尼崎でJRの電車が脱線して100人を超えるような死者が出た。
この事故、どうにもこうにも怖くて悲しくてたまらない。私が電車好きだからというのもそうだし、夏にちょうど乗りに行ったところだというのもあるけど、それだけじゃない。なにしろいままじで電車に乗るのが怖くてたまらない。
「大惨事」とはいうが、たくさん人が死んだから痛ましい、ということはないと思う。一人死んだとしても、1万人死んだとしても、痛ましいものは痛ましい。かわいそうだ。被害者も死にたくて死んだのではないのだから、悔しいだろう。数の問題でひどいとか普通とかいうわけではない。
人が死ぬ事故というのはいろいろある。道を歩いているだけでいつ暴走自動車に轢かれるかわからない。というか、その確率のほうがよっぽど高いわけだが、道を歩くより今回の事故における電車に乗ることのほうが怖いというのはなんだろう。
それは、われわれが電車に乗っていて死ぬということを、可能性として普段からまったく認識していないからだと思う。それに反したこの事故が、必要以上に恐怖感を与えてるのではないか。
飛行機ならば、落ちれば死ぬというのは子供でもわかる。だから、乗るときは落ちないように願う。落ちるわけがない、と思って乗る人はまずいないだろう。「俺が乗るときだけは落ちないのだ」と思う人はいるようだが。もし落ちても「ああ、ついに落ちたか」という印象で「やっぱり飛行機なんか乗るもんじゃない」なんていうやつもいる。私だ。
自動車事故にあって死者がでた、というのは聞き飽きている。なにしろ毎年1万人も自動車事故で死ぬのだ。飛行機はここんとこ落ちてないから、確率は飛行機事故で死ぬよりも何万倍も高い。といっても、実際事故で死ぬ確率は数百万分の一だそうだ。宝くじの一等に当たるよりは高いらしいが。となると、飛行機がどれくらい安全な乗り物かというのがわかる。でも、飛行機に乗るのは怖い。
奇妙なもので、飛行機が落ちる確率より、いま道でひかれて死ぬ確率のほうが何万倍も高いのに、道を歩いたり、車やバスにのるより、飛行機にのるほうが死を意識する。これは印象の差というものだろうか。
で、電車というのは飛行機よりはさらに安全なんだと思う。過去、死者が出た事故というのはかなり特殊な事例かつ数が少ない。最近では日比谷線の事故や信楽鉄道くらいしか思いつかない。人間の印象の問題にしても、実際の確率にしても、電車は「人が死ぬ乗り物」じゃないのだ。まあ、ホームから落ちたらひかれるけど、それはまた別にして。
その「死ぬ乗り物」じゃない電車でもって、しかも餘部鉄橋みたいなところから落ちたんじゃなくて、普通の通勤列車が、ただのカーブを曲がりきれずに脱線。そのうえマンションに激突してひとつの車両はまさに飴のようにぺしゃんこになっている。電車ってあんな形になるんだ、と関心してしまうほどだ。
あの絵だけでも恐ろしいのに、100人を超える人が亡くなったという事実。数で決まるものじゃないとはいえ、一人二人なら運が悪かったと言えるけど、100人も死ぬんじゃ仕方ない。やはりインパクトが違う。
ATSが古い型だったとか、運転手の技量がどうとか、せり上がり防止レールがなかったとか、置石がどうとか、そういった原因は別にして、「単なる通勤列車が脱線して100人死亡」という「ありえない」「普通死なないことで死ぬ」ことの恐怖。飛行機とちがって、普段電車に乗らないで済ませるわけにはいかないという事実。今まで意識しなかった日常における新たな死の実感による恐怖、といったところだろうか。
そういうわけで、「考えてみたら自転車で国道走るほうがよっぽど危ないな」というのとは別に、この事故が私に与えた衝撃は、計り知れないものがあるのだった。