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亡くなった幼い子供たちの救い:わたしたちが知っていること,知らないこと

2021-10-30 03:38:37 | 日記
亡くなった幼い子供たちの救い:わたしたちが知っていること,知らないこと
マーク・A・マシューズ
セミナリー・インスティテュート
末日の啓示が教えているこれらの真理は,福音の中でとりわけ麗しい真理です。



写真/Getty Images
ある友人がかつて,ブラジルでの伝道で経験したことを分かち合ってくれたことがあります。彼と同僚は,自分は宗教的なメッセージには一切興味がないと強く言い放つ女性に出会ったそうです。その女性は以前,ある宗教指導者から,幼くして亡くなった彼女の息子はバプテスマを受けていなかったので決して救われることはないと言われていました。それを考えると彼女の胸は張り裂けんばかりでした。この女性は宣教師たちに,もっと良いメッセージを聞かせてくれるのでないかぎり,そちらの宗教と一切かかわりを持ちたくないと言いました。

幸いなことに,宣教師たちはより良いメッセージを携えていました。

幼い子供たちの救いに関する末日聖徒イエス・キリスト教会の教義は,一つの聖句に要約されています。「責任を負う年齢に達する前に死ぬ子供たち〔は〕皆,天の日の栄えの王国に救われる……。」(教義と聖約137:10)

この教義は明快であるにもかかわらず,多くの人たちがこのテーマについていまだに疑問を持ったり,誤解したりしています。そこで,特によくある疑問を幾つか取り上げましょう。
幼い子供たちはどのように救われるのでしょうか?
多くの人が,幼い子供たちが救われるのは,単に彼らは罪がないからだと思っています。幼い子供たちは確かに罪がありませんが,モルモン書にははっきりと,イエス・キリストの贖罪がなければ,「幼い子供たち〔でさえ〕も,……救いは得られない」,なぜなら,「アダムによって,すなわち生まれながらの本性のために人は堕落する」からであると教えられています(モーサヤ3:16)。

罪はなくても,幼い子供たちは,堕落によってもたらされた肉体の死と霊の死を受けます。その結果,イエス・キリストの復活と贖罪がなければ,幼い子供たちもほかの人々と同じように,永遠に失われてしまうのです(2ニーファイ9:6-10参照)。

感謝すべきことに,モルモン書では,「キリストの血は〔幼い子供たち〕の罪を贖〔い〕」(モーサヤ3:16),「アダムののろいは……彼らから取り去られて〔いる〕」ことが明らかにされています(モロナイ8:8)。救い主の贖いのおかげで,幼い子供たちはアダムとエバの堕落の影響から解放されており,「彼らは……罪がない」のです(モーセ6:54)。
子供たちは何歳のときに救われますか?
教義と聖約第137章10節では,「子供たち〔は〕皆,天の日の栄えの王国に救われる」と教えられています。唯一の条件は,「責任を負う年齢に到達する前に死ぬ」ということです。十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は次のように説明しています。「責任を負える状態というのは,生涯の特定の時期に子供に突然開花するものではありません。子供は何年もかかって徐々に責任を負えるようになります。責任を負うようになるというのは,……一つの過程なのです。ただし,順当に成長する人の人生において,現実に責任を負うようになり,罪があるとされる時がやって来ます。それは8歳,すなわちバプテスマを受ける年齢です。」

言い換えるなら,責任を負う能力はずっと子供の中で育まれていきますが,8歳になるとき,彼らはバプテスマを受けるに当たって十分に責任を負える状態にあり,したがって自分の罪に対して十分に責任を負うことができるのです。

しかし,親であればだれでも知っているとおり,これは子供たちには自分で悪いと分かっていることを行う力がないという意味ではありません。これがほんとうに意味するところは,そうした間違った選択に対して,幼い子供たちはまだ十分に責任を負うことができないということです。

子供たちには「猶予期間」とでも呼ぶべき期間があり,その間に,彼らは間違った行いに対して責任を負うことなく,学び,成長して,やがて責任を負える状態になっていくのです。もしその期間に亡くなった場合,子供たちはバプテスマを受けることも,そのほかのいかなる努力も自分で行うよう求められることなく,キリストの恵みによって救われます(モロナイ8章参照)。
復活したとき,幼い子供たちはどんな状態なのでしょうか?
ジョセフ・F・スミス大管長(1838-1918年)は,多くの子供たちを幼いうちに亡くしました。スミス大管長は,幼い子供たちは幼い子供として復活し,復活の後,十分に成長するまで義にかなった両親によって育てられるという教義に慰めを得ました。スミス大管長はかつて次のように述べています。「ジョセフ・スミスは,幼くして死んだ子供は子供として復活するという教義を教え,子供を亡くした母親に向かって,こう語りました。『あなたは子供が復活した後,その霊の徳の高さに達するまでその子供を育てる喜びと楽しみ,満足を得るでしょう。』死より復活した後に,回復があり,成長があり,発達があります。わたしはこの真理をこよなく愛しています。この真理は大きな幸せと喜びと感謝をわたしの心に与えてくれます。これらの原則をわたしたちに啓示してくださった主に感謝しています。」

幼い子供たちは,十分に成長するだけではありません。彼らは完全な昇栄に達するのです。アビナダイは,「幼い子供たちも永遠の命を得る」と教えています(モーサヤ15:25)。預言者ジョセフ・スミスは次のように教えています。「皆さんの子供たちは皆さんのものになります。彼らの負債は支払われており,彼らは永遠の命を得るからです。」

日の栄えの王国の最高の階級を得るためには,責任を負える状態にある人は,結婚の新しくかつ永遠の聖約に入らなければなりません(教義と聖約131:1-3参照)。亡くなった幼い子供たちは,将来,こうした機会を持つことになります。ジョセフ・フィールディング・スミス大管長(1876-1972年)は次のように説明しています。「主はそうした子供たちに,昇栄にかかわるすべての結び固めの祝福の特権を与えられます。……このような子供は,復活後,霊の完全に成熟した状態まで成長すると,この世にとどまることを許されていたとしたら資格を与えられ,受けていたであろうすべての祝福に対して,その資格が与えられます。」
幼い子供たちはなぜ亡くなるのでしょうか?
この質問に答えるのは難しく,とりわけ子供を失った人たちにとっては,簡単に答えられるものではありません。この質問に答えるには,恐らく,次のように証したニーファイの言葉から始めるのがよいでしょう。「わたしは,神がその子供たちを愛しておられることは知っていますが,すべてのことの意味を知っているわけではありません。」(1ニーファイ11:17)

わたしたちは,死すべき世で起こるあらゆる悲劇について,その理由をすべて知っているわけではありませんが,神がわたしたちを愛しておられることは確信できます。悲劇が神の御心であるという前提で考えるべきではありませんが,神の計画にはあらゆる悲劇に打ち勝つ道が用意されています。「天が癒せぬ悲しみは,この地にあ〔りません〕。」



預言者ジョセフ・スミスとその妻エマには,なぜ幼い子供たちが亡くなるのかと尋ねる理由がありました。自分たちの子供のうち6人を亡くしていたからです。預言者はこう言っています。「わたしは……このテーマについて思い巡らし,幼児たち,罪のない子供たち,とりわけ最も英知に優れ,皆の関心を集める子供たちがわたしたちから取り去られるのはなぜかを問うてきました。わたしの思いに浮かぶ最も有力な理由は次のようなものです。すなわち,この世は非常に邪悪であり,……主は多くの人々を,幼児さえも取り去られますが,それは彼らが人のねたみやこの世の悲しみや悪事から逃れられるようにするためなのです。彼らは地上に住むにはあまりに純粋で,あまりに愛らしいのです。ですから,もし正しい考えをするならば,わたしたちは悲しむよりも,喜ぶべきです。彼らは悪から救い出されているのであり,わたしたちはすぐに彼らと再会することになるからです。」

もう一人の主の僕であるマッコンキー長老は,幼い孫娘の死を経験しました。その子の葬儀で,マッコンキー長老は次のように言っています。「肉体を受けるためだけに現世にやって来る霊たちがいます。わたしたちには分かりませんが,永遠の御父の無限の知恵において知られている理由のために,彼らは現世で試みを受ける,試しの経験を必要としません。」
いかなる祝福も差し控えられることはない



とこしえにいつまでも」グレッグ・K・オルセン画
この世の何をもってしても,子供の死によって家族が経験する喪失感を取り除くことはできませんが,亡くなった幼い子供たちは昇栄するという教義に慰めを見いだすことができます。わたしたちがこのことを知っているのは,愛にあふれた天の御父によって明らかにされ,現代の預言者や使徒たちによって教えられているからです。

末日の啓示が教えているこれらの真理は,福音の中でとりわけ麗しく,とりわけ慰めを与えてくれる真理です。

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※ お読みいただいてありがとうございます。

このお話は、2021年7月号末日聖徒イエス・キリスト教会リアホナからご紹介しました。

良い1日をお祈りします。




シオンをもたらす

2021-10-29 04:56:40 | 日記
シオンをもたらす

ゲレット・W・ゴング長老
十二使徒定員会

回復された福音の祝福にあずかっている末日聖徒として,わたしたちは教会を強め,シオンを築くために召されています




地図/Getty Images

昔から常に主の民は,主が住まわれる場所として福音に根ざした社会を創り出そうと努めてきました。そのような聖徒の集まりとなるために,わたしたちは心と思いを聖めて一つにすること,争いや論争をすることなく公正に振る舞うこと,義のうちに住んで自分たちの中に貧しい人がいないようにすることを学ぶ必要があります(モーセ7:18参照)。


例えば,ジョン・リンフォードとマリア・リンフォードは,1842年にイギリスのグレーブリーで末日聖徒イエス・キリスト教会に加わり,その後,ジョンはその地の支部の会長になりました。しかし親戚や友人たちは,リンフォード夫妻が回復の業に見いだした喜びを共にすることはありませんでした。彼らは新しい信仰を捨てるようジョンを説得できなければ,ジョンの製靴事業に対する不買運動によって「信仰の放棄に追い込む」つもりでした。

1856年,ジョンとマリアは永代移住基金によって,ソルトレーク盆地に移住する機会を得ました。夫妻は3人の息子を連れてニューヨークに航行します。そこからアイオワ州アイオワ・シティーに旅し,不幸な運命を迎えるジェームズ・G・ウィリーの手車隊とともに,その地を1856年7月に出発しました。

10月21日の早くに,ジョンはワイオミング州のスウィートウォーター川のほとりで最後の言葉を残します。

イギリスを離れたことを後悔しているかとマリアから聞かれ,ジョンはこう言いました。「一緒に来られたことをうれしく思うよ。僕が生きてソルトレークに着くことはないけれど,君と子供たちは無事に到着するだろう。子供たちがシオンで成長して家庭を持つことができるのなら,これまで一緒に経験してきたことにいささかの後悔もないよ。」


シオンとは何か



主イエス・キリストの降誕を除き,末日におけるイスラエルの家の集合と,救い主の再臨に備えてシオンを築くことほど,古代と現代の預言者たちや聖徒たちに霊感を与えてきたテーマというのは,ほとんどありません。


当時も今も,どこに主の民がいようとも,末日聖徒にとってシオンがそれほど重要であるのはなぜでしょうか。


十二使徒定員会のブルース・R・マッコンキー長老(1915-1985年)は次のように述べています。「アダムの時代から現在まで,主が御自身の民を持たれたとき,また主の声を聞き,主の戒めを守る民があるとき,そして聖徒たちが十分に固い決意をもって主に仕えたときに,必ずシオンは存在しました。」


聖文にはシオンの社会について述べられています。ノアの時代の預言者であり深い信仰を持っていたエノクは,「一つの町を建て,それは聖なる都,すなわちシオンと呼ばれ」ました(モーセ7:19)。主は御自分の民とともにそこに住み,民とその地を祝福されました(モーセ7:16-18参照)。主はエノクに,「見よ,わたしは神である。聖なる人とはわたしの名である」と言われました(モーセ7:35)。


シオンで目指すのは,天の日の栄えの諸原則に基づく,信仰により民が一つとなった場所を築くことです。そこは神の民が神とともに歩むことができ,神御自身が住むことのおできになる場所です。


モルモン書は次のように証しています。復活した救い主が新世界を訪れられた後,「民は……皆,地の全面で主に帰依した。……
また,彼らはすべてのものを共有したので,物持ちも貧しい者も,束縛された者も自由な者もなく,皆自由となり,天の賜物にあずかる者となった。……
そして,民の心の中に宿っていた神の愛のために,地の面にはまったく争いがなかった。」(4ニーファイ1:2,3,15)


義と力とをもって武装する

エノクの時代は戦争,流血,恐怖,暗闇,憎悪の時代であり,「サタンの力が地の全面にあった」時代でした(モーセ7:24。16,17,33節も参照)。しかしエノクは忠実であり,主から悔い改めを叫ぶよう召されました。


主はエノクに,御自分の再臨の前に同様の「ひどい艱難」があると言われました(モーセ7:61)。「わたしが生きているように確かに,わたしは終わりの時に,すなわち悪事と報復の時代に来て,わたしがノアの子孫に関してあなたに立てた誓いを果たそう。」(モーセ7:60)


現代において,ラッセル・M・ネルソン大管長は最近,次のように述べました。「わたしは現在の〔新型コロナウイルス感染症の〕パンデミックを,世界をむしばんでいるたくさんの病の一つに過ぎないと捉えています。ほかにも憎悪や暴動,人種差別,暴力,不正,礼節の欠如といった多くの病が存在しています。」しかし,わたしたちには預言者の約束があります。ネルソン大管長は次のようにも言っています。


「わたしたちは『先祖が切なる期待をもって待ち望んできた』時代に生活しています〔教義と聖約121:27〕。わたしたちは最前列の席で,預言者ニーファイが示現だけで見た出来事を生で目撃しているのです。ニーファイはこう述べています。『神の小羊の力』は『地の全面に散っている……主の聖約の民のうえに下る……。彼らは義と神の力とをもって,大いなる栄光のうちに武装していた。』〔1ニーファイ14:14〕


皆さん,兄弟姉妹の皆さんは,ニーファイが見たその男女子供たちの中にいるのです。」


幕の両側の人々を集めて祝福し,シオンを築き,わたしたちの救い主の再臨に世を備えるようにという招きには,わたしたちの一人一人が含まれています。ネルソン大管長はこう言っています。「これまで地球上に暮らしてきたすべての民の中で,わたしたちがこの最後の偉大な集合の業に参加するのです。

どのようにしてそこに至るか

回復された福音の祝福にあずかっている末日聖徒として,わたしたちは「〔主〕のぶどう園で働き,〔主〕の教会を築き上げ,シオンをもたら〔す〕ために召されて」います(教義と聖約39:13)。その業には,愛,一致,信仰,奉仕,犠牲,従順が求められます。



人々が心を尽くして主を愛し,義にかなった努力をして主のようになろうとするとき,社会の中の対立や争いは少なくなり,一致することの方が多くなります」と,十二使徒定員会のクエンティン・L・クック長老は言っています。クック長老はさらにこう述べています。「一致〔は〕幅広い意味を持つ言葉ですが,神を愛し,同胞を愛するといういちばん大切な第一と第二の戒めの実践を表す言葉であることは確かです。これは,一致で固く結ばれた心と思いを持つシオンの民を表しています〔モーサヤ18:21参照〕。」


その愛と一致をもって,わたしたちは信仰を働かせて救い主の贖罪にあずかります。主の贖罪は,わたしたちが心と生活を清くするとき,わたしたちを変えてくれます(モーサヤ3:19;教義と聖約97:21参照)。わたしたちは進んで主のもとに来ようとする人たちを義のうちに集めます。神聖な儀式と日の栄えの諸原則を通して,わたしたちは神性の力を自分の生活に招きます(教義と聖約84:20-21;105:5参照)。神と互いとの聖約によって聖別されたわたしたちは,シオンを築き,再臨に備えます。


「慈愛は,キリストの純粋な愛です」と,大管長会第二顧問のヘンリー・B・アイリング管長は言っています。「そして,長い間待ち望み,約束されてきたシオンに住むという高貴な賜物に,皆さんの愛し仕える人々や皆さん自身をふさわしくしてくれるのは,主を信じる信仰と,主の無限の贖いの完全な力です。」


来るべき日に備える

救い主のもとに来ることは個人の献身の問題であり,物理的な場所の問題ではないと,現代の預言者たちは教えています。


「教会初期の時代,改宗はしばしば移民をも意味しました」と,ネルソン大管長は説明しています。「しかし今日では,それぞれの国に民が集められます。主は聖徒たちに,各々の生まれた国においてシオンを打ち立てるよう命じられました。」


家庭,支部,ワード,ステーク,地域においてシオンを築くというチャレンジと祝福を受け入れるとき,わたしたちはジョン・リンフォードとマリア・リンフォードとともに,自分たちの子供や孫があらゆる国民,部族,国語の民の中にあって「シオンで成長して家庭を持つことができる」日を待ち望みます。


まず主と主の義を求めるとき,わたしたちは「主の王国が地上に進み行くように……,地に住む者がそれを受け入れて来るべき時に備えられるように」と祈ります。「そのとき,人の子は,地上に建てられた神の王国に会うために,その栄光の輝きをまとって天の中を降って来る」でしょう(教義と聖約65:5)。


※本日もお読みいただいてありがとうございます。

このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2021年9月号リアホナからご紹介しました。

赤字は、追加しています。

(再掲になります。)

良い1日をお祈りします。

幸福観と楽観的な考え方を培う

2021-10-28 05:09:19 | 日記

幸福観と楽観的な考え方を培う


「信じましょう。幸せでいましょう。失望しないでください。万事うまくいきます。」

ゴードン・B・ヒンクレーの生涯から


ゴードン・B・ヒンクレー大管長の母親,エイダ・ビトナー・ヒンクレーはある言葉をよく口にしていた。「幸せな気持ちとにこやかな表情があれば,ほとんどどんな不幸でも乗り越えられる。幸せになれるかどうかはその人自身に懸かっているのよ」というものであった。1父のブライアント・S・ヒンクレーもまた,「生まれながらに物事を前向きに捉る人」だった。2ヒンクレー大管長は昔を思い出してこう語っている。「わたしが子供の頃,批判的な口調になると,父はよくこう言ったものです。『皮肉屋は何も貢献せず,懐疑論者は何も作り出さず,疑り深い者は何も達成しない。』」3幼いときに両親の教えと模範から影響を受けたゴードン・ヒンクレーは,楽観的に,信仰をもって生きることを学んだ。

イングランドで宣教師だったときも,両親の教えを守ろうと一生懸命に努力した。毎朝同僚と握手し,「人生とは良いものだ」と互いに言葉を掛け合った。4それからおよそ70年後,フィリピンの宣教師たちに同じことを行うよう勧めてこう言った。「昨日はわたしの人生ですばらしい日でした。人生の毎日がすばらしい日です。皆さんの一人一人にとって,毎日がすばらしい日でありますように。朝伝道に出かける準備ができたら同僚と握手して,『兄弟(姉妹),人生とは良いものですね。さあ,行って良い一日にしましょう』と言えるように望んでいます。そして夜帰って来たら,互いにこう言えるように願っています。『今日は良い日でしたね。すばらしい時間を過ごし,人々を助けることができました。……これからもその人たちを助けて,彼らが教会に入るように祈り,願いましょう。』伝道中は,毎日が良い日であるべきです。」5

この勧告は,ヒンクレー大管長の人生観をよく表している。十二使徒定員会のラッセル・M・ネルソン長老は,ヒンクレー大管長とマージョリー夫人について次のように語った。「二人は過ぎてしまったことを考え込んだり,将来を心配したりして時間を無駄にするようなことはしません。逆境にあっても足を止めません。」6十二使徒定員会のジェフリー・R・ホランド長老も次のように言っている。「『万事うまくいきます。』これはヒンクレー大管長が家族や友人,同僚たちに確信をもって繰り返し語る言葉です。そして,こう言うのです。『努力を続けましょう。信じましょう。幸せでいましょう。失望しないでください。万事うまくいきます。』」7





楽観的になれる理由はいくらでもあります。」

ゴードン・B・ヒンクレーの教え

1

多くの人が否定的で悲観的であっても,わたしたちは幸福観と楽観的な考え方を培うことができる

この地には,風土病と呼んでいいほどの,悲観主義というひどい病が蔓延しています。また,人格破壊,あら探し,互いの悪口を言い合うなど,不快な出来事は絶えず耳や目に入ってきます。……

皆さんにお願いします。嵐を探し求めることをやめ,もっと太陽の光を楽しんでください。つまりわたしは,「良いこと」に目を向けましょう,と言っているのです。わたしがお願いしているのは,もう少し目を凝らして良いことを見つけ,侮辱や皮肉の声を静め,徳と努力に対して一層惜しみない称賛を送ることです。

どんな批判もしないようにと言っているのではありません。正すことによって成長することができます。悔い改めによって強さが得られます。人から間違いを指摘されたら軌道を修正できる人こそ賢明な男性女性です。どんな会話も甘く優しいものにしてくださいと言っているのではありません。賢明な言葉を心から率直に述べることは,身に付けて養うために努力すべき技能です。皆さんに提案し,お願いします。社会にはびこる否定主義から離れ,わたしたちが生活する国と時代の本当に優れたところに目を向けましょう。互いの欠点より互いの美徳について語りましょう。悲観主義を楽観主義に換えましょう。恐れを信仰に換えましょう。8

この世で楽観的に生きるべき理由は十分にあります。確かに悲しい出来事はいっぱいあります。どこも問題だらけです。しかし……悲観的,懐疑的な態度からは何も築くことはできません。何も生まれないのです。楽観的に物事をとらえ,信仰をもって取り組むとき,事は成ります。9

絶望してはなりません。あきらめてはなりません。雲間から差し込む光を見つけてください。そうすれば道が開けてきます。悲観的なことを予測する人たちにあなたの可能性を潰させてはなりません。10

幸福についての考え方すなわち幸福観を培ってください。楽天的な心を養ってください。信仰をもって歩み,自然の美しさや,愛する人々の善良さを喜び,神にかかわる事柄への証があることを喜んでください。11

主の計画は幸福の計画です。わたしたちが幸福観を培うなら,人生を歩む足取りは軽くなり,煩い事が減り,人間関係はより円滑になるでしょう。12

2

くよくよ悩まず,感謝の心を導き手とし,祝福を受けましょう


わたしたちは何とすばらしい祝福を受けているでしょう。どれほどの感謝を尽くせばいいのでしょうか!……日々の生活で受ける祝福と,一人一人が享受しているすばらしい賜物と特権に対する感謝の気持ちを深めましょう。柔和な人は地を受け継ぐであろうと,主は言われました(マタイ5:5参照)。柔和とは,人の助けは要らないという態度とは反対の感謝の心を意味し,人の力を超えるより大きな力があることを認識し,神を認め,神の戒めを受け入れることだと言わざるを得ません。それが知恵の始まりです。命とあらゆる善い賜物を与えてくださる神の前に感謝をもって歩みましょう。13

世界の歴史の中で,今ほど地上で生活することがすばらしい時代はありませんでした。これほどたくさんのすばらしい祝福が与えられているこの驚嘆すべき時代に生を受けていることに,わたしたちはそれぞれどれほど感謝すべきでしょうか。14

人類の歴史で成し遂げられたことを全て合わせた数よりさらに多くの驚異的なことが,わたしが生きてきた年月の間に達成されました。それを思うとき,わたしはただ畏敬と感謝の念に立ち尽くすばかりです。自動車と飛行機,コンピューター,ファクシミリ,電子メール,インターネットが思い浮かびます。全てが奇跡的で驚異的です。また,医学と公衆衛生の飛躍的な発展についても考えます。……これら全てに加えて,イエス・キリストの純粋な福音の回復がありました。皆さんとわたしが一翼を担っているこの大いなる大義と王国の奇跡と驚異は,地の上に広がり,それを受ける全ての人の生活を祝福していますわたしは心から深く感謝しています。15

わたしたちは,時満ちる神権時代に生きています。この言葉に注意してください。時満ちるという言葉に注目してください。これは,過去〔から〕集められ,この最後の神権時代に地上に回復されたあらゆる善を意味しています。

わたしの心は……全能の神への感謝の気持ちでいっぱいです。この世界の神である御子という賜物を通して,わたしたちはこの上ない祝福を受けてきました。「み恵み数えあげ 主の業数え見よ;み恵み数えあげ 主のみ業ほめたたえよ」という賛美歌の歌詞がわたしの心にこだまします(『賛美歌』153番)。16

心に感謝の念を抱き,目の前の数少ない問題についてくよくよするのはやめましょう。それより,祝福を数え上げ,深い感謝の気持ちを抱き,大いなる信仰に突き動かされて,地上に神の王国を築くために進みましょう。17

夜も昼も感謝の心を導き手とし,祝福を受けましょう。それを目指して頑張りましょう。そうすることですばらしい結果がもたらされます。18

3

イエス・キリストの福音は喜ぶ理由を与えてくれる


主はこう言われました。「また,心を高めて喜び,あなたが交わした聖約を固く守りなさい。」〔教義と聖約25:13〕。主はわたしたち一人一人に,幸福になりなさいと言っておられると,わたしは思います。福音は喜びです。福音があるので,わたしたちには喜びがあります。19

自分が何者であるかを決して忘れないでください。皆さんは確かに神の子供です。神は皆さんの永遠の御父であられます。そして皆さんを愛しておられます。……御父は御自分の息子と娘が幸福になることを望んでおられます。罪が幸福を生じたことはありません。背きが幸福を生じたことはありません。不従順が幸福を生じたことはありません。幸福への道は天の御父の計画の中にあり,御父の愛する御子,主イエス・キリストの戒めに従うことにあります。20

これまでどのように生活してきたかにかかわらず,皆さんに課題を差し上げましょう。……イエス・キリストの教えに沿って生活し,この教会を,皆さんの信仰の基として愛と敬意と感謝をもって見てください。模範となり,イエス・キリストの福音が人に幸福をもたらすものであることを示してください。21

「生きている間,大いに楽しみ,笑いましょう。人生とは,ただ堪え忍ぶだけではなく,楽しむためにあります。」
悔い改めは福音の第一の原則の一つです。赦しは神の業です。皆さんには希望があります。皆さんの人生はこれからです。たとえ,過去の人生が罪によって傷つけられたとしても,未来は幸せに満ちたものにすることができます。問題を抱えている人々を救い,助けるのが主の業であり,福音の目的なのです。22

わたしは日頃,与えられた責任の重さについて文句ばかり言う人に多く会います。確かに,わたしたちが受けるプレッシャーは相当なものです。しなければならないことが多くあります。多すぎるほどです。そうした圧力に加えて金銭上の問題もあり,それらを全部抱えていると,わたしたちはよく家の中で,またしばしば公の場でも不平を言ってしまいます。考え方を変えてみましょう。福音とはよきおとずれです。人は喜びを得るために存在するのです〔2ニーファイ2:25参照〕。幸せでいてください。その幸せの光をあなたが輝かし,証を通して伝えましょう。問題が起きることは予想できます。時には悲しい出来事もあるでしょう。しかし,主の次の願いは,こうした苦しいときの光です。

「すべて重荷を負うて苦労している者は,わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。

わたしは柔和で心のへりくだった者であるから,わたしのくびきを負うて,わたしに学びなさい。そうすれば,あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。

わたしのくびきは負いやすく,わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)

何年か前,わたしは『デゼレトニューズ』(Deseret News)のコラムに載っていたジェンキンズ・ロイド・ジョーンズの言葉を切り抜きました。わたしの好きな言葉です。皆さんにも紹介します。……彼はこう言っています。

「無上の喜びがごく普通に得られると思う人は,自分はだまされたと叫び回って多くの時間を無駄にするだろう。

ゴルフのパットはなかなか入らないものだ。牛肉はまず固い。ほとんどの子供は成長すればただの人となる。ほとんどの場合,夫婦がうまくいくためには相手への寛容さが大いに求められる。仕事は楽しいよりつまらないことが多い。……

人生とは昔の列車の旅のようなものだ。遅延,本線から側線にそれてしまうこと,煙,ほこり,すす,揺れは付き物で,美しい景色と胸のすくようなスピードが楽しめるのはごくたまにしかない。

大切なことは,主があなたを列車に乗せてくださったことに感謝することだ。」(Deseret News, 1973年6月12日付)

兄弟姉妹,繰り返しますが,大切なことは,列車に乗せていただいたことを主に感謝することです。実際のところ,人生はなかなかすばらしい旅ではありませんか。楽しみましょう。人生を笑い飛ばしましょう。歌いましょう。箴言の作者の言葉を忘れないでください。

「心の楽しみは良い薬である,たましいの憂いは骨を枯らす。」(箴言17:22)23

心を軽くすることを人生に取り入れましょう。楽しいこと,幸せなことがありますように。ユーモアのセンスを持ち,折りに触れて愉快なことを笑えるようになりましょう。24

生きている間,大いに楽しみ,笑いましょう。人生とは,ただ堪え忍ぶだけではなく,楽しむためにあるのです。25

4

福音とは勝利の言葉であり,熱意と愛を込め,楽観的に受け入れるべきものである


わたしは,主の業に関する楽観主義者としてここに立っています。神がこの業を打ち立てられたのは,挫折させるためだとはとても信じることができません。この業が弱くなってきているとも信じることはできません。この業がますます強くなっていることをわたしは知っています。……わたしはただ単純に,そして厳粛に,正しいことが勝ち,真理が勝利を収めるという信仰を持っています。26

カレブとヨシュアをはじめとするイスラエルの斥候たちの話はいつ読んでも興味深いものです。モーセはイスラエルの民を荒れ野へ導きました。荒れ野をさまよい始めて2年目,彼は十二部族から一人ずつ代表者を選び,カナンの地を探り,その地の産物と人々についての情報を持ち帰るよう指示しました。カレブはユダの部族,そしてヨシュアはエフライムの部族の代表でした。12人はカナンの地へと出かけて行きました。彼らはそこが肥沃な土地であることを知りました。40日の間探索し,その地が肥沃であることの証拠として「熟し始め〔た〕」ブドウを持ち帰りました(民数13:20)。

彼らはモーセとアロン,そしてイスラエルの全会衆の前にやって来てカナンの地についての報告をしました。「そこはまことに乳と蜜の流れている地です。これはそのくだものです。」(27節)

しかし斥候のうち10人は,自分の中の疑いと恐れの気持ちに負けました。その10人は,カナン人の体格のよさと人数の多さから悲観的な報告をしたのです。「彼らはわたしたちよりも強い」と結論づけ(31節),その地で見た巨人に比べれば,自分たちはイナゴのようなものだと言いました。彼らは自分の臆病さに負けたのです。

次に,ヨシュアとカレブが人々の前に立ち上がり言いました。「わたしたちが行き巡って探った地は非常に良い地です。

もし,主が良しとされるならば,わたしたちをその地に導いて行って,それをわたしたちにくださるでしょう。それは乳と蜜の流れている地です。

ただ,主にそむいてはなりません。またその地の民を恐れてはなりません。彼らはわたしたちの食い物にすぎません。彼らを守る者は取り除かれます。主がわたしたちと共におられますから,彼らを恐れてはなりません。」(14:7-9)

しかし人々はカレブとヨシュアよりも,懐疑的な10人を信じました。

このとき主は,疑いと恐れを抱いたこの世代の人々が世を去るまで,イスラエルの民は40年間荒れ野をさまようことになるであろうと宣告されました。聖文は「すなわち,その地を悪く言いふらした人々は,疫病にかかって主の前に死んだが,

その地を探りに行った人々のうち,……ヨシュアと,……カレブとは生き残った。」(37-38節)40年間荒れ野をさまよう旅を全うして約束の地に入る特権を受けたのは,その土地に関して前向きな報告をしたヨシュアとカレブだけだったのです。

わたしたちの周りには,この業の将来に無関心な人,冷ややかな人,限界を口にする人,恐れをあらわにする人がいます。また,自分の思い込みだけで,まったく無意味なあら探しをし,それを公表することに時間を費やしている人もいます。御業の過去に疑いを持つ人に,未来の姿は見えません。

古代の人は言っています。「未来の見えない民は滅びる。」(欽定訳箴言29:18)この業には,悲運と憂鬱の言葉しか信じない人の居場所はありません。福音とはよきおとずれです。勝利を伝える言葉です。熱い思いをもって受け入れるべき大義です。

問題など起こらないと主がおっしゃったことはありません。教会員はこの業に反対する人々が引き起こすあらゆる苦難を体験してきました。しかし,数々の悲しみの中にあっても,彼らは信仰を表してきました。この業は開始当初から常に前進を続け,一歩たりとも後退したことがありません。……

これは全能者の業です。わたしたち個人が前進するかどうかは,各自の責任です。しかし,教会が前進をやめることは決してありません。……

モーセをみもとに召された後,主はヨシュアに言われました。「強く,また雄々しくあれ。あなたがどこへ行くにも,あなたの神,主が共におられるゆえ,恐れてはならない,おののいてはならない。」(ヨシュア1:9)これは主の業です。決してそれを忘れないでください。愛と熱意をもって受け入れてください。27

5

わたしたちが皆神の子供であることを知れば,もう少し堂々とし,もう少し背筋を伸ばし,もう少し善い人になることができる


今の世の中には,人が互いにけなし合うという悲しむべき傾向が見られます。人を傷つける言葉を発するためにほとんど脳を使う必要がないことに皆さんはお気づきでしょうか。その反対を行ってください。相手に賛辞の言葉を送るように努めてください。……

またこの社会にあるもう一つの悲しい傾向は,多くの人が自分自身を過小評価することです。他の人が自信ありげに見えるかもしれません。しかし実際のところ,ほとんどの人は何らかの劣等感を持っているものです。大切なのは,そのことをあまり自分に問いかけないことです。……大切なのは,今自分の持っているものを最大限生かすことです。

自己憐憫に時間を無駄にしないでください。自分を過小評価しないでください。自分が神の子供であることを忘れないでください。皆さんには神聖な生得権があり,皆さんの内には間違いなく神の性質が宿っているのです。28

わたしたちは「神の子です」(『賛美歌』189番)を歌います。これはただの想像を詩的に表現したものではありません。これは生きた真理です。わたしたちの誰もが,何らかの神性を備えています。そしてその神性は育まれ,表に現れ出なければなりません。神性を表す方法を見つけなければなりません。父親,母親である皆さん,子供たちに彼らが文字どおり神の息子,娘であることを教えてください。自分の内に何らかの神性が備わっていると考えること,世界中でこれより偉大な真理はありません。29

自分自身を信じてください。自分には偉大で善いことを成し遂げる力があると信じてください。高すぎて登れない山などないと信じてください。耐えられないほどのひどい嵐はないと信じてください。……皆さんは神の子供です。無限の力を持っているのです。30

もう少し堂々とし,もう少し向上し,もう少し善い人間になりましょう。より一層努力してください。もっと幸福になります。それまで経験したことのない満足感と喜びを知るでしょう。31

もちろん人生には問題も起こります。克服すべき困難もあります。しかし,永遠に続くわけではありません。〔神〕は皆さんをお見捨てにはなりません。……

物事の良い面を見るようにしましょう。主が皆さんを見守っておられることを知ってください。主は皆さんの祈りを聞き,答えを与え,皆さんを愛し,その愛を表してくださることを知ってください。32

喜ばしいもの,すばらしいもの,美しいものがたくさんあります。それを基とした人生を歩みましょう。わたしたちはイエス・キリストの福音を生きる者です。福音とは「よきおとずれ」を意味します。主がお伝えになったのは,希望と救いの教えです。また主の声は,喜びを知らせる声です。主の業は栄光ある偉業です。

暗く,苦しいときに主は,愛する者たちに言われました。「あなたがたは心を騒がせるな,またおじけるな。」(ヨハネ14:27)

この力強い偉大な言葉は,わたしたち一人一人に示されたかがり火です。主こそ,わたしたちが信頼を置くことのできる御方です。なぜなら,主と主の約束は決して滅びることがないからです。33

すばらしい伴奏者

2021-10-27 04:44:15 | 日記
すばらしい伴奏者

ブリジッタ・ライト(アメリカ合衆国,ユタ州)

不平を言っていると,単純ながらも力強い考えが心に思い浮かび,感謝の気持ちが増しました。





著者の写真/アニカ・バークハート

長椅子に座り,両手をピアノの象牙色の鍵盤の上に置いて,指揮者からの合図を待つのは,どこか身震いのする瞬間です。伴奏はわたしの大好きな趣味の一つですが,注目を浴びるようなものではありません。時々自我が邪魔をして,自分の努力をだれかに認めてほしいと思うこともあります。

わたしたち伴奏者は,演奏者を支え,テンポを維持し,音楽のハーモニーや情感を作り出します。時には,演奏者の間違いをカバーすることもあります。リハーサルの前後には長い時間をかけて準備します。

時々,楽譜を受け取るのは最後でありながら,最初にそれを弾けるようになるのを期待されることもあります。

つらい時期,わたしはそうした気持ちに悩まされていました。自分の仕事をだれも評価してくれていないと感じていたのです。ある夜,わたしはベッドの脇にひざまずき,天の御父に語りかけました。

祈りの最初に,わたしは自分が行っていて,感謝を受けていない事柄をすべて並べ立てました。多くを望むわけではなくても,何かが欲しかったのです。わたしは天の御父に,自分が忘れられているように感じると伝えました。

不平を言っているうちに,御霊がわたしの心にある考えをささやいてくださり,そこからわたしの視点はがらりと変わりました。

ふいに自分の状況が別の角度から見え,わたしは祈るのをやめました。わたしは自分の不平の数々を,天の御父が伴奏をしてくださっているという観点から考え始めました。天の御父がどれだけわたしたちを助け,わたしたちの人生に価値を増し加え,間違いをカバーし,わたしたちのために「まどろむこともなく,眠ることもない」かということに(詩篇121:4),わたしたちは必ずしも気づいていないのだと思い至ったとき,わたしは驚き,謙遜な気持ちになりました。わたしたちは御父を最後に招いておきながら,最初に行動していただくことを期待していないでしょうか。

4 見よ、イスラエルを守る者はまどろむこともなく、眠ることもない。
4 Behold, he that keepeth Israel shall neither slumber nor sleep.
この経験の後,わたしは御父が人生に見事な伴奏をつけてくださっていることに感謝するようになりました。今のわたしがあるのは,御父と御子のおかげです。物事がまるで違って見えます!主はわたしの気持ちや不平について,わたしを責めたりはなさいませんでした。そうではなく,わたしを教えることを選ばれました。主やほかの人たちに対して別の見方をすることを教えてくださいました。

今では,自己憐憫のわなに陥ったときには,わたしはすばらしい伴奏者のことを思い出します。わたしが一緒にリハーサルをしていて,感謝をすべき御方です。天の御父はわたしに,以前とは違う方法で主に感謝すること,周りの人にもっと感謝の目を向けること,もっと感謝の心を持つこと,そして御子の次の言葉を覚えておくことを教えてくださいました。「わたしがきたのは,羊に命を得させ,豊かに得させるためである。」(ヨハネ10:10)


10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅したりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。

10 The thief cometh not, but for to steal, and to kill, and to destroy: I am come that they might have life, and that they might have it more abundantly.

今日もお読みいただいてありがとうございます。

このお話は、2021年10月号末日聖徒イエス・キリスト教会リアホナからご紹介しました。

聖句は、追加しています。

良い1日をお祈りします

神から与えられる貴重な賜物

2021-10-24 13:07:02 | 日記
神から与えられる貴重な賜物
M・ラッセル・バラード会長
十二使徒定員会会長代理

キリストを信じるまことの信仰をごくわずかでも,たとえ,からし種ほどの信仰でも行使するなら,人生を信仰と喜び,幸福,希望,愛で満たすことができます。
兄弟姉妹の皆さん,わたしたちはたった今聖会に出席したところです。この慣習は,古代イスラエルの民が集まって主の臨在を感じ,主の祝福を祝った聖書の時代にまでさかのぼることができます。わたしたちは,この古代の慣習が預言者ジョセフ・スミスを通して回復された時代に生きる特権にあずかっています。この最も神聖な機会に参加して感じたことを個人の日記に記録するよう,皆さんにお勧めします。

最近わたしたちは,愛する友人であり預言者である,トーマス・S・モンソン大管長に別れを告げました。だれもが寂しく思う一方で,主の教会を管理するために,主が新しい預言者,ラッセル・M・ネルソン大管長を召してくださったことに深く感謝しています。わたしたちは秩序ある方法で,今,教会歴史の新しい章を開いたのです。これは神から与えられた貴重な賜物です。

各自が手を挙げてネルソン大管長を支持したとき,わたしたちは神の御前に証人として立ち,彼がモンソン大管長の正統な継承者であることを認めました。また,大管長が主から指示を受けるときにわたしたちはその声に聞き従うことを,挙手をもって約束しました。

主はこう言われました。

「……彼〔すなわち教会の大管長〕が……わたしの言葉と戒めを受けるとき,あなたがた……は,彼があなたがたに与えるそれらのすべてを心に留めなければならない。

あなたがたは忍耐と信仰を尽くして,あたかもわたし自身の口から出ているかのように,彼の言葉を受け入れなければならない。」

わたしが新しい預言者である大管長と知り合ってから60年以上になります。十二使徒定員会でともに33年間奉仕しましたが,彼が管理使徒となり,地上の聖なる神権のすべての鍵を管理する預言者となるために,主の御手によって備えられるのを,わたしは目にしてきました。わたしたち一人一人が大管長と顧問を完全に支持し,彼らの導きに従うことができますように。わたしたちはまた,十二使徒定員会の会員としてゴング長老とソアレス長老を心から歓迎します。

わたしたちはこの輝かしい復活祭の週末にイエスの復活を祝いますが,イエスは復活後,弟子たちに現れてこう言われました。「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように,わたしもまたあなたがたをつかわす。」二つの行為に注目してください。まず神はその御子を遣わされます。そして御子は御業を成し遂げるために,主の僕,すなわち死すべき体の男女を遣わされます。

主の業を行うために召されたこれらの人が人間的に不完全であることを知っても,驚くべきではありません。聖典には,偉大な業を成し遂げるために神から召された男女の出来事について詳しく記されていますが,天の御父の善良な息子と娘が,教会での割り当てを果たすために奉仕するように召され,全力を尽くして務めながらも,一人として完全な人はいませんでした。わたしたちも同じです。

人間に弱さや欠点があるという現実を考慮すると,互いに支え合って前進していくにはどうすればよいでしょうか。それは信仰—主イエス・キリストを信じる,偽りのないまことの信仰から始まります。救い主を信じる信仰は,キリストの教義と福音の第一の原則です。

数年前,わたしは聖地を訪れました。からし畑のそばを車で通ったとき,BYUエルサレムセンターの所長から,からし種を見たことがあるか聞かれました。ないと答えると,車を止め,彼はからしの木から取った種を見せてくれました。驚くほど小さな種でした。

わたしはイエスの教えを思い出しました。「よく言い聞かせておくが,もし,からし種一粒ほどの信仰があるなら,この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば,移るであろう。このように,あなたがたにできない事は,何もないであろう。」

もしからし種ほどの小さな信仰があれば,わたしたちが家族や教会員,教会員ではない人を含め,神の子供たちとともに仕えるとき,待ち受けている課題に対する落胆や疑いという山を動かせるように,主は助けてくださいます。

兄弟姉妹の皆さん,キリストを信じるまことの信仰をごくわずかでも,たとえ,からし種ほどの信仰でも行使するなら,人生を信仰と喜び,幸福,希望,愛で満たすことができます。

ジョージ・A・スミス長老は,預言者ジョセフ・スミスから受けた助言を次のように回想しています。「ジョセフはわたしに,どのような困難に取り囲まれようとも,決して落胆してはいけないと言いました。ノバスコシアの炭鉱の底に沈められ,ロッキー山脈全体が頭上にのしかかってきたとしても,落胆せずに踏ん張り,信仰を働かせ,勇気を持ち続けるならば,ついには山の頂に出ることができるのです。」

パウロの言葉を思い出してください。「わたしを強くして下さるかたによって,何事でもすることができる。」これを知ることは,神から与えられるもう一つの貴重な賜物です。

わたしが話したこの賜物に加えて,もっと多くの賜物がありますが,その中からほんの少し紹介しましょう—安息日,聖餐,人への奉仕という賜物,そして神から与えられた,救い主という比類ない賜物です。

安息日の力とは,教会や家庭で,何からも妨げられずに,主の御霊を感じる楽しみや喜び,ぬくもりを経験することです。

あまりに多くの人が,電子機器を使ってほとんどオンラインの生活をしています。昼夜を問わず,彼らの顔は画面に向き,イヤフォンをしているので,御霊の静かな細い声を聴くことができません。電子機器から離れる時間を取らなければ,主の声を聞く機会を逃してしまうかもしれません。主はこう言われました。「静まって,わたしこそ神であることを知れ。」さて,主によって霊感された最新技術を利用するのは何ら悪いことではありませんが,賢く使わなければなりません。安息日の賜物を忘れないでください。

聖餐会で聖餐を受けるという祝福は,決してありふれた行為や決まり切った行為になってはいけません。わたしたちが生活の中で一息ついて,安らぎと喜び,幸せをより深く感じる時間は,1週間でわずか70分しかありません。

聖餐を取って聖約を新たにするのは,わたしたちが主を常に覚えることを主に示すしるしです。主の贖罪は,神から与えられる貴重な賜物です。

天の御父の子供たちに仕えるという特権は,互いに仕え合うことによって,御父の愛する御子の模範に従うもう一つの機会なのです。

奉仕の機会の中には,家族の中での奉仕や教会の召し,地域社会の奉仕団体への参加など,公式に割り当てられるものもあります。

教会員は男女を問わず,本人が望むのであれば,どこに住んでいようと,いかなるレベルの行政機関の役職であろうと,立候補することを躊躇すべきではありません。わたしたちの声は,学校や町や国にとって今必要であり,重要なのです。民主主義の国では,進んで奉仕する高潔な男性や女性に投票することが,会員であるわたしたちの義務です。

割り当てなしに,非公式に奉仕する機会の多くは,人生の旅路で出会う人々に手を差し伸べるときにもたらされます。イエスが良いサマリヤ人のたとえを使って,神を愛するべきことと,自分を愛するように隣人を愛するべきことを律法学者に教えられたのを思い出してください。

奉仕により,キリストの生涯と使命を理解するための窓が開かれます。聖文が教えているように,主は仕えるために来られました。「それは,人の子がきたのも,仕えられるためではなく,仕えるためであり,また多くの人のあがないとして,自分の命を与えるためであるのと,ちょうど同じである。

ペテロは救い主のこの世での使命を(5つの英単語で)的確に表現しています。イエスは「よい 働きを しながら……巡回 されました。

主イエス・キリストは,神から与えられるすべての賜物の中で,最も貴重な賜物です。イエスはこう言われました。

わたしは道であり,真理であり,命である。だれでもわたしによらないでは,父のみもとに行くことはできない。

ニーファイは救い主の重要性を理解して,こう宣言しました。「わたしたちはキリストのことを話し,キリストのことを喜び,キリストのことを説教し,キリストのことを預言し,また,どこに罪の赦しを求めればよいかを,わたしたちの子孫に知らせるために,自分たちの預言したことを書き記すのである。」わたしたちはいつでも,どこでも,キリストを生活の中心に置かなければなりません。

忘れてならないのは,わたしたちは主の御名を冠する場所で礼拝し,主の御名でバプテスマを受け,主の御名で確認や聖任,エンダウメント,結婚の結び固めを受けるということです。また,聖餐にあずかるときに主の御名を受け,真のクリスチャンになることを約束します。最後に,聖餐の祈りの中で「いつも御子を覚え」るように求められます。

明日の復活祭の日曜日に備えるとき,キリストが至高者であられることを覚えておきましょう。主は義の裁き主,誠実な仲保者,祝福された贖い主,良い羊飼い,約束されたメシヤ,真の友,まだまだ,たくさんあります。主はまさに,わたしたちの御父が与えてくださったきわめて貴重な賜物なのです。

主の弟子として,わたしたちは多くの要求や関心,割り当てを抱えています。しかし,中には,常に教会員の中心になければならない活動があります。主は命じておられます。「それゆえ,忠実でありなさい。わたしがあなたを任命した職において務めなさい。弱い者を助け,垂れている手を上げ,弱くなったひざを強めなさい。

これが行動する教会です。清く汚れのない信心です。霊的・物質的に困っている人々を助け,支え,強めるとき,それが真の意味での福音なのです。それを行うには,天の御父とイエス・キリストと主の贖罪を信じる信仰の証が彼らの心に根付くように彼らを見舞い,助けることが求められます。

主の助けと祝福があって,回復された主の教会の会員であることを含む,神からの多くの貴重な賜物を大切にできますように。わたしたちが天の御父の子供たちに対する愛で満たされ,彼らの必要を理解し,福音に関する彼らの質問や懸念に分かりやすく親切な方法で答えて,互いへの理解や感謝を増し加えることができるように祈っています。

イエス・キリストがわたしたちの救い主であられることを証します。この総大会で教えられることは,使徒や預言者から,中央幹部から,そして教会の中央組織の指導者である姉妹たちから,霊感によりもたらされます。主の喜びと平安が一人一人とともにありますように,主イエス・キリストの御名により,へりくだり祈ります,アーメン。

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※お読みいただいてありがとうございます。


赤字は、追加しています。

良い月曜日をお祈りします。