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立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう

2022-06-30 04:56:00 | 日記

什分 じゅうぶん の一 ―― 貧しくても従うべき戒め

リン・G・ロビンズ

七十人

時の初めから,真の犠牲とは,忠実さを証明するものでした

チャールズ・ディケンズの不朽の名作『クリスマス・キャロル』に登場するボブ・クラチットは,クリスマスの日を家族と一緒に過ごしたいと望んでいました。「もし差し支えないようでしたら」とボブは雇い主のスクルージに申し出ました。「差し支えるよ」とスクルージは言いました。「『冗談じゃない。休んだ分の半クラウンを給料から差し引いたら,君はひどい目に遭ったと思うだろうね,きっと。……だがな,君はわたしがひどい目に遭っているとは思わないだろう。仕事をしない雇い人に,一日分の給料を支払うというのに。』クラチットは1年にたった1度のことだと言いました。するとスクルージはこう言いました。『毎年12月25日になる度に,人の懐からかすめ取っていくにしては,まずい言い訳だ。』」 スクルージのように心底自分本位で「生まれながらの人」にとって,犠牲を払うことは,常に差し支えるものなのです。

生まれながらの人には,自分のことだけを考える性癖があります。自分を最優先するばかりでなく,神をも含めて他人のことを二番目に位置づけることさえ,ほとんどありません。生まれながらの人にとって,犠牲を払うというのは当たり前のようにできることではありません。より多く得たいという,飽くことのない欲求の持ち主だからです。いわゆる「どうしても避けられない出費」が常に収益以上に思えるため,「十分に」持っているという感覚には永遠に手が届きません。ちょうど守銭奴しゅせんどスクルージがそうだったように。

生まれながらの人は金銭をため込んだり,または全財産を使い果たしてしまったりする傾向があることから,賢明にも主は,古代のイスラエルの民に犠牲をささげるよう命じられました。すなわち家畜の群れのうち,最後のものでも最も貧弱なものでもなく,初子ういごをささげるように,また畑の収穫の残り物ではなく初物をささげるようにと命じられたのです(申命26:2;モーサヤ2:3;モーセ5:5参照)。時の初めから,真の犠牲とは,忠実さを証明するものでした。

犠牲を払おうとしない人の中には,両極端な二つのタイプがあります。一方は犠牲を払うのを好まない貪欲どんよくな富者であり,他方は犠牲を払いたくてもできないと思い込んでいる貧者です。しかし飢えに苦しんでいる人に向かって,食べるのを控えるようになどと,どうして言えるでしょうか。また犠牲を払うことを期待されていないくらい貧しいという貧困のレベルが存在するでしょうか。あるいは貧窮すぎるために什分の一を免除されるべき家族が存在するでしょうか。

主は福音の原則を分かりやすく説明するために,しばしば極端な状況を採り上げてお教えになります。ザレパテのやもめ女の話は,極度の貧困を示す一例であり,憐あわれみが正義から何も奪うことができないのと同様に,犠牲をささげる機会を奪うことができないという教義を教える際によく用いられます。実際,どれだけ多く差し出したかではなく,何を犠牲にしたかによって,より正確に犠牲の価値は測られるのです(マルコ12:43参照)。食料棚に食物がぎっしり詰まっているときではなく,むしろ空っぽのときに,信仰は試されるのです。そのような決定的な瞬間において,危機は人格を形成しません。あらわにするのです。危機は試しなのです。

( マルコ12:43そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。 )

ザレパテのやもめ女は,預言者エリヤの時代に生きていました。預言者エリヤの言葉によって,主は3年半の間,地上に干ばつを送られました(ルカ4:25参照)。飢饉ききんが増大し深刻になったために,多くの人が死に瀕ひんしていました。このような状況を背景に,このやもめ女の話は展開するのです。

( ルカ4:25よく聞いておきなさい。エリヤの時代に、三年六か月にわたって天が閉じ、イスラエル全土に大ききんがあった際、そこには多くのやもめがいたのに、 4:26エリヤはそのうちのだれにもつかわされないで、ただシドンのサレプタにいるひとりのやもめにだけつかわされた。

主はエリヤに「立って……ザレパテへ行〔き〕なさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」と言われます(列王上17:9)。ここで興味深いのは,やもめ女とその息子が死の淵に立って初めて,エリヤはザレパテに行くよう告げられたということです。それはやもめ女にとって,餓死に直面するという,まさに信仰が試される極限の状態だったのです。

(列王上17:1ギレアデのテシベに住むテシベびとエリヤはアハブに言った、「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう」。 17:2主の言葉がエリヤに臨んだ、 17:3「ここを去って東におもむき、ヨルダンの東にあるケリテ川のほとりに身を隠しなさい。 17:4そしてその川の水を飲みなさい。わたしはからすに命じて、そこであなたを養わせよう」。 17:5エリヤは行って、主の言葉のとおりにした。すなわち行って、ヨルダンの東にあるケリテ川のほとりに住んだ。 17:6すると、からすが朝ごとに彼の所にパンと肉を運び、また夕ごとにパンと肉を運んできた。そして彼はその川の水を飲んだ。 17:7しかし国に雨がなかったので、しばらくしてその川はかれた。

17:8その時、主の言葉が彼に臨んで言った、 17:9「立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう」。)

ザレパテの町に着いたとき,エリヤはやもめ女が薪を拾っているのを見ました。

「……彼はその女に声をかけて言った,『器に水を少し持ってきて,わたしに飲ませてください。』

彼女が行って,それを持ってこようとした時,彼は彼女を呼んで言った,『手に一口のパンを持ってきてください。』

彼女は言った,『あなたの神,主は生きておられます。わたしにはパンはありません。ただ,かめに一握りの粉と,びんに少しの油があるだけです。今わたしはたきぎ2,3本を拾い,うちへ帰って,わたしと子供のためにそれを調理し,それを食べて死のうとしているのです。』」(10-12節)一握りの粉というからには,ごく少量でしょう。恐らくせいぜい一人分にしかならないでしょう。この事実を踏まえると,エリヤの応答には興味をそそられます。「エリヤは彼女に言った,『恐れるにはおよばない。行って,あなたが言ったとおりにしなさい。しかしまず,それでわたしのために小さいパンを,一つ作って持ってきなさい。……』」(13節,強調付加)

さてこの答えは利己的に聞こえないでしょうか。最初にできたパンというだけでなく,ことによると一つしかないパンを要求しているのですから。わたしたちは両親から,まず人を優先するようにと教えられなかったでしょうか。ことに紳士たる者は女性を優先するように,とりわけ飢えに苦しむ寡婦かふを優先するようにと教えられなかったでしょうか。このときザレパテのやもめ女が選ぶ道とは,自分が食べるという選択肢でしょうか,それとも最後の食事を犠牲にして死を早める道でしょうか。恐らく彼女は,自分の食物を犠牲にすることでしょう。しかし飢え死にしそうな息子の食物を犠牲にすることが,果たしてできるでしょうか。

エリヤは,祝福は試しの後にやって来るという教義を理解していました(エテル12:6;教義と聖約132:5参照)。エリヤは利己的だったわけではありません。主の僕しもべとして,与えるためにそこにいたのであって,受けるためではありませんでした。物語を続けましょう。

「『しかしまず,それでわたしのために小さいパンを〔すなわち最初にできたパンを〕,一つ作って持ってきなさい。その後,あなたと,あなたの子供のために作りなさい。

「主が雨を地のおもてに降らす日まで,かめの粉は尽きず,びんの油は絶えない」とイスラエルの神,主が言われるからです。』

彼女は行って,エリヤが言ったとおりにした。彼女と彼および彼女の家族は久しく食べた。

主がエリヤによって言われた言葉のように,かめの粉は尽きず,びんの油は絶えなかった。」(13-16節,強調付加)主が最も極端な状況を例に取って教義を説かれる理由の一つは,言い訳する余地をなくすためです。最も貧しいやもめ女に対してさえ,最後の一握りを犠牲にするよう主が求められるのであれば,犠牲を払うのは「差し支える」とか難しいとか考えるあらゆる人にとって,どこに弁解の余地があるでしょうか。

監督や宣教師は,貧しい人たちに什分の一の律法を教えるに当たって,決して躊躇ちゅうちょしたり,信仰に欠けることがあったりしてはなりません。「この人には什分の一を納める余裕がない」と同情するのではなく,「この人は什分の一を納めないわけにはいかない」と考える必要があるのです。

援助の必要な人を助けるために監督が第1にすべきことの一つは,什分の一を納めるように勧めることです。このやもめ女と同様に,もし貧窮の状態にある家族が,什分の一を納めるか食べるかという決定を迫られていたとしたら,什分の一を納めるべきです。そして監督は,自立できるようになるまで,食物と必需品を援助するのです。

1998年10月に,ハリケーン・ミッチによって,中央アメリカの多くの地域が甚大な被害を受けました。ゴードン・B・ヒンクレー大管長は,被災者について非常に心を痛めました。食物や衣服,家財道具など,あらゆるものを失った人が多くいました。大管長は,ホンジュラス共和国のサンペドロスラやテグシガルパ,ニカラグア共和国のマナグアなどの各都市に住む聖徒を訪れました。各都市でこの現代の預言者が伝えたメッセージは,愛にあふれた預言者エリヤが飢えたやもめ女に告げたのと同様に,犠牲を払い,什分の一の律法に従うようにというものでした。

貧困にあえぐ人に犠牲をささげるようにと,どうしたら言えるでしょうか。食物や衣服の積み荷が,それを受け取る人たちにとって緊急事態を乗り越える助けになることを,ヒンクレー大管長はよく理解していました。しかし大管長がその人たちに抱いている関心や愛は,物質的支援をはるかに超えたものでした。人道支援の大切さはもちろんのこと,最も大切な助けは人ではなく神からもたらされるものであることを,大管長は知っていたのです。預言者が願っていたのは,助けを必要としている人々が,マラキ書で主によって約束されているように,自ら天の窓を開くことができるよう助けることだったのです(マラキ3:10;モーサヤ2:24参照)。

(マラキ3:10わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。)

( モルモン書 :モーサヤ24 そして第二に、神はあなたがたが神から命じられたとおりに行なうことを要求しておられる。そして、あなたがたが命じられたとおりに行うならば、神はすぐに祝福を授けてくださる。また現にこれまで、あなたがたに報いてくださった。そのためにあなたがたは、今も神に恩を受けているし、これからもとこしえにいつまでも恩を受けるであろう。だから、あなたがたに何か自慢できるものがあるだろうか。)

ヒンクレー大管長は,被災した人たちが什分の一を納めるなら,食卓には常に食物が並び,着る物に不自由せず,また常に住む場所に困らないと教えました。給仕をする際,いったん食事を済ませた後や料理を出してしまった後に,遅れてやって来た人のために新たに食物を調達するよりは,食事が始まるときにもう一皿用意する方が簡単です。同様に,主に差し上げるに足るだけの「残り物」があるよう願うよりは,初子や初物の実を差し出す方が,実際にたやすいことではないでしょうか。わたしたちが祝宴の主催者だとしたら,主は栄誉ある客人であって,最初に給仕すべき御方ではないでしょうか。

愛する母,エブリン・ロビンズは,わたしが4歳のときに什分の一の律法について教えてくれました。母はバンドエイドの空箱をくれました。ふたが付いたブリキ製の缶でした。その中に什分の一用の1セント硬貨をためておき,監督のところに持って行くように教えてくれたのです。わたしは,母とバンドエイドの箱に対して,また什分の一を納めることによってもたらされた数々の祝福に対して,永遠にわたって感謝します。

『クリスマス・キャロル』の中で,スクルージは生き方を変えました。もはや過去のスクルージではありません。同様に,この福音は「悔い改めの福音」です。日々の生活においてもっと完全に犠牲の律法に従うように御霊みたまの声が促すのであれば,わたしたちも今日きょうからその変化を体現し始めることができますように。

犠牲を通して従順の完全な模範となってくださった主に,心から感謝しています。主は「罪に対する犠牲として御自身を」ささげられました。そしてリーハイの言葉にあるように「神にとって初穂」となられました(2ニーファイ2:7,9,強調付加)。主とこれら主の教義について,イエス・キリストの御名みなにより証あかしいたします。アーメン。


✱このお話は、2005年4月 末日聖徒イエス・キリスト教会 総大会からご紹介しました。

お読みいただいて、ありがとうございます。

良い一日をお祈りします。


みたまはわれに真理告げたもう ロナルド・A・ラズバンド長老 十二使徒定員会

2022-06-29 04:53:09 | 日記
聖霊は,神から託されて,霊感を与え,証し,教え,そして主の光の中を歩むよう促してくださいます。
兄弟姉妹の皆さん,皆さんと同じように,わたしもトーマス・S・モンソン大管長と今朝のそのメッセージを通じて,主の業が速められる様子をわたしたちは目の当たりにしているということが分かります。モンソン大管長,わたしたちは大管長を愛し,支持し,「わが予言者」であるあなたのためにいつも祈っています。

この週末,わたしたちは御霊が豊かに注がれるのを感じてきました。皆さんは,この壮大な会場にいようとも,あるいは家庭で視聴しようとも,また世界各地の集会場に集おうとも,主の御霊を感じる機会に恵まれてきました。この御霊こそ,この大会で教えられる真理が正しいという確証を,皆さんの心と思いに与えてくださるのです。

よく知られた賛美歌の歌詞について考えてみましょう。
「みたまはわれに
真理告げたもう
キリスト証し
天開きたもう」
末日の啓示により,神会を構成するのは異なる別個の御三方であることが分かっています。すなわちわたしたちの天の御父とその独り子イエス・キリスト,そして聖霊です。わたしたちは次のことを知っています。「御父は人間の体と同じように触れることのできる骨肉の体を持っておられる。御子も同様である。しかし,聖霊は骨肉の体を持たず,霊の体であられる。もしそうでなければ,聖霊はわたしたちの内にとどまり得ない。

今日は,わたしたちの生活で聖霊がどれほど大切かを中心に話します。天の御父は,わたしたちが現世で問題や苦難,不安に立ち向かうことを御存じでした。疑問や失望,誘惑や弱点と闘うことも御存じでした。わたしたちにこの世を生きる強さと神からの導きを与えるために,御父は聖なる御霊,言い換えれば聖霊を用意してくださいました。

聖霊はわたしたちを主とつないでくださいます。聖霊は,神から託されて,霊感を与え,証し,教え,そして主の光の中を歩むよう勧めてくださいます。わたしたちには,生活の中で聖霊の影響を認識してそれにこたえられるようになるという神聖な責任があります。

主の約束を思い出してください。「わたしはあなたにわたしの御霊を授けよう。わたしの御霊はあなたの思いを照らし,あなたの霊に喜びを満たすであろう。」わたしはこの約束が大好きです。霊が喜びに満たされると,わたしたちは日々の生活とは違った永遠の観点から物事を見ることができるようになります。その喜びは,困難や心痛のただ中にあっても,平安としてもたらされます。慰めと勇気を与え,福音の真理を明らかにし,主への愛と,神のあらゆる子供たちへの愛を深くしてくれます。そうした祝福を大いに必要としているにもかかわらず,世の人は多くの面でその祝福を忘れ,放棄してきました。

毎週わたしたちは聖なる聖餐を頂き,「いつも御子を覚え」,つまりいつも主イエス・キリストを覚え,その贖いの犠牲を覚えるという聖約を交わします。わたしたちがこの神聖な聖約を守るとき,「いつも御子の御霊を受けられる」という約束が与えられます。

わたしたちはこれをどのように行っているでしょうか。

第1は,御霊を受けるにふさわしい生活をするよう努力することです。

聖霊は「日々主なる神をよく覚え」る人に下られます。主の勧告にあるように,わたしたちは「この世のものを捨てて,この世に勝るものを求めなければ」なりません。「主の御霊は清くない宮にはとどまらない」からです。わたしたちはいつも神の律法に従い,聖文を研究し,祈り,神殿に参入し,信仰箇条第13条にある「正直,真実,純潔,慈善,徳高くあるべきこと,またすべての人に善を行う」という信条に誠実に従って生きるよう努めなければなりません。

第2に,御霊を喜んで受けなければなりません。

主はこう約束されました。「まことに見よ,あなたに降ってあなたの心の中にとどまる聖霊によって,わたしはあなたの思いとあなたの心に告げよう。」わたしがこの聖句を理解できるようになったのは,アメリカ合衆国ニュージャージー州スコッチプレインズで若い宣教師として働いていたときです。7月のある暑い日の朝,同僚とわたしはテンプルスクウェアから紹介された人を訪問する方が良いと感じ,エルウッド・シェーファー氏の家のドアをノックしました。奥さんが出てきて,丁重に断りました。

しかし,彼女がドアを閉めようとしたそのとき,わたしはあることをしなければと強く感じました。生まれて初めてすることでしたし,それ以後一度もしたことがありません。ドアに片足を突っ込んだのです。そして,こう尋ねました。「お宅には,わたしたちのメッセージに興味を持ちそうな方がほかにいっらしゃいませんか。」16歳の娘のマーティが興味を持っていました。彼女はちょうどその前日,導きを求めて熱心な祈りをささげていたのです。マーティはわたしたちと会い,やがて母親も加わるようになりました。二人とも,教会員になりました。


マーティのバプテスマの結果,彼女自身の家族の多くを含む136人がバプテスマを受け,福音の聖約を交わしました。わたしはあの7月の暑い日に,御霊に耳を傾け,ドアに片足を突っ込んだことに心から感謝しています。マーティとその愛する家族の多くが,今日この会場に来ています。

第3は,御霊が降るときに,それを認識しなければならないということです。 わたしの経験から言えるのは,御霊は,「感じる」という形で何かを伝えてくださることがいちばん多いということです。皆さんになじみのある言葉で分かりやすく言うと,促しを感じるのです。ニーファイの民が,主が自分たちのためにささげてくださる祈りに耳を傾けたときどう感じたか,考えてみましょう。「群衆は聞いて,証している。彼らの心は開かれ,彼らはイエスが祈られた御言葉を心の中で理解した。」彼らは,主の祈りの言葉を心で感じたのです。聖なる御霊は,静かで細い声をしています。 旧約聖書には,エリヤがバアルの祭司たちと対決する場面が出てきます。祭司たちが望んだのは,バアルの「声」が雷のように下ってきて,いけにえに火をつけることでした。しかし,何の声もなく,火もありませんでした。 後になってエリヤは祈りました。「その時主は通り過ぎられ,主の前に大きな強い風が吹き,山を裂き,岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが,地震の中にも主はおられなかった。 地震の後に火があったが,火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。」 皆さんにはその声が分かりますか。 モンソン大管長はこう教えています。「人生の旅路を歩み続けるに当たり,御霊の言葉を学ぶようにしましょう。」御霊は,わたしたちが「感じる」言葉を語られます。こうして感じるその言葉は優しく,行動を起こすように,何かをするように,何かを言うように,何らかの形で応じるようにと静かに促します。礼拝に関していいかげんだったり現状に甘んじていたり,この世的な娯楽に心を引かれて感受性が鈍っていたりすると,御霊の言葉を感じる能力は衰えます。ニーファイはレーマンとレムエルにこう言っています。「まことに,あなたがたはその声を時々聞いています。天使は静かな細い声で語りかけましたが,あなたがたは心が鈍っていたので,その言葉を感じることができませんでした。」

昨年6月,わたしは割り当てを受けて,南アメリカへ行きました。10日間のスケジュールはいっぱいで,わたしたちはコロンビア,ペルー,エクアドルを訪問することになっていました。エクアドルの都市ポルトビエホとマンタでは,巨大地震で数百人が亡くなって何万もの負傷者が出ており,家屋も地域社会も破壊されていました。わたしは,これらの町に住む会員を訪問する予定をスケジュールに入れるべきだと強く感じました。道路が寸断されているので,そこまでたどり着けるのかどうかも定かではありません。実際,行くのは無理だと言われていました。しかし,行くべきだという促しは消えません。,結局,わたしたちは祝福されて,両方の都市を訪問することができました。 通知したのが直前だったため,急にやりくりした集会に出席するのはほんの一握りの地元神権指導者だけだろうと考えていました。しかしながら,着いてみると,どちらのステークセンターも,礼拝堂は後ろのステージまで立錐の余地もないほどでした。出席した人の中に地域でも熱烈な信仰を持つ会員や,教会から固く離れずにいた開拓者がいて,彼らが,一緒に礼拝して生活の中で御霊を感じようとほかの人たちに呼びかけてくれたのです。最前列に座っていたのは,地震で愛する人や隣人を亡くした会員たちでした。わたしは出席しているすべての人に使徒の祝福を授けるべきだという強い促しを感じました。使徒になって初めて授ける祝福の一つです。わたしは部屋のいちばん前に立っていたのですが,自分の手を会場の一人一人の頭に置いているような気持ちになりました。わたしは主の言葉が流れ出ていくのを感じました。


話はこれで終わりではありません。わたしは,ちょうどイエス・キリストがアメリカ大陸に民を訪ねたときに語られたのと同じように,彼らに語るようにと強く促されるのを感じたのです。「イエスは幼い子供たちを一人一人抱いて祝福し,彼らのために御父に祈られた。」わたしたちはエクアドルにいました。主の業務に携わっていました。そこにいるのは御父の子供たちだったのです。

第4は,最初に受けた促しに従って行動を起こさなければならないということです。 ニーファイの言葉を思い出してください。「わたしは,前もって自分のなすべきことを知らないまま,御霊に導かれて行った。にもかかわらず,そのようにして進んで〔行った〕。

わたしたちも同じようにしなければなりません。最初の促しを信頼するのです。時に,わたしたちは理屈をこね,自分が霊的な印象を受けていることを怪しんだり,自分自身の思いつきでしかないのではないかと思ったりします。受けた気持ちに後であれこれ迷いを抱いたり,さらに繰り返し迷うようになると,わたしたちには皆同じような傾向があるとは言うものの,御霊が退き,神からの勧告を疑うようになります。預言者ジョセフ・スミスは,もし最初の促しに耳を傾けたら,10回のうち9回は促しを正しく受ける,と教えました。 ここで注意してほしいことがあります。聖霊に従ったからといって,花火が上がるなどとは思わないでください。「静かで細い声」に従おうとしていることを忘れないでください。

わたしがニューヨーク市で伝道部会長として奉仕していたときのことです。数人の宣教師と一緒にブロンクスにあるレストランにいました。すると小さい子供を連れた家族が入ってきて,わたしたちの近くに席を取りました。すぐにでも福音を受け入れそうな家族でした。宣教師と話を続けながらも,わたしは宣教師の様子を見ていました。そして,気づくと,その家族は食事を終えて,するりと外へ出てしまったのです。そこでわたしはこう言いました。「長老たち,今ここに教訓があります。皆さんは,すてきな家族がこのレストランに入ってくる様子を見ました。どうすればよかったのでしょうか。」 一人の長老がすぐに答えました。「わたしは立ち上がって,あの家族のところへ行って少し話をしようかと思ったんです。軽い促しは感じたんですが,行動に移しませんでした。」 わたしは言いました。「長老たち,いつも最初の促しに従って行動しなければなりません。皆さんの感じた促しは聖霊でした。」 最初の促しは,天から与えられる純粋な霊感です。促しによって確認や証を受けたら,それが何なのかを知る必要がありますし,促しを逃してはなりません。困っている人,特に家族や友人に助けの手を差し伸べるよう促す御霊であることが非常に多いのです。「万物を貫き通してささや〔く〕静かな細い声」は,格好の機会をわたしたちに示し,福音を教え,回復とイエス・キリストについて証を述べ,助けて関心を寄せ,貴い神の子の一人を救い出すようわたしたちの注意を向けさせてくださいます。 この促しが,いわゆる「初動対応」だと考えてください。たいていの地域社会では,悲劇や災害,災難に際して初動対応を取るのは,消防士や警察官,救急隊員です。彼らは回転灯をつけて現場に到着します。わたしたちは彼らに非常に感謝しています。主の方法はこれほど目立つものではありませんが,迅速な対応を要する点では同じです。主はそのすべての子供たちに何が必要かを御存じですし,助ける備えのできているのがだれかも御存じです。朝の祈りの中で,準備ができていることを主に伝えるならば,主は行動するよう呼びかけてくださるでしょう。呼びかけられたことを実行するならば,主は折に触れて何度も何度も命じてくださるようになり,やがてわたしたちはモンソン大管長の言う「主の用向きを持つ者」になります。高い所から命じられて人を助ける,霊的な初動対応を取る者になるのです。 自分に下る促しに注意を払うならば,わたしたちは成長して啓示の霊をよく受けられるようになり,御霊によるひらめきや導きを受けることがますます多くなるでしょう。主は言われました。「善を行うように導く……御霊を信頼しなさい。」 「元気を出しなさい。わたしがあなたがたを導いて行くからである」という主の呼びかけに真摯にこたえることができますように。主は聖霊によってわたしたちを導いておられます。わたしたちが御霊に近く生活し,最初の促しが神から来ていることを知り,それに従って速やかに行動を起こせますように。導き,守り,常にともにいてくださる聖霊の力について証します。イエス・キリストの御名により,アーメン。
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お読みいただいて、ありがとうございます。
このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2017年4月の総大会から、ご紹介しました。
太字赤字は追加しています。

主の御手に使われる者

2022-06-28 04:57:52 | 日記


主の御手に使われる者となるのは,ほんとうに簡単なことです。必要なのは,進んで御霊に導いていただき,その促しに従う勇気を持つことだけです。

1968年にわたしの妻の両親が教会に入ったときもそうでした。主の御手に使われる者になりたいと望んだある若い宣教師が,その一家を教会に導くのを助けたのです。

わたしの義理の両親は宣教師たちと一度会っていましたが,それ以後,義理の父は続けて会うことを望みませんでした。その後,フェッツァー長老という新しい宣教師がその地域に転勤して来ました。この若い宣教師とその同僚は,わたしの義理の両親を訪問してミニスタリングをするようにという促しを感じました。フェッツァー長老は,ほかの宣教師たちがしてこなかった形で,その家族の心に触れることができました。

それから6か月間,宣教師たちはその家族の必要を満たすためにミニスタリングを行いました。やがて,妻の両親は御霊に心を動かされ,教会に加わりました。そしてわたしたちが聖約を交わして守るときにもたらされる祝福を受けました。彼らを通して,さらに多くの家族が教会に加わり,福音の祝福を受けました。

このことが起こった理由の一つは,ユタ州出身の若者が自分の人生において進んで「神に勝利を得ていただく」ことを望んでいたことです。彼は勇気を出して心地よい家を離れ,新しい言語を学び,ブラジルで主に仕えていました。
簡単な会話

1年ほど前,妻のアレッサンドラの携帯電話に,ブラジルの所属ワードの姉妹からメッセージが届きました。二人が最後に会ってから,2年以上がたっていました。その姉妹は次のように書いていました。「わたしはあの人生で最悪の時期に,自分がどのように教会に行ったのか覚えていません。着いたとき,あなたはわたしを見ました。わたしの腕を取り,自分のそばに座るように言ってくれました。わたしはあなたと話をしました。あなたはわたしの話を聞いて,助言をくれました。」

当時,それはごく当たり前の会話のように思われました。しかし,妻が主の御手に使われる者となる機会になっていたことが分かりました。妻は困難な時期を経験していたその愛する姉妹にミニスタリングを行っていたのです。アレッサンドラはそのことについて深く考えていたわけではありません。ただ耳を傾けて慰めるようにという促しを感じ,その促しに従って行動しただけです。そして,それから2年以上たった今,その姉妹からこの感謝の気持ちを伝えるメールを受け取ったのです。
主の御手に使われる者となるために,召しは必要ありません。その望みを持つだけでよいのです。
以上のような出来事を通して,わたしは主の御手に使われる者となるために召しは必要ないことを学びました。わたしたちはただ,その望みを持つだけでよいのです。「あなたがたは神に仕えたいと望むなら,その業に召されている」(教義と聖約4:3)のです。
「このような時のため」
旧約聖書にも,神の御手に使われる者として働いた人のことが記されています。エステルは,幼いころに両親を亡くした若い女性で,いとこのモルデカイに育てられました。

アハシュエロス王は,王妃ワシテと離婚した後,エステルを新しい王妃に選びます。「王はすべての婦人にまさってエステルを愛したので,彼女は……王の前に恵みといつくしみとを得」(エステル2:17)ました。エステルはユダヤ人でしたが,王はそれを知りませんでした。

王の助言者の一人だったハマンは,昇進し,自分とともにいるどの大臣よりも高い地位に就きました(エステル3:1参照)。そして,ハマンは「すべてのユダヤ人を,若い者,老いた者……の別なく,ことごとく滅ぼし,殺し,絶や〔す〕」(エステル3:13)ことを企てました。

エステルがハマンの企てについて知ったとき,モルデカイは王と話すようエステルに強く勧めました。そうすることは,エステル自身を大きな危険にさらすことになりますが,エステルはモルデカイの言葉から勇気を得ました。モルデカイはこう言ったのです。「あなたがこの国に迎えられたのは,このような時のためでなかったとだれが知りましょう。」(エステル4:14)

エステルは「わたしがもし死なねばならないのなら,死にます」と言い(エステル4:16),呼び出されていないのに王のもとへ行きました。これは死刑に値する違反行為でした。その勇敢さのおかげで,エステルは王を動かすことができました。その結果,王はユダヤ人を救うための布告を出しました。布告の中で,王は「すべての町にいるユダヤ人に,彼らが相集まって自分たちの生命を保護〔する〕……ことを許し」(エステル8:11)ました。
すべての役割が重要である
エステルは進んで主の御手に使われる者となりました。エステルはその従順と献身の生活によって備えられていました。エステルが招かれていないのに王の内庭に入って行ったことについて考えるとき,わたしはエステルの勇気に驚かされます。それによって思い出すのは,生活の中で神に勝利を得ていただくようにという,わたしたち皆へのラッセル・M・ネルソン大管長の招きです。エステルは進んで神に勝利を得ていただこうとしました。

エステルのいとこのモルデカイもまた,主の御手に使われる者でした。モルデカイはエステルを立派に育てました。エステルに支援と勇気,そして霊感を与えました。わたしたちは皆,果たすべき役割があり,どの役割も等しく重要で欠かせないものです。
エステルにしたのと同じように,主はわたしたちが主の目的を果たす手助けができる場所にわたしたちを置かれます。わたしたちは主が与えてくださる機会に直面するときに,用意ができていて,ふさわしい状態でなければなりません。
主はある目的のために,エステルを王の家に置かれました。その目的とは,ユダヤ人を救うことでした。エステルにしたのと同じように,主はわたしたちが主の目的を果たす手助けができる場所にわたしたちを置かれます。ですから,わたしたちは主が与えてくださる機会に直面するときに,用意ができていて,ふさわしい状態でなければなりません。
機会は至る所に
主の御手に使われる者となる機会は,わたしたちの周りの至る所にあります。わたしたちの務めは,行動する備えをすることです。多くの場合,わたしたちにはそのような機会がいつ,どのようにやって来るか分かりません。わたしたちは聖霊を伴侶とするのにふさわしい生活をして,進んで行う心を持つ必要があります。そうすれば,主はわたしたちが主に求められていることを行えるように導いてくださるでしょう。

教義と聖約第35章3節で,主はシドニー・リグドンに次のように言っておられます。「わたしはあなたとあなたの行いを見てきた。わたしはあなたの祈りを聞き,一つのさらに大いなる業のためにあなたを備えてきた。

主はわたしたちを御存じであり,わたしたち一人一人のなすべき業を備えておられます。時に,それはわたしたちにしか行えない業であることもあります。その業は,家庭の中で親として苦しんでいる息子や娘を助けることかもしれません。あるいは,教会での責任の中に含まれるものかもしれません。実のところ,それはいつ,どこで,だれに対して果たす業であってもおかしくありません。
主はわたしたちを御存じであり,わたしたち一人一人のなすべき業を備えておられます。時に,それはわたしたちにしか行えない業であることもあります。
当時大管長会第二顧問であったディーター・F・ウークトドルフ管長は,次のように述べています。「主があなたの責任をお与えになったのには理由があるのです。あなたにしか影響を与えたり,心を動かしたりできない人がいるかもしれないのです。恐らく,ほかのだれにもまねのできない何かを,あなたはできるかもしれないのです。

ウークトドルフ管長は次のようにも言っています。「救い主の完全な模範に倣うならば,わたしたちの手は主の手となり,目は主の目となり,心は主の心となることができます。

エステル,モルデカイ,フェッツァー長老,わたしの妻,そのほか多くの人々と同じように,わたしたちは皆,主の御手に使われる者となることができます。

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お読みいただいて、ありがとうございます。
こちらのお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会リアホナ2022年7月号から引用させていただきました。
赤字は追加しています。