風のこたろう

'05年4月6日~'07年4月7日 ウランバートル生活日記
'09年8月~  詩吟三昧の徒然日記

歓送迎会

2006年07月03日 | チンゲル亭裏日記

7月1日に歓送迎会がありました。
夫が、仕事で参加できなかったのですが、私一人で参加させてもらいました。
派遣される人、日本に帰る人たちへの思い入れの深さを感じてしまうのは、長女が6年前の一次隊であったからかもしれません。

娘が、中国で楽しんでいると思っていた頃、私は、同じ介護をする人たちのHPで、愚痴をこぼしたり、私も同じと言ってくれる人に助けられながら、娘が出発する頃よりもさらに厳しくなった介護状態の毎日を過ごしていました。

「鼓太郎がやってきた」というHPを「母さんのページ」に下宿する形で、開いていましたので、それを、媒体として、掲示板やメールで娘との交流を続けていたのです。
決して娘は弱音を吐かず、楽しいことばかり書いてきました。
そして、鼓太郎の写真に慰められていたようでした。

母の介護は、娘の帰国を待つことなく終わりました。
7月10日が娘の帰国日だから、「もう少し頑張ってね」と言ったら、大きくうなずいたのに、6月3日に逝ってしまいました。
直ぐにも帰国するという娘を「49日までは、魂はそばに居て、会いたい人に会っているということを信じなさい。」そして、「まさかの時も、帰国を考えず任務を全うしなさい」と約束したことを思い出させました。

母は夫、次女、私、長女と鼓太郎の写真とに見守られて、安らかに逝きました。それで十分でした。

同じ年の11月、夫が娘と入れ替わりにモンゴル派遣。
翌年母の1周忌を済ませて翌年の1月に思いがけず随伴家族としてUBへ来ていました。

娘の派遣から帰国まで、大きなうねりの中にあった我が家でした。
娘からも、一言も弱音を聞くことなく、そして、私は鼓太郎との楽しい生活を伝えて2年が終わりました。

UBに住み、隊員たちの活動の困難さをつぶさに見て、娘はどんなにか大変だったかを知りました。
娘の任地から一番近い日本人は、バスで4時間の距離だったそうです。

母の介護に追われていた私は、娘の生活の困難さを想像してやることすら出来ませんでした。

周りにいる若者たちを見るにつけ、中国時代の娘の苦労を思いやりもしなかったことへの、申し訳なさが胸にチクリと刺さるものがあります。

でもでも、みんな、それぞれ楽しみを見つけて楽しんでいる風景もたくさん見る詩、苦しいことばかりではないのも、見えてるし。

よーしっ。感傷から、立ちあがろうっと!
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