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ルール1: 妻の促しに耳を傾け,それに従う。 ルール2: 理由が何であれ,どうすればいいか分からないときはルール1に立ち返る。

2022-11-28 03:43:34 | 日記
主によって,難しいことでもすることができる
アイザック・K・モリソン長老
七十人
困難な時期に主に対する信仰を行使するなら,弟子として成長できます。

救い主が地上で務めを果たしておられたとき,目の見えない男性に目を留められました。イエスの弟子たちは,こう尋ねました。「先生,この人が生れつき盲人なのは,だれが罪を犯したためですか。本人ですか,それともその両親ですか」。
救い主の揺るぎなく,愛に満ちた,心のこもった答えは,主がわたしたちの悩みを心に留めておられることを改めて確信させるものでした。「本人が罪を犯したのでもなく,また,その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが,彼の上に現れるためである。」
困難の中には故意に犯す不従順が招くものもあるとはいえ,多くの人生のチャレンジは別の理由によってもたらされます。困難の原因がどのようなものであれ,それは成長するための絶好の機会にもなります。
わたしの家族も例外ではなく,人生の逆境が訪れました。わたしは幼いころから,大家族に憧れていました。大家族に魅力を感じたのは,特に十代のとき,ガーナのタコラディに住む母方のおじ,サーフォと彼の奥さんを通して教会を知ったときでした。
ハンナとわたしが結婚したとき,わたしたちは祝福師の祝福が成就することを願いました。子供をたくさん授かるとあったからです。ところが,3番目の男の子が生まれる前に,妻のハンナは医学的に,もう子供を産めないことが分かりました。幸いなことに,ケネスは彼自身と母親の命が危ぶまれる状況の中で産まれてきましたが,出産は無事に済み,母親も快復しました。彼は完全に家族の活動に加われるようになりました。教会への出席,日々の家族の祈り,聖典の勉強,家庭の夕べ,健全なレクリエーション活動を一緒にしました。
大家族への夢は修正が必要になりましたが,『家族—世界への宣言』にある教えを,わたしたちの3人の愛する子供たちと実践するのは喜びでした。その教えに従うことは,わたしの信仰を成長させるのに大きな意味を持ちました。
宣言にあるとおり,「男女の間の結婚は,神の永遠の計画に不可欠なものです。子供たちは結婚のきずなの中で生を受け,結婚の誓いを完全な誠意をもって尊ぶ父親と母親により育てられる権利を有しています。」それらの原則を実行に移すことによって,わたしたちは祝福を受けました。
ところが,わたしがステーク会長として務めを果たしていたある週末,わたしたちは,恐らく,親として直面する最も困難な試しに向き合うことになったのです。家族で教会の活動から帰って,昼食をとるために集まっていました。3人の息子たちは,庭に出て遊んでいました。
わたしの妻は,何かがおかしいという印象を何度も感じました。二人で食器を洗っていたときに,妻が子供たちを見てくるようにとわたしに言いました。子供たちの遊ぶ元気な声が聞こえていたので,わたしは別に問題はないと思っていました。
ようやく息子たちの様子を見に二人で外に出ると,驚くべきことに,一歳半の幼いケネスが水の入ったバケツの中で息絶えていました。上の息子たちは気づいていませんでした。急いで彼を病院に連れて行きましたが,蘇生のためのあらゆる試みは無駄でした。
大切なわが子をこの世で育てる機会を失ったことに,わたしたちは打ちのめされました。ケネスがわたしたちの永遠の家族の一員であることは分かっていましたが,わたしは疑問を感じるようになっていました。召しを尊んで大いなるものとするためにできることをすべて行っていたのに,なぜ神はこの悲劇が起こるままにされたのでしょうか。わたしは,聖徒たちへのミニスタリングの務めの一つを果たして,帰宅したばかりでした。なぜ神はわたしの奉仕を御覧になりながら,この悲劇からわたしの息子と家族を救ってくださらなかったのでしょうか。そう考えれば考えるほど,苦々しい気持ちが湧き上がってきました。
妻は決して,わたしが彼女の霊感に応じなかったことを責めませんでしたが,わたしは人生を変えるほどの教訓を学び,決して破らないようにする二つのルールを決めました。
ルール1: 妻の促しに耳を傾け,それに従う。
ルール2: 理由が何であれ,どうすればいいか分からないときはルール1に立ち返る。
きわめてつらい経験で,悲しみは続きましたが,負いきれないほどの重荷も,最終的には軽くなりました。妻とわたしは息子を失ったことから,特別な教訓を得ました。わたしたちは神殿での聖約により,一つとなって結ばれている,と感じるようになりました。聖約の子として生まれたケネスは,次の世でも確かにわたしたちの子です。そればかりでなく,人々にミニスタリングして,彼らの痛みを感じるために必要な経験も得たのです。主への信仰を働かせる中で,わたしたちの苦々しい気持ちは消え去ったと証します。困難な生活は続いていますが,わたしたちは使徒パウロが教えたように,次のことを学んでいます。わたしたちが心を主に向けさえすれば,「〔わたしたち〕を強くして下さるかたによって,何事でもすることができる。
ラッセル・M・ネルソン大管長は,次のように教えています。「生活の中心を神の救いの計画とイエス・キリスト,主の福音に向けるなら,人生で何が起こっても—起こらなかったとしても—喜びを感じることができます。」続けて,こう言われました。「喜びは主から始まり,もたらされるものです。」
わたしたちは元気を出して,試練の中でも平安を感じることができるのです。救い主とその贖いによって感じる愛は,試しの瞬間にあって,わたしたちの強力なよりどころです。「人生の中で経験するすべての不公平なことは,イエス・キリストの贖いによって正されるのです。

主は,次のように命じられました。「あなたがたは,この世ではなやみがある。しかし,勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。」主は,わたしたちがこの世で遭遇するあらゆる痛み,病,試しに耐えられるように助けることがおできになります。
聖典の中には,エレミヤ,ヨブ,ジョセフ・スミス,ニーファイなどの,偉大で高潔な指導者たちの物語が数多く載っています。彼らはこの世の苦難や困難を取り除かれたわけではありません。彼らは厳しい状況の中にあってさえ,主に従うことを学んだ,生身の人間でした。
ジョセフ・スミスは,リバティーの監獄における悲惨な日々の中で,次のように声を上げました。「おお,神よ,あなたはどこにおられるのですか。あなたの隠れ場を覆う大幕はどこにあるのですか。」主はジョセフに「よく堪え忍ぶよう」に言われ,もしそのようにするなら,すべてのことが彼の経験となり,益となると約束されました。
わたし自身の経験を考えてみると,人生の困難な時期を通して最も善い教訓の幾つかを学んだことに気づきます。それはわたしが,快適な生活から引き離された時期でした。わたしが改宗したばかりのころにセミナリーで教会について学んでいた青少年の時期や,専任宣教師の時代に出遭ったチャレンジ,そして教育を受けていたときに直面し,数々の召しを尊んで大いなるものにしようと努め,家族を養っていたときに直面したチャレンジは,わたしを将来に向けて備えてくれました。困難な状況に,主に対する信仰をもって,明るく対応しようとすればするほど,わたしはさらに自らの弟子としての資質を身につけられるようになります。
一度この細くて狭い道に入ってしまえば,人生で困難が訪れても,何も驚くことはありません。イエス・キリストは「さまざまの苦しみによって従順を」学ばれました。わたしたちが主に従うとき,特にそれが困難な時期であれば,さらに成長して主に似た者となることができます。
わたしたちが神殿で主と交わす聖約の一つは,犠牲の律法に従うことです。犠牲は常に,イエス・キリストの福音の一部です。それは,これまで,また将来この地上に住むすべての人にとって,イエス・キリストの偉大な贖いの犠牲を思い起こさせるものです。






わたしは知っています。主はわたしたちの義にかなった願いを,必ずかなえてくださいます。祝福師の祝福の中でわたしに約束された,たくさんの子供たちのことを覚えていますか。祝福は成就しています。妻とわたしは,ガーナ・ケープコースト伝道部で,25カ国以上の国々から来た,数百人におよぶ宣教師たちと働きました。わたしたちは彼らを,文字どおり,わたしたち自身の子供のように深く愛しています。
困難な時期に主に対する信仰を行使するなら,弟子として成長できることを証しします。そのようにするとき,主は憐れみをもってわたしたちを強め,重荷に堪えられるように助けてくだいます。イエス・キリストの御名により,アーメン。
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このお話は末日聖徒イエス・キリスト教会2022年10月の総大会からご紹介しました。

赤字青字は、個人的に付け加えています。

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創世そうせい
3章
1 さてしゅなるかみつくられたもののうちで、へびがもっと狡猾こうかつであった。へびはおんなった、「そのにあるどのからもってべるなと、ほんとうにかみわれたのですか」。
2 おんなはへびにった、「わたしたちはそのべることはゆるされていますが、
3 ただその中央ちゅうおうにあるについては、これをってべるな、これにれるな、んではいけないからと、かみわれました」。
4 へびはおんなった、「あなたがたはけっしてぬことはないでしょう。
5 それをべると、あなたがたのひらけ、かみのように善悪ぜんあくものとなることを、かみっておられるのです」。
6 おんながそのると、それはべるにく、にはうつくしく、かしこくなるにはこのましいとおもわれたから、そのってべ、またともにいたおっとにもあたえたので、かれべた。
7 すると、ふたりのひらけ、自分じぶんたちのはだかであることがわかったので、いちじくのをつづりわせて、こしいた。
8 かれらは、すずしいかぜくころ、そのなかしゅなるかみあゆまれるおといた。そこで、ひととそのつまとはしゅなるかみかおけて、そのあいだかくした。
9 しゅなるかみひとびかけてわれた、「あなたはどこにいるのか」。
10 かれこたえた、「そのなかであなたのあゆまれるおとき、わたしははだかだったので、おそれてかくしたのです」。
11 かみわれた、「あなたがはだかであるのを、だれがらせたのか。べるなと、めいじておいたから、あなたはってべたのか」。
12 ひとこたえた、「わたしと一緒いっしょにしてくださったあのおんなが、からってくれたので、わたしはべたのです」。
13 そこでしゅなるかみおんなわれた、「あなたは、なんということをしたのです」。おんなこたえた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしはべました」。
14 しゅなるかみはへびにわれた、「おまえは、このことを、したので、すべての家畜かちくのすべてのけもののうち、もっとものろわれる。おまえははらで、いあるき、一生いっしょう、ちりをべるであろう。
15 わたしはうらみをおく、おまえとおんなとのあいだに、おまえのすえとおんなのすえとのあいだに。かれはおまえのかしらをくだき、おまえはかれのかかとをくだくであろう」。
16 つぎにおんなわれた、「わたしはあなたのみのくるしみをおおいにす。あなたはくるしんでむ。それでもなお、あなたはおっとしたい、かれはあなたをおさめるであろう」。
17 さらひとわれた、「あなたがつま言葉ことばいて、べるなと、わたしがめいじたからってべたので、はあなたのためにのろわれ、あなたは一生いっしょうくるしんでから食物しょくもつる。
18 はあなたのために、いばらとあざみとをしょうじ、あなたはくさべるであろう。
19 あなたはかおあせしてパンをべ、ついにつちかえる、あなたはつちからられたのだから。あなたは、ちりだから、ちりにかえる」。
20 さて、ひとはそのつまをエバとづけた。彼女かのじょがすべてきたものははだからである。
21 しゅなるかみひととそのつまとのためにかわ着物きものつくって、かれらにせられた。
22 しゅなるかみわれた、「よ、ひとはわれわれのひとりのようになり、善悪ぜんあくるものとなった。かれべ、いのちからもってべ、永久えいきゅうきるかもれない」。
23 そこでしゅなるかみかれをエデンのそのからして、ひとつくられたそのつちたがやさせられた。
24 かみひとし、エデンのそのひがしに、ケルビムと、まわほのおのつるぎとをいて、いのちみちまもらせられた。
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ここでは、イブの行為を悪いような表現にとりやすいですが、反対に解釈しないといけません。女性の判断力により、神さまの業は、前に進んだのです。
ここでは、イブの判断により、人類が家族をもうけ地上での生活を始めたことを述べています。
女性の判断力の素晴らしさが、聖書の冒頭に述べられています。
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私自身も、自分の配偶者である姉妹の影響によって、がさつな自分が、より良い人間に変わることができました。自分1人で、このように変わるのは無理です。
女性の判断力の素晴らしさは、この大会説教で述べられている通りです。
多くの男性が、この真理を理解できますように。
また、女性の皆さまも、自分自身の潜在的な価値の尊さを気づくことができますように。
今日も、お読みいただいてありがとうございます。
良い1週間をお祈りします。







静かな細い声

2022-11-27 06:19:10 | 日記
証を養い,証を述べる
ゲーリー・E・スティーブンソン長老
十二使徒定員会
言葉と行いで証を述べる機会を求めるよう皆さんに勧めます。

はじめに
人生を決定づける瞬間は,しばしば,思いがけず,まだ年が若くても訪れます。ケビンという高校生の話を紹介します。学生リーダーのための行事で,別の州を訪問するよう選ばれたときの話を,本人の言葉で紹介します。
「列の自分の番が来て,まじめそうな受け付けの人に名前を聞かれました。彼女はリストを見て『あなたがユタ代表ね』と言いました。
『ぼくだけですか?』とわたしは聞きました。
その人は『そうですよ』と言い,名前の下に『ユタ』と書かれた名札をくれました。それをつけると,何だかレッテルをはられたような気がしました。
同じような名札をつけた5人の高校生と一緒にホテルのエレベーターに乗り込むと,『君,ユタから来たんだね。モルモンなの?』と一人の生徒に聞かれました。
全国から集まった高校生のリーダーたちに囲まれて,場違いに感じました。『そうだよ』と,ためらいながら答えました。
『天使を見た,って言うジョセフ・スミスを信じている教会だよね。まさか君も信じてるんじゃないよね?』
わたしは何と言ったらよいのか分かりませんでした。エレベーターの中の生徒たちは皆,わたしをじっと見ていました。まだ来たばかりなのに,皆から変わった人だと思われてしまいました。わたしは少し身構えましたが,こう言いました。『ジョセフ・スミスは神の預言者だと知っているよ。』
わたしは,『今の言葉はどこから来たんだろう』と思いました。自分にそんなことを言える勇気があるとは思っていませんでした。でも,その言葉が真実だと感じました。
『やっぱりね。モルモンは宗教オタクだって聞いたよ』と彼は言いました。
気まずい間の後,エレベーターのドアが開きました。わたしたちが荷物を集めている間に,彼は笑いながら行ってしまいました。
そのとき,後ろから『ねえ,モルモンはもう一つの聖書みたいなものを持ってるよね?』という声が聞こえました。
『ああ,またか。』そう思いながら振りむくと,エレベーターにいたクリストファーという別の生徒が立っていました。
わたしは話を切り上げようと思い,『モルモン書だよ』と言って,荷物を取り,廊下を歩きだしました。
『ジョセフ・スミスが翻訳した本?』と彼は聞きました。
『そうだよ』とわたしは答えました。もう恥ずかしい思いをしたくなくて,歩き続けました。
『どうやったら手に入るの?』と彼は聞きました。
セミナリーで学んだ聖句が思い浮かびました。『わたしはイエス・キリストの福音を恥としない。』その言葉が浮かんだとき,自分が恥らっていたことが恥ずかしくなりました。
その週の間ずっと,その聖句が頭から離れませんでした。わたしは教会についての質問にできるだけ答えて,たくさんの友達を作りました。
そして,自分の宗教に誇りを持っていることに気づきました。
クリストファーにモルモン書をあげました。クリストファーはその後,自宅に宣教師を招待してくれたそうです。
わたしは,恥ずかしがらずに証を伝えることを学びました。」
証を伝えたケビンの勇気に感動しています。それは,世界中の忠実な教会員が日々繰り返し奮い立たせている勇気です。今からお話しする際に,次の4つの質問について考えてみてください。
1.わたしは,証とは何か知っていて,理解しているだろうか。

2. わたしは,証を述べる方法を知っているだろうか。

3. 証を伝える妨げになるのは何だろうか。

4. どうすれば証を保てるだろうか。

わたしは,証とは何か知っていて,理解しているだろうか
あなたの証は最も大事な宝物で,しばしば深い霊的な気持ちと結びついています。その気持ちは,「静かな細い声」と呼ばれ,心の内で感じるものです。証は真理についての知識で,聖霊の影響を通して霊的な証として与えられます。この証を得ることで,言葉や行いが変わります。聖霊が伝えてくださる,証の重要な要素には次のようなものがあります:
神はあなたの天のお父様であり,あなたは神の子供で,神から愛されているということ。
イエス・キリストは生きておられ,生ける神の御子であり,あなたの救い主,贖い主であること。
ジョセフ・スミスは,イエス・キリストの教会を回復するために召された,神の預言者であること。
末日聖徒イエス・キリスト教会は,地上に回復された,神の教会であること。
生ける預言者が,回復されたイエス・キリストの教会を導いていること。


わたしは,証を述べる方法を知っているだろうか
霊的な気持ちを人に伝えることは,証を述べていると言えます。教会員は,教会の正式な集会や,それほど正式ではない,家族や友達などとの一対一の会話で証を述べる機会があります。
証を述べるもう一つの方法は,正しい行いをすることです。言葉だけでなく,あなた自身がどのような人であるかが,イエス・キリストに対する証となります。
イエス・キリストに従うという決意を,言葉や行いを通して伝えるたびに,ほかの人を「キリストのもとに」招いているのです。
教会員は,いつでも,どのようなことについても,どのような所にいても,神の証人になります。デジタルの世界で,人を高める自分のコンテンツや,ほかの人が作った良いコンテンツを使って証を述べる機会は,無限にあります。人を愛し,オンラインでも,分かち合い,招くことは,証を伝えることです。イエス・キリストの福音が自分の生活をどのように形作っているかを示すためにソーシャルメディアを使うとき,あなたのツイートやメッセージ,投稿が,より高く,より神聖な目的を持つようになります。

証を伝える妨げになるのは何だろうか
証を伝える妨げになるものとして,何を言えばよいか分からないということがあります。初期の使徒のマシュー・カウリーは,17歳のときに,5年間の伝道のためにニュージーランドに向けて出発したときの話をしました。
「出発の日に父がささげた祈りを決して忘れないでしょう。……そのときの祝福以上にすばらしいものをこれまでに聞いたことがありません。それから父は,駅で最後にこう言ったのです。『君はこれから伝道に行く。そして,聖文を研究するだろう。お話の準備をしようと努力し,よく準備ができていると思っていても,立ち上がったときに頭が真っ白になることがあるかもしれない。』わたしは何度もそのような経験をしました。

わたしは,『そういうときはどうすればいいの?』と尋ねました。
父はこう言いました。『立って,熱心に,ジョセフ・スミスは生ける神の預言者だと証をしなさい。そうすれば,様々な考えが次々と思い浮かび,語るべき言葉が君の口に与えられ,聞いている人の心に届けられるだろう。』伝道中,よく頭が真っ白になりましたが,主の十字架の刑以来,最も大切な歴史上の出来事について証をする機会を頂きました。皆さんもいつか試してみてください。ほかに言うことが思いつかなければ,ジョセフ・スミスが神の預言者だと証してください。そうすれば,教会のすべての歴史が次々と頭に思い浮かぶでしょう。」

同様に,ダリン・H・オークス管長は「ひざまずいて祈るよりも立って証をすることで効果的に得られる証もある」と述べています。御霊は,語る人にも聞く人にも証されます。
ケビンの話が強調しているように,もう一つの妨げは怖れです。パウロはテモテにこう書き送っています。
「神がわたしたちに下さったのは,臆する霊ではなく,力と愛……の霊なのである。……
だから,あなたは,わたしたちの主のあかしをすること……を,決して恥ずかしく思ってはならない。」
怖れは主からではなく,ほとんどの場合サタンから来るものです。ケビンのように信仰を働かせるならば,これらの気持ちを克服して,心の思いを自由に告げることができます。

どうすれば証を保てるだろうか
証は,人が生まれつき持っているものだと思いますが,それを保ち,さらに養うには,アルマが教えたように十分に注意して養いを与えなければなりません。すると,「根付き,生長し,……実を結ぶ」でしょう。そうでないと,「枯れてしまう」でしょう。
愛する大管長会の一人一人が,どのように証を保つかについて示してくれました。
ヘンリー・B・アイリング管長は,「神の御言葉をよく味わい,心から祈り,主の戒めに従うことは,証を育み大きくするためにたゆまず継続的に行うべきこと」だと愛を込めて教えてくれました。
ダリン・H・オークス管長は,証を保つ方法について,「毎週聖餐を取る必要があります(教義と聖約59:9参照)。そうすることで,「いつも御子の御霊を受け〔る〕」という貴い約束にふさわしくなるのです(教義と聖約20:77)」と思い起こさせてくれています。
ラッセル・M・ネルソン大管長は最近,証を保つ方法について優しく勧告しました。
〔自分の証に〕真理という養いを与えてください。……
古代と現代の預言者の言葉で自分を養ってください。主の声をもっとよく聞く方法を主に尋ねてください。神殿と家族歴史の業にもっと多くの時間を費やしてください。

自分の証を最優先に……〔し〕てください。
終わりに

愛する兄弟姉妹,皆さんがさらに証に対する理解を深め,証を伝えるときに,不安や怖れという障害を克服し,証という,最も大切なものを育て,保つことができることを約束します。

わたしたちには恵まれて,大胆に証をした,古代と現代の預言者たちの数え切れないほどの模範があります。

キリストの死後,ペテロは立って証しました。

「あなたがたご一同も……知っていてもらいたい。この人が……みんなの前に立っているのは,ひとえに,あなたがたが十字架につけて殺したのを,神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。

……わたしたちを救いうる名は,これを別にしては,天下のだれにも与えられていないからである。」

信仰についてのアルマの説教に続き,アミュレクは力強くこう述べています。「わたしも,これらのことが真実であることをあなたがたに証しよう。さて見よ,将来キリストは,御自分の民の背きを御自身に負うために人の子らの中に来られ,世の罪を贖われる。 わたしはこのことを知っている。」

ジョセフ・スミスとシドニー・リグドンは,復活された救い主の栄えある示現を見て,こう証しました。

「そして今,小羊についてなされてきた多くの証の後,わたしたちが最後に小羊についてなす証はこれである。すなわち,『小羊は生きておられる。』

わたしたちはまことに神の右に小羊を見たからである。また,わたしたちは証する声を聞いた。すなわち,『彼は御父の独り子であ〔る〕。』」

兄弟姉妹,言葉と行いで証を述べる機会を求めるよう皆さんに勧めます。南米のある首都の市長との会合の終わりに,わたしにもそのような機会が訪れました。そこは市長の部屋で,大勢の政府関係者がその場にいました。とても温かい雰囲気で終わろうとしていたため,わたしは証をするべきかどうか迷いました。促しを受けたわたしは,イエス・キリストは神の御子であり,世の救い主であると証しました。その瞬間,すべてが変わりました。紛れもなく,部屋の中に御霊がありました。皆が感動していたようでした。「慰め主は……,父と子のことを証する。」勇気をふりしぼって証できたことに感謝しています。

このような瞬間が来たときには,その機会をつかんで生かしましょう。そうするときに,慰め主の温もりを心に感じるでしょう。

皆さんに証します。神はわたしたちの天の御父です。イエス・キリストは生きておられ,末日聖徒イエス・キリスト教会は,愛する預言者ラッセル・M・ネルソン大管長により導かれている,今日の地上における神の教会です。イエス・キリストの御名により,アーメン。

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このお話は末日聖徒イエス・キリスト教会2022年10月の総大会からご紹介しました。

赤字青字は、個人的に付加しています。

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イエス・キリストが、生きておられ、私たちを、名前でご存知であり、助け導いてくださることを知っていると、人生が楽になります。

大部分のうつという病気を、避けることができると、個人的には思っています。

サタンが猛威を振るっている、人生の荒海の中で、生き抜いていくことを、ちっぽけな1人の力でやるんだと考えることは、なんと恐怖に満ちているでしょう。この恐怖は、避けることができます。

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昨日は、芋掘りをしました。


軽トラックの荷台にいっぱいでした。

今年の反省から、来年は次のようにしようと思っています。

1.来年2月くらいから、苗床を作る。3月では、少し遅い感じがします。

2.梅雨前に、畑を準備して、植え付ける。梅雨の雨に打たせて、苗を活着させる。これがポイントのようです。(Youtubeで学びました。)

3.ビニールをはる。ビニールをはるのは、個人的には、ゴミにもなるので嫌でしたが、最近の雨は、大降りか日照りか極端なので、日照り対策で、ビニールで水分を保持する必要がありそうです。

4.植え付ける間隔は、15センチに狭く植える。30センチは、広すぎました。

5.今年は、さつまいも植え付けて、放りっぱなしだったので、ビニール敷いても、雑草繁茂。太陽が当たらない部分は、収穫を大分減らしました。

来年は、雑草対策として、オクラを並行して植える。オクラ収穫ついでに、雑草を取る。

さつまいもも、オクラも肥料が要らないようです。苗を植えるだけ、種を落とすだけ。飢饉の際は、さつまいもは、葉っぱも茎も全て食べることが可能。

F1でないオクラの種を探し出すこと。

こんなところが、今年の反省です。

お米も、少し作っていますが、
素人なりに、20年くらいなります。だんだん歳とって来ると、
田植え億劫になってきます。
手植えです。

福岡正信さんにお会いしたことがあります。この方の農法は、田植えしないのです。米と麦を交互にばらまくだけです。

なんとか真似したいと工夫努力中です。

本日も、お読みいただいてありがとうございます。
良い1日をお祈りします。






御言葉の力を通してだれにでも可能になる大きな変化を,わたしたちが常に経験できますように。

2022-11-22 04:41:35 | 日記
御言葉の力
マーク・D・エディ長老
七十人
古代と現代の預言者の言葉に力があるのは,とりもなおさず,預言者の言葉は主の言葉だからです。
モルモン書には,預言者アルマが下した非常に大きな決断が,皆に愛されている聖句の中に記されています。馴染みのあるその言葉を読む前に,その決断を下したときの困難な状況を,わたしと一緒に考えてください。
自分たちをゾーラム人と呼ぶ一派がニーファイ人から分かれて,レーマン人の地との境に集まっていました。ニーファイ人は,かつてない規模の戦いでレーマン人を打ち負かしたばかりで非常に大勢の人が殺されていたため,「ゾーラム人がレーマン人と行き来し,そのためにニーファイ人の側に大きな損害が出るのではないかとひどく恐れ〔ていまし〕た。」アルマにとって戦争よりも心配だったのは,ゾーラム人が「以前に御言葉を聞いていた」にもかかわらず偶像礼拝に陥って「主の道を曲げて」いることが分かったことでした。これらすべてのことがアルマに重くのしかかり,「深い嘆きの種」となっていました。
このような複雑で難しい状況の中で,アルマはどうすべきか深く考えました。こうしてアルマが下した決断は,現代の複雑で難しい状況の中を生きるわたしたちを鼓舞し,教えるために記録されています。
ところで,御言葉を説き教えることは民に正しいことを行わせるのに大きな効果があり,まことにそれは,剣やそのほか,これまで民に起こったどのようなことよりも民の心に力強い影響を及ぼしたので,アルマはこの度も神の言葉の力を使うのが望ましいと思った。
多くの解決策がある中で,アルマの信仰により,アルマとその民は,御言葉の力に頼ることにしたのです。聖文の中で最も力強い教えの幾つかが,この決断の直後に語られたのは偶然ではありません。アルマ書32章と33章には,主イエス・キリストを信じる信仰についての卓越した説教が載っていますし,34章では,イエス・キリストの贖罪に関する非常に影響力の大きい教えをアミュレクが語っています。
御言葉の力の例
確かに,生活の中で神の言葉の力を使うことを選んだ人に奇跡のような祝福が注がれる話は,聖文の至る所に出て来ます。モルモン書を読みながら,わたしと一緒に3つの例について深く考えてみましょう。モルモン書は,「末日を生き抜くためのガイドブック」だと,ラッセル・ M・ネルソン大管長が言った書物です。
まずアルマは,主が先祖を囚われの身からどのように解放してくださったかを民に思い出させ,こう教えました。「見よ,神は彼らの心を改めさせ,彼らを深い眠りから覚まされたので,彼らは目覚めて神に従った。見よ,彼らはかつて暗闇のただ中にいたにもかかわらず,後に永遠の御言葉の光に照らされるようになった。」暗闇の真っただ中にいるように感じているかもしれません。光が欲しくてたまらないのではないでしょうか。もしそうならば,神の言葉の力を使ってください。
第二に,主がレーマン人を改心させられたことについて,よく考えてください。宣教師としてそれを目の当たりにしたアンモンは,こう言っています。「見よ,神が地獄の苦痛から解き放してくださった同胞の数は,何千人にも上るではないか。彼らは今,贖いをもたらした愛について歌うようになっている。これはわたしたちの内にある神の御言葉の力のおかげである。」

兄弟姉妹の皆さん,わたしたちの中には,愛する人に,贖いをもたらした愛について歌うようになってほしいと切実に願っている人がたくさんいます。あらゆる努力をする中で,わたしたちの内にある神の言葉の力を使うことを忘れないでください。
第三に,ヒラマン書にはこのようにあります。「まことに,望む者はだれでも,神の言葉を手に入れることができるということも,わたしたちに分かるのである。この神の言葉は生きていて力があり,悪魔の悪知恵とわなと策略をことごとく断つ。また,悪人をのみ込むために備えられている,あの不幸の永遠の淵を横切る細くて狭い道にあって,キリストの人を導き,……また……彼らの……霊を天の王国におられる神の右に至らせ……るものである。」皆さんは,現代の世の人々の間にまん延している悪魔の悪知恵とわなと策略をことごとく断とうとしていますか。聖約の道をただひたすら歩み続けるために,情報過多によって引き起こされた混乱の雲を追い散らしたいと思っていますか。神の言葉の力を使ってください。
御言葉の力によって変えれらた者として,わたしは,愛する預言者ラッセル・М・ネルソン大管長の美しい教えが真実であることを証します。「モルモン書の力は,『キリストを信じながら,誠心誠意で』モルモン書を読む人の生活の中に起こる変化の中に,最も顕著に現れているとわたしは思います。かつて大切にしていた多くのものを,モルモン書の教えに従うために捨てる改宗者が,たくさんいるのです。……モルモン書は,皆さんが人々をキリスト・イエスのもとに導くのにいちばん効果的なツールになることでしょう。」
力の源
これまで述べてきた例やそのほかの例で,わたしたちは神の子供たちの生活の中で神の言葉の力が働くのを目の当たりにしています。では,この力の源は何なのでしょうか。
この問いについて考える際には,聖文の中で使われる「言葉」という語句には少なくとも二つの意味があることを覚えておかなければなりません。デビッド・A・ベドナー長老は最近,「『言葉』 はイエス・キリストの名称の一つ」だと教え, 「聖典に記されている救い主の教えもまた,『言葉』なの〔だ〕」と言っています。
預言者ニーファイは,この二つの意味の関係を,次のように説明しています。「これらの言葉を聴き,キリストを信じなさい。また,これらの言葉を信じなくても,キリストを信じなさい。キリストを信じれば,これらの言葉を信じるようになるであろう。これらの言葉はキリストの言葉であり,キリストがわたしに授けてくださったものだからである。」ここから分かるのは,古代と現代の預言者の言葉に力があるのは,とりもなおさず,預言者の言葉は主の言葉だからだということです。愛する友人の皆さん,この末日に霊的に生き残るためには,永遠の真理を受け入れることが不可欠です。末日には,預言されているように「ききん」があります。「それはパンのききんでは〔なく〕,水にかわくのでも〔ありません〕,主の言葉を聞くことのききんで〔す〕。」
結局のところ,神の言葉の力とは,主イエス・キリストのことなのです。これをもっとよく理解していくと,主の預言者と,贖い主御自身の役割との間に永遠にわたって大きな影響を及ぼす重要な結びつきがあることが分かってきます。主を愛し,主に近づいて主の愛のうちにいたいという願いがあると,生活の中で神の言葉の力を使いたくなります。わたしたち個人の救い主であり贖い主であられる主から流れ込む力と,「主の選ばれた器」を通して主から流れ込む力の両方を使いたくなるのです。ほかに役に立つものがあったとしても,救い主とその預言者の言葉の研究に取って代わるものはないことに,わたしたちは気づくようになるでしょう。深く味わわなければなりませんし,聖文そのものを何度も読まなければなりません。
兄弟姉妹の皆さん一人一人を愛しています。愛しているからこそ,お願いします。神の言葉の力を経験してください。特に,モルモン書を毎日読むことを通して,その力を感じてください。そうするならば,ラッセル・M・ネルソン大管長の次の約束が成就するのを経験するでしょう。「毎日祈りの気持ちでモルモン書を研究するならば,皆さんは毎日,さらによい決断を下すようになるでしょう。研究したことについて深く考えるならば,天の窓が開いて,自分自身の疑問の答えを授かり,自分自身の生活の中で導きを受けるようになります。毎日モルモン書をよく学び,味わうならば,……今日の悪から守られることを約束します。
天の御父はわたしたちを完全に愛し,皆が御父のもとに帰って一緒に暮らせるようになってほしいと願っておられるために,御言葉を与えてくださっていることを証します。「言葉は肉体とな〔って〕」キリスト・イエスとなったことと,キリストはわたしたちを救い,贖う力をお持ちであることを証します。昔も今も,主の力は主の預言者の言葉を通して与えられます。
わたしたちが知恵と柔和さを持って神の言葉にしっかりつかまり,昇栄と永遠の命に至る聖約の道を歩み続けることができますようにと,心から祈ります。

御言葉の力を通してだれにでも可能になる大きな変化を,わたしたちが常に経験できますように。イエス・キリストの御名により,アーメン。

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このお話は末日聖徒イエス・キリスト教会2022年10月の総大会からご紹介しました。

青字赤字は、個人的に付け加えています。

本日も、お読みいただいてありがとうございます。

良い1日をお祈りします。

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サタンは地の方々におり,出て行ってもろもろの国民を惑わすからである。

2022-11-19 04:47:05 | 日記
弟子としての規範
ジョセフ・W・シターティ長老
七十人名誉会員
キリストについて学び,キリストの方法について学ぶと,キリストを知り,愛するようになります。

信仰の規範
今朝,北米にいるわたしの2人の子供と3人の孫たち,そして全世界の人々の約半数が,東から荘厳に昇ってくる太陽の輝きを目にしました。一方,アフリカにいるほかの3人の子供と7人の孫たち,そして全世界の人々の残り半分は,太陽が西の地平線に沈み,辺りが徐々に暗闇に覆われていくのを見ました。
この,今も昔も変わらない昼と夜の始まりは,わたしたちの生活を支配する変えることのできない現実があることを日々知らしめる事柄の一つです。このような永遠に変わらない現実を尊重し,それに合わせて行動するとき,わたしたちは内なる平安と調和を感じます。そうしないと落ち着かず,物事が思うように進みません。

この,今も昔も変わらない昼
と夜は,神がこれまで地球上で生きてきたすべての人に与えられている,ありのままの物事を示す規範の一例です。これは自分の望むままに切り抜けて逃れるということができない,わたしたち人間の存在の絶対的な真理です。このことは,毎回アフリカから飛行機に乗って総大会に来るたびに,体内時計を一日で10時間逆戻りさせなければならないときに思い知らされます。
気づこうと思えば気づくことですが,天の御父は,わたしたちの人生を支配している真理を証するものを十分に与えてくださっています。それは,わたしたちが神を知り,平安と喜びの祝福を得ることができるようにするためです。
預言者ジョセフ・スミスを通して,主の御霊は次のように証しています。「さらにまた,あなたがたが欺かれないために,わたしはすべてのことに関して規範を与えよう。サタンは地の方々におり,出て行ってもろもろの国民を惑わすからである。
反キリストのコリホルはそのような欺きにまんまとはまり,神が存在することも,キリストが来臨されることも,信じませんでした。預言者アルマはコリホルにこう証しました。「万物は神がましますことを示している。まことに,大地も,大地の面にある万物も,大地の運動も,また各々整然と運行しているすべての惑星も,それらのすべてが至高全権の創造主がましますことを証している。」
しるしを見せれば信じるとコリホルが言い張ると,アルマはコリホルを物が言えなくなるようにしました。口が利けなくなって謙遜になったコリホルは,悪魔に欺かれたことを率直に告白しました。
わたしたちは欺かれる必要はありません。知的生命体の起こす奇跡は,常にわたしたちの前で演じられています。そして無数の星々や銀河が織りなす天の不思議をしばし見つめ,それに思いをはせていると,信仰ある人たちは感極まって,「わが主よ,わが神!」と叫ぶのです。
そうです,天の父なる神は生きておられ,常に様々な形でわたしたちに御自身を現してくださっています。
謙遜さの規範
しかしながら,神を認め,信じ,常に神のうちにいるためには,心が真理の御霊を受けやすい状態である必要があります。アルマは,信じる前に謙遜にならなければならないと教えました。モルモンは,「柔和で心のへりくだった人」でなければ信仰や希望,神の御霊を受けることはできないと付け加えています。ベニヤミン王は,世の栄光を優先する人は皆「神の敵」であると断言しました。
イエス・キリストは,義にかなった聖い御方でありながらも,すべての義を果たすためにバプテスマを受けることで,神の前にへりくだることが弟子の基本的な特質であることを示されたのです。
新たにキリストの弟子になる者は皆,バプテスマの儀式を受けることによって神の前にへりくだっていることを示さなければなりません。こうして,「神の前にへりくだって,バプテスマを受けたいと願い,打ち砕かれた心と悔いる霊をもって進み出〔る〕……人は皆,バプテスマによってキリストの教会に受け入れられる」のです。
謙遜さは,弟子の心を悔い改めと従順へ向けさせます。そうすると神の御霊はその心に真理を招くことができるようになり,心に真理が流れ込みます。
謙遜さの欠如こそが主な要因となって,次の使徒パウロの預言がこの末日の世で現実のものになるのです。
その時,人々は自分を愛する者,金を愛する者,大言壮語する者,高慢な者,神をそしる者,親に逆らう者,恩を知らぬ者,神聖を汚す者,無情な者,融和しない者,そしる者,無節制な者,粗暴な者,善を好まない者〔となるであろう。〕」
救い主に学びなさいという主からの招きは,世俗的な誘惑に背を向けて主のようになるように,つまり柔和で心がへりくだり,謙遜になるようにという招きです。そうすればわたしたちは主のくびきを負うことができるようになります。そしてそれが実は容易なことであり,ラッセル・M・ネルソン大管長が雄弁に繰り返し教えてきたように,弟子となることは重荷ではなく喜びであることに気づくのです。
愛の規範
キリストについて学び,キリストの方法について学ぶと,キリストを知り,愛するようになります。
主は,へりくだった態度により,全身全霊で父なる神を知り,愛することと,何のためらいもなく,自分を愛するようにほかの人を愛することは,実際に可能であることを模範を通して示されました。御心と肉体の両方を祭壇にささげられたこの地上での主の務めは,神と人を愛するという原則の応用の規範であり,その上に主の福音が築き上げられたのです。どちらの原則も自分以外に目を向け,人とのかかわり方を考えさせるものであり,自己満足や自分の栄光を求めることではありません。
反語的な言い方ではありますが,最善を尽くして神と人を愛するとき,わたしたちは神の息子や娘として,自分自身の神聖な真の価値を見いだすことができるようになります。そして,その経験から完全な平安と喜びを見いだすという奇跡が起こるのです。
わたしたちは愛と奉仕を通して神と,またお互いと,一つになります。すると,その純粋な愛,つまり「今まで味わったどんな実よりもずっと甘い」とリーハイが言った実について,聖霊の証を受けることができるのです。
キリストが御父を愛し,わたしたちを愛するという規範を確立するために自分の能力のすべてを与え,行うことによってお受けになった冠とは,すべての力,つまり御父の持てるすべてのものを受けるということであり,すなわち昇栄です。
わたしたちの魂に神と隣人への永続する愛を育む機会は,家庭から始まります。つまり,日々,神の独り子の御名により個人の祈りや家族の祈りを通して御父と繋がり,御二方のことを個人や家族の聖文研究で学び,家族で安息日を守り,有効な神殿推薦状を各人が持ち,それを可能な限り家族で頻繁に使うなどといった聖い習慣を育むことから始まるのです。
個人それぞれにおいて御父と御子に対する知識と愛が深くなってくると,互いに対する感謝の気持ちと愛も深くなります。家庭の外で人々を愛し,仕える能力が大きく向上するのです。
わたしたちが家庭で行うことは,まさに「るつぼ」のように,堪え忍び,喜びあふれる弟子を生み出します。妻のグラディスとわたしが家庭の中で受けてきた,回復された福音の最もすばらしい祝福は,家庭で神を知り,神を尊ぶことを学び,主の愛を子孫に伝えることによってもたらされました。
奉仕の規範
家庭で神を愛し,奉仕し合い,そして家庭を出てほかの人に奉仕すると,やがて慈愛という特質が育まれます。
これは,主の生ける預言者や使徒がわたしたちに示してくれた,神の王国における献身的な奉仕の規範と調和しています。わたしたちは預言者や使徒たちと一つになるのです。
そうすると,わたしたちは彼らを通して「あらゆる思いの中で」主を仰ぎ見ることができるようになり,「疑〔う〕」ことも「恐れ〔る〕」こともなくなります。
主の生ける預言者や使徒たちのように,わたしたちも「心が,すべての人に対して,また信仰の家族に対して,慈愛で満たされ,……絶えず徳で〔わたしたち〕の思い〔が〕飾〔られ〕,……神の前において〔わたしたち〕の自信は増し,神権の教義は天からの露のように〔わたしたち〕の心に滴〔り〕」,前進することができるのです。
主の生ける預言者,使徒たちとともに,わたしたちもまた,「聖霊〔が〕常に〔わたしたち〕の伴侶となり,……笏〔が〕義と真理の不変の笏とな〔り〕……,……主権〔が〕永遠の主権となり,それは強いられることもなく,とこしえにいつまでも,〔わたしたち〕に流れ込〔む〕」,献身的な奉仕により強められた,信仰の高潔な輪に加わることができるようになるのです。なぜなら,これが御父の計画の約束だからです。イエス・キリストの御名により,アーメン。

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このお話は末日聖徒イエス・キリスト教会2022年10月の総大会からご紹介しました。

青字赤字は、個人的に付け加えています。

本日も、お読みいただいて、ありがとうございます。

良い1日を、お祈りします。

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サタンは地の方々におり,出て行ってもろもろの国民を惑わすからである。

for Satan is abroad in the land, and he goeth forth deceiving the nations.

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nation
【名】
  1. 〔ある政府に属する〕国民
  2. 〔主権を持つ〕国家
  3. 〔歴史や文化を共有する〕民族
  4. 〔北米先住民の〕部族(連合)
  5. 〔北米先住民部族の〕居留地
(英辞郎から引用)
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na·tion
1
[countable] a country considered as a group of people with the same language, culture and history, who live in a particular area under one government
European/Arab/Asian nations
The African nations have been particularly affected.
Developing nations need affordable access to drugs and medication.
Fewer and fewer people in industrialized nations actually know where their food comes from.
Leaders of the nations signed a declaration of support.
This is an important moment in our nation's history.
Germans celebrated yesterday in Berlin, the nation's capital.
2
[singular] all the people in a country
SYNONYM
population
The entire nation, it seemed, was watching TV.
They are a nation of food lovers.
(Oxford advanced learner's dictionary から、引用)
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語源(natio, gens)
元来、nationはラテン語において「生まれ」を意味するnatio(ナティオ)に由来する概念であり、gens(ゲンス)とならんで血統と出自の女神を意味した。 家族より大きく氏族よりも狭い、「同じ生まれに帰属する人々」を指す言葉であった。
(ウィキペディアから、引用)
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nation は、本来 人々を指すんですね。
nation は、国家が、優先して使われ過ぎる感じがあります。

枝が曲がっていても,木が悪いわけでなく,この世に生まれてきたときの状態は,この世を去るときにどうなっているかに比べれば重要ではないのです。

2022-11-18 05:23:55 | 日記
いつまでも幸せに
ゲレット・W・ゴング長老
十二使徒定員会
愛する人々とともに味わう真の永続する喜びと永遠の時は,まさに神の幸福の計画の真髄なのです。

友人の皆さん,愛する兄弟姉妹の皆さん,いつまでも幸せでいられると思い,願っていたときのことを覚えていますか。
その後,人生の憂き目に遭い,人は「大人」になります。人間関係は複雑になり,この世は騒がしく,また息苦しく,強引で,ごまかしや建て前で満ちています。それでも「心の奥底」では,どこか,何らかの形で,永遠の幸せは実在し,手に入れられると信じ,願っているのです。
「永遠の幸せ」とは,おとぎ話のような想像上のものではありません。愛する人々とともに味わう真の永続する喜びと永遠の時は,まさに神の幸福の計画の真髄なのです。神が愛をもって備えられた方法は,永遠の旅を幸せで,永続するものにしてくれます。
わたしたちには,喜ぶべきことや感謝すべきことはたくさんありますが,完璧な人はいませんし,完璧な家族などは存在しません。人間関係には,愛,社会性,性格などの要素だけでなく,しばしばあつれきや心の痛み,時には深い苦悩なども含まれます。
「アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように,キリストにあってすべての人が生かされる〔からです〕。」イエス・キリストにあって生かされるとは,不死不滅,すなわち肉体の復活という主の賜物を受けるということです。また,キリストにあって生かされるとは,信仰をもって従順に生きるならば,神と愛する人々とともに,喜びに満ちた永遠の命を受けられるということでもあります。
主の預言者は,より多くの場所で神聖な神殿の儀式や聖約が受けられるようにするなど,驚くべき方法でわたしたちが救い主に近づけるようにしてくれています。わたしたちは,この世においても永遠にわたっても,お互いに,また家族とともに,新たな霊的な理解や愛,悔い改め,赦しを見いだす深遠な機会と賜物を与えられているのです。
許可を得て,友人から聞いた,2つの神聖で,珍しいほどに霊的かつ個人的な経験を紹介します。イエス・キリストが世代を超えた対立をも癒し,家族を一つにしたという話です。イエス・キリストの贖罪は,「無限にして永遠の」,「死の縄目よりも強い」ものであり,わたしたちの過去に平安を,未来に希望をもたらす助けとなります。
友人夫妻は,末日聖徒イエス・キリスト教会に加わったとき,家族関係が「死が二人を分かつ」ときに終わるとは限らないことを知り,喜びを感じました。主の宮において,家族は永遠に結ばれる(結び固められる)ことができるのです。
ところが,父親との結び固めを望まない友人は,こう語っていました。「父は母にとって良い夫ではなく,子供たちにとっても良い父親ではなかったんです。父は待つしかないでしょう。父のために神殿の業を行い,永遠に結び固められたいとはとうてい思えないのです。」
彼女は,1年の間,断食し,祈り,父親について主とたくさん話をしました。そしてついに準備が整い,父親の神殿の儀式を完了することができました。後に,彼女はこう語っています。「眠っていたとき,白い服を全身にまとった父が夢に現れたんです。父は別人になっていて,こう言いました。「見てごらん。すっかり清くなったよ。神殿で儀式をしてくれてありがとう。』」そして,父親からこう言われたそうです。「立ち上がって神殿に戻っておくれ。兄さんがバプテスマを受けるのを待っているよ。」
友人はこう言っています。「先祖や亡くなった人たちは,自分のための業が行われるのを心待ちにしています。
わたしにとって,神殿は癒しと学びの場であり,イエス・キリストの贖いを認める場所なのです。」
2つ目の経験です。別の友人は,家族歴史を熱心に調べていました。曽祖父を見つけたいと思っていたのです。
ある朝早く,この友人は自分の部屋に男性の霊がいるのを感じたそうです。この男性は家族に見つけてもらい,存在を知られるよう願っていました。また,すでに悔い改めた,自分が犯した過ちについて後悔の念を抱いていました。そして,この男性は,わたしの友人が自分の曽祖父だと思っていた人物とは遺伝子上のつながりがないことを気付かせてくれました。友人はこう言っています。「つまり,わたしは曽祖父を見つけたのですが,家系図で曽祖父とされていた人物とは違っていたことが分かったのです。」
家族関係が明らかになった友人は,こう述べています。「自由で,安らかな気持ちです。自分の家族が誰であるのかを知ることは非常に重要です。」友人はこう考えています。「枝が曲がっていても,木が悪いわけでなく,この世に生まれてきたときの状態は,この世を去るときにどうなっているかに比べれば重要ではないのです。
聖文や,霊界で生きている人々を含めた,個人の癒しと平安に関する神聖な経験は,5つの教義上の原則を浮き彫りにしています。
第1に,神の贖いと幸福の計画の中心を成すイエス・キリストは,御自身の贖罪を通して,わたしたちが「満ちみちる喜びを受けるために,……決して再び分離することのないように」,わたしたちの霊と肉体を結び合わされると約束しておられます。
第2に,贖罪(atonement),すなわちキリストと一つとなること(at-one-ment)は,信仰を働かせ,悔い改めにふさわしい実を結ぶことでもたらされます。これは現世においても,不死不滅の状態にあるときも同様です。わたしたちや霊界にいる人々を変えるのは,神殿の儀式そのものではありません。むしろこうした神聖な儀式により,聖めをもたらす聖約を主と交わせるようになり,聖約を通して,主との間,そしてお互いの間の調和が実現可能となるのです。
イエス・キリストの恵みと赦しを感じるとき,わたしたちの喜びは満たされます。そして,お互いに主の恵みと赦しの奇跡を示し合うなら,わたしたちが受ける憐れみと,わたしたちが示す憐れみは,人生における不公平さを正す助けとなります。
第3に,神はわたしたちを御存じで,完全に愛しておられます。「神は侮られるようなかたではな〔く〕」,欺かれることもありません。神は完全な憐れみと正義をもって,悔い改める謙遜な人々を腕に包み込んで保護してくださいます。
カートランド神殿において,預言者ジョセフ・スミスは示現の中で兄のアルビンが日の栄えの王国に救われるのを目にしました。アルビンはバプテスマという救いの儀式を受ける前に亡くなっていたため,預言者ジョセフは驚きました。主はその理由を,御自身が「〔わたしたち〕をその行いに応じて,またその心の望みに応じて裁く」からであると,慰めをもって説明しておられます。わたしたち自身に,自らの行いや望みが現れるのです。
ありがたいことに,わたしたちは生者も「悔い改める死者〔も〕,神の宮の儀式に従うこと〔とキリストの贖罪〕によって贖われるであろう」ことを知っています。霊界では,罪や背きを犯した人でさえも悔い改める機会があります。
一方,故意に悪事を選ぶ人,意図的に悔い改めを引き延ばす人,簡単に悔い改めようと思って,計画的に,あるいは故意に戒めを破る人は,神に裁かれ,「自分のすべての罪をはっきりと思い出す」ことになります。土曜日に故意に罪を犯し,日曜日に聖餐を受けることで自動的に赦されることを期待することはできないのです。宣教師やそのほかの人で,御霊に従っているなら伝道部の標準や戒めを守る必要はないと言う人々に覚えておいていただきたいのは,伝道部の標準や戒めを守ることが御霊を招くということです。だれ一人として,悔い改めを先延ばしにしてはなりません。悔い改めの祝福が訪れるのは,悔い改め始めたときなのです。
第4に,主は,ほかの人が必要としている,その人自身ではできない神殿の救いの儀式を代わりに行うことで,さらに主のようになる神聖な機会をわたしたちに与えてくださっています。わたしたちは,「シオンの山」で「救う者」となるとき,より完成された,完全な者となります 。人々に奉仕するとき,約束の聖なる御霊がその儀式を承認し,与える側と受ける側の両方を聖めてくださいます。与える側も受ける側も,人を変える力のある聖約を交わし,深めることができ,徐々にアブラハム,イサク,ヤコブに約束された祝福を受けるのです。
最後,第5に,黄金律で教えられているように,赦しを受けるためには赦さなければならないという,悔い改めと赦しにおける対称性は聖めをもたらし,自分が必要とし,望んでいるものをほかの人に与えるよう一人一人を招きます。
だれかを赦そうとすることで,その人も自分自身も,悔い改めて赦されることを信じられるようになることがあります。時には,悔い改めようとする思いが訪れる時期と,赦す力が訪れる時期がずれることもあります。救い主は神とわたしたちとの間の仲保者です。しかしそれだけでなく,主は,御自分のもとに来る人々が本来の自分を取り戻し,互いに向き合えるよう助けてもくださるのです。特に傷や痛みが深いときには,人間関係を修復し,心を癒すのは困難で,自分の力だけでは不可能かもしれません。しかし,いつ踏みとどまり,どう手放すべきか分かるよう,自分の力を超えた力と知恵を天は与えてくれます。
独りではないと気づくとき,孤独感は和らぎます。救い主は常に理解してくださいます。救い主の助けがあれば,自分の高慢さや傷,罪を神に委ねることができます。最初にどう感じていようと,主がわたしたちの関係を収めてくださると信頼するなら,わたしたちはさらに完全な者となるのです。
すべてを御覧になり,理解しておられる主は,御心にかなう者を赦されますが,(不完全な)わたしたちはすべての人を赦さなければなりません。救い主のもとに行くにつれ,自分自身に目を向けることは少なくなっていきます。裁くことは減り,もっと赦せるようになります。主の功徳と憐れみと恵みを信頼すれば,争いや怒り,虐待,他者から見放されること,不公平,現世で肉体を持つことによって起こり得る肉体的および精神的な問題からの解放が可能となります。永遠の幸福とは,あらゆる関係が永遠に幸せに続くという意味ではありません。それでも,サタンが縛られる千年にわたる福千年という年月が,永遠に備えるのに必要な時間と,愛し,理解し,物事を解決するための驚くべき方法を与えてくれるかもしれません。
わたしたちは,お互いのうちに天国の交わりを見いだします。神の業と栄光には,永遠の幸福をもたらすことも含まれます。永遠の命と昇栄とは,神とイエス・キリストを知ることであり,神の力によって,神がおられるところに行くことなのです。
愛する兄弟姉妹の皆さん,天の父なる神とその愛する御子は生きておられます。御二方はあらゆる部族と国語の民,わたしたち一人一人に,平安と喜びと癒しを与えてくださいます。主の預言者が先頭に立って導き,末日の啓示は絶えずもたらされています。わたしたちが主の聖なる宮において,救い主に近づくことができますように。また,あらゆる世代においてキリストから与えられた思いやりと真理と憐れみの内に互いの心を結び合わせるとき,主によって神へ,そして互いへと引き寄せていただけますように。そのように,この世と永遠にわたっていつまでも幸せでいられますように。イエス・キリストによりそれが可能であり,イエス・キリストによりそれが真実であると証します。主イエス・キリストの聖なる御名によって証します,アーメン。


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このお話は末日聖徒イエス・キリスト教会2022年の総大会からご紹介しました。

赤字青字は、個人的に付け加えています。

本日も、お読みいただいて、ありがとうございます。

良い1日をお祈りします。

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枝が曲がっていても,木が悪いわけでなく,この世に生まれてきたときの状態は,この世を去るときにどうなっているかに比べれば重要ではないのです。

A bent branch does not mean a bad tree. How we come into this world is less important than who we are when we leave it.