殺者も抑制しているとはとうてい言えない。
名前も知らない、無関係な他人が死んだからといって涙を流せる人は相当の偽善者であろう。他人なんて所詮そんなものである。自分の身内が死んで欲しくないなら、自分で守ってやれ。それが出来なかったことを悔いるのならまだしも、他人のせいにするなど愚の骨頂である。
もし私の身内が自殺したなら、可哀想とか思うまえに、ふざけるなと思う。死ぬ前にできることはいくらでもあるだろうに。そして、それを防げなかった自分を悔いることだろう。原因となった人間がいるなら殺しに行くかもしれないが、それは単なる自己満足に過ぎないことは理解できる。
しかし、かわいそうだの、他の誰かが気づかなかったのがどうだとかみっともない八つ当たりはしない。その事柄に関する感情は、全て自分の責任で片付けるべきである。他人のせいにするなど愚の骨頂である。
ついでに、死ぬとか死にたいとか言っている人と、本当に死んでしまう人は同列ではないことを指摘しておく。
落ち込んでいて、死にたいと言っている人の延長が、本当に死んでしまう人だと思っている人がいるが、そうではない。
死にたい死にたいと殊更に主張する人は、死なないでくれと言われたいから言っている、構って欲しいから言っているだけなのだ。こういう人はたいてい死なない。たまに行動に出ることもあるが、大したことができない。動脈を傷つけずに体を切るか、すぐに切れるヒモで首を吊るか、少々多めに薬を飲むか、酒を一気飲みするかである。
これらの行動は、死ぬ死ぬ言う行為を正当化するためにするポーズであって、本当に死のうとしているわけではない。だから、確実に死ねる事は滅多にしない。事故で本当に死んでしまうこともあるのかもしれないが。
だから、遺書などは殆ど書かないし、書いたとしてもそれはきれい事ばかり書かれていて、死を前に覚悟を決めたものではない場合が多い。悲劇に浸りたいだけなのだ。
ところが、本当に死んでしまった人の周囲の話を聞いていると、普段は明るくてどうとか、そんなそぶりは見せていないとか、そんなのばかりである。話を総合すると、本当に死ぬ人間は、むしろ普段より明るく振る舞って、そのまま死んでしまうもののようだ。まさに突発的なもののようである。
つまり、死ぬ死ぬうるさいやつは死なない。むしろなんからの悩みがあるのに死ぬ死ぬ言わない人の方が危険で、両者は全く別物だというのがわかる。
こういう話をすると身に覚えのある人はいるだろう。ヨーグルを引退する引退するといって結局戻ってきたりする人は私の知る限りでも何人もいるし、むしろ何も言わずに来なくなる人の方が何十倍も多い。こういったところでも、やめるとか死ぬとか言う人は、ゲームや生に固執しているからこそ、それに反したことをいって注目を引こうとしているのだろう。
そして、本当に死んでしまう人というのは、まともな精神状態にない。まあ、ある意味病気なのだろう。落ち込んで死にたいと思うことはだれしもあるとしても、本当に死ぬことまでは考えない。なぜかというと、死は恐いのである。死そのものはそう恐くはないのだろう。誰だってそのうち死ぬのだから、もし死そのものが恐いのなら、毎日恐くて生きていけないだろう。
恐いのは死そのものではなく、それに至る過程であろう。どのような手段であれ、その場からすぱっと消えてなくなれるものではない。飛び降りにしても首つりにしても、踏み出す瞬間の恐怖、死ぬまでの恐怖があろう。薬を飲むにしても同じだろう。楽に死ねる方法などそうはありはしない。それに、さあ死ぬとしてどうすればいいのか考えると、意外と死ぬのって大変だし、遺族のことを考えたりして結局死ぬことは現実的ではないと気づく。だからこそ、そうそう人は死なないのだ。
それを乗り越えて死ぬというのは、侍や軍人が覚悟の自決をするようなものも含めて、通常の精神状態にないことがわかる。非常に強い意志があるか、もしくは逆に感情が不安定になっている場合だ。そのヒステリックな状態に、なんらかのきっかけによって飛び降りたり首を吊ったりするのだろう。これはある意味、防ごうとして防げるものではないのかもしれない。
ただ、そういう周囲が通常ではない精神状態に気づき、原因は何か見定めることが出来るとすれば、それは学校ではなく、親の仕事であろう。だからこそ、親がまず自分の至らなさを悔いるべきであって、学校のせいにするなどというのはお門違いだといえよう。
先ほどの報道2001では、いじめや風紀の乱れを撲滅させるために、一切容赦のない処分を行うアメリカの例をやっていた。暴力行為は即退学だの停学だのというふうに、互いの言い分、言い訳を聞かずに問答無用で処分してしまうのだ。そうなれば、それらの行為について慎重になるだろうという。これは古い日本的な処分なんじゃないかと思うのだが、時代には即さないかもしれない。ただ、徹底できれば確かに物理的ないじめは減るだろう。
ただし、精神的ないじめは増えるはずだ。そして、むしろこちらのほうがいじめられる側にダメージを与えるのだ。そう考えるならば、その施策はある意味でいいとはいえるけども、精神的ないじめに対してどう対処するのかという部分までしっかり対策したうえでなければ、たとえば逆にいじめた側にしたてあげるといういじめが生まれる可能性もあることも想定しなければならない。
いじめ自体をなくすことはまずできないだろう。世の中には訳もなく人を攻撃したがる人というのはいるのだ。それはそうすることでしか自己の存在意義を認められない矮小な人格であるのは疑いない。そう、いじめる側もいじめられる側も普通じゃないのは確かだが、あまりに表面化しづらいので対策もしづらい。あまりにがんじがらめに対策してしまうと、自由な生活に支障を来すであろう。
であれば、できることは、いじめによって自殺したり、心を病む人が出ないよう、そのケア、対策に重点を置くべきであり、それが出来るのは親だけだということを、まず親が自覚して、常に自分の子供の考えに目を光らせておくべきだろう。これもがんじがらめにするということではなく、子供が悩みや問題を相談出来る場所を用意することだ。それが親そのものでも、それ以外でも構わないが、それがあるかどうかの確認くらいは出来るだろう。
人間、逃げ場所が必要なのだ。これさえやってれば楽しくてたまらないことを見つけるとか、愚痴る場所を見つけるとか、普通の人は無意識に発散しているものなのだが、精神の発育途上にある子供にそれを自分でやれというのも酷であろう。
結果として死なれてしまったのならば、その親はその対策が甘かった以外のなにものでもないのだ。まともな親のもとに生まれていれば、その子は死なずに済んだのである。死を選ぶのは自分であったとしても、判断力のない状態であれば周りが保護すべきであり、それを怠った親の責任は重大である。
そういうわけで、私はいじめ自殺の報道や、その時に出てくる親がむかついてたまらないのだ。
*コメントは自由ですが、内容により独断で消すことがあります。おもに根拠のない批判、記名のないもの等がそれに当たりますが、消した理由は表明しません。同意された方のみ、コメントをお願いします。
最近の報道によれば、文科省のいじめによる自殺の認知数は0件だという。しかし、最近はよく「いじめられたので死にます」という遺書を残して死ぬ子供が後を絶たない。このような遺書があっても、文科省はいじめによる自殺だと認定しないのか、ふざけているという論調だ。
いくらなんでも、こんな遺書があればいじめによる自殺だろう。私も最初はそう思って見ていたのだが、話を聞いているとどうやら理由が分かってきた。
「いじめ」行為があったかどうか、これは聞き取りなどによってある程度特定できるのだろう。しかし、その「いじめ」行為が「自殺」の原因になったのか、つまりいじめ殺したのかというとそれは因果関係において疑問だというのだ。
つまり、いじめたことが原因で、めぐりめぐってその子が自殺したとする。遠因としていじめはあったのだろう。しかしそれが直接の原因かというと、不可避の因果関係があったのかどうかというと、それは難しい。
同じいじめを受けても死ぬ子と死なない子といる。また、普通じゃ死なないようなことでも死んでしまう子もいる。となると、どんな場合においても、結果として自殺をしたら、その原因が全ていじめにあると見てしまうのは問題なのだ。
軽く「オイ」と言っただけで死んでしまった子がいたとしよう。忘れ物をした子に対して「なんで忘れるんだよ」と言っただけでいじめに感じて、死んでしまったとしよう。これが「いじめによる自殺」だとすれば、それはあまりにいじめたとされた側にとっては荷が重くないか。
まずはその行為がどの程度のものか。人権を無視したようなものか、冗談や常識的な範囲の叱責だったのか。まずそれを考えてみなければならない。
でも、そうやって考えていくと、たとえボッコボコに殴られても、服を切り裂かれて放置されても、頭からうんこかけられたとしても、そういうことは犯罪であって、先生なり警察なりに言えば対処してくれるはずだ。これをできない子供の方にも問題はあろう。いや、ここでいう問題とは、いじめられたことに対してのものではなく、その後に対するものだ。
いじめ自体についてはいじめた側が100%悪い。いじめられる側に何らかの問題点があったとしても、能動的な行動に出て良い言われはないのだから、いじめ自体に関してはいじめた側が確実に悪い。しかし、対処の仕方が悪い場合がある。
そのような犯罪行為を甘受する必要はどこにもない。死ぬ必要もない。通報するなり逃げるなりすることは出来たはずだ。学校に行きたくなければいかなくてもいいのである。他に方法があるのに死を選ぶのは本人の勝手であろう。
いじめられたことに対する責任はいじめた側に100%あるが、死んでしまったことについての責任は、死を選んだ側に100%ある。これは確実である。しかし、結果として死んでしまったことで、いじめた側やそれに気づかなかった学校側の責任が重大になると勘違いしている人がいるのは問題である。自殺によって学校側の責任が過重されることは、絶対にあってはならない。
確かにいじめることは異常であって、人間的に問題があるのだが、だからといって命を奪うつもりでやってる人間は殆どおるまい。殺すつもりでいじめるのは殺人もしくは殺人未遂だが、そのような凶悪なものと一緒にしてよいものではない。
さらに、死ねば自分は困難から逃れられるが、残された者はどうなるのか。親がどれだけ悲しむと思うのか。そう考えると自殺とは自分勝手そのものである。
はっきりいって「世の中に死ななきゃならないほどの困難などない」のである。あるとすれば、回復の見込みのない病気で治療が苦痛な場合くらいだ。だいたい、死ななきゃならないほどのことってなんだ?
人間関係?リセットしてしまえ
いじめ?通報するか、やりかえすかしろ
借金?自己破産してしまえ
鬱?病院にいけ
このように、死ななければならないことなどこの世にはない。これらに対処することが出来ないから、死を選ぶのであろう。それはもう、自己責任である。
確認してほしいのは、たとえどんなに苦しくても「死ぬのは本人の自由意志によるもの」であり「自分勝手な行為」だということだ。そもそも自殺は犯罪だ。単に死んだ人が罰せないだけのことだ。自分への同意殺人ということになろう。つまり、自殺は悪いことなのである。
それと問題なのは、自殺した子の親だ。さも学校が悪いかのようにいう。学校など何十人もの子を見ているのだから、お前の子供だけ見てられるかっての。なんで我が子の気持ちを理解してやれないのか。親に相談しやすい環境であれば、死を選ぶ前に親に相談していただろう。親が学校に行かせないこともできたろう。自殺の責任は、いじめた奴以上に親にあると私は思う。なぜ、親がいじめを察知して学校に通報しないのか、いじめた奴を問いつめてその親に文句を言わないのか。改善できないなら別の学校に通わせるなどの対策をしないのか。それらが出来るのは親しかいないというのに。
学校が気づかなかったのが悪いと取り乱して教師や校長を罵倒している映像が流れているが、何を偉そうにしているのかと思う。もしその子がその光景を見ていたら、お前もだろと言ってるだろう。
そして、一部の遺族や支援団体の、これらを美談にしたがる動き。これには反吐すら出る。今朝、報道2001を見ていたら、ジェントルハートという団体の人が出ていた。いじめに関する活動をしているようなのだが、死ぬ前に子供が言った言葉を、素朴なイラストとともに掲げているのだ。なにかの標語みたいでもあるし、ちびギャラリーの作品みたいでもある。自分勝手に死んだ者の発言をこのような素敵な絵にしようと思うのが分からない。それを感動に転化させようとするのも分からない。死を美談にしようとしている動きには、邪悪なものを感じてしまう。偽善とか言うまえに末恐ろしいものを感じてしまう。
自殺は自分勝手な悪行か、もしくは精神状態が異常であったために突発的に起きた事故であって、美談などでは断じてない。
それと、遺書が公開されて、学校やいじめた相手が相当の悪人だったかのように報道されてしまうのも問題だ。仕返し感覚でエキセントリックな遺書を残して死ぬことを助長してしまう。なにより死を美しいものとして、かわいそうかわいそう言うものだから、そう扱われたくて死んで行く者も出てくるだろう。
暴走行為をかっこわるくする目的で暴走族のことを珍走団という動きがあるが、いじめや自殺についても、同様なかっこ悪い名前を付けるべきだ。どちらも自分らが悪いことをしている自覚がないのが一番の原因だろう。
いまの報道では、いじめも自殺者も抑制しているとはとうてい言えない。
名前も知らない、無関係な他人が死んだからといって涙を流せる人は相当の偽善者であろう。他人なんて所詮そんなものである。自分の身内が死んで欲しくないなら、自分で守ってやれ。それが出来なかったことを悔いるのならまだしも、他人のせいにするなど愚の骨頂である。
もし私の身内が自殺したなら、可哀想とか思うまえに、ふざけるなと思う。死ぬ前にできることはいくらでもあるだろうに。そして、それを防げなかった自分を悔いることだろう。原因となった人間がいるなら殺しに行くかもしれないが、それは単なる自己満足に過ぎないことは理解できる。
しかし、かわいそうだの、他の誰かが気づかなかったのがどうだとかみっともない八つ当たりはしない。その事柄に関する感情は、全て自分の責任で片付けるべきである。他人のせいにするなど愚の骨頂である。
ついでに、死ぬとか死にたいとか言っている人と、本当に死んでしまう人は同列ではないことを指摘しておく。
落ち込んでいて、死にたいと言っている人の延長が、本当に死んでしまう人だと思っている人がいるが、そうではない。
死にたい死にたいと殊更に主張する人は、死なないでくれと言われたいから言っている、構って欲しいから言っているだけなのだ。こういう人はたいてい死なない。たまに行動に出ることもあるが、大したことができない。動脈を傷つけずに体を切るか、すぐに切れるヒモで首を吊るか、少々多めに薬を飲むか、酒を一気飲みするかである。
これらの行動は、死ぬ死ぬ言う行為を正当化するためにするポーズであって、本当に死のうとしているわけではない。だから、確実に死ねる事は滅多にしない。事故で本当に死んでしまうこともあるのかもしれないが。
だから、遺書などは殆ど書かないし、書いたとしてもそれはきれい事ばかり書かれていて、死を前に覚悟を決めたものではない場合が多い。悲劇に浸りたいだけなのだ。
ところが、本当に死んでしまった人の周囲の話を聞いていると、普段は明るくてどうとか、そんなそぶりは見せていないとか、そんなのばかりである。話を総合すると、本当に死ぬ人間は、むしろ普段より明るく振る舞って、そのまま死んでしまうもののようだ。まさに突発的なもののようである。
つまり、死ぬ死ぬうるさいやつは死なない。むしろなんからの悩みがあるのに死ぬ死ぬ言わない人の方が危険で、両者は全く別物だというのがわかる。
こういう話をすると身に覚えのある人はいるだろう。ヨーグルを引退する引退するといって結局戻ってきたりする人は私の知る限りでも何人もいるし、むしろ何も言わずに来なくなる人の方が何十倍も多い。こういったところでも、やめるとか死ぬとか言う人は、ゲームや生に固執しているからこそ、それに反したことをいって注目を引こうとしているのだろう。
そして、本当に死んでしまう人というのは、まともな精神状態にない。まあ、ある意味病気なのだろう。落ち込んで死にたいと思うことはだれしもあるとしても、本当に死ぬことまでは考えない。なぜかというと、死は恐いのである。死そのものはそう恐くはないのだろう。誰だってそのうち死ぬのだから、もし死そのものが恐いのなら、毎日恐くて生きていけないだろう。
恐いのは死そのものではなく、それに至る過程であろう。どのような手段であれ、その場からすぱっと消えてなくなれるものではない。飛び降りにしても首つりにしても、踏み出す瞬間の恐怖、死ぬまでの恐怖があろう。薬を飲むにしても同じだろう。楽に死ねる方法などそうはありはしない。それに、さあ死ぬとしてどうすればいいのか考えると、意外と死ぬのって大変だし、遺族のことを考えたりして結局死ぬことは現実的ではないと気づく。だからこそ、そうそう人は死なないのだ。
それを乗り越えて死ぬというのは、侍や軍人が覚悟の自決をするようなものも含めて、通常の精神状態にないことがわかる。非常に強い意志があるか、もしくは逆に感情が不安定になっている場合だ。そのヒステリックな状態に、なんらかのきっかけによって飛び降りたり首を吊ったりするのだろう。これはある意味、防ごうとして防げるものではないのかもしれない。
ただ、そういう周囲が通常ではない精神状態に気づき、原因は何か見定めることが出来るとすれば、それは学校ではなく、親の仕事であろう。だからこそ、親がまず自分の至らなさを悔いるべきであって、学校のせいにするなどというのはお門違いだといえよう。
先ほどの報道2001では、いじめや風紀の乱れを撲滅させるために、一切容赦のない処分を行うアメリカの例をやっていた。暴力行為は即退学だの停学だのというふうに、互いの言い分、言い訳を聞かずに問答無用で処分してしまうのだ。そうなれば、それらの行為について慎重になるだろうという。これは古い日本的な処分なんじゃないかと思うのだが、時代には即さないかもしれない。ただ、徹底できれば確かに物理的ないじめは減るだろう。
ただし、精神的ないじめは増えるはずだ。そして、むしろこちらのほうがいじめられる側にダメージを与えるのだ。そう考えるならば、その施策はある意味でいいとはいえるけども、精神的ないじめに対してどう対処するのかという部分までしっかり対策したうえでなければ、たとえば逆にいじめた側にしたてあげるといういじめが生まれる可能性もあることも想定しなければならない。
いじめ自体をなくすことはまずできないだろう。世の中には訳もなく人を攻撃したがる人というのはいるのだ。それはそうすることでしか自己の存在意義を認められない矮小な人格であるのは疑いない。そう、いじめる側もいじめられる側も普通じゃないのは確かだが、あまりに表面化しづらいので対策もしづらい。あまりにがんじがらめに対策してしまうと、自由な生活に支障を来すであろう。
であれば、できることは、いじめによって自殺したり、心を病む人が出ないよう、そのケア、対策に重点を置くべきであり、それが出来るのは親だけだということを、まず親が自覚して、常に自分の子供の考えに目を光らせておくべきだろう。これもがんじがらめにするということではなく、子供が悩みや問題を相談出来る場所を用意することだ。それが親そのものでも、それ以外でも構わないが、それがあるかどうかの確認くらいは出来るだろう。
人間、逃げ場所が必要なのだ。これさえやってれば楽しくてたまらないことを見つけるとか、愚痴る場所を見つけるとか、普通の人は無意識に発散しているものなのだが、精神の発育途上にある子供にそれを自分でやれというのも酷であろう。
結果として死なれてしまったのならば、その親はその対策が甘かった以外のなにものでもないのだ。まともな親のもとに生まれていれば、その子は死なずに済んだのである。死を選ぶのは自分であったとしても、判断力のない状態であれば周りが保護すべきであり、それを怠った親の責任は重大である。
そういうわけで、私はいじめ自殺の報道や、その時に出てくる親がむかついてたまらないのだ。
*コメントは自由ですが、内容により独断で消すことがあります。おもに根拠のない批判、記名のないもの等がそれに当たりますが、消した理由は表明しません。同意された方のみ、コメントをお願いします。
最近の事例では、周囲の人間が異変に気づいていたようですが。
きちんと報道に触れた方がいいですよ。
先日は逸脱したやりとりを長引かせてしまい、申し訳ありませんでした。
メールでのやりとりをしようかと思いましたが、
私あまりPCでメールをしないので、返事が遅れてしまうのではないかと思いやめました。
それに、できればお値段だけでもこのブログで知りたかったです><
貧乏学生ですいません><;
さて、自殺問題、難しい問題ですよね~。
でも美談にするのは間違ってるとは思います。
最近のマスコミが喜んでネタにしているように見えるのもむかつきます。。
いぬさんの記事を読んで思ったのですが、
いぬさんはいじめにはあわれなかったみたいですね^^;
いじめられた人にしかわからない部分が否定されていたりしたので、そう思いました。
私は、背が低くて(今も150以下です…。)昔からチビとみんなに言われていました。
そんなことで、と思うかもしれませんが、幼い私にとってはすごく苦痛でした。
今では、小さくて可愛いとフォローしてくれる人もたくさんいますが、
昔の思い出の方が強く、どうせお世辞で言っているんだろうと思っています。
私は、学校に行きたくなくて、逃げようと思いました。
しかし、当時小学生でしたが、母がそれを許してくれませんでした。
いぬさんの言う、理解のない親にあてはまります。
ですが、今は少し感謝さえしています。
あの時逃げたらきっと今の自分はなかったし、大学になんて絶対通えていなかったからです。
多少荒く、もっと自分のことを配慮してほしかった思いが残りますが、
学校から逃げることが最善のことだとは今は思いません。
(悪魔で義務教育の話です。高校からは関係ありません。)
最低限の教育を受ける権利が私たちにはあると決められているので、
ここで学校側の責任も出てくると思います。
いじめがなくなることはないでしょう。しかし、それを悪いことだとする環境にしたりすることも大切ではないでしょうか。
そのような措置を求めることを、遺族やマスコミ関係の方は訴えているのではないかと思います。
ですから、学校側が悪いと言いたくなるのもわかります。何十人も生徒がいたとしても、
学校で起きたことは、学校に責任がないとは言い切れません。
それに親に何でも言う子って、死ぬかどうかまで追い詰められるでしょうか??
子供って意外と言ったらどうなるか…ということを考えてしまうものです。
実際私もそうでしたからよくわかります。
自殺をしてしまうような子は、言える強さを持っていない子ではないかと思います。
強くなれと言うのも簡単ですが、それは個人の個性であって、否定するのも、変えるのも難しいことです。
死にたい死にたい言う人が、実際死なないのはうなずけますね。
鬱の友達がいますが、実行はしませんから。
いじめの問題は、少し意見が違いますが、死にたいと言う人の見解については、
同意の部分が多かったです。
もしかして、身近にいたりしますか?
そういうのに困ってませんか?私は困ってます。というか、困っていました。
でももう連絡をとるのをやめました。
何故毎回愚痴を聞かなければいけないのだろうと思っていました…。
頼られるのは、最初は嬉しかったけど、段々と苦痛になってきたのです><
親しい人だっただけに、今でもどうしているのか気になります。このような場合、いぬさんならどうしますか?
あ、またちょっと逸脱してしまいますね><
すいません。ちょっと困っていたので聞いてみたくなりました><
上の、haruさんという方の意見、とても納得できます。
やはり子供の視線から問題を見ることも大切ですよね。
異変に気づいてるのに死なせるなんて変わった周囲ですね。
どこで報道されてるのかをまず言うべきですが、どうせ思いつきでしょうから無理ですよね。
>Unknown (haru)
長々と偉そうに書かれていますが、子供は未熟だから親がちゃんとしろと書いてあるのが読めてませんね。読解力がないように感じられました。
私は自殺を減らすための方法を書き記したのであり、良識がなければこのようなことは書かないと思いますよ。あ、あまりに失礼な書き込みなので消しますね。礼儀を重視した書き込みをお勧めします。
*都合が悪いから消したんだ!的な書き込みは問答無用で削除です。
>お久しぶりです。 (さくら)
随分まともな書き込みでびっくりしてます。どこをタテに読めばいいのかと迷いましたw
いじめの定義にもよりますが、文科省が言う「継続的な行使で、相手が苦痛に感じるもの」という定義ならいじめには遭ったことはありませんね。ただ、わけのわからないちょっかいをかけてくるやつはいました。突然後ろから殴ってきたり、ひとのものを壊したり隠したりですね。
当然、やり返したり、二度としないように注意したり、弁償させたり、先生にチクったりしましたね。あと、もしかしたらいじめた側にいたことがあるかもしれませんが、継続的に何かをするって性格してないので、これも定義には当てはまらないでしょう。いじめられてる子を見たことはあるけど、これも継続的とは言い難いその場限りのものでしたね。うちは平和だったのかなあ。
親は基本的には学校に行けと言いますね。ただ、死ぬかも知れないことと引き替えにしてまでいけとは言わないでしょう。結果論ではありますが、行かせて正解でしょう。相手に悪意があるいじめではなかったからでしょうね。小さいことを長所にするか短所にするか、それは人それぞれですから、長所だと思って生きて行ければ良いことでしょう。
というか、いじめっていうと相当ひどいことのように思えるけど、背が低いとかどうとか、他人がきいたらどうってことないことばかりなんですよねえ。
とはいえ、逆境は強くなるための経験値となりますから、それを乗り越えられれば自力で乗り越えたほうが強くなっていいのです。それが出来なくて困る子もいるわけですけど、そういうときは手助けをしてあげないといけません。甘やかす手助けは教育上よくありません。乗り越える手助けをするのですね。
親に言える強さを持てない子のために、親がそれを察知して助けてやらなければならないわけですね。子が親のさしのべる手まで払うのなら、これはもう対処のしようはありません。交通事故や難病で死ぬ子もいますから、どうしようもないことも世の中にはあるでしょう。ただ、学校のせいにするのはちょっとお門違いだと思うわけですね。
死にたがる人、周りにけっこういます。真面目に話は聞きますが、たいていその問題はわりと簡単な回避方法があります。しかしそれをあえてとらない人もいます。どう答えるかというと、私は核心を突くことにしています。それほど親しくない人に突然これをやると拒絶されてしまうのですが(同情されたくて話してる人もいるので)、別にその人に嫌われて困ることがなければ気にしません。ズバズバ現実を突きつけます。中には甘えている人もいますから、現実をつきつけることが一番の薬ですね。荒療治ですが。
愚痴を聞くことで相手が納得するのなら、その人のために黙って聞いてることはあります。でも、意見を求められたら客観的に言いますよ。私、デリカシーありませんから、いいこいいこかわいそかわいそはしませんね。
まあ、そういうことを言われたい人は私に愚痴なんか言いませんけどね。現実的な解決法を知りたい人や、説教されたい人はいくらでもどうぞ。ただ優しく慰められたいなら、そういう人にどうぞといったところです。あ、私も優しく慰められますよ。ただ、有料になりますけどね。
あとは学校の管理責任ですか。私は学校は勉強を教えるところだと思ってるので、いじめに全て察知しなければならない義務なんかないと思うのですよ。そりゃ、派手にやってるのなら止めなければならないけど、分からないものは分からないで仕方がない。それと、学校で行われたいじめについては責任があるとしても、死んだ結果についてとやかく言われる必要はないでしょう。死ぬのを回避させる義務があるのは親だけでしょう。
そうすると風紀がよくなるってアメリカの制度をマネしてみますんで。
まだ返事きてないかなって思ってのぞいてみたのでびっくりしました!
>随分まともな書き込みでびっくりしてます。どこをタテに読めばいいのかと迷いましたw
私今までにまともじゃない意見書きましたか??
そうだったらごめんなさい↓
りらっくまの時は確かに感情的だったかもしれないけど、私なりの意見を言ったつもりでした。
でも正直、いぬさんとは有意義な議論ができると思ってコメントしています。
最近はソフトバンクの話が続いていたので、できませんでしたが…。
(あまり携帯電話の知識がないので議論できるほどではないのです><)
それと、タテに読むって何のことですか??
へ~!文科省ってこんな定義あるんですか!
これだとあてはまらないケースがたくさんあるかもですねぇ…。
私のもあてはまるかどうか微妙です…。苦痛でしたけど、軽いからかい的な部分もあったし…。
わけのわからないちょっかいは私もありましたね。。物隠されたことありますよ><
でもやり返したりとか注意とかはできなかったなぁ…。
いじめた側っていう表現だと、たしかに全員がないとは言えませんよね。そして多くの部分は定義にあてはまらないかと。。
いぬさんのところは結構平和だと思いますよ!
ひどいところってもっとすごい話を聞いたことありますから!!
やっぱり基本的には学校に行けって言うんですね~。普通だったのかぁ。。
死ぬかもしれないと判断できる親ってすごいと思います。
まぁ異変に気づいてあげてほしいのは本音ですけどね><
でもまぁ親も子供と成長するって言いますし、今考えれば仕方なかったのかな~と。。
小さいことを長所だと思って生きていければ良いって素敵な言葉ですね(;Д;)
私、結構小さいことで凹んでしまうので、ちょっとうれしかったです★
でも背が低いのはホント、コンプレックスですよ…。結構どうでもよくないです…。
本人にとっては結構深刻です…。そっかー。他人から見たらどうでもいいことなのか~。。。
確かに逆境はよい経験になると思いますが、本人にとってどうなのかが重要なのではないかと思うんです。
もう完全な主観になってしまうので、判断はすごく難しいと思います。
周りに死にたがる人結構いるんですか!
私は一人だけだったのですが、大変ではないですか??><
最初は本気で今にも死にそうな声で泣きつかれたので、核心をつくことができませんでした。
そこからずるずると…。
愚痴を聞いてるだけって結構キツくないですか?
なんで自分はこんなこと言われてるんだろうと何度も思いましたよ…。
それで彼女が納得するのなら…と思ってたんですが、こちらの限界の方が早そうだったのでやめました。
上にも書いたように、小さいことを気にする方なので、他人のことも自分のことのように受け止めてしまって…><
彼女からは、優しく慰めるどうこうでなく、話を聞くこと自体有料にしてしまいたい勢いです。笑
う~ん。確かに高校から上の学校は、勉強を教えるところだと思いますが、
やはり中学までは、そうも言っていられないのではというのが私の意見です。
私は人見知りもするし、内気な方だったので、その当時はわかりませんでしたが、
やはりある程度の年齢までの学校教育は、集団生活を教える場でもあるのではないかと思います。
分からないのは仕方がなかったとは思いますが、分からなくなるような環境だったということは問題だとは思いませんか?
死ぬのを回避させる義務…。
ん~難しいですねぇ…。
矛盾した点があるかと思いますが、死ぬ、死なないは個人の自由だと思うんですよ。
そういった点では、義務は誰にもないと思うんですよね。
悲しむ、悲しまないの問題かと。
まぁ、遺族側からすれば、上記のような意見で学校に責任を問うのではと思うのです。
やはり、悪は悪として認めていけるような環境が必要ではないのかなーと。。
賑わっているのを拝見しておりました。
今回の記事の内容には概ね賛成です。
親はなにを考えているんだと思います。腹が立ちます。
ところで「自殺者を美化するな」ということですが、
太平洋戦争での「神風特攻」はどうお考えですか。
あえて美化するまでもなく本当に尊く美しい行為だと思います。
管理人さんはこれについてはどうお考えですか???
学校×
親はその対策が甘かった○
親のコメントを見ればこの親頭おかしいだろ?
という人もいるが、
親はどうすれば子供が自殺せずに済んだのだろう。
いじめに気づいてあげれば自殺せずに済んだのか。
親と子供のコミュニケーションでいじめがなくなるなら
画期的だと思います。
ほぼ同意ということで、了解しておきます。
中学であっても、学校にそこまでの義務を負わせるのは無理があります。
学校には、ある程度の集団生活を教育する義務はありますが、自殺への責任となるとそれは当たらないと思います。自殺という結果による過重も、あまりに重く、整合性がとれません。
今後出来ることは、学校側がいじめを見つけるための方法を作ることと、親が子供を死なせないための努力を増やすことだと思います。
死ぬ自由、あると思いますよ。死ぬか生きるかを決めるのはなにものでもない、自分なのです。しかし、死んで欲しくないと思ってる人を裏切るのだから、相当愚かなことをしている自覚をすべきです。
死なせない対策を取る義務があるというのは、死なれたら困る人で、影響力のある順番に高まっていくと言えるでしょう。
友達なら、死なれたくないと思っても、それほどの行動はとりようがありません。親なら、そこから隔離することも出来るし、いかなる対処も取れるはずです。死なれたら困る人で、影響力のある筆頭です。よって、自殺を止められなかった一番の責任があるのが親ということになります。もし死なれたくないと思わないのなら、そのような義務は生じないでしょう。たとえ親だったとしてもね。
死なせたくないという願望、権利を主張するには、死なせない努力をする義務も生じる、とてもわかりやすいことです。
>Unknown (トラック野郎Aチーム)
いらっしゃいませ。
同意して頂いたことに感謝しつつ、一度だけ関連のない話題にレスしますね。
特攻についてですが、祖国のために命を捧げる行為は、価値のあることだと思いますが、死なずに済む方法があったのに死んでしまったことについては、勿体ないことをしたと言えるでしょう。美化するのは行き過ぎだと思いますが、我々に出来るのは、日本のために命を落とした英霊に感謝する気持ちを忘れないことだと言えます。
>Unknown (Unknown)
名無しなので一度は保留しましたが、戻しました。
親が実際に全ての自殺を防げるかというとそうとは言えませんが、死んでしまった原因が親にあることは確実に言えると思います。結果論ですが、それだけは確かです。
一晩寝て考えたのは、現代のいじめ苦自殺者の構造は
学校という敵艦と級友という米兵に打撃を与えている
と読み替え可能ではないでしょうか。
そうすると、大日本帝國兵の両親が敵国アメリカを罵るというのは自然な流れではないでしょうか。
特攻はいくらか戦果をあげたし、大義もあるけど自殺にはどちらもありませんからね。
遺書で名指しして仕返しみたいにしてるけど、なんの意味もない。
仕返しするなら、やり返すか、目のまえで死んでやればいいのにと思います。