松阪では「和田金」さんで世界一美味しい寿き焼きをいただき、ガイドさんとともにぶらり松阪歩き開始。
一番最初にガイドさんにご案内いただいたのは、日本屈指の財閥三井の発祥の地。
和田金さんからすぐの場所にありました。
残念なことに一切公開されていず塀の外から中をのぞき見るのでした。
■本居宣長旧邸跡碑
道路から見るとこんな風に歴史を感じさせ苔むしているのでした。すごい!
■松阪商人の館
江戸で紙や木綿を手広く商っていた豪商、小津清左衛門(おづせいざえもん)の屋敷を公開したものだそうです。17世紀末ごろに建設された木造2階建ての母屋には、見世の間、勘定場、座敷など20以上の部屋があり、屋敷奥の内蔵には、松阪商人に関する資料を展示してあります。
千両箱が10入る万両箱。これは何人で運ぶのでしょう??相当重そう。
万両箱は土の中に埋めることを想定しているそうで、鉄で作られているそうです。埋蔵金なんてと思っていたけれど、こんな万両箱が実在しているということは埋蔵金はどこかにあるのかもしれません。
松阪商人はガイドさんが着てらっしゃった松阪木綿で儲け財を成したのだそうです。
松阪商人(伊勢商人))は、大阪商人、近江商人と並ぶ日本三大商人のひとつ。
松阪商人として、最も代表的な存在は江戸に呉服店「越後屋」を出店し三井の基礎を作った三井高利で、屋号は主に「伊勢屋」「丹波屋」などが多かったそうです。
■御城番屋敷
かつて松阪城の警護を任された紀州藩士20人の屋敷で、城の裏門と搦手門(からめてもん)を結ぶ石畳の両側に並んでいる長屋建ての母屋2棟は重要文化財。と前庭、畑地、土蔵などが槙垣に囲まれた姿は往時のままだそうです。今も藩士の子孫が住み、そのうちの1棟は内部を一般公開しているそうです。
■歴史民族資料館
■本居宣長旧宅と本居宣長記念館
鈴屋に隣接する記念館には、宣長の著書、蔵書、書簡、愛用の文具や鈴のコレクションが収蔵、展示されているそうです。宣長が1730年(享保15)、松坂本町の小津家に生まれ、23歳で上京し、5年半の勉学ののちに帰郷、町医を開業した。その後、国学者の賀茂真淵と出会い、『古事記』研究の志を固め、35年の歳月をかけて全44巻の『古事記伝』を完成させたそうです。記念館にある自筆の自画像や『古事記伝』など約2000点が重要文化財となっているそうです
住所 〒515-0073 三重県松阪市殿町1536-7
電話 0598-21-0312 FAX 0598-21-0371
■鈴屋
江戸時代の国学者・本居宣長の旧宅で、国の特別史跡に指定されています。宣長が2階の物置を改造して4畳半の簡素な書斎を造ったのは53歳の時で、書斎に上がると宣長は階段をずらし研究に没頭したのだそうです。鈴屋の命名は宣長自身で、研究に疲れると柱掛の鈴を振って音色を楽しんだことに由来しているようです。
■松阪城跡
松阪城は戦国武将、蒲生氏郷によって1588年(天正16)に築かれた。かつては本丸とニノ丸に石垣を築き、3層の天守閣に敵見、金の間、月見などの櫓が配されていた堅城だった。今はそそり立つ石垣を残し、公園として整備されている。桜、イチョウなどが美しく、市民の憩いの場。
松阪城の石垣は、松ヶ島城の石は全て利用、不足分は近くの河川から集めた川石が使われ、一部付近の神社や寺にある大きな石も使われたそうですが、石垣を築くのには膨大な石を必要とすることから墓石や古墳の埋葬に使われた石棺の蓋を使っているそうです。
雨が降ると墓石の文字が浮き上がり、「南無阿弥陀仏」などの文字も読み取れるそうですよ。
本丸跡のドーム型の覆いの下は空井戸で実は抜け道になっているそうです。事あるときはここから城の南側の丘にある八幡社に抜けるためだったそうで、境内には今でも大楠があり、その真ん中には大きな穴が開いていてそこが出口だといわれているそうです。
松坂城を築城した蒲生氏郷だそうです。 「松阪城跡」と書かれた石碑の字は茶道裏千家の千宗室宗匠が書かれたものだそうです。
氏郷の茶道の師は千利休であり、氏郷は細川忠興、高山左近、芝山堅物、瀬田掃部、牧村兵部、古田織部とともに利休七哲と呼ばれ、その中でも第一人者だったそうです。
先日観た歌舞伎の寺子屋も利休の子を匿う話でしたが、氏郷は利休の二男少庵を会津に庇護し、その後徳川家康とともに秀吉を説得し、少庵の赦免を取り付けたそうです。
松坂城と茶道の千家は蒲生氏郷を通じてつながっているそうです。
松阪ぶらり歩きは本当にも短くて、まだまだ観たい!聞きたい!ところがたくさんありました。
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