イエス・キリストの福音をご紹介します。

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

人生の冒険で中心となる課題は人格形成です

2022-09-28 05:35:10 | 日記
本質を変える信仰の力と人格
リチャード・G・スコット長老
十二使徒定員会

一貫して義にかなった生活から,内なる力と強さが生まれます。この力と強さは,罪や背きという浸食作用に対して永続する抵抗力があります。

信仰を正しく理解し働かせるならば,信仰の持つ影響力は絶大で広範囲に及びます。そのような信仰はわたしたちの生活を,感傷的でありふれた日常の活動から,喜びと幸福の交響曲に変えることができます。信仰を働かせることは,天の御父の幸福の計画に欠かせません。しかし,真の信仰,救いに至る信仰は,主イエス・キリストを中心とし,また,その教義と教えを信じる信仰,主の油注がれた者である預言者の教えを信じる信仰,人生を変える力のある自分の隠れた特性や特質を見いだす能力を信じる信仰を中心とするものです。まさに,救い主を信じる信仰は,行動と力の原則です。

信仰は創造の基本的な構成要素です。確かに,救い主イエス・キリストは,天の御父の指示の下,救い主としての御自身の役割に信仰を行使しておられます。主は信仰を行使することによって,銀河系から最も遠くにある星雲だけでなく,今日わたしたちが知る物質の最も小さな構成要素である粒子,クオークをもお造りになりました。しかし,驚嘆すべき創造にはクオークよりもさらに小さな構成要素があると,わたしは信じています。

神殿で結び固められる夫婦が示すのは未来を信じる信仰です。彼らはイエス・キリストの教えと天の御父の幸福の計画に従うことで,二人の生活が喜びに満ちたものとなることを理解しています。試練に遭っても,その目的とするところは人を成長させることなので,生産的かつ人格を築く形で克服する道が聖霊の促しを通じて見いだせるということを認識しています。

信仰と人格の間には,密接な関係があります。神の戒めに従う力を信じる信仰は,必要に迫られたときに役立つ人格的な強さを築いてくれます。このような人格は,大きな試練や誘惑に遭う瞬間に培われるものではありません。そのような瞬間には,すでに培った人格を用いなければならないのです。真の原則を信じる信仰を働かせるなら人格は築かれます。強められた人格は,さらなる信仰を働かせる能力を増します。その結果,人生の試練を乗り越えていく能力と確信がさらに強くなります。そして,人格が強まれば強まるほど,信仰の力を働かせることによる恵みをより受けられるようになるのです。信仰と人格がどのように作用し合い,互いを強め合うのかが分かるでしょう。人格とは,原則や教義,従順という糸を根気よく編んでできる織物のようなものなのです。

ヒュー・B・ブラウン管長は,こう語っています。「人生でどのような状況に置かれているかにかかわらず,人は信仰によってのみ偉大で霊的に価値あるものを手にすることができます。人は信仰を持たずに生きていくことはできません。なぜなら,人生の冒険で中心となる課題は人格形成であり,人格形成は理屈の産物ではなく,理想を信じる信仰と,犠牲を払って理想に専心することから生まれるものだからです。」(Conference Report, 1969年10月, 105)

わたしたちは行いによって信仰を働かせます。ジョセフ・スミスは次のように語っています。「信仰は行動と力の原則です。」(Lectures on Faith〔1985年〕, 72)

わたしたちは,自分がそうありたいと願う人物になります。そのためには首尾一貫して毎日,自分がそうなりたいと願う人物であらねばなりません。義にかなった人格は,皆さんがなろうとしている人物が備えるべき大切な特質です。義にかなった人格は,今手にしているいかなる物質,学習によって得たいかなる知識,あるいはこれまでに達成したいかなる目標よりもずっと大切です。たとえこの世がそういった事柄をどれほど称賛しようともです。現世という特権をどれほど有効に使ったか判断するために来世で評価されるのは,皆さんの人格だからです。

サタンもそのほかのいかなる力も,皆さんの培った人格を破壊したり,傷つけたりすることはできません。そうすることができるのは,自分自身の不従順だけです。非の打ちどころのない人格は,欺きや背きにむしばまれるときに,価値のない灰へと変わるのです。

道義をわきまえた強固な人格は,人生の試練と試しの中で一貫して正しい選択をした結果として培われるものです。このような正しい選択は,自分が信じる事柄に信頼を置くときに行うことができます。また,そのような信条に従って行動するときに,その信条が正しいというさらなる確信が得られます。

信仰の基となる力の原則としてどのようなものがあるでしょうか。

・神を信頼する。どんなに難しい状況でも,必要なときには神が喜んで助けてくださると信じる。

・神の戒めに従って生活し,信頼に足る人物であることを神に示す。

・聖なるの静かな促しに敏感になる。

・御霊の促しに,勇気をもってこたえる。

・神があなたの成長のためにあなたが苦しむままにされているとき,また,長期にわたって答えが少しずつしか与えられないときに,忍耐し,広い視野に立って考える。

信仰とは待ち望んでいながらまだ見ていないものである……。あなたがたは,自分が見ていないからということで疑ってはならない。信仰が試されてからでなければ,証は得られないからである。」(エテル12:6)ですから,皆さんが「信仰を試す」度に,つまり何らかの印象に従ってふさわしい行動をする度に,御霊による確認の証を受けるのです。たとえ確信がなくても最善の判断に従い信仰を働かせながら歩むとき,ほかの方法では得られない答えに導かれるでしょう。どんなに強い信仰があっても,神が望みに応じてすぐに報いてくださるとは限りません。むしろ,神は,永遠の計画の中で皆さんにとって最もふさわしい方法で,最も実り多いときに,おこたえになるのです。時として,神は皆さんが答えを受けるまで長い間苦しむに任せられることがありますが,感謝してください。そのような経験を通じて,皆さんの信仰が増し,皆さんの人格が培われるからです。

人格の基礎となるのは高潔さです。ふさわしい人格を培うと,御霊の導きに気づき,従順にこたえる能力が高まります。一貫して信仰を働かせれば,強固な人格が形成されます。皆さんの人格の成長を支える確かな土台は,イエス・キリストとその教えを生活の中心とすることによって築かれるのです。

この地上の幸福だけでなく,永遠の救いを得るには,多くの正しい選択をする必要がありますが,難しい選択は一つもありません。それらの選択が合わさると,罪や背きという浸食作用に抵抗できる人格が形成されます。高潔な人格は,厳選された素材でできた貴重な磁器と同様,信仰によって形作られ,一貫性のある義にかなった行いで念入りに整えられ,人を向上させる経験という窯で焼かれます。非常に美しく大変貴重です。しかし,罪によって瞬く間に破損することもあります。元に戻すには,痛みを伴い,長期に及ぶ努力が必要となります。自制心で保護されれば,義にかなった人格は永遠に存続します。

物質的な事柄自体が,地上における幸福や満足,達成の喜びを生み出すことはありません。わたしたちを昇栄へと導くこともありません。人生にその進むべき方向を与えるのは,人格の高潔さ,すなわち無数の義にかなった決断で培われた内なる強さと確信です。一貫して義にかなった生活が,内なる力と強さを生み出すのです。この力と強さは,罪や背きという浸食作用に対して永続する抵抗力があります。イエス・キリストを信じ神の戒めを守ることによって,皆さんは自分の人格を強化することができます。皆さんの人格は,皆さんが今まさにどのような人物になろうとしているかを示す尺度です。それはこの試しの生涯の間,地上での時間をどれほど有効に使っているかを示す証拠です。

わたしたちのだれもが「支払った分だけ手に入る」という格言の意味を理解しています。この格言は霊的な事柄にも当てはまります。従順,イエス・キリストを信じる信仰,学んだ真理を地道に実践することにおいても,自分が支払った分だけ手に入るのです。皆さんが手に入れるのは,磨かれた人格と高められた能力であり,試され喜びを得るという地上での目的を立派に成し遂げた生涯です。

人生において消極的であってはなりません。さもなければ,ふさわしく生活しようとする皆さんの努力を生まれながらの人がやがて台なしにしてしまいます。皆さんの行いと考えが,皆さんの将来を決めます。人格に足りない部分があると,人は欲望を満たしたり,個人的利益を追求したりするよう強いられることになります。見せかけの強さでひ弱な人格をしっかりと支えることなどできません。

目の前の状況に左右されて決断を下す人は,いつの日か,ほぼ確実に重大な罪を犯すことになります。真理という鉄の棒もそのような人を正しい道にとどめておくことはできません。そのような人は,戒めから離れさせる多くの巧妙な誘惑にいつもさらされることになります。好ましくない選択をしても正当化します。それほど悪い選択ではないとか,社会に受け入れられやすく,仲間もたくさんできる選択はこちらの方だとか主張するのです。支えとなる原則がなくても器用に立ち回れば,一時的に目覚ましい業績を上げることはできます。しかし,そのような業績は,砂の城のようなものです。人格の試しに遭うと,粉々に崩れてしまいます。その過程で,往々にして,ほかの業績まで台なしにしてしまいます。罪を犯した人が戒めに背いたことをどれほど入念に隠そうとしても,やがては,まず間違いなく,公の知るところとなります。サタン自身がそうなるように仕向けるからです。サタンとその手下は,天の御父の子供たち一人一人に可能な限りの害を及ぼそうと決意しています。たった一度でも重大な違反行為あるいは背信行為があれば,必ず,ほかにも同様の行為はないかという疑念が生じます。周囲の人が抱いていた信用や信頼が根底から覆されるのです。

この現世は試しの場です。試しにどれほど正しく向き合うかで,皆さんの人格がどれほどしっかりしたものとなるかが決まります。イエス・キリストを信じる信仰とその教えを信じる信仰が皆さんの人格を高めてくれます。

わたしには自分で検証した事柄があります。それは,信仰,祈り,愛,といった概念は,経験を通して,また,聖き御霊の導きに助けられて,自分の特性となるまでは,何の重要な意味も持たないし,何の奇跡ももたらさないということです。若いころは,福音の教えは頭で学び,理性と分析の力でその大切さを理解できると思っていました。しかし,福音にはわたしの能力と想像力の限界を超えてわたしを高めてくれる途方もない力があると実感できたのは,それらの教えを忍耐強く実行し続け,聖き御霊がその意味を心にしみ込ませ深く理解させてくれてからのことでした。真心から奉仕しているとき,神がわたしの人格を築いてくださることに気づきました。神は御霊の導きを認識する能力を高めてくださいました。福音の計画の持つ特徴は,主に勧められていることを行うことによって,現世で平安と豊かな充実感を得るために必要なあらゆる理解,あらゆる能力が与えられるということです。またそれは,主のみもとで永遠に幸福な生活を送るために必要な備えにもなります。

証は,教えや義にかなった行いが正当なものであることを確認する霊的な印象によって強められます。しばしばそのような導きには強烈な感情が伴います。涙が込み上げてきて,声が詰まることもあります。しかし,証は感情ではありません。証は,無数の正しい決断から生じる糸で織りなされた人格にとって,不可欠な要素です。自分が信じるもの,少なくとも最初のうちは,信じていながらまだ見ていないものに信頼を置くときに,このような選択を行うことができます。強い証は,平安と慰め,そして保証をもたらします。強い証は,救い主の教えにいつも従っていれば,人生はすばらしいものとなり,将来は安定したものとなり,人生で遭う試練を克服する力が得られる,という確信を生むのです。証は真理を理解することによって強くなります。真理は祈ったり聖文に記された教義について深く考えたりすることで徐々に明らかにされます。約束された結果が得られるという不動の確信に支えられた信仰を持ち,真理に従った生活を送ることによって,証ははぐくまれていきます。

皆さんの証は,十分の一の律法に喜んで従うときに,また,断食献金をささげるときに強くなります。主はこのことを通じて皆さんを豊かに祝福されます。皆さんの証が強められると,サタンはさらに激しく誘惑しようとします。サタンの働きかけに負けないでください。皆さん自身が強くなればなるほど,サタンから受ける影響は弱くなります。

サタンの影響力は世界で増大していますが,それは同時に,わたしたち自身の強さを証明する環境が与えられているということでもあります。今日,サタンは大混乱を引き起こしていますが,サタンの最終的な運命はイエス・キリストのと復活によって決まっています。サタンは勝利を得ないのです。今でも,サタンは主が設けられた境界内で活動することしかできません。すでに与えられたいかなる祝福も取り去ることはできません。義にかなった決断の蓄積により築かれた人格を変えることもできません。聖なる宮で結ばれた夫婦と子供の間の永遠のきずなを断ち切ることもできません。真の信仰を失わせることもできません。皆さんの証を取り去ることもできません。そうです。これらはわたしたちがサタンの誘惑に負けるときに失われます。しかし,サタンは自分自身の力でそれらを破壊することはできないのです。

要約すると――

・神は皆さんの信仰を用いて,皆さんの人格を形成されます。

・人格は,皆さんが今まさになろうとしている人物の姿を映し出すものです。

・強固な人格は,一貫して正しい選択をした結果生まれるものです。

・人格の根底にあるのは高潔さです。

・人格が強められれば強められるほど,信仰を働かせる能力は増します。

謙遜とは,御霊を通して高い所から教えを受けることを可能にし,元々は主からの霊感であった源,例えば,聖文や預言者の言葉から教えを受けることを可能にする特質です。謙遜とは,義にかなった人格をはぐくんでくれる貴重でな土壌です。そこで本人の成長という種が発芽します。信仰を働かせることで耕され,悔い改めによって刈り込まれ,従順と善い行いという囲いによって守られた種は,霊的な導きという実を結びます。その結果として,神の霊感と力,すなわち,主の御心を知る霊感,霊感により知った御心を果たす能力を高める力が得られるのです。

わたし自身の人生にこの上なく深い平安と幸福感をもたらしてくれた4つの原則を分かち合いたいと思います。主はその永遠の計画においてこれらの隅石を確立されました。その一つ一つが不可欠です。すべての原則が調和しながら,互いに強め合っています。これらの原則を絶えず熱心に実行することで,強固な人格が形成され,人生の試練を幸福への足掛かりに変えていく能力が,今もとこしえにも増し加えられます。以下がその原則です。

・主イエス・キリストを信じる信仰,およびイエス・キリストの計画を通して達成する力が得られるという信仰。

・してはいけないことをした誤り,あるいはするべきことをしなかった誤りの結果を正すための悔い改め。

・生活に力と指針を与えてくれる主の戒めに対する従順。

周りの人の生活を豊かにする無私の奉仕。

義にかなった生活を送ろうと決心しているのなら,落胆しないでください。今はつらい人生のように見えても,あの真理の鉄の棒にしっかりとつかまっていてください。皆さんは,自分で気づいている以上に進歩しているのです。一貫して神の戒めに従うとき,皆さんの苦難は,人格,自制心,そして天の御父と救い主の約束に対する確信をいっそう確かなものとします。聖霊の促しによって,皆さんが,人格を高め,多くの喜びと幸福をもたらす決断を常に下せますように,イエス・キリストのによって,アーメン。

このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2010年10月の総大会から、ご紹介しました。
青字赤字塗りつぶしは、追加しています。

哀れみとは,人に対して愛と憐れみを感じることです。つまり,思いやりを持ち,人の苦しみを軽くしたいと願うことです。親切と優しさを示すことです。

2022-09-26 05:05:52 | 日記
ある者は哀れみの心を持ち,違いを生み出す
バーバラ・トンプソン
中央扶助協会会長会第二顧問

家庭訪問の真髄は,……生活が変わり,涙がぬぐわれ,証あかしが強まり,愛され,家族が強められ……るのを見ることです

愛する姉妹の皆さん,皆さんと同席し,主に対する皆さんの力と主への愛を感じることはすばらしい祝福です。日々,皆さんが愛と哀れみを人々に分かち合っていることに感謝します。

ノーブーで扶助協会が始まって間もないころ,姉妹たちは家々を回って互いに教え導き,必要なものを見極め,食べ物を運び,病人を世話し,女性たち一人一人とその家族に哀れみを示していたことをわたしたちは知っています。 このことを考えると,ある者は哀れみの心を持ち,違いを生み出す,というユダの手紙の聖句が思い浮かびます。この聖句とその意味について深く考えるとき,わたしの思いは救い主に向かいます。聖文には,すべての人に対するキリストの愛と哀れみについて多くの記述があります。

新約聖書には,キリストは困っている人々の世話をなさるとき「彼らを深くあわれまれた」 ことが幾度も書かれています。救い主は,彼らが飢えているときは哀れんで食べさせ,病気のときは彼らを癒し,霊的な豊かさが必要なときは教えを授けられました。

哀れみとは,人に対して愛と憐れみを感じることです。つまり,思いやりを持ち,人の苦しみを軽くしたいと願うことです。親切と優しさを示すことです。

救い主はわたしたちに,御自身がされたことをするようにと言われました。 それは互いに重荷を負い合い,慰めの要る者を慰め,悲しむ者とともに悲しみ,飢えている人に食べさせ,病人を見舞い,弱い者を助け,垂れている手を上げ,「互いに王国の教義を教え合〔う〕」 ことです。わたしにとってこうした言葉や行いは,人を教え導く人,つまり訪問教師を表しています。

家庭訪問は,互いに見守り,強め,教え合う機会を女性に与えます。アロン神権の教師が「常に教会員を見守り」「彼らとともにいて彼らを強め」る責任を担っているのとよく似て,訪問教師は,奉仕するように召された女性の一人一人について祈り,よく考えることによって愛を示します。

ベック姉妹はわたしたちに次のことを思い起こさせてくれました。「イエス・キリストの模範と教えに従っているわたしたちは,主の代わりに愛し,知り,仕え,理解し,教え,導くために与えられた,この神聖な割り当てを尊んでいます。」

今日私は、二つのことについて話します。

・訪問教師として奉仕することによって,あなたが人々にもたらす祝福

• 人々に仕えるときにあなたが受ける祝福


訪問教師として奉仕することによって,あなたが人々にもたらす祝福

少し前,アラスカ州アンカレジである女性のグループと話す機会がありました。部屋には12人ほどの姉妹がいて,さらに電話を使ってアラスカ各地の都市や町から6人の参加者が加わりました。姉妹たちの多くは教会の建物から何百マイルも離れた所に住んでいます。彼女たちは家庭訪問について教えてくれました。

すべての姉妹を直接訪問するには飛行機や船に乗るか,長時間車を運転しなければなりません。時間と費用を考えると,姉妹たちの自宅を訪問することは明らかに無理でした。それでも彼女たちは互いをとても身近に感じていました。いつもそばにいることはできなくても,互いのために心を込めて祈り,担当の姉妹たちが何を必要としているのか知るために聖霊の導きを求めていたからです。電話やインターネット,手紙を使って絶えず連絡を取るようにしていました。主と聖約を交わし,担当の姉妹たちを祝福し強めたいと願った彼女たちは,愛によって奉仕していたのです。

コンゴ民主共和国のある一組の献身的な訪問教師は,大変な距離を歩いて赤ちゃんのいる女性を訪問していました。この二人の姉妹は祈りによってメッセージを準備し,訪問先の愛する姉妹の生活に良い影響を与える方法を知りたいと願いました。訪問先の姉妹は二人が来て大変喜びました。彼女にとってその訪問は,彼女のためだけに与えられた天からのメッセージだったのです。訪問教師が彼女の小さな家を訪ねたことで,その姉妹,家族,訪問教師の全員が高められ,祝福を受けました。二人は長い距離を歩くことを犠牲と感じてはいないようでした。哀れみ深い訪問教師が,この女性に良い影響を与え,生活を祝福したのです。

教会には,距離,費用,安全などの問題があるために,毎月直接の訪問をできない地域があります。しかし,互いに愛することを心から求め,互いを見守り,強め合っている姉妹たちは,個人の啓示の力によって,主から受けたこの召しを果たす有意義な方法を見つけています。

霊感を受けた扶助協会の会長はビショップと相談し,祈りをもって訪問教師を割り当てています。ワードの女性一人一人を見守り,世話をする責任を持つビショップを助けているのです。相談して啓示を受けるというこの過程を理解するとき,わたしたちは教え導くという大切な責任をさらに深く理解します。そして,より強い確信をもって,努力するわたしたちを導くに頼ることができるようになるのです。

わたしも,毎月数人の女性を訪問し,ほっとしながら「家庭訪問が終わりました!」と誇らしげに宣言する姉妹の一人です。報告するべきことはそれで終了かもしれませんが,そのためだけに訪問しているのであれば,何と残念なことでしょう。

家庭訪問の真髄は,月間の報告書の100パーセントという数字を見ることではありません。それは生活が変わり,涙がぬぐわれ,証が強まり,愛され,家族が強められ,元気づけられ,飢えた人が食べ,病人が見舞いを受け,悲しむ人が慰められるのを見ることです。実際,家庭訪問が終わることは決してありません。なぜなら,わたしたちは常に見守り,強めているからです。

家庭訪問のもう一つの祝福は,一致と愛が増すことです。聖文は,どうすればこれを達成できるかを勧告しています。「また彼は……互いに和合し,愛し合って結ばれた心を持ち,一つの信仰と一つのバプテスマをもって,一つの目で将来を見詰めるようにと指示した。」

多くの女性が,教会に戻って来た理由について,忠実な訪問教師が毎月訪問して導き,助け,愛し,祝福してくれたからだと述べています。
中には,あなたの分かち合うメッセージが最も大切な部分だという訪問もあることでしょう。皆さんが伝えるメッセージ以外に霊を豊かにするものがほとんどない,という人生を送っている女性もいるのです。『リアホナ』の家庭訪問メッセージは福音のメッセージです。どの女性もこのメッセージによって信仰を増し,家族を強め,慈愛の奉仕に力を注ぐことができます。

あるときは,ただ耳を傾けることだけが訪問の最大の祝福であることもあるでしょう。よく聞くことにより,慰め,理解,癒しが訪れます。またあるときは,家に行って何か作業をしたり,泣いている子供をなだめたりするなど,行動する必要があるかもしれません。


人々に仕えるときにあなたが受ける祝福

人々に仕えるときにあなたが受ける祝福はたくさんあります。わたしはこんなことを言ったことがあります。「ああ,家庭訪問を終わらせなくては。」(それは,自分は姉妹を訪問して教えるのだということを忘れていたときです。家庭訪問が祝福ではなくて重荷だと思ったときです。)それでも確かに,わたしは家庭訪問に行く度に,行く前よりも良い気持ちになりました。多くの場合,訪問先の姉妹よりもわたし自身の方がはるかに高められ,愛され,祝福されました。愛が強まり,奉仕への望みも強まりました。天の御父がどれほどすばらしい方法を用いて,わたしたちが互いに見守り,世話をし合えるようにしてくださったかが分かるようになりました。

訪問教師として得られる祝福には,この機会がなければよく知り合えなかった人と知り合い,友達になれることも含まれます。時には,家庭訪問を通して自分がだれかの祈りの答えになれることがあります。また,家庭訪問を通して個人の啓示を受けたり霊的な経験をしたりすることもできます。

自分のワードで,また世界中で家庭訪問に参加しながら,わたしは人生のほかの場面では経験できないほど謙虚にさせられ,喜びを感じ,霊的な経験をしてきました。福音を教え合い,ともに泣き,笑い,問題を解決し合ってきました。わたしは高められ祝福を受けました。

月末のある晩,わたしは遠出の支度をしていましたが,一人の姉妹の家庭訪問がまだでした。時間も遅く,約束も取っていません。電話もしておらず,同僚もいませんでした。それでも友人のジュリーを訪問することは大切だと思い,そうすることにしました。ジュリーの娘アシュリーは生まれつき骨がもろくなる症状を抱えており,6歳近くなってもとても小さく,腕を動かすことと話すこと以外はほとんど自分ですることができませんでした。朝から晩まで羊皮のじゅうたんの上で横になる日々でした。アシュリーは明るくて陽気な子で,わたしは彼女と一緒にいるのが大好きでした。

その夜,ジュリーは訪ねて来たわたしを招き入れてくれました。するとアシュリーが声を上げ,見せたいものがあると言いました。わたしは部屋に入ると,床の上のアシュリーのそばにひざをつきました。お母さんは反対側にいます。アシュリーは言いました。「わたしこんなことができるのよ!」少しお母さんに助けてもらいながら,彼女は寝返りを打つとまた元の体勢に戻りました。彼女は6年近くをかけてこのすばらしい目標を達成したのです。この特別な出来事に,ともに手をたたき,歓声を上げ,笑い,泣きながら,わたしは自分が家庭訪問に行ったこと,そしてこのすばらしい出来事を逃さずに済んだことを天の御父に感謝しました。この訪問から何年もたち,大好きなアシュリーはすでに亡くなりましたが,彼女とのあの特別な経験にわたしはいつまでも感謝することでしょう。

愛するわたしの母は何年もの間,すばらしい献身的な訪問教師として奉仕しました。どうすれば訪問先の家族を祝福できるか常に考えていました。家族を強めたいという気持ちから,特に訪問先の姉妹の子供たちに注意を払っていました。あるとき教会で,5歳の子供が母のところに走って来てこう言いました。「わたしの訪問教師よね!大好きよ。」その光景は今でも思い出すことができます。すばらしい女性たちとその家族の人生にかかわることは母にとって祝福でした。

家庭訪問についての経験が,心温まる,すばらしいものばかりであるとは限りません。歓迎されない家を訪問するときや,とても忙しくてなかなか会えない姉妹もいます。良い関係を築くのに長い時間がかかる姉妹もいるかもしれません。それでもその姉妹を愛し,心にかけ,祈るように真心から努めるならば,見守り,強める方法が見つかるよう聖霊が助けてくださるでしょう。

トーマス・S・モンソン大管長は,救い主のように人を教え導くことの達人です。大管長がだれかを訪問し助けているのは見慣れた光景です。

大管長はこう言いました。「わたしたちの周りには,……わたしたちの注目,励まし,支え,慰め,親切を必要としている人が大勢います。わたしたちは地上で主のに使われる器であり,わたしたちには御父の子供たちに仕え,彼らを高める責務があります。主はわたしたち一人一人を頼りにしておられるのです。」

「〔姉妹〕は謙遜であり,愛に満ち,信仰と希望と慈愛を持ち,また自分に任せられたすべてのことについて自制しなければ,だれもこの業を助けることはできない。」

わたしたちが訪問し教える女性たちは,わたしたちに託されています。愛と哀れみをもって,託された人たちの生活に良い影響を与えましょう。

姉妹の皆さん,皆さんを愛しています。皆さんが天の御父と救い主イエス・キリストの愛を感じられるように祈っています。救い主が生きておられることを証します。イエス・キリストの御名により,アーメン。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
このお話は、末日聖徒イエスキリスト教会2010年10月の総大会からご紹介しました。
青字赤字塗りつぶしは、追加しています。

※ユダの手紙
1:22疑いをいだく人々があれば、彼らをあわれみ、

( 日本語訳では、大分意味が違いますね。聖書が、改悪されている印象を受けます。英語では、以下です。)

The General Epistle of Jude

1:22 And of some have compassion, making a difference:

ある者は哀れみの心を持ち,違いを生み出す

------------------------------
お読みいただいて、ありがとうございます。
良い1日を、お祈りします。

世界中の善良な女性が自分のアイデンティティーや価値,大切さを知りたいと切に求めています。

2022-09-25 08:51:00 | 日記

「わたしの王国の娘」――扶助協会の歴史と業
ジュリー・B・ベック
中央扶助協会会長

扶助協会の歴史を研究し応用すると,救い主イエス・キリストの弟子であるわたしたちが何者であるかが分かり,明らかになります。

この集会は,天の御父の思いとを知り,御父の計画における自分の責任について理解したいと望む,御父のすべての娘にとってです。この1年間,大勢の姉妹を訪ね,皆さんの目を見て,皆さんを抱き締め,皆さんと笑ったり泣いたり,皆さんの喜びや悲しみ,功績について聞いたりしたときに心を動かされました。一人一人には筆舌に尽くしがたいほどの価値があり,天の御父は皆さんをよく御存じです。神の娘として,皆さんは永遠の称号を受ける準備をしており,各自が女性としての個性,特質,責任を備えています。家族や地域社会,この教会,そして貴い救いの計画が成功するか否かは,忠実な皆さんにかかっているのです。愛する姉妹の皆さん!心から愛しています。皆さんのために祈っています。





わたしたちは皆,この現世で非常に個人的な経験をしています。最近出会った二人の姉妹は,忠実に生活する方法を示してくれています。一人の姉妹はブラジル中央部に住んでいます。赤土の庭の中に建つ,赤いブロック塀に囲まれた,美しい赤レンガの家は,俗世を遮断する避け所となっています。輝くの子供たちは初等協会の歌を知っていて,部屋の壁には『リアホナ』から切り抜いた救い主や神殿,神の預言者の絵や写真が飾られています。彼女と夫は,子供たちが聖約の中で生まれるように個人的な犠牲を払って神殿で結び固められました。彼女は,子供たちを福音の光と真理,力の中で育てるために欠かせない強さと霊感を受けられるよう絶えず主に祈っていると話してくれました。









もう一人の姉妹はビルの80階にある小さなアパートに独りで住んでいます。肉体的な問題を抱えていますが,気持ちは明るく,自立しています。彼女は家族の中で唯一の教会員です。小さな棚の上に聖典,扶助協会のテキスト,教会のそのほかの書物が並んでいます。彼女は家の中にに満たされた避け所を作っており,支部の会員にとって光となっています。

警告

わたしたちは多くの姉妹が過酷な,あるいは危険な状況の中で生活していることを知っています。絶え間ない空腹に悩まされている姉妹,落胆や人の裏切りがあっても信仰を持ち前進する勇気を毎日振り絞らなければならない姉妹がいます。わたしたちは地球の終わりの時に生きているので,あちこちで大きな戦いのしるしがあります。末日聖徒の女性の力や目的,地位に関する偽の情報や誤解がしています。現在広まっている偽の情報は,女性が男性より劣っている,女性は大概かわいらしいが無知である,そして女性がどんなに頑張っても天の御父に受け入れられるほどの人物にはなれないと思い込ませます。使徒ペテロが語ったように,「あなたがたの間にも,にせ教師が現れるであろう。彼らは,滅びに至らせる異端をひそかに持ち込み,自分たちをあがなって下さった主を否定」 するのです。

モルモン書は何が起きているか,こう説明しています。

見よ,その日,〔サタン〕は人の子らの心の中で荒れ狂い,人の子らをそそのかして善いことに対して怒らせる。
また,〔サタン〕はほかの人々をなだめ,彼らを欺いて現世での安全を確信させるので,彼らは,『シオンの中では,すべてが良い。まことに,シオンは栄えており,すべてが良い』と言う。悪魔はこのようにして人々をだまし,巧みに地獄に誘い落とすのである。
そして見よ,悪魔はほかの人々にへつらい,『地獄はない』と告げ,『悪魔はいないので,わたしは悪魔ではない』と言う。悪魔はこのように彼らの耳にささやいて,決して逃げられない恐ろしい鎖で縛ってしまう。」 

権利の主張や言い訳,無関心,誘惑が蔓延する中で,注意力を研ぎ澄まさず,祈らず,霊感を受けようとしない神の娘は,聖文で述べられている「異なる神々」 を礼拝する「愚かな女ども」 になってしまう危険性が非常に高いのです。悲しいことに,生活の中で遭遇する困難や,世間に広まっている偽りの教義の結果,多くの姉妹は真理よりも偽の情報を信じています。多くの人々が祈りや聖文研究といった基本的な事柄をしていないと判明したことが,彼らが神の計画と調和していないことを立証しています。主御自身が「今は警告の時であり,多くの言葉を費やす時ではない」 と言われています。


扶助協会は砦とりでおよび避け所となるように組織された

この苦難の時代に神は御自身の娘を守り,教え,霊感を与えるために,預言者ジョセフ・スミスに権能を与えて,教会の女性たちを組織させられました。天から任命され,神権によって導かれるこの組織は,扶助協会と呼ばれています。

扶助協会の目的は,神の娘たちが信仰と個人の義を増し加え,家族と家庭を強め,助けの必要な人々を見つけて手を差し伸べることを通して,彼女たちを永遠の命に備えることです。

扶助協会は神の計画を守るわたしたちの務めを明確にし,神の娘として一つにしてくれます。誤ったアイデンティティー,混乱,妨害の時代にあって,扶助協会は忠実な女性に真理を教える羅針盤および道しるべとなるよう意図されています。現代の義にかなった女性は,信仰を増し,家族を強め,人に救助の手を差し伸べることによって,心の動揺に抵抗し,邪悪や霊的な破滅と闘い,個人的な災難を乗り越えるために啓示を豊かに受けようとしています。


扶助協会の歴史と業

わたしたち会長会は,神の娘たちが「地に住む者に下る災い」 に直面したときに堅固であるのを助けるために神がわたしたちになすように望んでおられることを知ろうと,祈って断食をし,深く考え,預言者,聖見者,啓示者たちと話し合ってきました。その結果,教会の姉妹たちが扶助協会の歴史について知り,そこから学ぶべきであるという答えを受けました。扶助協会の歴史を理解することで,忠実な女性の基礎となるアイデンティティーと価値が強められるのです。

これを受けて,教会の扶助協会の歴史をまとめた冊子を制作しており,来年使用できるようになります。これに先駆けて,『リアホナ』の家庭訪問メッセージのページでも扶助協会の歴史について採り上げています。歴史書の準備は霊感と啓示をもたらす経験となっています。

扶助協会の歴史を研究する中で分かったのは,扶助協会に対する主のビジョンと目的は,日曜日の眠気を催す集会ではないということです。主は婦人会や趣味や娯楽のグループよりももっと,もっと大きなことをお考えです。

主は扶助協会が民を築き,神殿の祝福に備えさせるのを助けるように意図されていました。主がこの組織を設立したのは,娘たちを御自身の業に協力させ,王国を築いてシオンの家庭を強めるうえで娘たちの力を借りるためでした。


歴史はわたしたちが何者であるか教えてくれる

わたしたちは自分たちの歴史を学ぶことによって,自分たちが何者であるかを学びます。世界中の善良な女性が自分のアイデンティティーや価値,大切さを知りたいと切に求めています。扶助協会の歴史を研究し応用すると,救い主イエス・キリストの弟子であるわたしたちが何者であるかが分かり,明らかになります。わたしたちの忠実さと奉仕は,わたしたちの改心や,主を覚えて主に従う決意を表します。1830年7月,教会の回復の初期に,主はこの神権時代の最初の女性指導者をお選びになり, こう言われました。「わたし〔は〕あなた,すなわちわたしの娘,エマ・スミスに語る……。まことに,わたしはあなたに言う。わたしの福音を受け入れる者は皆,わたしの王国において息子であり,娘だからである。」

扶助協会の歴史は,天の御父が御自身の娘たちを御存じであることを教えています。御父は娘たちを愛しておられ,彼女たちに具体的な責任を与えられ,現世の旅路の中で語りかけ,導いてこられました。さらに,扶助協会の歴史は女性の地位を高めて実証し,女性が忠実な神権指導者とともに働く方法を示しています。


歴史はわたしたちのなすべきことを教える

わたしたちは自分たちの歴史を学ぶことによって,何をするべきかを学びます。扶助協会の歴史を通して,わたしたちは永遠の命の祝福にどのように備えればよいかを学びます。扶助協会という組織はシオンのワードや支部の姉妹たちの力を組織する責任を常に負ってきました。扶助協会集会,訪問教師の奉仕,協力して当たる奉仕活動を通して神の娘たちは主の業と王国における自分の責任について教えを受け,見守られ,霊感を受けてきました。ワードや支部の扶助協会会長は,その業を導くために召されています。

1年前のこの集会で,扶助協会集会の方針が発表されました。世界中のほとんどのワードと支部の扶助協会会長と姉妹たちがこの方針とその根底にある精神をしっかり受け止めてくれたという報告を受け,わたしたちはうれしく思っています。扶助協会の歴史的な目的と業が再び活気づいている様子を見ることができ喜ばしく感じています。姉妹たちのすべての集会が,本来の扶助協会という名前で呼ばれることにより,扶助協会に威厳と,アイデンティティーとさが増しているのを見ています。信仰と個人の義が増し,家族と家庭がさらに強められ,扶助協会集会を正しく用いることを通して扶助協会の姉妹たちがさらに助けの手を差し伸べている様子をわたしたちは見ています。扶助協会集会,訪問教師,そのほかの扶助協会の業に関するすべての方針は,扶助協会の歴史に基礎を置き,大管長会によって承認されています。

救いの業に携わることは,いつも扶助協会の責任となってきました。回復された教会の初期から,姉妹たちは日常生活で起きる出来事に対処するためにだれよりも早くから,だれよりも遅くまで,欠かさず必要な場所に足を運んできました。姉妹たちは,初等協会や若い女性,日曜学校などで奉仕するために扶助協会から出て行き,次の世代への光と徳の模範となっています。個人の奉仕は一人一人の姉妹の人格を築き,何百万人の忠実な女性が結束して行う奉仕活動によって,主の業における恐るべき信仰の軍勢が組織されます。歴史が示すように,回復の初めから,姉妹は伝道の最前線に立ち,現在も自ら伝道に出たり,若い男性と若い女性が伝道に備えるのを助けたり,福音の祝福をともに味わうよう友達や隣人,家族を招いたりしてきました。さらに歴史から分かることは,預言者ジョセフ・スミスは姉妹たちに自らを神殿に備えることについて教えるために扶助協会の集会を利用しました。,家族歴史活動と神殿の業は扶助協会の中心的な義務の一部です。

わたしたちの歴史的な目的を理解すれば,女性が「価値のないものに金を使〔わず〕……満足を得られないものに労力を費や〔さない〕」 よう正しい優先順位を学ぶのに役立ちます。扶助協会は使徒パウロが教えたことをする責任を絶えず負ってきました。すなわち,若い女性にまじめで慎み深くあり,純潔を守るように教え,結婚している姉妹には夫を愛し,子供を愛し,家庭を強めるように教えることです。 扶助協会の歴史はわたしたちを救いめる大切な事柄や,わたしたちが個人として自立して主の王国で役に立つために必要なことを行えるように教えてくれます。

扶助協会の歴史を通じて存在する不変のテーマは,聖霊の力を活用する姉妹は生活の中で主の霊感をもって働き,自分の責任に関する啓示を受けるというものです。


歴史は忠実な女性を一つにする

わたしたちが自分たちの歴史を学ぶのは,それによって忠実な女性が一つになれるからです。扶助協会の歴史は,強く,忠実な,目的を持った女性が登場する,御霊に満ちた歴史です。主の回復された教会の一部である扶助協会は,今や170近くの国にあります。世界中どこにいても,主の教会の成人女性は重要な責任を受けることができます。

教会の少女と若い女性は『神への信仰』と『成長するわたし』を通して,神殿や将来の責任に焦点を当てて目標を立てることを学びます。そして扶助協会でも信仰と個人の義を増し加え,自分たちの家族と家庭を強め,助けの必要な人々を見つけて手を差し伸べることにより,神殿と永遠の命の祝福に向かって前進し続けるのです。忠実な姉妹はたとえ称賛や注目を受けなくても働くことを学びます。なぜなら扶助協会は,隠れて施し(またはささげ物)をするときに隠れたことを見ておられる天の御父が公に報いてくださると言われた主イエス・キリストの教えに基づいて栄えるからです。

わたしたちは扶助協会の歴史と業を通して,年齢や経済状態,教育の有無や独身か既婚かにかかわらず,強く揺るぎない神の娘たちから成る偉大な世界規模の姉妹の組織に結ばれているのです。


歴史について知ることは変わる助けとなる

わたしたちが自分たちの歴史を学ぶのは,それによってわたしたちが変われるからです。結局のところ,歴史の価値は日付や時間,場所にはありません。ではなぜ歴史に価値があるかと言えば,それは,原則と目的と規範を教え,わたしたちが何者であって,何をすべきかが分かるように助け,シオンの家庭を強め地上の神の王国を築くために姉妹たちを結束させてくれるからです。霊感によって運営するなら,扶助協会は恐れや疑問,自己中心主義を信仰と希望,慈愛に変えることができます。主の業を推し進めるとき,扶助協会の歴史は世界中の忠実な姉妹によってさらに書き加えられるでしょう。主は今日扶助協会を強め,御自身の娘たちに栄えある未来を用意しておられます。

天の御父とその御子イエス・キリストが現実の御方であられることをします。預言者ジョセフ・スミスを通して,福音,すなわち女性のアイデンティティーと目的についてのよきおとすれが地上に回復されました。イエス・キリストの御名により,アーメン。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
このお話は、末日聖徒イエスキリスト教会2010年10月の総大会から、ご紹介しました。赤字青字、塗りつぶしは追加しています。

エンジンの問題に対処するために,わたしは何をしたらよいでしょうか。

2022-09-24 05:08:00 | 日記
導き手として聖なる御霊を受ける
ラリー・Y・ウィルソン長老
七十人

  イエス・キリストに信仰を持つ人に対し,何と驚くべき賜物が与えられることでしょう。その賜物は聖なる御霊です。

 この復活祭の日曜日に,わたしたちは,主イエス・キリストの復活と,キリストの死への勝利に対する希望をすべての信者に与えてくれる空になった墓に思いを馳せます。わたしは,使徒パウロと同様に,神が「〔キリスト〕を死人の中からよみがえらせた」ように,「〔神がわたしたちの〕内に宿っている御霊によって,〔わたしたち〕の死ぬべきからだをも,生かしてくださる」ことを信じています。
                        
この「生かしてくださる」は欽定訳聖書(英語)では“quicken”で,「命を与える」という意味です。ちょうどキリストがその復活の力を通して,肉体の死の後にわたしたちの体に命を戻してくださるのと同じように,キリストはわたしたちを霊の死から生かすことがおできになります。
          
 モーセの書には,アダムがこれと同様の生かされた状態を経験したと書いてあります。「〔アダムは〕バプテスマを受け,神の御霊が彼に降られました。このようにして,彼は御霊によって生まれ,内なる人において生かされた者となったのです。」
                  
      
イエス・キリストに信仰を持つ人に対し,何と驚くべき賜物が与えられることでしょう。この賜物は,新約聖書で「イエスにあるいのち」と呼ばれているものをわたしたちに与える聖なる御霊のことです。
          
 しかし,わたしたちはそのような賜物が与えられることを時々当然のことと思っていないでしょうか。
兄弟姉妹の皆さん,「〔わたしたちの〕導き手として聖なる御霊を受け」ることは,非常に特別な権利です。
          
  そのことは以下の経験が示しています。



朝鮮戦争のとき,フランク・ブレア少尉は日本に駐留する軍の輸送船で働いていました。
          
 その船は従軍牧師を乗せるほど大きくありませんでした。そこで船長はブレア兄弟が信仰と原則を守る人で,全船員から高い尊敬を受けていたことを評価し,その船の非公式な牧師を務めるように依頼しました。


ブレア少尉はこう書いています。「わたしたちの船は巨大な台風に巻き込まれました。波の高さはおよそ14メートルありました。わたしが当直だったとき,……稼働していた3台のエンジンの内1台が故障して停止し,船の中心線部に亀裂が入ったと報告がありました。2台のエンジンが動いていましたが,そのうちの1台の出力は半減していました。わたしたちは深刻なトラブルに見舞われたのです。」

ブレア少尉が自分の当直を終え,ベッドに入ろうとしていたとき,船長がドアをノックし,「この船のために祈ってくれませんか」と頼みました。もちろん,ブレア少尉はそうすることに同意しました。

その時点で,ブレア少尉は単に「天のお父様,わたしたちの船を祝福し,安全をお守りください」と祈り,ベッドに戻れたかもしれません。しかし,そうする代わりに,船の安全を確保するために,自分にできることが分かるように,と祈りました。すると,ブレア兄弟は祈りの答えとして,ブリッジに行って船長と話をし,状況をよく把握するように聖霊から促しを受けました。船長は,船で稼働しているエンジンでどれだけ早く航行できるかを決めようとしていました。ブレア少尉はもう一度祈るために船室に戻りました。

そしてこう祈りました。「エンジンの問題に対処するために,わたしは何をしたらよいでしょうか。」

それに答えて聖霊は,船の中を巡回し,もっと情報を集めるために観察する必要がある,と彼にささやきました。彼は再び船長のところに戻り,甲板の上を巡回する許可を願い出ました。その後,腰に命綱を結んで,嵐の中に出て行きました。

船尾に立っていると,船が波の頂点に達したときに,大きなスクリューが水面から出ているのが見えました。一本のスクリューだけがフル稼働し,しかも非常に速い速度で回転していました。この状況を観察した後,ブレア少尉は再び祈りました。彼が受けたはっきりとした答えは,稼働している1台の正常なエンジンに過大な負荷がかかっているので,減速する必要がある,ということでした。そこで彼は船長のところに行ってそのことを提案をしました。船長は驚きました。船の機関士はちょうどその逆のことを提案してきたというのです。すなわち,嵐から逃げ切るために正常なエンジンのスピードを上げるということでした。けれども,船長はブレア少尉の提案に従うという選択をし,エンジンのスピードを落としました。夜明けには,船は静かな海で安全に航行していました。

そのほんの2時間後に,1台の正常なエンジンも故障して完全に止まってしまったのです。残った出力の半減したエンジンで,船は港までのろのろと進んで行きました。

船長はブレア少尉にこう言いました。「もしあのエンジンを減速していなかったら,嵐のただ中でそのエンジンを失ってしまったでしょう。」

あのエンジンがなければ,舵を取る方法はありませんでした。船は転覆し沈没していたはずです。船長はこの若い末日聖徒の士官に感謝し,ブレア少尉の霊的な印象に従うことが船と船員の命を救ったと信じていると言いました。

さて,この話はかなりドラマチックです。わたしたちがこのような緊迫した状況に直面することはないかもしれませんが,この話には,御霊の導きをもっと頻繁に受けることができるようになるにはどうしたらよいかということに関する大切な指針が含まれています。

第一に,啓示を受けるためには,わたしたちの受信機を天の周波数に正しく合わせなければなりません。ブレア少尉は,清く忠実な生活をしていました。彼が従順でなかったなら,船の安全とそのような特別な導きを受けるために祈ったとき,祈ることに必要な霊的な確信が持てなかったことでしょう。神から導きを受けるためには,わたしたち一人一人の生活を神の戒めに合わせる努力をしなければなりません。

わたしたちがふさわしくないために,天からの信号を聞き取れないことがあります。悔い改めと従順は,導きを再びはっきりと聞き取るための方法です。旧約聖書で悔い改めという言葉は,「変化する」または「向きを変える」ことを意味します。
          
 神から離れていると感じるとき,罪から向きを変えて救い主に顔を向ける決意さえすればよいのです。そうすることで,主があなたを待っておられ,主の腕が差し伸べられているのを見いだすでしょう。主はあなたを導こうと願っておられます。その導きを再び受けるためには,一歩踏み出して祈ることが必要なのです。
          
        
      
第二に,ブレア少尉は,単に主が問題を解決してくださるように願い求めませんでした。彼は,解決の一助となるために自分には何ができるでしょうかと尋ねたのです。わたしたちも同じように,「主よ,解決の一助となるためにわたしは何をする必要があるでしょうか」と尋ねるとよいでしょう。祈りの中でわたしたちの問題を羅列し,主に解決していただくことを願い求める代わりに,主の助けを受けるためのもっと積極的な方法を探し求め,御霊の導きに従って行動することを決意するとよいでしょう。

ブレア少尉の話には第三の大切な教訓があります。もしブレア少尉がこれまでに御霊の導きを受けたことがなかったとしたら,そのような静かな確信を持って祈ることができたでしょうか。台風が来たときには,長い間使わなかった聖霊の賜物を取り出して,それをどう使えばよいかを見つけ出す時間などありませんでした。この青年は,専任宣教師だったときも含め,以前に何回も使ったことのある方法に明確に従っていました。わたしたちは聖なる御霊を静かな海の導き手として受け入れる必要があります。そうすることで,最も激しい嵐に中にあっても,主の声は間違いなくわたしたちに届くのです。

「〔神が〕すべてのことを命じるのは適切ではない」ので,わたしたちが怠惰な僕にならないように,日々の導きを御霊に期待するべきではないと考える人がいるかもしれません。
          
 しかしながら,この聖句は,自分で受けるべき啓示をジョセフ・スミスが受けてくれるように頼んだ初期の数人の宣教師に与えられたものです。この前の聖句で,主は伝道地に向かう宣教師にこう言われました。「彼らに,彼ら自身とわたしとの間で協議するとおりに,……この地に……来させなさい。」
                
      
これらの宣教師たちは,彼らの旅の計画について具体的な啓示がほしいと思っていました。彼らは,個人的なことについて自分で導きを求めることをまだ学んでいませんでした。そこで主はその態度を怠惰であると呼ばれたのです。初期の教会員は,真実の預言者がいることを非常に喜ぶあまり,自分で啓示を受ける方法について学ぶことを怠る危険を冒していたのでした。霊的に自立するとは,自分自身の人生のために主の御霊を通して主の声を聞くことです。

アルマは自分の息子に「あなたのすべての行いについて主と相談しなさい」と助言しています。
          
 わたしたちがよく「御霊によって生きる」と呼ぶこの方法で生活するのは大きな特権です。このことが,御霊の実として,愛,喜び,平安だけではなく,冷静さと確信の実感をもたらします。        
      
ブレア少尉の啓示を受ける能力が,荒れ狂う嵐から彼自身と船員仲間を救ったのでした。今日,別の種類の嵐が吹き荒れています。モルモン書にある命の木のたとえは,そのような世の中にあって霊的な安全を得る方法について力強い描写がなされています。この夢は,神のみもとに戻る道を歩む教会の会員に霊的な破壊をもたらす暗黒の霧が突然起こることを示しています。



この描写について深く考えると,その道を旅する数多くの人々がいて,ある人たちはしっかりと手で鉄の棒を握っていますが,ほかの多くの人たちは前を歩く人々の足跡に単に従っている様子がわたしの心の目に見えます。この後者の方法には,ほとんど何の考えも努力もありません。ほかの人が行ったり考えたりしていることを真似しているだけなのです。これは天気の良い日にはうまく行くでしょう。しかし,欺瞞の嵐と偽りの霧が前ぶれなしに発生します。このような状況において,聖霊の声に慣れ親しんでおくことは,霊的な生死を左右します。

ニーファイは次のように力強く約束しています。「だれでも神の言葉に聞き従って,それにしっかりつかまる者は,決して滅びることがなく,また敵対する者の誘惑や火の矢も,彼らを打ち破って盲目とし,滅びに至らせることはない。」
                
あなたの道の前を歩く人の足跡に従うのでは十分ではありません。わたしたちは,ほかの人が行っていたり考えていたりすることを,単に行ったり考えたりすることはできません。わたしたちは,導きを受けながら生活しなければなりません。わたしたちは一人一人,自分の手で鉄の棒を握らなければならないのです。そうすることで,謙遜な確信を持って主のもとに行き,主が「手を引いて〔わたしたちを〕導き,〔わたしたちの〕祈りに答えを与え」てくださることを知るのです。
          
イエス・キリストの御名により,アーメン。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
このお話は、末日聖徒イエスキリスト教会2018年4月の総大会からご紹介しました。
赤字青字は追加しています。
再掲になります。





最後の裁きとは,行いと思いがもたらす最終的な結果—つまりわたしたちがどのような人物になったか—を確認することであると結論することができます。

2022-09-23 05:25:03 | 日記
行動し,より良い弟子となる信仰
シロ・シュマイル長老
七十人

祈りと聖典学習,行動を通して天の鍵を開け,救い主イエス・キリストのより良い弟子となることができます。

中央幹部七十人に召されてから直ぐに,わずかな時間でしたが,ラッセル・M・ネルソン大管長と話をする機会がありました。カフェテリアでばったり会ったのですが,S・マーク・パーマー長老とわたしに,親切にも,昼食を一緒に取りませんか,と声をかけてくれました。

「預言者と一緒の昼食で,何を話せばいいんだろう。」そんな思いが浮かびました。わたしは召しを受けたばかりだったので,何か助言や指導はないかネルソン大管長に尋ねることにしました。大管長の答えはシンプルでストレートなものでした。わたしを見て,こう言いました。「シュマイル長老,あなたが召されたのは,あなたがなれる人物になるためですよ。」その経験以来,主がわたしにどのような者になってほしいと思われているか,深く考えました。その結果,わたしが気づいたことは,主はわたしがより良い夫,父親,息子,より良い僕になることを望んでおられるということでした。そして,救い主イエス・キリストのより良い弟子となる努力をしていけば,そのどれもが達成できるということが分かりました。

前回の総大会でネルソン大管長は言いました。「どんなことであれ良い結果を出すには,努力が必要です。イエス・キリストの真の弟子になることも,例外ではありません。」ネルソン大管長は,イエス・キリストのより良い弟子になるために熱心に務めるよう,招いています。救い主のようになるには,求め,行動し,学び,そのほかのことを行って,信仰を強める必要があると語りました。

1.求める

大管長は「イエス・キリストの御名によって,天の御父に助けを求める」ようにと言いました。祈りによって尋ね求めることは,イエス・キリストのまことの弟子となる方法を知るための,鍵の一つです。

アメリカ大陸のニーファイ人の間でのイエス・キリストの務めが終わりに近づいたころ,主は天に昇って行かれました。後に弟子たちは一つに集まって,「熱烈に祈り,断食をし〔ていまし〕た。そして,彼らがイエスの名によって御父に祈っていると,イエスが再び彼らに御自身を現され〔まし〕た。」イエスはなぜ弟子たちに,再び御姿を現わされたのでしょうか。それは彼らが,祈ったからです。彼らは求めていました。

続けて主は,こう言われます。

「さて,わたしは父のみもとに行くが,まことに,あなたがたに言っておく。あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何であろうと,あなたがたに与えられる。
だから,求めなさい。そうすれば与えられるであろう。たたきなさい。そうすれば開かれるであろう。求める者には与えられ,たたく者には開かれるからである。」 

主の御心を知るには信仰をもって求め,主がわたしたちにとってより良いものを御存じである,ということを受け入れる必要があります。


2.行動する

行動も,イエス・キリストのより良い弟子になるための欠かせない鍵です。行動するときに,主は導きと指示を与えてくださいます。ニーファイはラバンから真鍮の版を手に入れる方法を知りたいと,主に導きを求めていたはずです。それでも,ニーファイと兄たちは2度失敗しました。しかし,彼らは行動し,主はその中で彼らを導かれたのです。ついに,3度目にしてニーファイは成功しました。「わたしは,前もって自分のなすべきことを知らないまま,御霊に導かれて行った。」と述べています。 

わたしたちが努力し,たとえ何をすればいいのかはっきり分からなくても行動するときに,主はこのように働かれます。主はニーファイに何をするか,告げられました。行って,版を取ってくることです。しかし,どのように行うかは告げられませんでした。自分で考え,主の助けを求めるように,ニーファイに任されました。たいてい,これが主がわたしたちの生活の中で働かれる方法です。信仰を持って行動するとき,主は導き,指示を与えてくださいます。


3.学ぶ

第3ニーファイで弟子たちは救い主に,民の間に教会の名称について論争があることを告げました。それに対して救い主は大切な原則を教え,こう言われました。「彼らは……聖文を読んだことがないのか。」学ぶことも,イエス・キリストのまことの弟子になるためのさらなる,欠かせない鍵です。祈りと聖文研究は密接に関係し,互いに影響し合い,わたしたちの益となる,主が定められたプロセスです。「キリストの言葉をよく味わうように〔しなさい〕。見よ,キリストの言葉はあなたがたがなすべきことをすべて告げるからである。」 

救い主はさらに,聖文を学ぶだけではなく,御自分がニーファイの民に行われたように,聖文から教える必要もあると教えられました。「さて,弟子たちが書き記してきたすべての聖文をまとめて説き明かした後,イエスは,御自分が説き明かした事柄を教えるように,彼らに命じられた。」

これは,ニーファイが戻って,真鍮の版を手に入れることが重要であった理由の一つです。つまり,家族が聖典を必要としたのは,約束の地にたどり着くのに役立てるだけではなく,子孫を教えるためにも有益だったのです。わたしたちにも旅を続けるために聖典からの導きが必要であり,家庭で,また教会の召しで,聖典を用いて教える必要があります。


4.より良い弟子となるために,行動する

多くの場合,祈りの答えはすぐには与えられることはありません。それでも信仰を持ち,義にかなって行動し,ニーファイが真鍮の版を手に入れたときのように,根気よく続ける必要があります。主は少しずつ示されます。聖文を学ぶとき,主は答えを授けるか,またはもう一日,もう一週間を乗り越え,もう一度挑戦するのに必要な力を与えてくださいます。リチャード・G・スコット長老は,こう言いました。「時として,神は皆さんが答えを受けるまで長い間苦しむに任せられることがありますが,感謝してください。そのような経験を通じて,皆さんの信仰が増し,皆さんの人格が培われるからです。」

祈りと聖典研究を通して,主はいつでもわたしに,行動し,もう一日,もう一週間堪え忍び,もう一度挑戦する力を授けてくださいました。多くの場合,答えはすぐには与えられず,今でもまだ答えられていない問いがありますが,求め,学び続けています。答えを待つ間も,主が引き続き行動する力を与えてくださることを嬉しく思っています。

リチャード・G・スコット長老は,こうも語っています。「たとえ確信がなくても最善の判断に従い信仰を働かせながら歩むとき,ほかの方法では得られない答えに導かれるでしょう。」

救い主イエス・キリストのより良い弟子になることは,生涯続く旅です。そして人は皆異なった段階にあり,歩く速さもまちまちです。これは競争ではないことを,心に留めておく必要があります。わたしたちは互いに愛し合い,助け合うために,ここにいます。自分の生活の中で救い主がともに働いてくださるようにするには,行動する必要があります。

主はシドニー・リグドンにこう言われました。「わたしはあなたとあなたの行いを見てきた。わたしはあなたの祈りを聞き,一つのさらに大いなる業のためにあなたを備えてきた。」わたしは証します。主はわたしたちの祈りを聞き,答えてくださいます。わたしたちを御存じで,一人一人のために大いなる業をお持ちです。祈りと聖典学習,行動を通して天の祝福の鍵を開け,救い主イエス・キリストのより良い弟子となることができます。

ダリン・H・オークス管長は,こう教えています。「最後の裁きとは,善悪の行為—つまりわたしたちが何を行ったか—を集計して評価するだけにとどまるのでなく,行いと思いがもたらす最終的な結果—つまりわたしたちがどのような人物になったか—を確認することであると結論することができます。

預言者,聖見者,啓示者に感謝しています。彼らは塔の上の見張り人であり,わたしたちに見えないものが見えます。彼らの言葉によって,救い主イエス・キリストのより良い弟子となり,自らの可能性を発揮できることを証します。イエス・キリストが生きておられ,わたしたち一人一人を個別に御存じであることを証します。これは主の教会です。イエス・キリストの聖なる御名により,アーメン。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
このお話は、末日聖徒イエスキリスト教会2021年10月の総大会から、
ご紹介しました。赤字青字は、追加しています。