整体で指導を受けたその日、もう一つ大事なことがわかりました。
井本整体で言う「深息法」で、丹田を意識するということは、決して、力を入れることではなく、そこに意識を集中することだったということがわかったのです。
新米さんに教える時、体のある部分に意識を集中することはいきなりはできないので、ちょっと力を入れたり、そこに、手を当てたりの補助動作をして、まず、その場所を知るのが第一歩です。
慣れてくるにつれて、サメ[トなしに必要な場所に意識を当てることができるようになるはず。
深息法でも、丹田あたりに力を込めるのではなく、丹田に意識を当てて集中することができたら、力はいらないのです。
私は、力を入れると理解していました。
確かに、最近では、大きな力を入れなくても、おなかに力を入れるのではなく、壁を作るというような感覚で、胸や肩を動かすような呼吸ではなく、深息法に近い呼吸を続けることができているような気がしています。
それでも、力を入れねばと思いこんでいたので、無駄にエネルギーを使い、力を入れることで、他のところにも、負荷がかかっていたことに気づくのでした。
はて、では、次の教室では、どのように説明したらよいだろうか。
この考え方で行くと、女性と男性とでは、筋肉や構造が違っているから、男性にたやすくできることも、女性には難しい。だから、女性の発声について体の使い方はおのずと違ってくると考えていたことは、考え直さねばなりません。
筋肉や体の使い方を遠回りして、身につけるよりも、本当の深息法を身につけるのが先だったのだろうか。
さて、本当の正しい深息法が身についているかどうか、次回の施術で山田先生に確かめなくては。
その上で、呼吸法と発声法を、見直さねばなりません。
確かに、とあるボイストレーニングでは、如なるところにも、力を入れてはいけませんという方式もあるのですから、今気が付いたことを、どう生かしていけばよいのだろうか。
おおきな難題に気づいてしまって、どうしよう。
意識を当てることを覚えるために、力を入れて良いのか、力を入れることを覚える前に意識を集中することを、長い道のりでも覚えさせるのか。
呼吸法と、発声法は、同じものではないのだが、楽器としての体が、機能するためには、切り離して考えることはできないよねぇ。
さて、どうしたものだろう。
ある程度、物事を感じられるようになったときに、本を読み返すと、まるで深息法で、息が体中に行き渡るように、それぞれの言葉が意味を持って、体の中の血流と一緒に、おおきな意味を持って動き、踊り始める。
そんな時は、大きな学びがあるはずです。
論語や、菜根譚で学ぶ言葉も、物事が身の回りで起きた時、具体的に照らし合わせながら、もう一度読み返したり、聞きなおしたりすると、とても実感を持って機能し始めるものなのだと、つい先日感じたばかりです。
心と体と行動は、すべて連動している。
勉強した証の記憶として覚えた言葉が、自分の体温をもち、私の言葉として体をめぐっている。
この感覚は、何物にも代えがたい。
いつもの先生との会話の終わりに「整体(人体力学)の習熟の道のりは、詩吟の習熟の道のりと、同じ。物事は、すべて繋がっていますねぇ!」と言い合うことが多いのです。
そして、体が整うと、
声を出すのも、伸びやかに楽に出せるようになる。
鍵はどこだ。
井本整体で言う「深息法」で、丹田を意識するということは、決して、力を入れることではなく、そこに意識を集中することだったということがわかったのです。
新米さんに教える時、体のある部分に意識を集中することはいきなりはできないので、ちょっと力を入れたり、そこに、手を当てたりの補助動作をして、まず、その場所を知るのが第一歩です。
慣れてくるにつれて、サメ[トなしに必要な場所に意識を当てることができるようになるはず。
深息法でも、丹田あたりに力を込めるのではなく、丹田に意識を当てて集中することができたら、力はいらないのです。
私は、力を入れると理解していました。
確かに、最近では、大きな力を入れなくても、おなかに力を入れるのではなく、壁を作るというような感覚で、胸や肩を動かすような呼吸ではなく、深息法に近い呼吸を続けることができているような気がしています。
それでも、力を入れねばと思いこんでいたので、無駄にエネルギーを使い、力を入れることで、他のところにも、負荷がかかっていたことに気づくのでした。
はて、では、次の教室では、どのように説明したらよいだろうか。
この考え方で行くと、女性と男性とでは、筋肉や構造が違っているから、男性にたやすくできることも、女性には難しい。だから、女性の発声について体の使い方はおのずと違ってくると考えていたことは、考え直さねばなりません。
筋肉や体の使い方を遠回りして、身につけるよりも、本当の深息法を身につけるのが先だったのだろうか。
さて、本当の正しい深息法が身についているかどうか、次回の施術で山田先生に確かめなくては。
その上で、呼吸法と発声法を、見直さねばなりません。
確かに、とあるボイストレーニングでは、如なるところにも、力を入れてはいけませんという方式もあるのですから、今気が付いたことを、どう生かしていけばよいのだろうか。
おおきな難題に気づいてしまって、どうしよう。
意識を当てることを覚えるために、力を入れて良いのか、力を入れることを覚える前に意識を集中することを、長い道のりでも覚えさせるのか。
呼吸法と、発声法は、同じものではないのだが、楽器としての体が、機能するためには、切り離して考えることはできないよねぇ。
さて、どうしたものだろう。
ある程度、物事を感じられるようになったときに、本を読み返すと、まるで深息法で、息が体中に行き渡るように、それぞれの言葉が意味を持って、体の中の血流と一緒に、おおきな意味を持って動き、踊り始める。
そんな時は、大きな学びがあるはずです。
論語や、菜根譚で学ぶ言葉も、物事が身の回りで起きた時、具体的に照らし合わせながら、もう一度読み返したり、聞きなおしたりすると、とても実感を持って機能し始めるものなのだと、つい先日感じたばかりです。
心と体と行動は、すべて連動している。
勉強した証の記憶として覚えた言葉が、自分の体温をもち、私の言葉として体をめぐっている。
この感覚は、何物にも代えがたい。
いつもの先生との会話の終わりに「整体(人体力学)の習熟の道のりは、詩吟の習熟の道のりと、同じ。物事は、すべて繋がっていますねぇ!」と言い合うことが多いのです。
そして、体が整うと、
声を出すのも、伸びやかに楽に出せるようになる。
鍵はどこだ。