中国人の対日感情を悪化させる契機となった事件として改めて記憶される必要がある事件。
事件の発端経緯ともに日本と中国で流通している情報に大きな差がある。まず日本で流通している情報は、発端は済南で日本人の居留民12名が襲われ虐殺されたほか多数の日本人被害者がでたことを事件の発端とする。その被害者検分の様子などの写真を示して、このような残虐行為は日本人のなせることではないとする。
そしてその事件を契機に居留民保護を名目に日本軍が済南に進駐したと伝える。
これに対して中国で流布している情報は、事件の発端は、病院への兵士の搬送を日本軍兵士が阻止して、刺殺したことに対して憤激が広がったことにあり、夜半にいたり中国側の交渉のための役所に日本軍が入り、文官ら17名を日本軍が虐殺したことを、その虐殺の様子を描写してこちらも非道として非難している。
そしてその後の日本軍の済南武力制圧で数千人の中国人の犠牲者がでたとする。
もちろん今となっては正確な事実関係は把握しがたい。当時の写真とされるものが一部あるものの、本当に現場のものかは確認される必要があるだろう。
客観的にいえることはこの事件の発端において、日本人(麻薬や売春宿にかかわっていたとの説あり)が襲われる事件があり日本人に被害者がでたこと。
日本軍が事情があるにしても中国側の官公署を襲い文官を含む17名を殺してしまったこと、そしてこの事件を契機に反日の機運が中国社会で高まったことである。
このとき殺されたのは蔡公时(1881-1928)という外交官。実は日本の東京帝国大学法学部政治学科で学んだ知日派である。日本語も堪能だったはず。
蔡公时は日本軍に対して、日本語でその非道を非難したところ、残虐に殺されたと中国の文献は伝えている(中国側の文献では現場から脱出できたものがおりその証言で事実関係は分かっているとの主張であるようだ)。日本側の文献は、蔡と日本軍の間で会話はなく、銃撃に対して反撃し、掃討したにすぎないとするが過剰な掃討の印象はある。果たして蔡公时に関する事実はどうだったのだろうか。
済南事件は、日中の不幸な歴史の象徴ともいえる。