イエスの奇跡
教会機関誌
アダム・C・オルソン
ヨハネは,救い主が水をぶどう酒に変えられたことについて福音書で述べている唯一の著者です(ヨハネ 2:1-11 参照)。それが救い主の「最初のしる
し」(ヨハネ 2:11)であったとわたしたちに告げるほど,ヨ
ハネはこの出来事に対して強い思いを抱いていました。
文化的には,ぶどう酒を切らしてしまうことは,関係者たち
の社会的な立場を傷つける恐れがありました。1 奇跡が人生
を変える劇的なものである必要はないと思いますが,それで
も人々の人生を変えた劇的な奇跡がたくさんあった中で,な
ぜヨハネはこの奇跡のことをそれほど重要に感じていたの
か,わたしは不思議に思ってきました。
なぜ奇跡か
救い主の務めの期間を通じて,奇跡がそれほど重要だったのはなぜでしょうか。助けの必要な人々に対する主の哀れみは,確かにその理由の一つでした(マルコ1:41 参照)。
加えて,奇跡は主の神聖な力と権能を示す重要な証拠でした
(マルコ 2:5,10 -11 参照)。そして奇跡的な出来事に
は,信仰を強め,主のメッセージに注意を向けさせる力があ
りました(ヨハネ 2:11;6:2 参照)。
その後,ある人が,救い主の奇跡はメッセージを聞くように人々を導いただけでなく,メッセージを教えるのにも役立ったことを指摘してくれました。2
水をぶどう酒に変えられたことからイエス・キリストとその神聖な使命についてどのようなことを学べるだろうかと自問したとき,新しい事柄が見え始めました。
救い主と,主が持っておられる人を救う力について,カナでの奇跡からわたしが学んだ 3 つの教訓を紹介します。
1.「わたしの時は,まだきていません」
マリヤがイエスに助けを求めたとき,イエスは,「わたしの時
は,まだきていません」(ヨハネ 2:4)と返答されました。これ以上の詳細はなく,ヨハネの記録からは具体的にマリヤが何を期待していたのか,また,イエスがどういう意味で御自分の時はまだ来ていないと返答されたのかは明らかではありません。
この言葉は重要なものとしてわたしの目を引きました。イエ
スは,御自分の公の務めを始めることなど,何か近い将来の
出来事に言及しておられたとも考えられます。しかし同時に,
この言葉はヨハネの記録の全体に響き渡っており,しばしば
主の贖いの犠牲という究極の奇跡を指し示しています(ヨハ
ネ 4:21-23;5:25 -29;7:30;8:20 参照)。最後に,この言葉は主の現世での務めが終わりを迎え,「イエス〔が〕この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知〔った〕」(ヨハネ13:1;強調付加。ヨハネ12:23,27;16:32 も参照)ときに,再び繰り返されています。そしてゲツセマネに向かう前に,主は次のように祈られました。「父よ,時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように,子の栄光をあらわして下さい。」(ヨハネ17:1;強調付加)
ヨハネが記録の至る所でこの言葉を繰り返すのを目にすることで,わたしは初めから終わりを見ることができました。
最初に,イエスは身体的な渇きを満たすために水をぶどう酒
に変えられました。そして最後に,主は聖餐のぶどう酒を用
いて御自分の贖いの血を表されました。主の贖いの血のおかげで,永遠の命を得ることが可能となり,主を信じる者は決して再び渇くことがないのです(ヨハネ 4:13 -16;6:35 - 58;3 ニーファイ 20:8 参照)。
2.「このかたが,あなたがたに言いつけることは,なんでもして下さい」
イエスに助けを求めた後,マリヤは僕たちに次のように言いました。「このかたが,あなたがたに言いつけることは,なんでもして下さい。」(ヨハネ 2:5) この言葉には一つの教訓があり,この話とエジプトのヨセフの話にはとても興味深い類似点があります。
「やがてエジプト全国が飢えた時,民はパロに食物を叫び求
めた。そこでパロはすべてのエジプトびとに言った,『ヨセフ
もとに行き,彼の言うようにせよ。』」(創世 41:55,強調付加)
マリヤはこのように結びつけるつもりはなかったかもしれ
ませんし,恐らくヨハネもそうでしょう。しかし,その類似
点に気づいたとき,わたしは二つのことを思いました。
まず,旧約聖書に出てくるヨセフやそのほかの人物がイエス・キリストとその使命をあらかじめ示している,もう一つの
例を見つけたということです。しかし,さらに重要なこととし
て,エジプトの話とカナの話はわたしに次のことを思い起こ
させてくれました。すなわち,イエス・キリストはその贖罪を
通してわたしたちを罪と死から救うことがおできになるだけ
でなく(それを主は後にパンとぶどう酒で表されますが),わ
たしたちを身体的,社会的,そしてそのほかの困難からも救
うことがおできになるということです。民のパンが尽きたと
き,パロは民に,ヨセフの言うことを何でもするように言いま
した。民はそのように行い,パンを得て,身体的な苦しみか
ら救われました。僕たちのぶどう酒がなくなったとき,マリヤ
は彼らに,イエスの言われることを何でもするように言いまし
た。僕たちはそのように行い,ぶどう酒を得て,関係者たち
は自分たちの義務を果たせない状況から救われました。
わたしたちがイエスの言われることを何でも進んで行うなら,主はわたしたちに対しても同様に行い,わたしたちの生活の中で奇跡を行うことがおできになります(ヘブル 10:35 -36 参照)。救われることは,主のあらゆる奇跡の中で最も大いなる奇跡であり,そのためには従順さが求められます(教義と聖約 14:7;信仰箇条 1:3 参照)。
3.「彼らは口のところまでいっぱいに入れた」
救い主は僕たちに,6 つの石の水がめを水で満たすように指示されました。そこで「彼らは口のところまでいっぱいに入れ」(ヨハネ 2:6 -7)ました。
その量について専門家たちの意見は様々ですが,それぞれのかめに数十リットルは入ると考えて間違いないでしょう。数リットルと数百リットルのどちらの水をぶどう酒に変える方が難
しいのかは分かりませんが, わたしの人生を変えたのは,イエ
スはあるものをまったく異なるものに変える力を持っておられるという理解です。主はただぶどう酒の味がする水を造られた
のではありませんでした。簡単な分子構造を持つ水を,何百も
の化合物の複雑な混合物であるぶどう酒に変えられたのです。
もしそれがおできになるのであれば,主はわたしの困難を祝
福に変えることがおできになります。ただ嵐に希望の兆しを加
えるのではなく,実際に試練の中身をわたしを祝福する何かに
変えてくださるのです(ローマ 8:28;2 ニーファイ2:2 参照)。
そしてもし一つの困難についてそのように行うことがおでき
になるのであれば,主はすべての困難についてそうすること
がおできになります。ですから,人生の水がめが試練で満ち
ているように思えるときには,主は水をぶどう酒に変えること
がおできになることを覚えていてください。主は灰に代えて
冠を与えることがおできになります(イザヤ 61:3 参照)。悪
を善に変えることがおできになります(創世 50:20 参照)。
わたしの過ちを成長に変え,わたしの罪を引き受け,それを
罪の宣告から進歩に変えることがおできになります。3
わたしにとって,その理解は何にも増して重要です。かつて
わたしが見過ごしていたこの奇跡は,わたしに次のことを教え
てくれました。主の力を通して,もしわたしたちが主の求められることを行う信仰を持つなら,主は過去のわたしたちから,わたしたちをなり得る姿へ,主のような者へと,わたしたちを変えることがおできになるのです。■
注
1. See Peter J. Sorensen, “ The Lost Commandment: The Sacred Rites of
Hospitality,” BYU Studies , vol. 44, no. 1 (2005), 4–32.
2.See Bible Dictionary, “Miracles.”
3.ブルース・C・ヘーフェン「贖い—すべてを受けるためにすべてをささげる」『リ
アホナ』2004 年 5 月号,97- 99 参照
2023 年 1 月 号 リアホナから、ご紹介しました。