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戦前の植民地思想にかかわる主な事件

東学党の乱(1894) 3月 朝鮮の農民による政府に対する反乱。朝鮮は清に派兵を要請。日本は居留民保護を名目に出兵。日清戦争につながる。
日清戦争(1894/04-1895/03) 4月下関条約調印
旅順虐殺事件(1894) 旅順攻略に際して、旅順の大部分を占拠した11月21日から、24日にかけて発生したとされる日本陸軍による旅順住民虐殺事件。掃討の過程で住民を無差別に殺戮したもので中国側は1万8000余名が虐殺されたとする。日本側の文献も多数の住民虐殺が生じたことを認めている。
台湾平定(1894/05-1894/11) 台湾割譲を受けて台湾に進駐するも原住民を中心に武装抵抗があった。台湾側の死者は1万数千名とされる。
日露戦争(1904/02-1905/09) 9月ポーツマス条約調印
戸水事件(1904) 東京帝国大学法科大学教授戸水寛人(ひろんど)教授がロシアに対する強行策を主張(1903-1904)。文部大臣令で休職処分とされた事件。山川総長が責任をとり依願退職。
伊藤博文公暗殺事件(1909) 10月26日 当時ロシアの権益下にあったハルビンで安重根により伊藤が暗殺された事件。事件の背景には諸説あり。
日韓併合(1910) 8月22日 大日本帝国による大韓帝国の併合。
幸徳事件(1910) 明治天皇暗殺計画があったとして幸徳秋水以下が逮捕され、翌1911年1月に26名への判決が下され死刑22名(刑死12名 獄死5名 仮釈放7名)、有期刑2名とされた事件。
3.1事件(1919) 韓国最後の皇帝高宗の死去(1/21)とその国葬の予定(03/03)を受けて韓国の宗教指導者など33名がソウル中心部の公園に集まり独立宣言を読み上げようとした事件。この集会は関係者の逮捕により防がれたが、韓国各地で集会・デモが続いた。万歳事件とも呼ばれる。この事件のあとの処理の実態については諸説あり。
イワノフカ事件(1919)  1917年10月のボリシェビキ革命により、ロシア帝国が崩壊したあと、アメリカを始めとする主要国は連合して干渉戦争を行い、日本も派兵した。いわゆるシベリア出兵で1918年夏から1922年に及んだ。このシベリア出兵については、その目的が共産革命の波及を防ぐことであるとしても、ロシアの政権が崩壊したなかで、どのような見通しや合法性があったかは疑問が多い。連合国全体で10万の出兵数のなかで日本の出兵は73000と突出。かつ他の国々が1920年には撤兵したなか、日本が最後まで駐留を続けた点も疑問が残る。派兵された日本軍の士気も低かったとされる。出兵後の最初の冬、アムール州のイワノフカ村で1919年3月22日日本軍が起こした無差別虐殺事件で、この出兵時に起きた虐殺事件のなかで最大規模のもの。年齢を性別を問わず257名を銃殺、36名を小屋に閉じ込めて焼殺した。
堤岩里虐殺事件(1919) 3.1事件の余波のなかで京幾道堤岩里で治安にあたっていた陸軍の部隊(有田俊夫中尉が率いる歩兵)が住民のうち15歳以上の男子30余名を教会に集め、機銃掃射の上、焼殺した事件。3.1事件のあと各地で集会が開かれたが、3月30日には堤岩里の住民が中心となった大規模な集会があり、この摘発に動いた陸軍の部隊が4月15日に首謀者を捕まえようと現地入りし、無差別虐殺行為を行った。事件は英字紙などにより報道された。朝鮮司令官は虐殺の事実を認めた場合の影響を考慮、抵抗したので殺戮したことにして有田俊夫中尉を殺人・放火のいずれについても無罪としたため、有田俊夫中尉は30日の重謹慎処分を受けるにとどまった。
5.4運動 五四运动(1919) 韓国での3.1事件を受けて、かねて袁世凱政権による日本の対華21ケ条条約受諾(1915)に不満を高めていた北京大学の学生などが5月4日(日)朝より各大学で集会ののち天安門に向けてデモ行進を行い、一部が政府高官の私邸を襲った事件。21ケ条の取り消し、中国の統一と独立などを要求し、その動きは中国各地に波及、日貨排斥運動などにつながった。
高野岩三郎(1919) 東京帝国大学経済学部教授高野岩三郎(統計学)が依願退職した
森戸事件(1920) 東京帝国大学経済学部助教授森戸辰夫がクロポトキンの思想を紹介する論文を発表したことで注目を受け、経済学部教授会により休職処分を受けた事件。森戸は戦後、文部大臣、広島大学学長を歴任した。
亀戸事件(1923) 関東大震災(09/01) 後の9月3日 亀戸署は日頃敵対関係にあった川合義虎ほか10名の社会主義者を理由なく拘束するももてあまし、近衛習志野騎兵13連隊に支援を要請。この10名が連隊兵士により刺殺された事件。
朝鮮人虐殺事件(1923) 関東大震災(09/01)のあと、朝鮮人の不穏な動きについての噂が広まるなか、組織された自警団によって、朝鮮人そして朝鮮人と疑われた人が殺害された事件。被害者の規模に諸説がある。
甘粕事件(1923) 関東大震災(09/01)後の9月16日 憲兵隊特高課により憲兵隊司令部に連行された大杉栄が、愛人の伊藤野枝、6歳の甥とともに殺害された事件。
中山艦事件(1926) 3月20日 蒋介石が国民党の軍艦中山艦の船長ほかを逮捕。蒋介石をロシアに移送する目的があったと断じた事件。
4.12事件(1927) 諸外国および資本家の支援を得て、蒋介石が国民党内部の共産勢力の排除弾圧に乗り出した事件。これ以降、国共内戦に突入。
大森義太郎(1927) 東京帝国大学経済学部助教授大森義太郎への政府による辞職圧力を受け、本人が依願辞職したもの。
張作霖爆殺事件(1928) 軍閥の頭目であった張作霖が列車ごと爆殺された事件。関東軍参謀河本大佐首謀説が有力。張作霖が関東軍の言うことに従わなくなったことが背景とされるが、その息子の張学良が反日に転ずることにつながったとされる。
河上肇(1928) 京都帝国大学経済学部教授河上肇は、学生団体への摘発(1925年12月から1926年1月 学生社会科学連合への捜査摘発)を受けたことを学生団体と関係があるとの理由で辞職を促され、依願退職に至ったもの。以降、共産党の活動をするも1933年に検挙。転向を表明して釈放された。戦争中に体調を崩し、1946年1月に亡くなっている。
霧社事件(1930)  10月27日 台湾で起きた原住民セデックによる最大規模の武装反乱事件。当日、運動会が行われていたが日本人140名余りが殺害された。12月上旬までに平定された。殺害されあるいは投降した原住民の数から1000数百名の規模の反乱と推定される。原因については諸説がある。近年、原住民のアイデンテティを守る動きとして再評価されている。
柳条湖爆破事件(1931) 9月18日 奉天(汉阳)近くの柳条湖の線路が爆破され、それを口実に関東軍が、若槻内閣の不拡大方針に従わずに戦端を拡大し満洲各地を占領、張学良を排除して翌1932年3月の満洲国建国宣言に至った事件。これを侵略とみた国民政府は国際連盟に調査を依頼。現地入りしたリットン調査団は、1932年3月から6月までの調査のあと、9月に報告書を公表。日本の行為を正統防衛と認めず、満洲の中国への返還を日本に求める報告書をまとめた。 
兵頂山虐殺事件(1932) 撫順独立守備隊(井上清一中尉)が撫順炭鉱近くの平頂山の住民が匪賊に内通しているとして住民3000人全員を虐殺した事件。戦後、残留していた炭鉱関係者が逮捕されそのうち7人がこの事件の責任を問われて処刑されたがこの事件とは実は無関係だったとされ、井上清一本人は移送中であったため生き伸びたとされる。他方で、遺族などから日本政府に対して損害賠償訴訟が起こされ、日本の司法においても、虐殺の事実は認定している。
5.15事件(1932) 海軍将校ら18人が決起して首相官邸などを襲った事件(資金提供者として大川周明)。護憲派として知られた犬養首相と警備の警官が死亡した。海軍軍縮に不満があったほか、犬養が孫文と信頼関係があり中国への軍事進出に批判的であったことも背景。事件後18名は自首。首相を殺めた反逆罪であるにも関わらず、裁判の量刑は驚くべきほど軽く、最高でもわずか禁錮15年に過ぎなかった。
国際連盟からの脱退(1933) 日本は1920年1月に設立された国際連盟の設立時からの加盟国で常任理事国でもあったが、柳条湖爆破事件に関するリットン調査団報告書が、1933年2月24日、国際連盟総会で圧倒的多数で可決されると、日本の松岡代表は総会を退場。1933年3月27日 国際連盟からの脱退を正式に表明した。国際連盟から信託統治された南洋諸島に対する統治は継続された。
小林多喜二(1933) 2月20日 日本共産党の地下活動に従事していた小林多喜二が特高警察に捕縛され築地警察署に連行され、拷問により殺害された。
野呂栄太郎(1934) 2月19日 野呂は1933年11月28日に特高により捕縛されていた。もともと肺結核を病んでいたが、品川警察署での拷問により病状が悪化し死亡した。
滝川事件(1933) 京都帝国大学法学部教授滝川幸辰が1932年10月に行った講演の内容が無政府主義的な内容であるとして、文部省・内務省から問題視された。翌年、滝川の刑法の教科書が発禁処分を受け、時の文部大臣鳩山一郎が滝川の辞職を迫るに至る。これに対し法学部教授会は全教官が辞表を提出し対立した。滝川含む6名の教官に免官の辞令がでたほか、15名の教官の辞職につながった。この教官のうち18名を立命館大学が受け入れている。
天皇機関説事件(1935) 東京帝国大学教授美濃部達吉の天皇機関説が貴族院本会議で非難を受けたこと(1934)を皮切りに、美濃部が攻撃を受け、貴族院による天皇機関説排撃決議、内務省による美濃部の著書の発禁、美濃部の貴族院議員および東大教授の辞職に至った事件。
2.26事件(1936) 陸軍青年将校によるクーデター事件。動員された下士官の数は1400余名。高橋是清蔵相、斎藤実内大臣などのほか警備の警官を含め10名あまりが殺害された。事件の首謀者とされた16名の将校は銃殺刑。翌1937年には思想的指導者として北一輝も死刑に処せられた。
西安事件(1936) 12月12日 抗日を優先すべきだとする張学良と楊虎城により蒋介石が監禁された事件。その後、張学良は50年あまり幽閉される。楊虎城は家族ともに蒋介石により殺害された。この事件は第二次国共合作につながる。
南京事件(1937) 日本軍の南京占領に際して南京とその周辺で農民や市民に残虐行為を行ったとされる事件。大量の虐殺行為があったことは疑いがないが、被害者の規模について諸説がある。南京事件の真相 2万に近いと思われる捕虜の虐殺などを兵士の日記などで裏付けている。
矢内原忠雄(1937) 東京帝国大学経済学部教授矢内原忠雄(植民政策論)がその考え方のゆえに辞職に追い込まれたもの。直接には南京事件批判が契機。矢内原は戦後、社会科学研究所長、経済学部長、教養学部長、東大総長を歴任した。
教授グループ事件(1938)  大内兵衛教授、有沢広巳助教授、脇村義太郎助教授、など全国で37名が逮捕された事件。大内教授たちの事件は6年後の控訴審で無罪判決。しかし当時の東大は復職を認めなかった。
平賀粛学(1938) 経済学部内の抗争を治めるとして、ファシズム批判で著書が発禁処分となった自由主義者の河合栄次郎、そして国家主義派の土方成美の双方に総長平賀譲が辞職を求めたもの。河合は復権することなく第二次大戦中に亡くなった。この平賀粛学に対し抗議して辞表を提出するものが少なくなかった。河合の弟子の大河内一男と木村健康は辞表を撤回、河合から破門された。

シンガポール華僑粛清事件(1942)  1942年2月15日シンガポールを占領した日本軍は、華僑系住民を抗日勢力の主体とみて2月下旬から3月にかけて大量に虐殺する行為を行った。犠牲者の数について議論がある。この事件はシンガポールに強い反日感情を残した。第二次大戦後で行われた裁判で死刑判決が日本軍将校二人にとどまったことは、中国住民の不満としてのこった。この事件を主導した、陸軍参謀辻政信が逃亡により死刑を免れただけでなく、戦後の日本で政治家として復権したことは問題だった。
バターン死の行進(1942)  1941年12月23日 日本軍はフィリッピンのルソン島に上陸した。マッカーサーの率いる極東軍はバターン半島とコレヒドール要塞にたてこもる。が、1942年3月12日にマッカーサーはコレヒドールを脱出。4月9日に日本軍はコレヒドールを残してバターン半島を占領する。ここで生じた問題は76000名という大量の捕虜であった。この捕虜を徒歩で収容所まで長距離移動させる間の過酷な扱いが戦後「死の行進」として問題視された。移動中(疲労・虐待・諸兄・疾病など)の死者は1万程と推定されている。脱走もあり、収容所にたどり着いたものは54000名ほど。この事件でも、陸軍参謀辻政信が大本営命令と偽って「捕虜の全員処刑」を指示し、一部で処刑が行われたことが知られている。
インパール作戦(1944) 1944年3月から7月にかけて、戦局打開のために、蒋援ルートを断つため、インド北東部の都市インパールに向けて侵攻しようとした日本陸軍の作戦を指す。長距離の山岳地帯を超える補給の困難を無視した牟田口廉也司令官の無謀な作戦により2万名以上の将兵が落命した。佐藤幸徳師団長が抗命という軍紀に反した行為で将兵の命を救ったことは有名。牟田口は戦後、シンガポールで戦犯として裁かれたが死刑になることもなく天寿をまっとうした。
マニラの虐殺(1945) 1月ルソン島に再上陸した米軍は2月3日からマニラに攻撃をしかけ、戦闘は3月3日におよび、このあいだにマニラ残留住民70万のうち10万人が犠牲になったことを言う。このほかマニラは焦土となり歴史的建造物の多くが焼失した。日本軍の死者1万2000名あまり米軍に死者1000人あまりであった。このマニラ戦では、住民の被害を避けるため、無防備都市宣言をして撤退するという構想は日本軍にもあったものの、異論があり実現しなかった。破壊と多数の犠牲者はフィリッピンの反日感情の一因として記憶されている。
沖縄戦(1945) 3月26日から6月23日にわたった沖縄戦の死者は日本側188136名 連合国側14092名とされる。日本側のうち沖縄県人の死者は123218名におよぶ(戦闘員28228名 準戦闘員55246名 一般住民38754名)。このほか強姦などの事件も多発した。

ソ連軍の侵攻開始(1945)  1945年8月9日未明
葛根廟事件(1945) 8月14日 興安から退却中の日本人婦女子を中心とする千数百名がソ連軍の襲撃を受け、虐殺された事件 満蒙開拓団とその犠牲者 1931年から1942年までの間 満蒙開拓団として中国に送り込まれた日本人の数は約27万人とされる。敗戦後、自殺・集団自決・飢餓・病気などによる死者が約8万人、中国に残留することになった孤児、婦人の数が約1万人とされる。

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