せかいのうらがわ

君と巡り合えた事を人はキセキと呼ぶのだろう
それでも僕らのこの恋は「運命」と呼ばせてくれよ

珈琲と顰め面

2010-11-10 03:26:25 | 小説
 出されたコーヒーは、もうとっくに冷めていた。
 特に意味も無く深夜に押し掛けた私を顰め面で受け入れた目の前の男は、あと数時間で朝日が顔を出すという時間になっても一切の言葉を掛けようとはして来ない。元々仲が良いわけでも、寧ろ顔を合わせれば互いの顔に唾を吐き暴言を飛ばし舌打ちを響かせるような、そんな仲なのだから仕方が無いと言えば仕方が無かった。私だって、この男と雑談をしろと言われたところで何も思い浮かばないのだから今まで話しかけなかったのだ。
 だけどなんとなく、湯気を出すことの無くなった好みではない豆の濁り水を見ていて話しかけようと思う。ふと顔を上げ、数時間女子と空間を共にしながら仏頂面を貫く気だるそうな瞳を捉える。
 「……ねぇ、私紅茶の方が好きなんだけど」
 緊張していたわけでもなく、思ったよりもすんなりと声は出た。
 そうすると、一瞬彼がこちらに目を向ける。そうか、とか、有り得ないけど悪かったな、とか、そんな声を期待して精悍な鼻筋などを舐めるように見つめながらまた沈黙をやり過ごすけれど、体感時間で数分経っても声は聞けなかった。待ちくたびれ鼻を鳴らして抗議すれば結局目を逸らされ、あろうことか無言で立ち上がり彼はどこかへ行ってしまう。

 スカートが捲くれるのも気にせずソファに両足を上げ、膝を抱えながら他人事にああ、嫌われているのだなと再確認した。

 元よりそんなに喋る人ではない。ニコニコと愛想を振り撒くほど社交的なわけでもないが、かといって他人、ましてや知人と同じ空間に居ながら一言も発さなかったり呼び掛けに応えなかったりという剰りにも非社交的な人間かといえばそんなことはないのだ。良い事があれば人並みに喜び、辛い事があれば人並みに悲しみ、面白ければ人並みに声を上げて笑う。そして勿論、不愉快ならば人並みに顔を顰めて不機嫌になり、酷ければ簡単に怒る人だ。ただ女子には、少しだけ優しい。
 少し、たった少しだけでも我慢するのが彼の悪いところだな、なんて心の中だけで批判してみる。普段同性に対しては本当に簡単に怒るのだ、普段と違う行動を起こされれば乙女心は簡単に傾いてしまう。それが意図したものでなくても、それこそ簡単に。
 (……現に、私だって)
 そう、私はどうしようもなく、私に対してだけ非常に不機嫌なあの男が好きだった。
 何故かと言ったって特に理由なんて物はない。普段仏頂面の彼が友人にだけ見せる柔らかい笑みだとか、さり気無い気遣いだとか、腕っ節だとか彼を遠巻きに見守る連中が言っているような要素で好きになったのではないとだけは言えると思う。だって昔からそうだ、私の好きな男は"私にだけずっと無愛想"。友人と一緒に居るときですら私が視界に居ると笑わないのだ、それで好きになれという方が難しい。
 「報われないなあ」
 ぽつりとごちた時、どこへやら言っていた彼がふらりと戻ってきた。
 「なんだ、好きな奴でも居るのか」
 平坦な声。私が訪れてから初めて響いた彼の酷く心地良い低い音に顔を上げ、更に初めて見る訝しげな表情に目を見張った。持っているその全部中身の違う無数のコップはなんだ、とか、第一声がそれか、なんかより彼が漸く喋ってくれた事が想像以上に嬉しくて嬉しくて、また抱えた膝に顔を押し付け不覚にも溢れそうになる涙をこっそりと彼の視界から隠す。
 彼がジッポライターで煙草に着火する小さな音が、静かな部屋にやたらと響いた。
 「うん、まあね」
 「お前はそういうのに興味ないと思ってたんだがな」
 恋の話題にだけ突然食いつくとか、女子高生でもあるまいし。……などと堪忍袋の緒が紙よりも脆い好きな男に言えるはずもなく、小さく身じろいで慣れない話を慣れない相手とするこそばゆさを誤魔化す。
 確かにこういう手の話題は嫌いだ。甘すぎて馬鹿馬鹿しすぎて、そして何より慣れなさすぎて途中で噛みそうになるし、頬が赤くなりでもしたらあらぬ誤解――いや、誤解ではないのだけど――を生む事になってしまう。困るのは嫌いだ。私は頭が軽いから、彼のように難しいことをああやこうや考えながら喋るのはどうも苦手で仕方が無い。
 「……そう拗ねるなよ。お前が珈琲嫌いだなんて知らなかったんだ」
 油断すれば一瞬で涙声に変わりそうで抑揚無く平坦な声を出していたせいか、困ったように彼が言った。的外れもいいところだな、私のことなんて知らなくて当たり前だろ、なんてとてもじゃないが声に出しては言えない可愛げのない事を思いながら自分の膝の暗闇に目を凝らす。一頻り心内で悪態を吐いてから目線だけ上げると、案の定眉を下げてどうしたものかと困惑しているというか、呆れているというか、とにかく快い顔をしていない事だけは伺えた。
 「何かあったんだろ。こんな夜更けに来るなんて」
 「無いって言ったら?」
 反射的に、意地の悪い言葉が漏れた。何もかも見透かした風に、私だけは滅多にお目にかかれない薄笑いを浮かべてくる目の前の男が突然どうしようもなく憎たらしくなり、顔は俯いたまま短い前髪越しにきつくねめつけてやる。
 「無いって言ったら、どうする?」
 自分でも驚くほど低い声が出た。怒っている時ですら出ないような、心底不機嫌丸出しの不愉快な声。理不尽なのは分かっていた、ただ好いた男に好かれない悔しさや鈍感すぎる態度に対する怒りは到底隠しきれる大きさではないし、言わずに居たらそれこそ泣き出してしまうような気がしてならなかった。
 銜えた煙草が落ちる寸前ほどに唇を薄く開き、彼は一瞬だけ目を見開く。そして煙を大きく吸い込み壊れた機械の様に大量の煙を吐き出すと斜め下、斜め上、左右上下と視線を彷徨わせ始めた。だんだんと私が苛々し始め勝手に押し掛けておきながら勝手に帰ろうとした時、彼は頭を乱雑に掻くと突然見たことも無いほど破顔しその手で私の頭をぐりぐりと撫で回した。
 驚きに声も出なかった。
 「……嘘吐きだなあ、お前」
 喉が掠れて声は出なかったが、なんで、と唇だけは動いた。
 初めて見る微笑みに見とれていたとか、どうして嘘を指摘するのにそんな顔をするんだとか、本当に私が彼に言いたい事は沢山あった。けれど絶対に返してはもらえないから。だから毎日毎日ずっと飲み込んで唇に乗せるのは当たり障りの無いような、それこそ返事に困って仲が特別良くも無ければ返してもらえないような話題だけ。
 どうしようもないのは私だ。恋心でも、彼でもない。先の唇の動きが伝わったのか伝わらないのかは分からないが、とにかくばかな頭で色々考えて勝手にああやこうやしている私に、頭のいい彼はとんでもない爆弾を落とした。
 「わかるよ、好きな子の事だもんな」
 なんでわかっちゃうんだよ、ばかやろう。

―――
(珈琲と顰め面)

分かる人にはわかるとおもうが、「何かあったんだろ?」の辺りで飽きてしまった