せかいのうらがわ

君と巡り合えた事を人はキセキと呼ぶのだろう
それでも僕らのこの恋は「運命」と呼ばせてくれよ

幻肢痛(ファントムペイン) -第四章

2009-04-05 22:46:20 | 小説
何があろうとシルク製の手袋を外さないエリクでも、素手で触れるものがあった。
初めの晩彼女は疲弊していたし、朦朧とした意識の中で到底そんな些細な事を思い出せるはずがない。
とにかくエリクは綺麗好きで、仕事に出掛けた晩には必ず風呂に入る。それから何時間も出てこないので、風呂が空く頃にアニタは既に眠っているのが常なのだが―それでも一度だけ、目にしたことがある。彼がその手で、白い手でなにかに触れるのを。
―肌をなぞるその手さえ、手袋の中だというのに。違和感と同時に不愉快な感情が、アニタの中にじわりと広がった。まるで毒のような、痛みと共に。

「アンタの手は何を守ってる?手袋に守られたままじゃ、いつか手が腐っちまうんじゃないか」

挑発的で、どこか皮肉げにアニタは言う。
エリクは自分自身を汚れていると言い、頑なに触れられる事を拒む。いくらアニタが指摘してもそれを外さないし、無理に外そうとすればひどく取り乱す。背に触れることは許すくせに、肌を絡ませることも許すくせに、どうしたって手には触れさせてはくれない。
エリクの背をねめつけて、けれど彼が振り向かなかったのはその視線に敵意が含まれていなかったからか。相当毒されている、とアニタは苦笑した。

「…おれが触れる、ものは」

触れさせてくれないといえばもう一つ、唇に触れる事も、許さない。
一体その手で何を守っているのかぐらいは聞き出しておかないと、最早気持ちの治まりようがない。じわりと広がる痛みを感じて、彼は自身に毒を飲ませたのだと思うことでアニタはそれを誤魔化そうとした。金の髪が白いシーツに散らばり、刺繍の花のようになる。
手袋をはめたままの手のひらを見つめながら、エリクは珍しく顔を歪めた。血色の悪い唇が、何かを言いかけて震える。

「一つにおれと、二つに無機物。三つ四つは遠い昔に失くしたが、」

目を閉じて、エリクはある人影を思い浮かべる。生きてはいるのだろうが、どこへ行ったのやら検討もつかない。彼女は彼にとって十分すぎるほど重い約束を残してどこぞの空へと飛び去った。まだ彼女が居た頃は、そこまで手袋程度の物に固執する人間ではなかったのだが―そこまで考えて、不意にエリクは汚れてもいない手袋を床へと落とした。
唐突に振り向いたエリクがこちらへと手を伸ばしているのに気づき、アニタは無意識に身を硬くした。殺される、と。そう思ったのはたった一瞬。

「―貴殿は、五つ目の存在になりたいのか?」

その視線に似て酷く冷たいだろうと思っていた手は、生物らしく温い温度を持っていた。エリクの手はアニタの首へ伸ばされ、呼吸の妨げになる程度には力がこもっている。問いに答えようとアニタが吸った息は、口笛を吹いたかのように高い音を立ててか細く器官へと送られる。
強い既視感に背筋を凍らせながらも、それを悟られぬようアニタは目を細めた。視線を絡め取らんとばかり、エリクを見返す。

「…なりたい、と言ったら。エリクはアタシの為に、エリクを殺せる?」

実際アニタは、エリクがどれほどそれを遵守してきたのか、どことなく理解していた。それでも、今の彼を否定してでも、変えたい何かがあったのか―訊かれれば、アニタはそれに答える事はできない。エリクも、彼女自身すらも知らないのだ、その感情を何と呼ぶのか。エゴに似た、その感情を。
心情を知ってか知らずか、エリクは皮肉な笑みを浮かべてアニタを嘲笑った。意表を突かれたわけではなく、ある程度予想していた反応にアニタは落胆を色濃く映しながら笑い返した。

「おれは、おれを殺しはしない。無論、他人にやらせるつもりもない。…結果的に、貴殿の期待には添えぬだろうな」

よりにもよって彼が頷くわけもないと諦めていたのだが、いざ言われてみれば人とは脆いもので、鉄壁と思っていたその表情にすら震えが窺えた。知らない言葉を言おうとして、アニタの思考は虚空を彷徨う。言いたくても言えないもどかしさが涙になって流れ落ちる。
それを見て尚エリクは表情を崩さず、首を絞めていた手を頬へと滑らせる。アニタは死を待つ者のように目を伏せ、エリクの次の言葉を待つ。アニタが感じていた既視感は、悪い予感となって彼女を食いつぶそうとしていた。
だが。そう、エリクは呟く。何と言ったのかまでは聞こえなかったが、アニタは薄っすらと目を開き歪む視界の中にエリクを捕らえた。

「―おれは、おれを変える事ができる。それは意思ある者の特権だ、誰にも奪えはしない」

そこで一度言葉を切り、エリクは再度アニタへ伸ばした手に力をこめる。

「貴殿に"自害しろ"と言われぬ程度には、努力できよう」
「っ、誰が…!」

人らしからざる無感情さだった漆黒の瞳に苦い感情を浮かべ、エリクはアニタを見た。初めて目にするそれにも気を留めず、アニタはエリクの手を振り払い咄嗟に首元にしがみ付いた。アニタの肩口が喉元に食い込む感覚に、エリクはそこまでして死を望むのかと自嘲の笑みを深くするが、それは彼女の表情が見えないからこそ。
エリクの耳に触れたのは紛れもなく、―嗚咽だ。

「自殺なんてして欲しいもんか、アタシにはエリクしか居ない!」

泣き叫ぶようなアニタの声が、エリクの耳を劈く。お互いの表情をお互いに認識することができないからこそだろうか、縋り付くアニタの背を、エリクが抱き返すことはない。
震える拳をねめつけて動かそうとする彼の手には筋が浮かぶほど力が入っているというのに、その手は所有者の意思に反してその場に留まっていた。閉じた瞼の裏に浮かぶのは印象的な紅い目。女性にしては低めの声が今も鮮烈に浮かび上がってはエリクを縛っているのだ。

「…おれの手は汚れている。人を傷付け、命を奪い、罪悪も感じぬ悪党だ」

妙に脈打つ心臓を押さえる事もできず、ただアニタに身を任せながらエリクは遠い日の言葉をなぞる。閉じた目の裏では幻肢痛のように激しいフラッシュバックが起きているというのに、エリクの肌に触れる手はどこまでも暖かい。生きているのだ、と実感させられた。エリクの思惑を知らないアニタは更にその腕を強める。

「アタシの手だって、汚れてる。アタシはアンタを、一度殺したじゃないか。…だから殺し屋なんか、怖くない」

そう言うアニタの腕は、震えていた。死に掛けた彼女の支えとなっていたエリクを失う恐怖や傷付けたという罪悪感、そして何よりも、垣間見たエリクの苦渋の表情に、怯えていた。表情を崩さぬ彼をそこまで追い込んだ自身こそを、恐れていた。
だがアニタの心情が、エリクにわかるはずもない。彼女の震える腕を未だ素手のままで解けば、ベッドの上へと押し付ける。初めに出会った晩よりも些か乱暴に、彼が少しでも力を入れれば折れてしまいそうな細い腕を押し付け威圧的に顔を覗き込んだ。泣きはらした青い目は、当然の如く、淡く赤く色付いている。

「…おれが触れるものとは、一つにおれと、二つに無機物。三つと四つは遠い昔に失くしたが、」

そう言いながらエリクは腕を縫いとめていた手を離し、アニタの後頭部へと手をやる。髪を救い上げる手の感触は昨夜とは違い、生きた人の温度を持ったもので。

「五つ目の座は、貴殿にくれてやろう。―アニタ」

一度も交わしたことの無かった口付け。その間アニタもエリクも微笑すら浮かべなかったが、それは幾度も交わした事があるかのように自然なものだった。
夜に溶ける影、そこに愛などあろうものか。熱に溶解されていく思考の中、アニタが最後に探したのは、名も知らぬ感情の欠片だった。僅かに侵食されるその痛みこそ、

―――
(幻肢痛)
侵食されるその痛み。


これはヒドイw