イエス・キリストの福音をご紹介します。

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最も大切なものが最も長く残る

2023-04-28 05:38:57 | 日記
最も大切なものが最も長く残る

what matters most is what lasts longest.

最重要的事物就是那些持續最久的事物

最重要的事物就是那些持续最久的事物

最も大切なことを覚えておく

M・ラッセル・バラード会長 十二使徒定員会会長代理

最も大切なことは,天の御父とその愛する御子との関係,自分の家族と隣人との関係,そして,御霊に導いていただくことです。

この週末,救い主が贖いの犠牲をささげる前に行われた勝利のエルサレムの入城を思い起し,救い主の希望と慰めの言葉が頭に浮かんできます。「わたしはよみがえりであり,命である。わたしを信じる者は,たとい死んでも生きる。」

わたしは主を愛しています。主を信じています。主がよみがえりであり,命であることを,わたしは証します。

この証は,妻のバーバラが亡くなってからの4年半,わたしにとって慰めとなり,力となってきました。妻を恋しく思います。

妻との永遠の結婚や,妻との生活について何度も考えてきました。

わたしは以前に,妻と初めて会ったときのことや,その時に伝道で身に着けた「フォローアップ」の技術を使うことを学んだことを話したことがあります。妻と出会ってからすぐにフォローアップをしなければなりませんでした。妻は美人で人気者で,予定がいっぱいだったからです。愛想がよく親しみやすかった彼女に,わたしはすぐに夢中になりました。彼女の善良さに惹かれました。彼女と自分はお似合いだと,わたしは思いました。単純にそう思ったのです。

バーバラとわたしはデートを重ねて仲良くなっていきましたが,バーバラにはわたしと結婚してよいのか確信がありませんでした。

わたしに確信があるだけではだめで,バーバラが自分で確信を得る必要があったのです。二人で断食してこれについて祈ればバーバラは天からの確証を得るだろうと,わたしは思いました。

ある週末,わたしたちはデートをせず,各々が自分で知ることができるように,個別に断食しました。あり難いことに,彼女はわたしが受けたのと同じ確信を受けたのです。その後どうなったかは,御存じのとおりです。

バーバラが亡くなったとき,子供たちはバーバラから覚えておきなさいと言われた幾つかの教訓を墓石に刻みました。そのうちの一つは,「最も大切なものが最も長く残る」という教訓です。

今日わたしは,最も大切だと思うことを,幾つか心を込めて話したいと思います。

第一に,天の御父と,その御子である主イエス・キリストとの関係が,最も大切です。この関係は,この世でも永遠の世でも,最も大切です。

第二に,家族との関係は最も大切なものの一つです。

わたしは使徒の召しを果たす中で,自然災害の被害に遭った大勢の個人や家族に会ってきました。多くの人が家を失い,おなかを空かせ,おびえていました。医療や食べ物,住む場所が必要でした。

彼らには,家族も必要でした。

身近な家族がいない人もいるので,ここでは親族や友人,ワードという家族も「家族」に含めます。このような人たちとの関係は,心身の健康に欠かせません。

その人たちがいるから愛や喜び,居場所があると言ってもよいでしょう。

この大切な人たちとの関係を育むことは,一つの選択です。家族の一員となることを選ぶからには,固い決意と愛,忍耐,意思の疎通,赦しがなければなりません。他の人に賛同できないこともあるかもしれませんが,相手を不快にさせない方法で反対意見を伝えることができます。わたしたちは,結婚を前提とした交際をしたり,結婚生活を送ったりする中で,チェスの駒が動かされるかのように,誰かの手によって恋に落ちたり失恋したりするわけではありません。愛し,支え合うことを選んでいるのです。これは,伴侶以外の家族や,家族同然の友人との関係でも同じです。

家族の宣言にはこうあります。「神の幸福の計画は,家族関係が墓を超えて続くことを可能にしました。聖なる神殿において得られる神聖な儀式と聖約は,わたしたちが個人として神のみもとに帰り,また家族として永遠に一つとなることを可能にするのです。

最も大切なもう一つのことは,御霊の促しに従うことです。最も大切な人間関係の中でも,自分を愛するように隣り人を愛する努力をする中でも,公私にわたるミニスタリングでも,御霊に従ってください。わたしはこの教訓を,人生の早い時期に,ビショップを務めていたときに学びました。

雪の降る寒い冬の日のことです。わたしは,夜遅くビショップ室を出ようとすると,夫を亡くしているワードの高齢の女性を訪問するべきだと強く感じました。腕時計をちらりと見ると,午後10時です。そういう女性を訪問するには遅すぎる,とわたしは考えました。しかも,雪が降っています。こんなに遅い時間は迷惑だから,この愛する姉妹を訪問するのは明日の朝いちばんにしようと決め,車を運転して家に帰り,ベッドに入りました。しかし,御霊がずっと働きかけたので,一晩中眠れませんでした。

翌朝早く,わたしは車で真っ先にその姉妹の家に向かいました。玄関に出たのはその姉妹のお嬢さんで,涙を流しながらこう言ったのです。「ああビショップ,来てくださってありがとうございます。母が2時間前に亡くなりました。」―わたしは打ちのめされました。そのときの気持ちは決して忘れません。涙が流れました。夫に先立たれたこの愛する姉妹ほど,ビショップから手を取って慰めてもらい,最後の祝福をしてもらうべき人が,ほかにいたでしょうか。わたしがその機会を失ったのは,理屈で考えて,御霊の強い促しを払いのけてしまったからなのです。

兄弟姉妹の皆さん,若い男性・女性の皆さん,初等協会の子供たち,わたしは証します。御霊の促しに従うことは,あらゆる人間関係において最も大切なことの一つです。

最後に,このしゅろの日曜日の週末に,わたしは証します。主に改心して主について証を述べ,主に仕えることも,最も大切なことの中に含まれます。

イエス・キリストを信じる信仰が,わたしたちの証の根底にあります。証とは,聖霊によって人の心と霊に焼き付けられる永遠の真理の証明であり,確証です。イエス・キリストについての証は,御霊によって生まれ,御霊によって強くなり,人生を変えます。人の考え方と生き方を変えるのです。証があると,人は天の御父と聖なる御子に心を向けるようになります。

アルマはこう教えています。

「見よ,わたしは,自分が語ってきたこれらのことが真実であることを知っている。あなたがたは,わたしがどのようにしてこれらのことが確かであるのを知ったと思うか。

見よ,わたしはあなたがたに言う。これらのことは,神の聖なる御霊によってわたしに知らされているのである。見よ,わたしは自分でこれらのことを知ることができるように,幾日もの間,断食をして祈ってきた。そして,これらのことが真実であるのを,わたしは今,自分自身で知っている。主なる神が神の聖なる御霊によってこれらのことをわたしに明らかにされたからである。」

証があるだけで十分というわけではありません。イエス・キリストへの改心が深まるにつれ,当然のことながら,わたしたちはイエスのことを証したくなります。イエスの善良さと愛,思いやりについて証したくなるのです。

断食安息日の証会では,「感謝しています」「愛しています」という言葉の方が,「知っています」「信じています」という言葉よりもよく聞きます。

もっと頻繁にイエス・キリストについて証するよう,皆さんをお招きします。感謝していることだけでなく,知っていることや信じていること,感じていることについて,証を述べるのです。救い主を知って愛するようになった経験や,救い主の教えを実践したこと,救い主の贖いの力と人に能力を授ける力を身をもって知ったときのことを,証してください。知っていることや信じていること,感じていることを証するならば,その証にじっと耳を傾けている人に,それが真実であることを聖霊が証されるでしょう。その証に彼らが聞き入るのは,証をしているあなたがイエス・キリストに穏やかに従う者になるのを見てきたからです。彼らはイエスの弟子となることの意味を知るでしょう。また,それまでに感じたことのないような気持ちを感じるでしょう。心が変化した人の語る純粋な証は,心を開いてそれを受け入れようとする人に,聖霊の力によって運ばれていきます。

あなたの証を聞いて何かを感じた人は,それが真実かどうか祈って主に尋ねるかもしれません。そしてその人は,自分で知ることができるのです。

兄弟姉妹の皆さん,わたしは皆さんに証します。イエス・キリストが世の救い主,贖い主であられることを,わたしは知っています。主は生きておられます。主は神の復活された御子であり,この教会は,主の預言者と使徒によって導かれる主の教会です。いつの日かわたしがこの世を去って次の世に行くときに,赤々と燃える証を持って行くことができるようにと祈ります。

わたしが使徒の召しを果たす中で最も大切なことであると分かったのは,天の御父とその愛する御子との関係であり,自分の家族と隣人との関係です。そして,その関係を主の御霊に導いていただけるようにして,最も大切で,最も長く残るものについて証できるようにすることが,大切なのです。イエス・キリストの御名により,アーメン。


このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2023年4月の総大会からご紹介しました。

赤字青字色塗りは、個人的に付加しています。
お読みいただいてありがとうございます。
良い1日をお祈りします。

最もささやかなささげ物

2023-04-27 05:33:30 | 日記
これで十分だし,これがこの機械の最大限の働きなんだよ。

It is good enough and the best that this machine can do.

已經夠好了,這台機器最多只能做到這樣。

已经够好了,这台机器最多只能做到这样。


救い主は,わたしたちのささやかなささげ物を受け入れ,御自分の恵みを通してそれらを完全なものにしようと待っておられます。キリストにあって,不完全な収穫などありません。

幼いころ,わたしは自分が育ったモンタナ州南西部の,はっきりとした四季の移ろいを心から楽しむようになりました。わたしの好きな季節は,秋—すなわち収穫の時でした。わたしたち家族は,何か月にもおよぶ懸命な働きが豊かな収穫によって報われることを願い,祈ったものです。両親は天候,動物や作物の状態など,自分たちのコントロールがあまりおよばない様々な事柄を気にかけていました。

成長するにつれ,わたしはそれらの重要性をさらに強く感じるようになりました。わたしたちの生活は,収穫にかかっていたのです。父は,穀物を収穫するのに使う機械について教えてくれました。わたしが見守る中,父は機械を畑に移動させ,穀物をほんの一筋刈り取ると,コンバインの後方をチェックし,できるだけ多くの穀物が保管用タンクに入っており,もみ殻に混ざっていないことを確かめたものです。都度都度機械を調整し,父はこの作業を何度か繰り返しました。わたしは機械に沿って走り,父とともにもみ殻を触り,状態を確認するまねをしました。 父が納得するまで機械の調整が行われた後,地面に落ちたもみ殻の中に穀物の粒が混ざっているのを見つけたわたしは,問いただすような顔で,それを父に差し出しました。そのとき父に告げられた言葉を忘れはしません。「これで十分だし,これがこの機械の最大限の働きなんだよ。」父の説明にあまり納得がいかないまま,わたしはこの収穫の不完全さについて深く考えていました。

その後間もなく,夜に冷え込むようになったころのことです。何千羽という渡り鳥,白鳥やガン,アヒルが畑に降り立ち,南へと向かう長旅に備えて栄養を蓄えるのを目にしました。鳥たちは,わたしたちの不完全な収穫により残っていた穀物を食ベていたのです。収穫を完全なものとしてくださったのは,神でした。穀粒は一つとして失われていなかったのです。

わたしたちが生きる世にあっては,教会の文化の中でさえ,完璧さにこだわる誘惑が多々潜んでいます。ソーシャルメディア,高すぎる理想,また自己批判はしばしば,劣等感を生みます—自分は不十分であって,それはずっと変わらないと考えるのです。「それだから……あなたがたも完全な者となりなさい」という救い主の招きを,誤解している人々さえいます。

完璧主義は,キリストによって完全になることと同義ではないことを心に留めてください。完璧主義には必ず,自分をほかの人々と比較するのに用いる,自ら課した無理な標準が存在します。これは,罪悪感や不安を生むだけでなく,閉じこもり,一人になりたいという思いを抱かせる場合もあります。

キリストによって完全になるとは,別のものです。それはプロセスであり—聖霊の愛ある導きによって—さらに救い主のような者となるということなのです。その標準は,すべてを御存じの,優しき天の御父によって定められ,わたしたちが受け入れるよう招かれている聖約の中で明確に定義されています。罪の意識や不十分であるという心の重荷を軽くし,神の目に自分が何者であるのかを常に強調してくれます。このプロセスは,わたしたちを高め,より良い者となるよう背中を押してくれるものであり,わたしたちは信仰をもって主に従う努力に現れる,神に対する個人の献身によって測られます。御自分のもとに来るようにという救い主の招きを受け入れるなら,最善を尽くしていれば十分であること,また愛に満ちた救い主の恵みが,想像もつかないような方法で足りないところを補ってくださることがすぐに分かります。

この原則が実践される様子は,救い主が5,000人に食物をお与えになった話にみられます。

「イエスは目をあげ,大ぜいの群衆が自分の方に集まって来るのを見て,ピリポに言われた,『どこからパンを買ってきて,この人々に食べさせようか』。……

すると,ピリポはイエスに答えた,『二百デナリのパンがあっても,めいめいが少しずついただくにも足りますまい』。

弟子のひとり,シモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った,

ここに,大麦のパン五つと,さかな二ひきとを持っている子供がいます。しかし,こんなに大ぜいの人では,それが何になりましょう』。」

救い主がこの幼い少年についてどのように感じておられただろうかと思ったことはありませんか。幼子の信仰を抱くこの少年は,目下の課題にはあまりに不十分だと自覚していたであろうものを差し出したのです。

「そこで,イエスはパンを取り,感謝してから,すわっている人々に分け与え,また,さかなをも同様にして,彼らの望むだけ分け与えられた。

人々がじゅうぶんに食べたのち,イエスは弟子たちに言われた,『少しでもむだにならないように,パンくずのあまりを集めなさい』。」

救い主はささやかなささげ物を,完全なものとしてくださったのです。

この経験後間もなく,イエスは弟子たちを船に乗せて先に遣わされました。弟子たちは程なくして,夜の闇の中,荒波と格闘することとなります。海上に,自分たちに向かって歩いてくる幽霊のような人影を認めると,弟子たちはおびえました。

「しかし,イエスはすぐに彼らに声をかけて,『しっかりするのだ,わたしである。恐れることはない』と言われた。

するとペテロが答えて言った,『主よ,あなたでしたか。では,わたしに命じて,水の上を渡ってみもとに行かせてください』。

イエスは,『おいでなさい』と言われたので,ペテロは舟からおり,水の上を歩いてイエスのところへ行った。

しかし,風を見て恐ろしくなり,そしておぼれかけたので,彼は叫んで,『主よ,お助けください』と言った。

イエスはすぐに手を伸ばし,彼をつかまえて言われた,『信仰の薄い者よ,なぜ疑ったのか』。」

兄弟姉妹の皆さん,会話はこれで終わらなかったかもしれません。ペテロと救い主が腕を組みつつ歩いて船に引き返す中,ずぶ濡れになり,恐らく大変恥じ入っていたであろうペテロに対し,救い主は次のようなことを言われたかもしれないと思うのです。「おお,ペテロよ,恐れるな,不安を抱くな。わたしが見ているように自分自身を見ることができれば,あなたの疑いは薄れ,あなたの信仰は増し加えられるであろう。ペテロよ,わたしはあなたを愛している。あなたは船から降りたのだから。あなたのささげ物は受け入れられる。あなたが揺らいだとしても,わたしはいつもそばにいて,あなたを深みから引き上げるであろう。そうして,あなたのささげ物は完全なものとされるであろう。」

ディーター・F・ウークトドルフ長老はこう教えています。

「救い主イエス・キリストは,御自分が皆さんの力であることを,皆さんに見て,感じて,知ってほしいと思っておられると,わたしは信じています。救い主の助けがあれば,皆さんの達成できることに限界はありません。皆さんの可能性は無限大です。救い主は皆さんに,御自分が見ているように自分自身のことを見てほしいと思っておられます。それは,世の人の見方とは大きく異なります。……

イエスは疲れた者に力を与えられます。力がないと感じている者を強くしてくださいます。」

最善を尽くしてもなお不完全なささげ物がどのようなものであっても,救い主はそれを完全なものとすることがおできになると,覚えておく必要があります。自分の努力がどれほど取るに足りないものに思えても,救い主の力を決して過小評価してはなりません。簡潔な思いやりの言葉,短いながらも心からのミニスタリング訪問,あるいは愛をもって教える初等協会のレッスンに,救い主の助けが注がれれば,それらは慰めをもたらし,心を和らげ,永遠の命に影響を与えるものとなり得るのです。わたしたちの至らないように見える努力は奇跡をもたらす可能性があり,そのプロセスにおいて,わたしたちは完全な収穫に携わることができるのです。

わたしたちはしばしば力を最大限に発揮せざるを得ない状況に置かれます。その務めに自分が耐えうるとは感じていないかもしれません。ともに奉仕する人々を見て,自分には決して追いつけないと感じることもあるでしょう。兄弟姉妹,もしそのように感じるのであれば,わたしがともに働く,わたしの後ろに座っている類まれな人々を見てください。

皆さんの痛みをわたしも感じています。

しかしながら,完璧主義がキリストによって完全になることと同じではないように,自己比較は見倣うこととは別物であると学びました。自分をほかの人々と比べる際,もたらされる結果はただ二つに絞られます。自分をほかの人々よりも優れた者と見なすことで,人々を偏って判断し,批判的な態度を取るようになる,あるいは自分をほかの人々よりも劣った者と見なすことで,不安を覚え,自分を責め,落胆を抱くようになるのです。自分を他人と比べることは,おおよそ建設的ではなく,心を高めることもなく,時にはひどい落胆をもたらします。事実,こうした比較は霊に破壊をもたらす可能性があり,必要としている霊的な助けを受ける妨げとなります。一方,キリストのような特質を体現している,尊敬する人々に倣うことは,有益かつ励みとなるものであり,イエス・キリストのより良い弟子となるうえで助けになります。

救い主は御自身が御父に倣う中で,わたしたちが従うべき模範を示してくださいました。主は御自分の弟子ピリポに対し,次のように教えられました。「ピリポよ,こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに,わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は,父を見たのである。どうして,わたしたちに父を示してほしいと,言うのか。」

それから主は,このように説いておられます。「よくよくあなたがたに言っておく。 わたしを信じる者は,またわたしのしているわざをするであろう。」

自分の努力がどれほど取るに足りないものに思えても,わたしたちが誠実であれば,救い主は御自分の業を成し遂げるうえでわたしたちを使ってくださるでしょう。わたしたちがただできるだけのことを行い,主が足りないところを補ってくださることを信頼するならば,わたしたちは周囲にあふれる奇跡の一部となることができます。

デール・G・レンランド長老は次のように述べています。「完璧である必要はなく,わたしたちはただ皆さんを求めています。進んで行う姿勢さえあれば,だれでも力になることができるからです。」

ラッセル・M・ネルソン大管長が教えているように,「主は努力することを大切にされる」のです。

救い主は,わたしたちのささやかなささげ物を受け入れ,御自分の恵みを通してそれらを完全なものにしようと待っておられます。キリストにあって,不完全な収穫などありません。わたしたちは,主の恵みが自分のためにあること,つまり主が助けてくださること,揺らぐときには深みから引き上げてくださること,完璧とは言えない努力を完全なものとしてくださることを信じる勇気を持たなければならないのです。

種まきのたとえにおいて,救い主は良い地にまかれた種について述べておられます。あるものは百倍,あるものは六十倍,またあるものは三十倍になったとあります。そのすべてが,主の完全な収穫の一部なのです。

預言者モロナイは,次のように皆を招いています。「まことに,キリストのもとに来て,キリストによって完全になりなさい。……もしあなたがたが神の御心に添わないものをすべて拒み,勢力と思いと力を尽くして神を愛するならば,神の恵みはあなたがたに十分であり,あなたがたは神の恵みにより,キリストによって完全になることができる。」

兄弟姉妹の皆さん,最もささやかなささげ物でさえも完全なものとする力をお持ちであるキリストを証します。最善を尽くし,できるだけのものを携えて行きましょう。それから信仰を持ち,不完全なささげ物を主の足もとに置こうではありませんか。完全な収穫の主,すなわちイエス・キリストの御名により,アーメン。


このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2023年4月の総大会からご紹介しました。

赤字青字色塗りは、個人的に付加しています。


✱冒頭 英語の他に、中国語も併記しています。

世界の人々は、戦争好きな米国英国から離れて、中国ロシアの文化圏に経済の軸足をシフトしてきています。

米国英国のほとんどの人々は、愛すべき善良な人々ですが、1部の権力と富を使い戦争ビジネスで儲ける人々を、世界は嫌うようになってきています。

これからは、中国語に慣れる必要があります。
中国語も併記してみました。

5つ の大 麦 のパ ン と2匹 の小 さな魚

2023-04-26 05:12:49 | 日記
ふ た りの愛 す るジ ェラ リー は,救 い 主 のた めに5つ の大 麦 のパ ン と2匹 の小 さな魚を捧 げ た 子 供 の よ うで す 。 神 の力 によ って,数 え切 れ な い ほ どの人 々 が霊的 な養 い を受 け たの です。

Their sweet daughter was like the lad who had only five barley loaves and two small fishes to give to the cause of the Savior, but by the power of God, countless thousands have been spiritually fed.


5つ のパ ンと2匹 の魚


十二使徒定員会会員
ジエームズ ・E・ ファウス ト

この教会が ……今 日の力を得る までに発展 した のは,……数 百万 の入々の忠誠心 と献身が あったか らです。彼らは自分 の5つ のパ ンと小 さな2匹の魚 を主 のみ業 に捧 げま した。

弟 姉妹 , そ して友 人 の皆 さ ん。 しば ら くの間 ,私 が現 代 の生 活を導 く主 な る神 の み手 を認 め られ る ようにへ り くだ って求 める とき, 皆 さ んの信 仰 と祈 りが と もにあ る よ うに心 から願 って い ます。

また, 愛 す る同僚 であ り, 十 二 使 徒 定 員 会 会 員 で あ っマー ビ ン ・J・ ア シ ュ トン長老 の死 去に際 し,夫 人 の ノー マ ・ア シ ュ トン姉妹 に私 た ちの愛 と祈 りをお伝 えし ます。

数 カ月前 , 私 はスペ ンサー ・J・ コンデ ィー 長 老 とソ ル トレー ク空 港 行 った時 ,古 くか らの友人 で ,献 身 的で忠 実 な ご夫 婦 に, 思い が けず 出会 いま した。 この ご夫 婦 は半 生 を奉仕 に費や し,世 界各 地 で教 会 を確立 す るた め,忍耐 強 く, 忠実 に, また効果 的 に働 いて こられ ま した。

コ ンデ ィー長老 は こう言 われ ま した。 「神 の王国 を築 くために,人 々 は5つ のパ ン と2匹 の魚 で驚くべ き こ とをして い ます。」この よ うな人 目につか な い献 身 的 な奉仕 は,神 の次 の言 葉 を成 就す る もの です。 「完 全なるわが福 音 ,弱 き者 た ち単純 な る者 たち によ りて世界 の いや はて まで も宣 べられ, また王 と統 治者 との前 に宣 べ られ ん が た め な り。」(教 義 と聖 約1:23)

き ょう私 は,5つ のパ ン と2匹 の魚 に相 当 す る才能 を救 い主 に捧 げて,お お ぜ い の 人 々 を養 お う と し て い る人 々 に つい てお話 し した い と思 い ます。

「イエ ス は 目 を あげ, 大 ぜ いの群 衆が 自分 の方 に集 まって来 るの を見 て,ピ リポ に言 わ れ た, 『ど こか らパ ン を買 って きて, この人 々 に食 べ させ よ うか。』

これ はピ リポ をた めそ う として言 われ たの で あ って, ご自分 で はし よ う とす る こ とを, よ くご承 知 で あ った。」(ヨ ハ ネ6:5-6)

ピ リポ はす ぐに,群 衆 に食べ させ るだ けのパ ンを買 うお金 はない と答 え した。

す る とペ テロ の兄弟 ア ンデ レがこう言 い ました。 「ここに,大麦 のパ ン五 つ と, さか な二 ひ きとを持 っ てい る子 供 が い ます 。」(9節)

「それ か ら, イ エ ス は五 つの パ ン と二 ひ きの魚 とを手 に取 り,天 を仰 い でそれ を祝福 し,パ ン をさ き, 弟子 た ちにわ た して配 らせ, また,二 ひ きの 魚もみん な にお分 けにな った。

み んなの者 は食 べ て満 腹 した 。

そ こで, パ ン くず や 魚の残 りを集 める と, 十二 のか ごにい っ ぱい にな った 。

パ ン を食 べ た 者 は男 五 千 人 で あ った 。」(マ ル コ6:41-44)

そ の後, 彼 らは心 をか た くな に して,イエ スの神 聖 な使命 を忘 れ て し まい ました。

「先 のパ ンの ことを悟 らず ,その心 が鈍 くな って いた か らで あ る。」(52
節)

現代 の私 た ち も,5つ のパ ン と2匹の魚 の奇 跡 を忘 れ て,人 の手 や 考 え によって行 な われ る奇 跡 の方 を好 む よ うです 。現 代 の交 通手 段 や, 最新 の電 子通信 技術 を含 め,科 学全 般 の高 度 な発
達が これ に当た ります。

しか しこれ らの驚 くべ き知識 は, 神 が明 らか に しよう とされた と きにだ け人 類 に もた らされ る こと と,単 な る娯 楽 のた めで な く,もっ と高貴 で 賢明 な 目的 のた め に使 うべ きであ る こ とを,私 た ち は忘 れて います。 この知識 のお か げで,神 の予言者 の言 葉 が衛星 中継 で各地 に送 られ ,地 上 に住 む ほ とん どの人 々が メ ッセ ージ を聞 け るよ うに な りま した 。

この偉 大 な知識 が あ って も, パ ン と魚 の奇跡 で教 え られ た簡 潔 で深 遠 な真理 , す なわ ち神 が 無 限 の英 知 と徳 もって天 地 を治 め てお られ る ことを疑う人 々 が い ます 。

私 た ち は,パ ン と魚 を持 ってい た新約聖 書 の あの子 供 と同 じよ うに, 自分が天 父 の霊 の子 供 で あ り, イ エス が世の贖 い主, 救 い主 , キ リス トで あ ることを知 り, 心 に留 め てい な けれ ばな り
ませ ん。

地 上 に神 の王 国 が設立 され てか ら数世 紀 の 間 に,教 義 と儀 式が 変 えられ, その結 果, 背教 が起 こって地上 か ら神 権 の鍵 が失 わ れた こ とを, 私 たち は信 じて い ます 。

パ ン と魚 の奇 跡 より も偉 大 な 出来 事 は, 予 言 者 ジ ョセフ ・ス ミス の示 現 で す 。 彼 は ニ ューヨー ク州 パ ルマ イ ラ近 くの聖 な る森 で御 父 と御 子 に まみ え ま した。 その後 ,さ まざ まな鍵 と神 権 ,救 いの儀 式が 完全 な形 で 回復 され, キ リス トの教会 が
現代 に再 び設 立 され ま した。

こう して神 は再 び私 た ち を「養 い」,私 た ちの「か ご」を満 た して くだ さった ので す。

よ く言 われ るこ とで す が, この教 会は偉 大 な人 を引 き寄 せ る必 要 はあ りませ ん。 普通 の人 を しば しば偉 大 な人 にす るか らです 。

多 くの無名 の人 が ,5つのパ ン と2匹 の魚 に等 しい賜 を用 いて,全 力 を尽 くして召 しを遂 行 し,注目や称 賛 を受 けず に, 文 字 どお り数千の人 を養 っ てい ます。 彼 らはネ ブ カデ ネザ ルの夢 を成 就 してい ます。 す なわ ち,末 日に キ リス トの福音 が 人手 によ らず に切 り出 された石 の よ うに転 がり出て,全地 に満 ち るので す。(ダ ニエル2:34-35;教 義 と聖 約65:2参照)

彼 らは, すべ ての補 助 組織 や神 権定員 会 の無数 の指 導者 や教 師, ホームテ ィー チ ャー, 扶助 協会 の訪 問教 師で す。 また,教 会 の おお ぜ いの謙 遜 な監督 たち です 。専 門 的 な訓練 を受 けて いな い人 もい ますが, 全 力 を尽 くして働き, 常 に学 ん で, 主や ワー ド部 の人 に仕 えた い とい う謙 遜 な願 い を持 って います。

主 と交 わ る人 はだれ で も, 陶器 師 の手 に あ る粘土 の よ うです。 名声 や 富 よりも大切 なの は,神 が 望 まれ る人 に なる こ とです。

この地 上 に来 る前 , 私たち は人生 で 自分 に しか で き ない善 いことを行 な うた め に備 え られ ま した 。

主はエ レ ミヤ に こ う告 げ られ ま した 。
「わ た し はあ な た を まだ 母 の 胎 に つ くらない さき に, あなた を知 り, あな たが まだ 生れ な い さ きに, あ なた を聖別し, あなた を立 て て万 国 の預 言者 とした。」(エ レ ミヤ1:5)

神 が 多 くの才能 を持 つ人 のた め にみ業 を用 意 され るな ら,わ ずか な才 能 しか な い人 に も大切 なみ業 が用 意 され て い る と思 います。

5つのパンと2匹の魚しか持たない人 の 中心 とな る特 質 は何 で し ょ うか。

どう した ら, 主 のみ手 の 中で ,仕 え,助 け,祝福 し,数 百 ,数 千 の人 々の生活 に恵 み を もた らせ るで し ょうか。

私は生涯 にわ た って人 々 の問題 を扱 ってきて ,利 己心 と高慢 な心 を克服 す る能力 が 大切 だ と感 じて い ます。 このふ たつ は,神 の みた まを完全 に受 け, 神 のみ前 に謙遜 に歩 むの を妨 げる もので す。

利己心は,夫婦が互いに赦 しを求 め合う ときの障害 とな り, よ り深 い愛 の全き喜 び を妨 げ ます。

利 己 心 は しば しば,親 子 が互 い に理解 し合 うの を じゃ ま します 。

うぬ ぼれ や尊 大 な心 を大 き くし,現実 を見 えな くします。 また高慢 が ある と,罪 や弱 点 を告 白 して主 の み もとへ行 き,悔 い改 め る こ とが で きな くなります。

2つ のパ ン と1匹 の魚 ぐらいの才 能しか な い人 は どうで し ょうか。 そ の ような人々 が世 の中で す る仕事 は,厳 してつ まらな く, や りが い のな い,報い の少 ない もの です。 人生 は彼 らに公平 で は なか った か も しれ ませ ん。 な んとか生 活 す るた め に苦 労 してい ます。

しか し彼 ら も忘 れ られ て はい ませ ん。

もしそ の才能 が神 の王 国建 設 の ため に使 わ れ れ ば, その よ うな人 々 は救 い主の約 束 を享受 す るで し ょう。 救 い主 のす ば ら し い約 束 は こ うで す 。 彼 らは、「よ き報 い を得,す なわ ち この世 に在 りて は平和 を得 ,次 の世 に在 りて は永遠の 生命 を得ん。」(教 義 と聖約59:23)

2タ ラ ン トしか持 たな い人 が, こう言い ま した。 「ご主人様 ,あな た はわた しにニ タラ ン トをお預 けにな りま したが ,ご らん の とお り, ほか にニ タ ラ ン トをも うけ ました。」す る と主人 は言 い ま し た。

良 い 忠実 な僕 よ,よ くや った。あな た はわず か な もの に忠実 で あった から, 多 くの もの を管 理 させ よう。 主人と一 緒 に喜 んで くれ。」(マ タ イ25:22-23)

15個 のパ ン と10匹 の 魚 に匹敵 す る頭脳 と才能 に恵 まれ た人 もい ます 。 そのよ うな人 は,貢献 で き るこ とが た くさん あ りますが, 中 に は しか るべ き働 きを して い ない人 もい ます。奉 仕 の能力をすべ て使 って はい ませ ん。お そ ら く,自分 にあ る と思 い込 んで い る知識 や持ち物 で 高慢 にな って い るか らで し ょう。

その た め, 「聖霊 の導 きに従 い -----幼 児 おさなごの よ うに従順 で 柔和 で謙遜 で 忍耐 で愛情 に富 み,幼 児 が その父 に従 うよ うに,主 が負 わせ た もうすべ て の こ とに喜 んで服 従 」 す る こ とを, 喜 んで は行なえ ない よ うです 。(モ ー サヤ3:19)

これ まで,数 人 の ジ ャーナ リス トや教会 の反対 者 が教 会 は今 に も没 落 す ると予測 し ました。 彼 らが よ く指 摘 す るのは, 教会 の若 人 にあ る とい う不満 です 。

しか し,5万 人近 い若 い宣 教 師の生 活 と献身 的 な働 きが,教 会 の多 くの若 人 の忠実 さ を じゅ うぶ ん に証 明 してい ます。 さ らに, 私 が生 まれ た時 に は,52万5,000人 だ った会 員が850万 人 に増え ま した 。 これ は , ジ ョセフ・ス ミ ス よっ てキ リス トの福 音 の完全 な鍵 と権 能 が 回復 され たか らで す。

最近 , ユ タ州外 の あ るジ ャー ナ リストが 「神殿 の壁 のひ び割 れ」 とい う言葉 を使 い ま した 。 もち ろん比 喩 表現 です。

私 が察 す る に この意 味 は, 指導 者を完 全 に支持 しな い, あ るい は誓約 を守 らない少 数 の会員 によ り,教 会 の土台 が揺 らいで い る とい うこ とで し ょう。

会 員 の信仰 の 「ひ び割 れ」 とい う考 えを吹 き飛 ばす に は, 全世 界 の45の 神 殿に参 入 す る喜 び に満 ちた人 々 を見 れ ばじゅ うぶ んです 。 その 多 くは, 神殿 着の入 ったバ ッグ を持 ち,腕 を組 んだ夫婦 で すが, 主 の家 の安 らか な祝 福 を求め る未 婚 の男女 もお おぜ いい ます。 彼らの顔 は喜 び と満足 感 で輝 い て い ます 。

この教会 が, 設立 当初 の小 さ な状 態か ら今 日の力 を得 るまで に発展 した のは,謙 遜 で忠 実 な数 百 万 の人 々 の忠誠心 と献 身 が あった か らで す。

彼 らは自分の5つ のパ ン と小 さな2匹 の魚 を主 ささのみ業 に捧 げ ま した。 また, 自分 自身の こ とはほ とん ど捨 て去 り, そ うす こ とに よ って, 「人 知 で は とうて い測り知 る こ との で き ない神 の平 安 」(ピリピ4:7)を 見 い だ した ので す。私の望 み は, この測 り知 れ な い内 な る平安 を得 る者 にな る こ とで す。

き ょう私 の話 に耳 を傾 け る この聴 衆の 中 に , ア イ ダ ホ州 ポ カ テ ロ に住 むジ ェフ ・ア ンダー ウ ツ ド, ジ ョイス ・ア ンダー ウ ッ ド夫 妻が い ます 。ふ た りに はジ ェラ リー と, ほか に5人 の 子供
が い ます 。 ご主人 の ジ ェフは, ポカ テロの い くつか の教 会堂 の維 持 管理 をする仕事 を してい ます。 ジ ョイス は母親で あ り, 主婦 で す。去 年 の7月 に,11歳 にな る娘 の ジェ ラ リー は, 担 当地 区の新 聞配 達 の集金 に出か けた き り,家に戻 りませ んで した。 その 日 も, 翌 日も, そ の次 の 日 も,帰 りませ んでした。

地元 か ら2,000人 の人々 が 出て ,毎 日彼 女 を捜 し ました。 ほか の ユニ ッ トから捜 索隊 へ の食糧 や物 資 が届 け られ ました。や が て ジェ ラ リーは凶 悪犯 に誘拐 され, 無残 に も殺 され た ことが わ かり ま した 。 遺 体 が発 見 され た 時 , 町じ ゅうの人々 が恐 怖 に襲 わ れ, シ ョック を受 け ま した。 地域 の至 る所 か ら愛と同情 が ジェ フ とジ ョイス に寄せ られま した。 怒 りのあ ま り復 し ゅうを求 める人 もい ま した 。遺体 が 見 つか った後 ,ふ た りは落 ち着 い た様 子 で テ レ ビカメラや報 道 陣 の前 に姿 を現 わ し,捜 索 に協 力 して くれた人 々や, 同情 と愛 を寄せて くれ た人々 に心 か ら感謝を述 べ ました 。

ジ ョイスが 言 い ま した 。 「天父 は私 た ち の祈 りを聞 き届 けて ,娘 を連 れ戻 して くだ さい ま した 。」

ジ ェ フが 言い ま した 。 「もう娘 が ど こに い るか 心配 しな くて い い の です 。」

ジ ョイス が続 け ます。 「私 は この1週 間 ,愛 についてた くさん学 び ま した。 また深 い憎 しみ もです 。 私 は愛 につ い て考 え,愛 を感 じた い と思 い ま した。 憎 しみで は あ りませ ん。 私た ち は赦せ ます。」

ジ ョー ・J・ ク リステ ンセ ン長老 と私 は,教 会幹 部 を代 表 して数千 の人 々と ともに ジェ ラ リーの葬 儀 に参 列 しま した 。聖 きみた まが その場 に豊 か に注が れ, すべ て の参列 者 が心 に安 らぎ を覚 え ま した 。

ジ ェラ リー のス テー キ部長, カー ト ・W・ ハ ワー ド兄弟 は後 にこ う記 して い ます 。 「ア ンダ ー ウ ッ ド家 族 は教 会 の 内 外 の人 か ら, ジ ェ ラリー のた め に祈 って い る とい う手紙 をも らい ま した 。 そ の 中 に は , 何 年 も祈 っ て い な か った の に, この こ とがきっか けで,再 び教 会 に戻 る決 意 を した人 が何 人 もい ま した。」

ハ ワー ドステー キ部 長 はさ らに こう続 けて い ます 。
「この事 件 が どれ だ けの人 を活 発 に し,献 身 を促 した か知 る ことはで きない でし ょ う。 ジ ェラ リー の命 が これか らの世 代 に 与 え る 影 響 は 計 り知 れ ません。」 多 くの 人 が教 会 の門 をた た き ました。 ア ンダ ー ウ ッ ド家族 に霊 的 な力を与 え た 宗 教 が どん な もの か 知 りたか っ たか らで す。

私 は ジェ ラ リーの両親 か ら許 可 と励ま しを受 けて, この悲劇 が もた ら した結 果 につ いて お話 し しま した。

ふ た りの愛 す るジ ェラ リー は,救 い 主 のた めに5つ の大 麦 のパ ン と2匹 の小 さな魚を捧 げ た 子 供 の よ うで す 。 神 の力 によ って,数 え切 れ な い ほ どの人 々 が霊的 な養 い を受 け たの です。

私 たち が教 えてい る福音 は,才 能 や能 力 にか かわ らず そ れ を聞 いて従 う人 に 「救すくい を得 さ せ る 神 の 力 」(ロ ー マ1:16)で あ る こ と を イ エ ス ・キ リス トのみ名 に よ り証 あかしいた します。 ア ー メ ン。


このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会 聖徒の道/1994年7月 号から、ご紹介しました。

表題の画像は、以下から引用させていただきました。





究極のパイオニア

2023-04-25 05:54:20 | 日記
わたしたちの救い主であるイエス・キリストは,道を備えてくださった究極のパイオニアです。主こそ救いの計画が達成されるための「道」です。そのおかげでわたしたちは悔い改め,主への信仰を通して天の御父のみもとに帰ることができるようになったのです。

Our Savior, Jesus Christ, is the ultimate pioneer in preparing the way. Indeed, He is “the way” for the plan of salvation to be accomplished so that we can repent and, through faith in Him, return to our Heavenly Father.


我們的救主耶穌基督,是預備道路的最偉大先驅者。事實上,祂就是完成救恩計畫的「道路」,好讓我們能夠悔改,並藉著對祂的信心回到天父的身邊。


我们的救主耶稣基督,是预备道路的最伟大先驱者。事实上,祂就是完成救恩计划的「道路」,好让我们能够悔改,并藉着对祂的信心回到天父的身边。



M・ラッセル・バラード会長 十二使徒定員会会長代理

キリストは今日,困難な状況にあるわたしたちを支えてくださいます。主は初期の開拓者たちを支えられました。そして今はわたしたち一人一人を支えてくださっています。

聖歌隊の皆さん,「信じ,進まん」を歌ってくださりありがとうございます。この歌は,1847年にソルトレーク盆地に初期の開拓者が到着してから150周年を迎えるに当たり,1996年にニューエル・デイリー兄弟が作詞・作曲したものです。

この曲は,その祝典に向けて書かれたものですが,曲に含まれるメッセージは全世界に当てはまります。

わたしはこの曲のコーラス部分が大好きです。〔訳注‐以下原文訳のため日本語版の歌詞とは異なります.〕

信仰を込めて一歩ずつ,主なるキリストに従います。

主の純粋な愛によって希望に満たされ,心を一つにし歌います。

兄弟姉妹の皆さん,信仰を込めて一歩ずつイエス・キリストに従うとき,希望があることを証します。主イエス・キリストには希望があります。すべての人はこの現世で,希望を持つことができます。過ち,悲しみや苦しみ,試練や悩みを克服する希望があります。悔い改め,赦されること,そして人を赦すことに希望があるのです。わたしは,キリストに希望と平安があることを証します。主は今日,困難な状況にあるわたしたちを支えてくださいます。主は初期の開拓者たちを支えられました。そして今はわたしたち一人一人を支えてくださいます。

今年は,初期の開拓者がソルトレーク盆地に到着して175年目になります。わたしにとっては,ノーブーからソルトレーク盆地まで歩いた先祖に思いをはせる機会となりました。わたしの曽祖父母は若いころ,大平原を歩いたそうです。ヘンリー・バラードは20歳,マーガレット・マクニールは13歳,のちに第6代大管長となったジョセフ・F・スミスがソルトレーク盆地に着いたとき,彼はわずか9歳でした。

彼らはその道中,冬の寒さ,病気,十分な衣服や食料の不足など,あらゆる苦難に直面しました。例えば,ヘンリー・バラードがソルトレーク盆地に到着したとき,「約束の地」を見て喜びましたが,身に着けていた衣服が擦り切れていて完全に身体が覆われていなかったために,だれかに自分の姿を見られるのではないかという恐れを抱いて暮らしました。彼は暗くなるまで一日中茂みの陰に隠れていました。その後ある家に行き,旅を続けて両親を探せるように衣服を乞いました。彼は,後に家となる場所に安全にたどり着くことができたことを神に感謝しました。

私の曽祖父母はそれぞれの試練において信仰の歩みをもってイエス・キリストに従いました。決して諦めなかった彼らに感謝しています。開拓者の信仰の歩みによって,わたしや次世代は祝福を受けています。今日の皆さんの信仰の歩みによって,皆さんの子孫が祝福を受けるのと同じです。

Pioneer(パイオニア)という英単語には,名詞と動詞の両方があります。名詞としては,新しい領域を最初に開拓または入植する人という意味があり,動詞としては,後の人がたどれるように道を切り開く,または備えるという意味があります。

ほかの人々のために道を備えたパイオニアについて考えるとき,わたしはまず預言者ジョセフ・スミスを思い浮かべます。ジョセフは,信仰の歩みにより森へと導かれ,そこでひざまずいて祈り,わたしたちがイエス・キリストの完全な福音を得ることができるように,その道を切り開いた開拓者でした。1820年の春の朝,ジョセフの「神に,願い求める」という信仰は,地上で再び仕えるよう召された預言者と使徒を含め,イエス・キリストの完全な福音が回復される道を開きました。ジョセフ・スミスが神の預言者であることを知っています。彼の信仰に満ちた一歩が,父なる神とその愛する御子イエス・キリストの前にひざまずくように導いたことを知っています。

預言者ジョセフの信仰の歩みにより,主に使われる者となり,イエス・キリストのもう一つの証であり,主の贖いの恵みであるモルモン書を世に出すことができたのです。

ジョセフ・スミスは信じ難いほどの苦難と逆境に直面しながらも,信仰と忍耐によって主の御手に使われる者となり,イエス・キリストの教会を再び地上に確立しました。

前回の総大会で,わたしは専任宣教師としての奉仕がどのような祝福をもたらしてくれたかについて話しました。天の御父の輝かしい救いの計画,ジョセフ・スミスの最初の示現,そして彼が翻訳したモルモン書について教えるとき,わたしは祝福を受けました。これらの回復された教えと教義は,福音の回復に関するメッセージに耳を傾けようとする人々を教えるうえで,信仰をもって歩むための指針となりました。

今日の宣教師たちは現代のパイオニアです。彼らはこの栄えあるメッセージを世界中の人々に伝え,天の御父の子供たちが神と御子イエス・キリストを知ることができるように,その道を切り開いているからです。イエス・キリストの福音を受け入れることによって,教会と神殿の儀式と祝福に備え,受け入れる道が,すべての人に開かれるのです。

前回の総大会で,ネルソン大管長は「主がすべてのふさわしく,能力のある若い男性に,伝道に備え,伝道に出るよう求めておられること」,そして「若くて能力がある姉妹の皆さんにとっても,伝道は任意のすばらしい機会で」あると,再び強く断言しました。

親愛なる若い男性,若い女性の皆さん,皆さんの信仰の歩みは,主の招きに従って伝道に出る,つまり現代のパイオニアになるための助けとなることでしょう。神の子供たちが栄えある神の御前に戻るよう導く聖約の道を見いだし,そこにとどまることができるように,道を切り開くのです。

ネルソン大管長は,教会におけるパイオニアです。使徒として多くの土地を訪れ,福音を宣べ伝えるためにその門戸を開いてきました。教会の預言者および大管長に就任して間もなく,「啓示を受ける〔わたしたちの〕霊的な能力を伸ばすように,切にお願い」しました。ネルソン大管長は,証を強めるよう教え続けています。ヤングアダルトのためのディボーショナルで,このように言っています。

「どうぞ,自分の証に責任を持ってください。そのために努力してください。手に入れて,大切にし,育ててください。

……〔そして〕生活の中で奇跡が起こるのを待ってください。」

ネルソン大管長は,より霊的に自立する方法を教えています。次のように言いました。「導き,指示し,慰める,変わることのない聖霊の影響力がなければ,これから先,霊的に生き残ることはできなくなるでしょう。」

ラッセル・M・ネルソン大管長が今日の地上における神の預言者であることを,わたしは証します。

わたしたちの救い主であるイエス・キリストは,道を備えてくださった究極のパイオニアです。主こそ救いの計画が達成されるための「道」です。そのおかげでわたしたちは悔い改め,主への信仰を通して天の御父のみもとに帰ることができるようになったのです。

イエスは言われました。「わたしは道であり,真理であり,命である。だれでもわたしによらないでは,父のみもとに行くことはできない。」主は,わたしたちを捨てて孤児とはせず,試練の時にはわたしたちのところに帰って来ると約束してくださいました。主は,「十分に固い決意をもって〔主〕のもとに……来るように」わたしたちを招いておられます。「そうするならば,〔主〕は〔わたしたちを〕癒」してくださいます。

わたしは,イエス・キリストがわたしたちの救い主であり,贖い主であられること,また御父に対するわたしたちの弁護者であられることを証します。天の御父は,わたしたちが信仰を込めて一歩ずつ,愛する御子イエス・キリストに従うことによって,神のみもとに帰る道を開いてくださいました。

わたしの曽祖父母やほかの初期の開拓者たちは,幌馬車や手車,または徒歩でソルトレーク盆地にやって来たとき,多くの障害に直面しました。わたしたちもまた,それぞれの人生の旅路において,困難に直面することでしょう。わたしたちは,手車を押したり幌馬車に乗って険しい山々や雪の吹きだまりを越えようとしているわけではありませんが,彼らと同じように,現代の誘惑や試練に対して霊的に打ち勝とうとしているのです。わたしたちには歩むべき道,登るべき丘,時には登るべき山があります。今日の試練は,初期の開拓者たちの試練とは異なりますが,わたしたちにとっては,それに劣らず困難なものです。

初期の開拓者がそうであったように,預言者に従い,信仰に満ちた聖約の道にしっかりと立つことが大切なのです。

信仰を込めて一歩ずつ,イエス・キリストに従いましょう。わたしたちは,主に仕え,互いに仕え合う必要があります。聖約を守り,尊ぶことによって,霊的に自らを強めなければなりません。また,戒めを守ることに対する緊迫感を失うべきではありません。サタンは神と主イエス・キリストに対するわたしたちの決意と愛をくじこうとします。もしだれかが道から迷い出たとしても,救い主がわたしたちを見失われることは決してないということを覚えていてください。悔い改めの祝福により,わたしたちは主のもとに立ち返ることができます。主は,わたしたちが聖約の道にとどまろうと努めるときに,学び,成長し,変わるのを助けてくださいます。

わたしたちがイエス・キリストの足跡をたどり,信仰を込めて一歩ずつ,主に焦点を合わせ,聖約の道にしっかりと立ち続けることができますようにへりくだり祈ります。イエス・キリストの御名により,アーメン。


このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2022年10月の総大会からご紹介しました。

お読みいただいて、ありがとうございます。

良い1日をお祈りします。

強調部分は、個人的に付加しています。

先日は、タケノコ掘りました。
取った後に、また出てきます。
頻繁にとる方が、沢山取れる
と思いました。





リスが木の周りを巡って一時的に見えなくなる度に,犬は数十センチそっと近づき,そしてまた何事もなかったかのように寝そべります。

2023-04-10 04:10:32 | 日記
その先に何があるだろうか

ダリン・H・オークス管長 大管長会第一顧問

別の選択肢を探り,その先に何があるか深く考えるならば,わたしたちはより良い選択や決断ができます。

回復されたイエス・キリストの福音は,将来についてわたしたちに考えさせてくれます。

この福音は現世の目的と来世の実在を説明しています。

福音は将来について大いなることを教えており,今日の行動を決める際にわたしたちの指針となります。

これとは対照的に,現在のことしか頭にない人がだれの周りにもいます。

今日お金を使い,今日楽しみ,将来のことを考えません。

常に将来を意識していれば,わたしたちは現在も将来も幸せになります。

決断を下すときには必ず,「その先に何があるだろうか」と考えるべきです。

I. 時には,何かをするか,それとも何もしないかのどちらかを選ぶ場合があります。

わたしは,この種の選択の例と言える話を,何年も前にアメリカ合衆国のあるステーク大会で聞きました。

大学の美しいキャンパスでのことです。

大勢の若い学生たちが草の上に座っていました。

彼らはリスを見ていたのだと,この状況を説明した話者は言いました。

大きくてふさふさとしたしっぽのあるかわいいリスが,美しい木の根元で遊んでいました。

リスはあるときは地面に,またあるときは木の幹を上ったり下りたり,幹の周りを回ったりしています。

しかし,ありふれたこの光景に,なぜ学生が群がるのでしょうか。

近くの芝生の上に,猟犬のアイリッシュセッターが寝そべっていました。

この猟犬こそ学生たちの関心の的だったのです。

そして,この犬の関心の的はリスでした。

リスが木の周りを巡って一時的に見えなくなる度に,犬は数十センチそっと近づき,そしてまた何事もなかったかのように寝そべります。

これが学生たちの興味を引いていました。

学生たちは声を殺して身動き一つせず,ますます結末が明らかになるその様子に目を釘付けにしています。

ついにアイリッシュセッターは十分な距離まで近づくと,飛びかかってリスを口にくわえました。

ハッと息をのむ声が上がり,学生たちが群がると,この小動物を犬の口からどうにかして救おうとしたのですが,遅すぎました。

リスは死んだのです。

大勢の中のだれかが手を振るなり叫ぶなりしてリスに警告を与えることはいつでもできたはずです。

しかし,だれもそれをしませんでした。

避けられない事態が今にも起ころうとしているのに,それをただ見ていたのです。

その先に何があるだろうか」とは,だれも考えませんでした。

そして,予想できたはずの事態が起こると,皆が駆けつけて最悪の結果を防ごうとしました。

でも,手遅れでした。

涙が出るほど後悔しても,どうにもなりません。

この実話は,ある種のたとえでもあります。

それは,わたしたちの生活で目にする事柄にも,周りの人たちの生活や状況にも当てはまります。

大切な人や物事に危険が忍び寄っていることが分かったら,言うか,行動するか,または黙っているかしかありません。

「その先に何があるだろうか」と自問するとよいでしょう。

危険が差し迫っている場合や深刻な結果が予想される場合は,何もしないでいるわけにはいきません。

まだ時間があるうちに,きちんと警告したり,然るべき防御措置を取ったりしなければならないのです。

先ほど説明した話での選択肢は,何らかの行動に出るか,それとも何もしないかでした。

しかし,もっとよくあるのは,ある行動と別の行動のどちらかを選ぶ場合でしょう。

善と悪のどちらかを選ぶ場合もありますが,二つの良いことのどちらかを選ぶ場合の方が多いのです。

その場合でも,その先に何があるだろうと自問することが大切です。

わたしたちは,二つの良いものからどちらを選ぶかという選択を数多くしています。

よくあるのは時間の使い方です。

テレビゲームをしたり,携帯メールを送ったり,テレビを見たり,携帯電話で話したりするのは,決して悪いことではありません。

しかし,このすべてに「機会費用」というものが伴います。

つまり,あることをすると,ほかのことをする機会が失われるのです。

どう見てもそれ自体は良いものであったとしても,ある活動に時間を使うことで何を失うことになるのかをじっくりと考える必要があることを皆さんが理解してくださると,わたしは確信しています。

以前にわたしは,「良いこと,より良いこと,最も良いこと 」という話をし,その中でこう言いました。

「『良いこと』だからというだけでは,行うのに十分な理由にはならない〔のです。〕……

わたしたちにできる良いことの数は,それらを達成するのに必要な時間数をはるかに超えています。

良いこと以上により良いこともあり,わたしたちはそれらのことに,生活の中で優先的に目を向けるべきなのです。……

わたしたちは,より良いものや最も良いその他のものを選ぶために,良いことを諦める必要があります。」

長期的な視点から見てください。

現在下す決断は,自分の将来にどんな影響を与えるでしょうか。

教育を受けることや福音を研究すること,聖餐を取って聖約を新たにすること,神殿に参入することの大切さを,忘れないでください。

Ⅱ. 「その先に何があるだろうか」と考えることは,自分自身をどういう人間と見るか,自分自身についてどう考えるかを決める際にも大切になります。

最も大切なのは,わたしたち一人一人は神の子供であって永遠の命を得る可能性を秘めているということです。

そのほかの肩書は,職業や人種,身体的な特徴,名誉などですら,この世だけのものであって,永遠の観点から見ればささいなものです。

目指す目標を狭めてしまうような見方や考え方で,自分にレッテルを貼ったり,自分を決めつけたりしないでください。

兄弟の皆さん,そしてわたしがここで話すことを視聴したり読んだりする姉妹の皆さん,わたしたちが与える教えや勧告を皆さんの指導者たちがなぜ与えるのか皆さんが理解することを願っています。

わたしたちは皆さんを愛しています。

天の御父と御子イエス・キリストも,皆さんを愛しておられます。

御父と御子がわたしたちについてお持ちの計画は,「偉大な幸福の計画」です(アルマ42:8)。

この計画と,この御二方の戒めと儀式と聖約は,この世と来世での最大の幸せと喜びへとわたしたちを導きます。

御父と御子の僕として,わたしたちはこの御二方から聖霊によって導かれるままに教えたり勧告したりします。

真理を語りたいという望みと,この御二方が永遠の命への道として説明しておられる事柄を行うようにと皆さんに勧めたいという望みしか,わたしたちにはありません。

この永遠の命は,「神​の​あらゆる​賜物​の​中​で​最も​大いなる​もの」です(教義と聖約14:7)。

Ⅲ. 今下す決断が将来に影響を与える例を,もう一つ話しましょう。

大切な目標を将来達成するために現在犠牲を払うという決断を下した例です。

コロンビアのカリのステーク大会で,ある姉妹が,婚約者とともに神殿で結婚することを望んでいたという話をしました。

当時いちばん近い神殿がはるかかなたのペルーにあったにもかかわらず,それを望んだのです。

バス料金を用意するために,二人は長い年月をかけてお金をためました。

そして,ついにボゴタ行きのバスに乗りました。

しかし,ボゴタに着くと,ペルーのリマ行きのバスは満席だということが分かりました。

家に帰って結婚しないことにするか,または,神殿以外で結婚することもできました。

でも幸いなことに,もう一つ別の選択肢がありました。

本人たちさえ良ければ,リマまでの5泊5日の全行程をバスの床に座って行くことができたのです。

二人はこれを選びました。

乗客の中には自分は床に寝そべればいいからと席を譲ってくれる人が時々いましたが,それでもこの旅はつらかった,と彼女は言っていました。

この話で感動したのは,彼女のこんな言葉でした。

「わたしは夫とともにこの方法で神殿に行くことができ,感謝しています。なぜなら,それによって福音についての感じ方と,神殿結婚についての感じ方が変わったからです。」

主は彼らの犠牲に対して成長という報いを与えられました。

彼女はまた,神殿までのこの5日間の旅は,犠牲なしに何度も神殿参入するよりもはるかに自分たちの霊性を高めてくれた,とも言っていました。

その証を聞いて以来わたしは,もしも神殿で結婚するために必要な犠牲を払うことをせずにほかの選択をしていたらこの若い夫婦の生活はどうなっていただろうか,と何年も考えてきました。

兄弟の皆さん,わたしたちは人生で数限りない選択をします。

大きい選択もあれば,小さく見える選択もあります。

振り返ってみると,幾つかの選択が自分の人生にいかに大きな違いをもたらしたかが分かります。

別の選択肢を探り,その先に何があるか深く考えるならば,わたしたちはより良い選択や決断ができます。

選択する際,わたしたちは目的を持って始めなさいというラッセル・M・ネルソン大管長の勧告に従います。

わたしたちの目的とは,神殿を通して,神のあらゆる賜物の中で最も大いなるものである永遠の命に至る聖約の道に常にとどまることです。

イエス・キリストと贖罪の効力について,そして主の永遠の福音に伴うそのほかの真理について,イエス・キリストの御名によって証します,アーメン。

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このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2019年4月の総大会から、ご紹介しました。

赤字青字は、付加しています。