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スーザン,親切な思い つきを抑えつけてはだめよ。

2023-03-28 05:47:55 | 日記
中央若い女性会長会第一顧問
ミッシェル・D・クレーグ

聖なる不満足感

聖なる不満足感は,信仰による行いへとわたしたちを動かし,善を行うようにという救い主の招きにわたしたちが従い,生活を謙遜に主にささげられるようにしてくれるのです。

学生のころ,丘の斜面を往復する舗装された道を通学していました。もう一つ,「男の子の道」と呼ばれる舗装されていない道もありました。丘をまっすぐに上る,土の道です。

距離は短くても,かなり急でした。幼かったわたしは,男の子が歩けるなら自分にも歩けると知っていましたし,それ以上に,自分は末日に生きているのだから,開者がしたように困難なことでもする必要があると知っていました。そして,そのために備えたいと思っていました。それで時折,舗装された道をゆっくり歩いて友達の群れから離れ,靴を脱いで男の子の道をはだしで上りました。足を鍛えようとしていたのです。

初等協会の小さな女の子のわたしにとっては,それが備えだったのです。今は違います。山道をはだしで歩くのではなく,聖霊の招きに応じることで,聖約の道を歩むための足を鍛えられると知っています。主が預言者を通して,「より高く神聖な道」を選んで生活し,人々を気にかけ,より高い一歩を踏み出すようにわたしたち一人一人を呼んでおられるからです。1

行動を起こすようにというこれらの預言的な呼びかけと,自分はもっとできるという,持って生まれた感覚は,時折,ニール・A・マックスウェル長老が言う「聖なる不満足感」と表したものをわたしたちの内面に生み出すことがあります。2 聖なる不満足感は, ありのままの自分と,「潜在的な力を持った自分」とを比較するときに生じます。3

正直であれば,わたしたちは現在の自分と,なりたい自分との,ずれを感じます。わたしたちは,もっとすばらしい個人の特質を身につけたいと切望しています。こういった感情を持つのは,わたしたちが堕落した世に住みながらも,生まれながらにキリストの光を持つ神の娘,息子だからです。このような感情は神から与られたものであり,行動するようにという切迫感を抱かせます。

より高い道へと導く聖なる不満足感は歓迎すべきものですが,悪魔の偽りによってもたらされる無力感や落胆には気をつけ,避けるべきです。悪魔は隙を見つけて飛び込んで来ようとするからです。わたしたちは,神とその平安と恵みを求めるよう
導く,より高い道を歩くか,あるいは,お金や賢さ,美しさなど十分なものは何もない,決して足ることはないのだと苦しめる悪魔の声に耳を傾けるかを選ぶことができます。不満足感は,わたしたちを強めるものにも,弱めるものにもなり得るのです。

信仰をもって行動する

聖なる不満足感と悪魔の偽りを見分ける一つの方法があります。前者はわたしたちを信仰ある行動に導いてくれます。

聖なる不満足感は,居心地の良いところにとどまるようにという招きでも,絶望への導きでもありません。わたしは,自分の足りない点や進歩できていないことについて考えすぎると,御霊を感じて従うことが難しくなるということを学びました。4

ジョセフ・スミスは少年のころ,自分の弱点を見つめ,「自分の不滅の魂の安らぎ」が心配になりました。彼はこう記して
います。「わたしの心はひどく沈んでいった。自分に罪があることを自覚したからだ。……わたしは自分の罪と世の人々罪を嘆き悲しんでいた。」5 こうして,彼は「深く考えさせられ,大きな不安を感じないではいられ」ませんでした。6 似たよな経験はありませんか。皆さんは自分の弱点のことで不安になったり,悩んだりしていませんか。

ジョセフは,あることをしました。次のように話しています。

「わたしはしばしば心に問うた。『何をしなければならないのだろうか。』」7

ジョセフは信仰をもって行動しました。彼は聖典を開き,ヤコブの手紙第 1 章 5 節の招きを読んで,神に助けを求めました。

その結果与えられた示現により,回復が始まったのです。ジョセフが感じた,聖なる不満足感,不安や混乱の感情にとても感謝しています。それらが彼を信仰深い行いへと突き動かしたのです。

よい働きをするようにという促しに従う

世間一般ではよく不満という感情を,自己陶酔の言いわけ,内向きや後ろ向きになり,自分だけの世界に閉じこもり,自分要求をすることの言いわけとして使います。

聖なる不満足感は,「よい働きをしながら,……巡回され」た救い主の模範に従うよう,動機づけるものです。8 弟子の道を歩
みながら,わたしたちは人々に手を差しべるようにという霊的な促しを受けます。

何年も前に聞いた物語は,わたしが聖霊の促しに気づき,行動するよう助けてくれました。

前中央扶助協会会長のボニー・
D・パーキン姉妹は次のように話しました。

「スーザンはすばらしい裁縫師でした。キンボール大管長が〔彼女の〕ワードの地域に住んでいました。ある日曜日,スー
ザンは大管長が新しいスーツを着ているのに気づきました。ちょうどそのころ,彼女の父親が非常に美しい絹の生地を持ち帰りました。スーザンは,その生地でキンボール大管長の新しいスーツに似合うすてきなネクタイができると思いました。そ
れで,月曜日にネクタイを作りました。それを薄い紙に包んで,キンボール大管長の家へ歩いて向かいました。

玄関へ続く道で,突然彼女は立ち止まりこう思いました。『わたしったら,大管長にネクタイを作ったですって? きっとた
くさん持っていらっしゃるわ。』ネクタイをプレゼントしようなんて間違いだったと,彼女は引き返しました。

すると,キンボール姉妹が玄関のドアを開けて言いました。『あら,スーザン!』

緊張し,恥ずかしくなったスーザンはこう言いました。『日曜日に,キンボール大管長が新しいスーツを着ていらっしゃるの
を見ました。父がニューヨークから絹を持ち帰ったので,……大管長にネクタイを作りました。』

スーザンが言葉を続けようとすると,キンボール姉妹は彼女を止め,肩に手を置いて言いました。『スーザン,親切な思い
つきを抑えつけてはだめよ。』」9

この話が大好きです。「親切な思いつきを抑えつけてはだめよ。」だれかのために何かするようにという印象を受けると,それが促しなのか,単に自分の考えなのかと思うことがよくあります。

そこで思い出したのはこの言葉です。「神から出るものはいつも善を行うように誘い,促す。したがって,善を行い,神を愛し,神に仕えるように誘い,促すものはすべて,神の霊
感を受けているのである。」10

直接の促しだとしても,ただ衝動的に助けるよう感じたとしても,善い行いは無駄にはなりません。「慈愛はいつまでも絶えることがない」からです。11

タイミングが悪いことはよくあります。

それに,小さな奉仕の行いの結果を知ることは滅多にありません。しかし,折に触れて,わたしたちが神の御手にある道具で
あったと分かるでしょう。そして,神が認めてくださっているので聖霊が自分を通して働かれるのだと知り,感謝するでしょう。

姉妹の皆さん,やるべきことのリストがすでにいっぱいのように思えるときでも,「なすべきことをすべて」12 示してくださるよう聖霊に願うことができます。促されたときには,流し台の皿をそのままにし,注意を要する多くの課題を脇に置いて,子供に本を読んだり,友人を訪問したり,隣人の子供の子守をしたり,神殿で奉仕したりできます。誤解しないでください。わたしはするべきことのリストを作って,一つずつ達成していくのが大好きですが,より多くのことをすることで必ずしも自分がより善い人になるわけではないという認識があるので安心です。促しに従うことで不満足感を解消すると,「自分の時間」についての考え方が変わります。周りの人を,邪魔をする人たちとしてではなく,自分の生の目的として考えられるようになります。

聖なる不満足感はわたしたちをキリストへ導く

聖なる不満足感は,わたしたちが陥りやすいほかとの比較から生まれる自己憐憫や落胆ではなく,謙遜さへと導いてくれます。聖約を守る女性たちの,家族背景や人生経験,置かれた状況は様々です。

神が与えてくださっている自分の潜在能力と比較すれば皆,足りない点があり一人では弱いのです。しかし,福音によれば,神の恵みによりわたしたちは満ち足りているのです。キリストの助けがあれば何でもできます。13 聖文では「恵みにあず
かって,時機を得た助けを受ける」と約束しています。14

弱さがあるがゆえに謙遜になり,キリストに頼るとき,弱さが祝福となるのは驚くべきことです。15 わたしたちが自己憐憫に浸るのではなく,望みをもって謙遜にイエス・キリストに近づくとき,不満足感は聖なるものとなります。

事実,イエスの奇跡は,望みや必要,失敗,不足などを認識することでもたらされています。

パンと魚の話を思い出してくさい。福音書の筆者たちはそれぞれ,エスがどのように,従って来た多くの人々を奇跡的に食べさせたのかについて記しています。16

物語は弟子たちが不足に気づいたところから始まっています。パン五つと,さかな二ひき〔しかない。〕しかし,こんなに大ぜいの人では,それが何になりましょう。」17

弟子の言っていることはほんとうでした。十分な食べ物がなかたのですが,あるだけのものをイエス差し出し, 主は奇跡を起こされたのです。

皆さんは自分の才能や賜物が十分ではないと感じたことはありませんか。わたしはあります。しかし,皆さんもわたしもキリストに,自分にあるだけのものを差し出せば,主はわたしたちの努力を何倍にもしてくださるでしょう。人間のもろさや弱さがあるとしても,神の恵みに頼るなら,ささげられるものは,有り余るほどあります。

わたしたちは神から見て一世代後の子供であるということは真理です。18 そして,神が世の歴史を通して預言者とごく普通の男女になさったように,天の御父はわたしたちを作り変えようとしておられます。

C・S・ルイスは,作り変える力を次のように説明しました。

「自分自身を1 軒の家だと考えてください。神がその家を改築
するために入って来られます。最初のうちは,神が何を行われているかを理解できるでしょう。神は排水管を直し,屋根の雨漏りを止めるなどされます。このような作業は行う必要があったものなので,あなたは驚くことはありません。しかし,やが神は,ひどく痛みを感じる方法で家の改造を始められます。……あなたは,思ってい
たのとはかなり違う家を神がお建てになっていることに気がつきます。……自分は小さな小屋になるのかと思ったのでしょう
が,神は,宮殿を建てておられるのです。神御自身がそこに住むおつもりなのです。」19

救い主の贖いの犠牲があるので,わたしたちは将来待ち受ける業に備えることができます。

預言者たちは,わたしたちが弟子の道を上るとき,キリストの恵みを通して聖められると教えました。聖なる不満足感は,信仰による行いへとわたしたちを動かし,善を行うようにという救い主の招きにわたしたちが従い,生涯を謙遜に主にささげられるようにしてくれるのです。イエス・キリストの御名により,アーメン。■
1. Russell M. Nelson, in Tad Walch,“‘ The
Lord’s Message Is for Everyone’: President
Nelson Talks about Global Tour,” Deseret
News , Apr. 12, 2018, deseretnews.com
2. Neal A. Maxwell,“ Becoming a Disciple,”
Ensign , June 1996, 18
3. Neal A. Maxwell,“ Becoming a Disciple,”
16;emphasis added
4.「落胆はあなたの信仰を弱めるからです。期待する基準を下げてしまうと,効果が弱まり,
望みが低くなって,御霊に従うことが非常にしくなります。」(「宣教師としてのわたしの目的は何でしょうか」『伝道活動のガイド ―わたしの福音を宣べ伝えなさい』1-16)
5.『歴代大管長の教え―ジョセフ・スミス』28
6. ジョセフ・スミス ―歴史 1:8
7. ジョセフ・スミス ―歴史 1:10 ,強調付加
8. 使徒 10:38
9. Bonnie D. Parkin, “ Personal Ministry:
Sacred and Precious ”( Brigham Young
University devotional, Feb. 13, 2007 ),
speeches.byu.edu.
10. モロナイ 7:13
11. 1 コリント13:8
12. 2 ニーファイ 32:5
13.「わたしを強くして下さるかたによって,何事でもすることができる。」(ピリピ 4:13)
14. ヘブル 4:16
15.「もし人がわたしのもとに来るならば,わたしは彼らに各々の弱さを示そう。……(その後)
わたしは人を謙遜にするために,人に弱さを与える。わたしの前にへりくだるすべての者に対して,わたしの恵みは十分である。もし彼らがわたしの前にへりくだり,わたしを信じるならば,そのとき,わたしは彼らの弱さを強さに変えよう。」(エテル 12:27,強調付加)
16. マタイ 14:13 - 21;マルコ 6:31- 44;ルカ
9:10 -17;ヨハネ 6:1-14 参照
17. ヨハネ 6:9
18. ボイド・K・パッカー会長は次のように教えま
した。「皆さんの肉親の先祖が,何代先まさかのぼろうと,皆さんがどのような人種や民
族に属そうと,皆さんの霊の系図はたっ1 本しかありません。皆さんは,神の子なので
す。」(「若い男性,女性の方々へ」『聖徒の道』
1989 年 7 月号,59)
19. C. S. Lewis, Mere Christianity(1960),160
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このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2018年10月の総大会からご紹介しました。
赤字青字は、付加しています。

赦しはひどい傷を癒します。主の愛によって心の中の憎しみの毒が消されるからです。復讐の思いをなくしてくれます。

2023-03-26 08:09:41 | 日記
灰にかえて冠を:赦しに至る癒しの道

クリスティン・M・イー姉妹 中央扶助協会会長会第二顧問

自分の人生の灰を冠に変えるような人生を送ることは,救い主の模範に倣った,信仰の行いです。

サムエル記上には,後のイスラエルの王,ダビデと,アビガイルと言う名の女性との,あまり知られていない話があります。

サムエルの死後,ダビデとその僕たちは,ダビデの命をねらっていたサウル王から逃れました。彼らは,ナバルという名のいじわるな金持ちの男の家畜の群れと僕たちを守りました。ダビデは10人の僕を送り,ナバルにあいさつをさせ,どうしても必要な食糧や物資を要求させました。

ナバルはダビデの要求に侮辱的な態度で応じ,使者たちを手ぶらで返しました。

気分を害したダビデは,「彼はわたしのした親切に悪をもって報いた」と言って,僕たちを連れてナバルと対決しようとしました。ある僕はナバルの妻のアビガイルに,彼女の夫がダビデの僕たちに行った仕打ちについて告げました。アビガイルはすぐさま必要な食糧と物資を集めて,執り成しに向かいました。

アビガイルはダビデに会うと,

「ダビデの前で地にひれ伏し,

その足もとに伏して言った,

『わが君よ,このとがをわたしだけに負わせてください。……

それゆえ今,……主は,あなたがきて血を流し,また手ずから,あだを報いるのをとどめられました。……

今,あなたのつかえめが,わが君に携えてきた贈り物を,わが君に従う若者たちに与えてください。

どうぞ,はしためのとがを許してください。……』

ダビデはアビガイルに言った,『きょう,あなたをつかわして,わたしを迎えさせられたイスラエルの神,主はほむべきかな。

あなたの知恵はほむべきかな。またあなたはほむべきかな。あなたは,きょう,わたしがきて血を流し,手ずからあだを報いることをとどめられたのです。……』

ダビデはアビガイルが携えてきた物をその手から受けて,彼女に言った,『あなたは無事にのぼって,家に帰りなさい。わたしはあなたの声を聞きいれ,あなたの願いを許します。』

こうして,二人とも穏やかに別れました。

この話の中で,アビガイルはイエス・キリストを明確に示すひながた,あるいは象徴と捉えることができます。イエス・キリストは贖いの犠牲を通して,罪と争いの心という重荷からわたしたちを解放し,わたしたちに必要な養いを与えてくださいます。

アビガイルが進んでナバルの罪を自分が受けようとしたように,救い主も理解し難い方法でわたしたちの罪と,わたしたちを傷つけ,わたしたちの気分を害した人々の罪を引き受けてくださいます。ゲツセマネと十字架上において,イエスはこれらの罪を引き受けられました。主は,わたしたちが復讐心を捨てられるよう,道を備えてくださったのです。その「道」とは,赦しの道です。赦しは,わたしたちが行うことの中で最も難しいことの一つであり,また,わたしたちが経験する中で最も神性なものの一つでもあります。赦しの道を歩むと,イエス・キリストの贖罪の力が生活に流れ込み,心と魂の深い亀裂が癒され始めます。

ラッセル・M・ネルソン大管長は,救い主は赦す能力を授けてくださる,と教えています。

「主の無限の贖罪を通して,皆さんを傷つけた人や,残虐な行為の責任を決して取ろうとしない人を赦すことができます。

心からへりくだって赦しを求める人を赦すのは,普通は簡単なことです。しかし,救い主は,何らかの方法で不当な扱いをしてきた人をすべて赦す力を与えてくださいます。そうすれば,有害な行為はもはや皆さんの心をむしばむことはないのです。」

アビガイルがたくさんの食糧と物資を持ってきたことは,救い主が傷ついた人々に,その人が癒され,元気になるために必要な養いと助けを与えてくださることを教えています。わたしたちは,ほかの人の行いの結果に自分一人で対処するよう放っておかれるわけではありません。わたしたちにも,元気を取り戻し,争いの心やそれに続く行いの重荷から救っていただく機会が与えられるのです。

主はこのようにおっしゃっています。「主なるわたしは,わたしが赦そうと思う者を赦す。しかし,あなたがたには,すべての人を赦すことが求められる。」主が人を赦すよう求めておられるのは,わたしたち自身のためにほかなりません。しかし,主の助けや主の愛,主の理解なしに行うようにとは求めておられません。主と交わした聖約を通して,わたしたちはそれぞれ,赦し,赦されるのに必要な,強められる力や導き,助けを受けることができます。

だれかを赦すことは,傷つき続ける立場に身を置くことではないことを理解してください。「だれかを赦そうと努力していても,その人と距離を置くようにという御霊の促しを感じることはあります。」

ダビデが「心の責め」を抱かずに必要な援助を受けられるようアビガイルが助けたのと同じように,救い主も皆さんを助けてくださいます。主は皆さんを愛し,「翼には,いやす力を備えて」皆さんの歩む道で皆さんに会いに来てくださるでしょう。主は皆さんの平安をお望みです。

わたしは,キリストがわたしの争いの心を癒してくださるという奇跡をこの目で見ました。父の許しを得て,わたしが育った家庭について話します。それは,わたしがいつも安心できる場所ではありませんでした。情緒的な,そして言葉の虐待があったためです。青少年の時期も,ヤングアダルトの時期も,わたしは父を嫌い,その傷のために心に怒りを抱いていました。

長年にわたって,赦しに至る道を歩みながら平安と癒しを見いだそうと努力した末,わたしの罪を贖ってくださった神の御子は,自分を深く傷つけた人たちのことも救われる同じ贖い主であられるということに,深淵な方法で気づきました。後者を信じることなしに,前者の真理をほんとうに信じることはできません。

救い主に対する愛が深まるにつれ,傷と怒りを主の癒しの乳香に替えたいという望みも強まりました。それは何年にも及ぶ過程であり,勇気や忍耐,弱さを見せること,そして人を救い,癒すことのできる救い主の神性な力に対する信頼を会得しなければなりませんでした。まだ努力の途中ですが,もう心に敵意はありません。わたしは「新しい心」を頂きました。自分の隣にいてくださり,忍耐強くよりよい場所へと導いてくださり,助けてくださり,わたしの悲しみを知っておられる,自分の救い主の,深くて不変の愛を感じたためです。

アビガイルがダビデの必要なものを持ってきたように,主はわたしに償いの祝福を送ってくださいました。わたしの生活に助言者たちを送ってくださいました。そして,あらゆることの中で最も貴く,人生を変えてくれたのは,天の御父とわたしの関係です。有り難いことに,わたしは御父を通して,わたしを守り,導いてくれる,完全な御父の優しい愛を知りました。

リチャード・G・スコット長老はこう述べています。「過去に起こったことを消し去ることはできません。 でも赦すことはできます。赦しはひどい傷を癒します。主の愛によって心の中の憎しみの毒が消されるからです。復讐の思いをなくしてくれます。主の清めと癒しと愛が取って代わるのです。」

わたしの地上の父も近年,奇跡的な心の変化を経験し,主に心を向けるようになりました。この世で起こるとは思ってもみなかったことです。人を変える,イエス・キリストの完全な力に対する証がまた一つ増えました。

主は,罪人と,罪の被害を受けた人を癒すことがおできになります。主は世の救い主,贖い主であり,わたしたちが再び生きることができるよう命をささげられた御方です。主はこう述べておられます。「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために,わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして,囚人が解放され,盲人の目が開かれることを告げ知らせ, 打ちひしがれている者に自由を得させ〔る〕。」

心の傷ついた人や囚人,打ちひしがれている人,そして恐らく傷や罪により盲目になっているすべての人々を,主は癒し,立ち直らせ,解放してくださいます。主が実際に人を癒し,立ち直らせてくださることを証します。その癒しの時期は人それぞれで,わたしたちにはほかの人の時期を判断することはできません。癒しに必要な時間を自分に与え,その過程で自分自身に思いやりを持つことは重要です。救い主は常に情け深く,思いやりがあり,わたしたちが必要としている援助を与える用意を整えておられます。

赦しと癒しの道には,家族やほかの場において,不健全な規範や人間関係を持続させないという選びがあります。わたしたちの影響の及ぶ範囲内のすべての人に対して,残忍さには思いやりを,憎しみには愛を,無礼さには穏やかさを,心痛には安心を,争いには平和を与えることができます。

自分が与えてもらえなかったものを与えることは,イエス・キリストを信じる信仰を通して実現できる,神性な癒しの力強い部分です。イザヤが述べたように,自分の人生の灰を冠に変えるような人生を送ることは,すべての人を救うためにあらゆる苦しみを受けられた救い主の至高の模範に倣った,信仰の行いです。

エジプトのヨセフは灰の伴う人生を送りました。兄弟に憎まれ,裏切られ,奴隷として売られ,不当に投獄され,助けると約束してくれた人に忘れられました。それでも,ヨセフは主を信頼しました。「主がヨセフと共におられ」,ヨセフの試練を聖別して,彼自身の祝福と成長とし,彼の家族と全エジプトを救われました。

ヨセフがエジプトの偉大な指導者として兄弟と会ったときに語った優しい言葉に,赦しと,精錬された視点が表れていました。

「しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも,悔むこともいりません。神は命を救うために,あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。…… それゆえわたしをここにつかわしたのはあなたがたではなく,神です。」

救い主を通して,ヨセフの人生は「灰にかえて冠」になったのです。

BYUの学長のケビン・J・ワーセンは,神は「わたしたちの成功からだけでなく,わたしたちの失敗や,わたしたちに痛みを与えるほかの人々の失敗からも,良いものを生じさせることがおできになる。神はそれほどに善なる御方であり,力強い」と述べています。

愛と赦しの最も偉大な模範は救い主イエス・キリストの模範であることを証します。イエス・キリストは,激しい苦しみの中で,こう言われました。「父よ,彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか,わからずにいるのです。」

わたしは天の御父が,神の子供一人一人に対し,幸福と希望があるよう願っておられることを知っています。エレミヤ書には,こうあります。「主は言われる,わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは……平安を与えようとするものであ〔る〕。」

イエス・キリストは皆さん個人のメシヤであり,皆さんの愛に満ちた贖い主,救い主であり,皆さんの心の望みを御存じです。主は皆さんの癒しと幸福を願っておられ,皆さんを愛しておられます。皆さんが悲しいときにはともに悲しみ,皆さんを元気にすることを喜びとされます。赦しに至る癒しの道を歩むときに,元気を出して,常に伸べられている,主の愛に満ちた手を取ることができるよう,イエス・キリストの御名により祈ります。アーメン。

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このお話は2022年10月の末日聖徒イエス・キリスト教会総大会から、ご紹介しました。

赤字青字は付加しています。

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救い主を通して,ヨセフの人生は「灰にかえて冠」になったのです。

Through the Savior, Joseph’s life became “beauty for ashes.”

beautyを、と訳されています。

少し無理があります。

中国語聖書で、調べてみました。


華冠という言葉が見られます。
英語の聖書は、

beauty for ahes となります。
日本語の聖書は、

灰にかえて冠を与え、
となります。

日本語訳は、中国語聖書の影響が見られます。


以下、ウィキペディアから、引用します。

清朝崩壊後のカトリックの聖書翻訳は、当時まだ若かったフランシスコ会の修道士ガブリエル・アレグラによって1935年に開始された。彼はヘブライ語およびアラム語による原語から旧約聖書の翻訳を開始し、それから10年経過した頃、北京において Frs Solanus Lee OFM, Antonius Lee OFM, Frs Bernardinus Lee OFM and Ludovicus Liu OFMの募集を行った。その後、中国は国共内戦が勃発。このため1948年、修道士は香港のStudium Biblicumを動かすこととなる。こうして20年の努力を経て1954年にようやく初の旧約聖書が出版された。また、1968年には旧約と新約を1冊にまとめた聖書が出版された。


中国語聖書はヘブライ語およびアラム語による原語から旧約聖書の翻訳を開始されています。

これが、日本語訳にも影響が出ています。

冠という言葉は、ヘブライ語やアラム語の香りを伝えています。


鋤すきを引いて畑を耕している農家の子供でさえ,〔聖職者〕よりもはるかに聖書に 精通させてみせよう。

2023-03-25 13:30:40 | 日記
シオンの丘
十二使徒定員会会長代理
ボイド・K・パッカー


末日聖徒イエス・キリスト教会に進んで入り,その原則と儀式に忠実であろうとする人はだれでも,「シオンの丘」に立っています。

わたしは長生きをすると同時に,標準が一つずつ排除されるのを目まの当たりにしてきました。

その標準とは,文明が存続するかどうかの要になるものです。

道徳,結婚,家庭,家族といったものの昔ながらの標準が,法廷や審議会で,議会や教室で次々とくつがえされる時代に
わたしたちは生きています。

幸福はまさにこの標準に従って生きることに左右されるのです。

使徒パウロは,この時代に,つまりこの終わりの時に,人は「親に逆らう者,……無情な者,……善を好まない者,……神よりも快楽を愛する者」になるであろうと預言しました(2テモテ3:2-4)。

そして「悪人と詐欺師とは人を惑わし人に惑わされて,悪から悪へと落ちていく」と警告しました(2テモテ3:13)。

パウロは間違っていませんでした。しかしわたしは将来のことを思うと,前向きで楽観的な思いで胸がいっぱいになります。

パウロは若きテモテに,使徒たちから学んだところにとどまっているように,そうすれば守られるであろうと言いました。

それはテモテが「幼い時から聖書に親しみ,それが,キリスト・イエスに対する信仰によって救すくいに至る知恵を,あなたに与えうる書物であることを知ってい」たからです(2テモテ3:15)。

聖文の知識は大切です。わたしたちは聖文から霊的な導きについて学びます。

「聖文として出版されるほどに啓示があふれていた教会初期の時代に生きていたら,わたしは喜んで迫害や試練に耐えたでしょう。どうして今は啓示がないのですか」と言う言葉を何度も聞いたことがあります。

預言者ジョセフ・スミスを通して与えられた啓示は,聖文として印刷され,教会の不変の基盤を据えました。

この教会を通してイエス・キリストの福音は「あらゆる国民」に伝えられます(2ニーファイ26:13)1


預言者および大管長そして副管長の職,十二使徒定員会,七十人定員会,管理監督会,ステークやワードや支部が聖文の中で定義づけられています。

メルキゼデク神権やアロン神権の職も定義づけられています。霊感や啓示が,指導者や教師,両親や個人に伝わる経路も聖文を通して確立されました。

今日こんにちでは逆境や試練にも違いがあります。

どちらかと言えば,初期の時代よりも強さと危険性を増していて,教会よりもむしろ個人がねらわれています

初期の啓示は聖文として出版されており,教会に不変の導きを与え,また儀式や聖約を定めています。

しかも現在でも有効です。

聖文にはこのような約束がなされています。

備えていれば恐れることはない。(教義と聖約38:30)

備えるためになされてきたことをお話ししましょう。

そうすれば,なぜわたしが未来を恐れず,それほど自信をもって前向きでいられるのか分かるでしょう。

大管長会と十二使徒定員会が近年行ってきたことを全部詳しく説明することはできません。

項目だけ並べ挙げることすら
不可能です。

しかし何が行われてきたかを知れば,啓示が引き続き教会や各会員に与えられていることが分かるでしょう。

ですからそのうちの幾つかを話します。

40年以上前,各教会員が簡単で容易に教義を研究できるように英語版の末日聖典を作成するという決定が下されました。

教会は欽定訳聖書,モルモン書,教義と聖約,高価な真珠の相互参照に着手しました。

欽定訳聖書の原文には一切変更を加えませんでした。

この時代に備えるための業は何世紀も前に行われました。

欽定訳聖書の90パーセントはウィリアム・ティンダルとジョン・ウィクリフによって翻訳されました。

このような初期の翻訳家で殉教者であった人々から,わたしたちは多くの恩恵を受けています。

ウィリアム・ティンダルはこう言っています。

鋤すきを引いて畑を耕している農家の子供でさえ,〔聖職者〕よりもはるかに聖書に
精通させてみせよう。」2

アルマは大きな試練を経験した後,さらに大きな試練に直面しました。

記録にはこう書かれています。

「ところで,御言みこと
を説き教えることは民に正しいことを行わせるのに大きな効果があり,まことにそれは,剣やそのほか,これまで民に起こったどのようなことよりも民の心に力強い影響を及ぼしたので,アルマはこの度も神の言葉の力を使うのが望ましいと思った。」(アルマ31:5)

わたしたちが聖典事業に着手したときに考えていたのも,まさにこのことでした。

教会のすべての会員が聖文に精通し,その中にある原則と教義を理解できるようにすることです。

ティンダルやウィクリフが
かつて行ったことを現代に再現しようとしたのです。

ティンダルもウィクリフも激しく迫害されました。

ティンダルはブリュッセルで凍えるような寒い牢ろうに入れられました。

服はぼろぼろになり,寒さは容赦なく襲ってきます。

司教たちに手紙を書き,上着と帽子を送ってほしいと頼みました。

そして「暗闇くらやみの中で一人座っているのはほんとうに疲れます」3 と書いて,ろうそくも求めました。

この求めに激怒した司教たちは,ティンダルを牢から引き出し,群集の前で火あぶりの刑に処しました。

ウィクリフは生きている間は火あぶりを免れましたが,コンスタンツ公会議により遺体は墓から掘り返され,火で焼かれ,
灰はばらまかれたのです。4

預言者ジョセフ・スミスは,16世紀のイギリスの聖職者ジョン・フォックスが書いた『殉教者列伝』(Book of Martyrs)を,七十人のエドワード・スティーブンソンの母親から借りました。

ジョセフは読み終わってから,このように言いました。

「わたしはウリムとトンミムの力を借りて,この殉教者たちを見ました。彼らの持つ光によると,正直で献身的なキリストの信奉者です。彼らは救われるでしょう。」5

7万節以上の聖句を相互参照したり,脚注や注解を作成したりすることは,とてつもなく困難で,不可能とさえ思われていま
した。

しかし着手したのです。

完成までに12年かかり,600人以上の人の手を借りました。

中には,ギリシャ語,ラテン語,ヘブライ語の専門家や古代の聖文の知識を持つ人もいましたが,たいていは普通の忠実な教会員でした。

霊感の霊がこの業を覆いました。

コンピューターがなければこの計画は実現不可能でした。

すばらしいシステムが作られて何万もの脚注を整理し,畑を耕すどんな子供にも聖文が明らかになりました。

会員は項目別の索引を使えば,わずかな時間で「贖罪しょくざい」「悔い改め」「聖霊」など
の言葉を調べることができ,標準聖典全部から意味深い参照聖句を見つけることができます。

この事業が始まって数年後,テーマをアルファベット順に並べていくという単調で骨の折れる仕事の進み具合を尋ねました。

返事にはこう書いてありました。

「『天国』(Heaven)も『地獄』(Hell)も通り過ぎ,
『愛』(Love)も『肉欲』(Lust)も乗り越え,今は『悔い改め』(Repentance)に向かって進んでいるところです。」

モルモン書を印刷する前の原稿も入手しました。

そのおかげで,翻訳された聖文を原稿から印刷するときに紛れ込んだ間違いを訂正することもできました。

英語版聖典の『項目別ガイド』(TopicalGuide)で最も注目すべきは,18ページにわたり,小さな文字で行間を開けずに印
刷された「イエス・キリスト」の項です。

これは,世界史上イエス・キリストの名で編さんされたあらゆる資料の中で,最も広範な情報を盛り込んだ聖文資料となっ
ています。

この参照聖句をたどってくださ
い。

そうすれば,教会がどなたのものであり,何の権威でどのような事柄を教え,さらにはイエス・キリスト,神の御子,メ
シヤ,贖あがない主,わたしたちの主の聖なる御名み な
にすべてが基づいていることが分かるでしょう。

教義と聖約に新しい啓示が二つ加えられました。

エンダウメントを執行しているときに預言者ジョセフ・スミスが受けた啓示を記した第137章と,ジョセフ・F・スミス大管長に与えられた死者の贖いに関する示現,つまり第138章です。

そしてこの作業が終わり,印刷に回るころ,神権に関するすばらしい啓示が授けられ,公式
の宣言として発表され(教義と聖約公式の宣言二参照),聖文に終わりがないことが証明されました。

その後,教会で使われている様々な言語への翻訳という,けた外れの難題が待ち受けていました。

現在までに『聖句ガイド』が集録された合本は24の言語で出
版されていて,今後も増えていきます。

モルモン書は106の言語で出版されていて,さらに49の言語で翻訳が進んでいます。

ほかにもなされた事柄があります。

ルモン書に副題が付き,「モルモン書――イエス・キリストについてのもう一つの証」となりました。

正しい根拠に基づいた教義はソルトレーク神殿の花崗かこう
岩のように堅固で,だれでも手にすることができ,より多くの人が,教会に啓示が絶えず注がれているのを目の当たりにすることができます。

「わたしたちは,神がこれまでに啓示されたすべてのこと,神が今啓示されるすべてのこ
とを信じる。またわたしたちは,神がこの後も,神の王国に関する多くの偉大で重要なことを啓示されると信じる。」(信仰箇条1:9)

聖典の出版が進む一方で,別の大きな業が始まっていました。

これもまた何年もかかるものです。

教会の教科課程全体が再編成されたのです。

神権組織と,子供や青少年,成人のための補助組織における学習過程はすべて,聖文とイエス・キリスト,また神権と家族を中心とするよう改訂されました。

何百人ものボランティアが何年も協力してくれました。

中には,執筆や教科課程,教育など関連分野の専門家もいましたが,たいていは普通の教会員でした。

すべては聖文に基づいており,神権の権能を強調し,神聖な家族の本質に着目しています。

大管長会と十二使徒定員会は「家族――世界への宣言」6
を,その後「生けるキリスト――使徒たちの証」7を発行しました。

セミナリーとインスティテュートは世界中に広まっています。

教師も生徒も御霊みたまによって学び,教えています(教義と聖約50:17-22参照)。

聖典や預言者の言葉,救いの計画,イエス・キリストの贖罪,大背教と回復,それに回復された教会の比類ない立場を理解するように教えられ,そこに見られる原則と教義を確認するよ
うに教えられます。

生徒は日々聖文を勉強することを習慣とするよう奨励されて
います。

月曜日の夜は家庭の夕べのために取っておかれています。

教会のあらゆる活動を控えて,家族が一緒にいられるように
すべきです。

当然の流れとして,伝道の業は『わたしの福音を宣のべ伝えなさい』という表題の下,再び啓示に頼って行われています。

宣教師は2年間,教義を学び,御霊によって教える方法を学び,証を伝えます。

うして解任されて148か国にある故郷に帰る宣教師の数は毎年,2万5,000人以上に上ります。

そして神権統治の原則が明確にされました。

アロン神権もメルキゼデク神権も,定員会は尊ばれ,大いなるものとされてきました。

いつでも,どこでも,監督や会
長など鍵かぎを持つ指導者がいて,導きを与え,解釈の間違いを明らかにし,偽りの教義に気づいて訂正します。

神権会や扶助協会の成人に向けた学習過程は,教会の歴代大管長の教えに基づいています。

教会機関誌は再構成され,現在50の言語で発行されています。

すばらしい神殿建設の時代は続き,122の神殿で儀式が執行されており,さらに二つの神殿が昨日発表になりました。

系図は家族歴史と改められ,忠実な会員たちが最新のテクノロジーの助けを借りて,名前を準備し,神殿に提出しています。

このすべてが今も啓示があることを証しています。

ほかにもたくさんの事柄があ
ります。

細かな点まで語れないほどの数
に上ります。

教会にはプログラムや集会や組織よりも意味深い,中核になる力があります。

それは変わることがありません。

腐食することもあり得ません。

一定した確実なものです。

縮小することも色あせることも
ありません。

教会には集会を開く場所として教会堂がありますが,同時に末日聖徒一人一人の心と魂に息づいています。

世界中の至る所で,謙遜けんそんな会員は聖文から霊感を受け,生涯にわたって導きを得ています。

しかし,主が弟子たちに言
われた「高価な真珠」を見いだしていることを(マタイ13:46),会員たちは十分には
理解していません。



預言者ジョセフの妻エマ・スミスが最初の賛美歌集を編集していたときに,「導きたまえよ」という祈りの歌を集録しました。

「地のどよめくとき
恐れを救い
地の裁きの日は
シオンに救いませ」8
(訳注――英語版の賛美歌では
「シオンの丘」)

末日聖徒イエス・キリスト教会に進んで入り,その原則と儀式に忠実であろうとする人はだれでも,「シオンの丘」に立っ
ています。

一人一人が霊感を通して確信を受けることができます。

その確信は,イエスがキリストであり,神の御子であられること,末日聖徒イエス・キリスト教会は,主がまさに「全地の面に唯一まことの生ける教会」と宣言された教会であることを証するものです(教義と聖約1:30)。

イエス・キリストの御名によりアーメン。
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このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会 2 0 0 5 年 1 0 月 の総大会から、ご紹介しました。
赤字青字は付加しています。


夜は、毎晩 10分間歯磨きをしなさい。

2023-03-24 11:48:54 | 日記
夫婦揃って、歯科検診を受けました。

それぞれ違う歯科に行きました。

奥さんの受けた歯科医師さんからのアドバイスは、
毎晩10分間歯磨きをしなさい。

私の受けたアドバイスは、
歯科衛生士の方から、
歯磨きは、虫歯予防。
歯間ブラシは、歯周病予防。
と、アドバイスいただきました。


高い所から導きと霊感を受ける備えをさせる光の小包み

2023-03-24 05:42:10 | 日記
聖文の力
リチャード・G・スコット長老 十二使徒定員会

聖典は,わたしたちの心を照らし,高い所から導きと霊感を受ける備えをさせる光の小包みのようなものです。

大会の期間中にこの壇上に来るわたしたちは,皆さんの祈りの力を感じます。わたしたちにはそれが必要です。そして,わたしたちはそれに感謝しています。

天の御父は,わたしたちが試しの生涯の間に望ましい進歩を遂げるために困難な問題に直面する必要があることを理解しておられました。これらの問題の中には耐え切れないほどのものがあります。

御父はわたしたちが試しの生涯を立派に過ごすのに助けとなる手段を与えてくださいました。

その一つが聖典です。 遠い昔から,天の御父は,聖霊の導きを通して人生のきわめて困難な問題への解決策を見いだせるように,えり抜きの男女に霊感を与えてこられました。

御父は,これら権能を持つ僕たちに,そのような解決方法を記録するよう霊感を与えてこられました。

そのようにして,御父の幸福の計画を信じ,御父の愛する御子イエス・キリストを信じる信仰を持つ子供たちに一種の手引きを与えようとされたのです。

その解決方法は標準聖典と呼ばれる宝を通して,いつでも手の届くところにあります。

標準聖典とはすなわち,旧約聖書,新約聖書,モルモン書,教義と聖約,高価な真珠のことです。

聖典は聖霊を通して行われる霊感された意思の疎通によって与えられるものであり,それゆえ純粋な真理です。

わたしたちは標準聖典に記されている概念の正しさについて心配する必要はありません。

聖霊が仲立ちとなり,聖文を記録した人々を動機づけ,霊感を与えてこられたからです。

聖典は,わたしたちの心を照らし,高い所から導きと霊感を受ける備えをさせる光の小包みのようなものです。

聖典は天の御父とその愛する御子イエス・キリストと交信するための扉を開く鍵になり得ます。

聖文を正しく引用するならば,述べる言葉に力強い権威が与えられます。

聖文は,時間や場所に制限されずにいつでも会える,誠実な友になってくれます。

聖文は,必要なときにいつもそばにいてくれます。

聖文を用いるなら,真理の基礎が据えられ,聖霊がその真理を気づかせてくださいます。

聖文を学び,深く考え,調べ,暗記するのは,まるで,世界のどこにいても,いつでも助けを求めることができる友と信条と真理をファイルキャビネットに満たすようなものです。

聖文を暗記することで,大きな力が得られます。

聖文を暗記することは,新しい友情を築くことです。

それはまるで,必要なときに助けてくれる人,霊感と慰めを与えてくれる人,必要な変化を遂げる動機を与えてくれる新しい人に出会うのに似ています。

例えば,次の詩篇の言葉を暗記しようと決意したことが,わたしにとって力と理解の源となっています。

「地と,それに満ちるもの,世界と,そのなかに住む者とは主のものである。 主はその基を大海のうえにすえ,大川のうえに定められた。 主の山に登るべき者はだれか。その聖所に立つべき者はだれか。 手が清く,心のいさぎよい者,その魂がむなしい事に望みをかけない者,偽って誓わない者こそ,その人である。 このような人は主から祝福をうけ,その救すくいの神から義をうける。」(詩篇24:1-5)

このような聖句について深く考えることで,人生のすばらしい指針が得られます。

聖文はわたしたちを支える土台となってくれます。

聖文の中には喜んで助けてくれる友が信じられないほど大勢います。

暗記した聖文は,時がたってもきずなが弱まらない忠実な友となります。

聖文について深く考えることが,聖霊から啓示と導きと霊感を受ける扉の鍵となることがあります。

聖文は動揺した心を落ち着かせ,平安と希望を与え,人生の試練を克服する自分の力を信頼する気持ちを取り戻させてくれます。

聖文は,救い主を信じる信仰があるときに,情緒的な問題を解決する強い力を発揮します。

聖文によって,肉体が癒いやされるスピードが速められます。

人生の様々な時期におけるわたしたちの必要に応じて,聖句の意味は変わります。

人生で新たな問題に直面するときに,かつて何度も読んだことのある聖句に新しい意味を見いだし,元気づけられ,何かを悟ることがあります。

皆さんは個人的に聖典をどのように使っていますか。

聖典に印を付けていますか。

霊的な導きを受けた瞬間や深遠なことを学んだ経験を思い出すために,余白にメモをしていますか。

旧約聖書も含めて,すべての標準聖典を使っていますか。

わたしは,旧約聖書の中に貴重な真理を見つけました。

そのような真理はわたしの人生を導く重要な基礎となり,また福音のメッセージを分かち合おうとするときの情報源となっています。

だからわたしは旧約聖書が好きなのです。

旧約聖書全体を通じて高価な宝石のような真理を見つけています。以下はその例です。

「サムエルは言った,『主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように,燔祭はんさいや犠牲を喜ばれるであろうか。見よ,従うことは犠牲にまさり,聞くことは雄羊の脂肪にまさる。』(サムエル上15:22)

「心をつくして主に信頼せよ,自分の知識にたよってはならない。 すべての道で主を認めよ,そうすれば,主はあなたの道をまっすぐにされる。 自分を見て賢いと思ってはならない,主を恐れて,悪を離れよ。…… わが子よ,主の懲らしめを軽んじてはならない,その戒めをきらってはならない。 主は,愛する者を,戒められるからである,あたかも父がその愛する子を戒めるように。 知恵を求めて得る人,悟りを得る人はさいわいである。」(箴言3:5-7,11-13)

新約聖書も貴重な真理の源です。

「イエスは言われた,『「心をつくし,精神をつくし,思いをつくして,主なるあなたの神を愛せよ。」 これがいちばん大切な,第一のいましめである。 第二もこれと同様である,「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。」 これらの二つのいましめに,律法全体と預言者とが,かかっている。』」(マタイ22:37-40)

「『シモン,シモン,見よ,サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。 しかし,わたしはあなたの信仰がなくならないように,あなたのために祈った。それで,あなたが立ち直ったときには,兄弟たちを力づけてやりなさい。』 シモンが言った,『主よ,わたしは獄にでも,また死に至るまでも,あなたとご一緒に行く覚悟です。』 するとイエスが言われた,『ペテロよ,あなたに言っておく。きょう,鶏が泣くまでに,あなたは三度わたしを知らないと言うだろう。』…… すると,ある女中が,彼が火のそばにすわっているのを見,彼を見つめて,『この人もイエスと一緒にいました』と言った。 ペテロはそれを打ち消して,『わたしはその人を知らない』と言った。 しばらくして,ほかの人がペテロを見て言った,『あなたもあの仲間のひとりだ。』するとペテロは言った,『いや,それはちがう。』 約一時間たってから,またほかの者が言い張った,『たしかにこの人もイエスと一緒だった。この人もガリラヤ人なのだから。』 ペテロは言った,『あなたの言っていることは,わたしにわからない。』すると,彼がまだ言い終らぬうちに,たちまち,鶏が鳴いた。 主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは,『きょう,鶏が鳴く前に,三度わたしを知らないと言うであろう』と言われた主のお言葉を思い出した。 そして外へ出て,激しく泣いた。」(ルカ22:31-34,56-62)

そのときにペテロに起こったことを思うと,わたしの心は非常に痛みます。

教義と聖約の次の聖句によって,わたしの人生は豊かに祝福されました。「わたしの言葉を告げようとしないで,まずわたしの言葉を得るように努めなさい。そうすればその後,あなたの舌は緩められる。それから望むならば,あなたはわたしの御み霊たまとわたしの言葉,すなわち人々を確信に導く神の力を受けるであろう。」(教義と聖約11:21)

わたしの考えでは,モルモン書は真理を非常に明快に力強く教えています。以下はその例です。

「さて,わたしはあなたがたが謙遜であり,従順で素直であり,容易に勧告に従い,忍耐と寛容に富み,すべてのことについて自制し,いつも熱心に神の戒めを守るように,また霊的にも物質的にも,必要としているものは何でも求め,与えられるものについては何であろうといつも神に感謝するように願っている。 また,あなたがたは信仰と希望,慈愛を必ず持つようにしてほしい。そうするときに,あなたがたはいつも多くの善い行いをするであろう。」(アルマ7:23-24)

次の言葉もそうです。

「慈愛は長く堪え忍び,親切であり,ねたまず,誇らず,自分の利益を求めず,容易に怒らず,悪事を少しも考えず,罪悪を喜ばないで真実を喜び,すべてを忍び,すべてを信じ,すべてを望み,すべてに耐える。 したがって,わたしの愛する同はら胞からよ,もしあなたがたに慈愛がなければ,あなたがたは何の価値もない。慈愛はいつまでも絶えることがないからである。したがって,最も大いなるものである慈愛を固く守りなさい。すべてのものは必ず絶えてしまうからである。 しかし,この慈愛はキリストの純粋な愛であって,とこしえに続く。そして,終わりの日にこの慈愛を持っていると認められる人は,幸いである。 したがって,わたしの愛する同胞よ,あなたがたは,御父が御子イエス・キリストに真に従う者すべてに授けられたこの愛で満たされるように,また神の子となれるように,熱意を込めて御父に祈りなさい。また,御子が御自身を現されるときに,わたしたちはありのままの御み姿すがたの御子にまみえるので,御子に似た者となれるように,またわたしたちがこの希望を持てるように,さらにわたしたちが清められて清い御子と同じようになれるよう,熱意を込めて御父に祈りなさい。」(モロナイ7:45-48)

わたしのいとしい妻ジャニーンはモルモン書が大好きでした。

若いころ,10代のときに,モルモン書は妻にとって人生の土台となりました。

合衆国北西部で専任宣教師として奉仕していたときに,モルモン書は妻にとって証と教えの源となりました。

わたしたちがアルゼンチンのコルドバの伝道地で奉仕したとき,妻は伝道活動にモルモン書を使うようにしきりに勧めました。

ジャニーンは生涯の早い時期に次のことを確信していました。

すなわち,モルモン書を読み続ける人は,主の御霊を受け,主の戒めに従う決意が強くなり,神の御子の神性についての証が増すという祝福が与えられるということを確信したのです。

何年にもわたって,年の瀬が近づくと,妻は静かに座って,モルモン書の最後の方を注意深く読んでいるのを見たものです。

妻は年が終わる前に,モルモン書を最後まで読み終えることにしていたのです。

1991年に,わたしは家族に特別なクリスマスの贈り物をしたいと思いました。

その望みを果たした日に,日記にこう記しました。

「1991年12月18日水曜日,午後12時28分。家族のためにしていたモルモン書の録音が,たった今,完成した。この経験を通して,わたしはこの神聖な業についての証を増し,主にお仕えするときに使える真理を聖文から学ぶために聖文にもっと精通したいという望みが強くなった。わたしはこの本が大好きだ。わたしは心から証する。これは真実だ。これは,イスラエルの家,すなわちすべての部族が全世界に広がっているイスラエルの家を祝福するために備えられたものだ。謙遜にイエス・キリストを信じる信仰をもってそのメッセージを研究するすべての人は,それが真実であることが分かり,この世においていっそう大きな幸福と平安と達成に導く宝を見いだすことだろう。わたしは敬虔さの限りを尽くして,この書物が真実であることを証する。」

わたしたちそれぞれが,聖文研究から得られる豊かな祝福を生かすことができますように。

イエス・キリストの御み名なにより祈ります,アーメン。

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このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2011年10月の総大会からご紹介しました。

赤字青字は付加しています。



これらの聖典は、こちらで無料で読むことができます。
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