愛はいつまでも絶えることがない
トーマス・S・モンソン大管長
President of the Church
互いを裁かず批判せず,この人生を一緒に旅する人たちにキリストの純粋な愛を示そうではありませんか
今晩,わたしたちの魂は天に届くほど喜んでいます。わたしたちは祝福されて,美しい音楽と霊感あふれるメッセージに耳を傾けてきました。主のがあります。主の霊感を受けてわたしの考えと思いを皆さんに伝えられるよう祈っています。
まずは,わたしが話したいことをうまく表現している短い話から始めましょう。
リサとジョンという若い夫婦が新しい土地に引っ越して来ました。ある日の朝,朝食を取りながらリサが窓越しに外を見ると,隣の家の人が洗濯物を干していました。
「あの洗濯物,汚れが落ちていないわ」とリサは大声で言いました。「隣の人は洗濯の仕方を知らないのね。」
ジョンも外を見ましたが,何も言いませんでした。
隣人が洗濯物を干す度に,リサは同じことを言いました。
数週間後,リサは窓から外を見て驚きました。隣の庭に,すっきりときれいな洗濯物が干してあったからです。リサは夫に言いました。「ジョン,見て。隣の人もやっと,洗濯の仕方が分かったみたいよ。でも,どうして分かったのかしら。」
ジョンは答えました。「実は,答えを知っているんだ。驚くかもしれないけど,今朝早起きしてぼくがうちの窓をふいたんだよ。」
今晩は,わたしたちが互いをどう見ているかについて2,3話します。掃除をしていない窓を通して人を見てはいないでしょうか。すべての事実を知っているわけではないのに人を裁いてはいませんか。人を見るとき,どこを見ていますか。どんな判断を下しているでしょうか。
救い主は「人をさばくな」 と言われました。そして,続けてこう言っておられます。「なぜ,兄弟の目にあるちりを見ながら,自分の目にあるを認めないのか。」 言い換えると,「なぜ,隣の家の洗濯物が汚いと言いながら,自分の家の窓が汚れていることを認めないのか」となります。
完全な人はいません。自分はそうだと豪語する人には会ったことがありません。それなのにどういうわけか,人はとかく自分の不完全さを棚に上げて他人の欠点を指摘したがります。他人のしていることやしていないことを裁いてしまうのです。
本人の心や動機,状況など知るすべもないのに,人の言葉や行いを批判します。「さばくな」という戒めがあるのはそのためです。
わたしは47年前にこの総大会で,十二使徒定員会の一員として召されました。当時は中央神権委員会の一つで奉仕していましたから,自分の名前が呼ばれる前はその委員会の会員と一緒に所定の席に着いていました。ところが妻はどこに行ったらよいのか,だれと一緒に座ったらよいのか分からず,タバナクルのどこにも席を見つけることができないでいました。すると,わたしたちと親しい中央補助組織の管理会員で役員席に座っていた姉妹がモンソン姉妹に声をかけて隣に座らせてくれました。この女性はその後間もなく発表されるわたしの召しについて,まったく知りませんでした。しかし,モンソン姉妹が不安そうに座る場所を探しているのに気づいて,親切に席を勧めてくれたのです。愛する妻はほっとして,この心遣いに感謝しました。ところがその席に腰を下ろすと,少し大きめのささやき声が後ろから聞こえてきました。管理会員の一人が不快感をあらわにして,管理会員のくせによくも「よそ者」を役員席に座らせたわねと周囲の人にこぼしたのです。その席を勧められた相手がだれであったにせよ,この思いやりのない言葉の言い訳にはなりません。ただ,この「じゃま者」が最も新しい使徒の妻だと分かったときにこの人がどう感じたかは想像するしかありません。
わたしたちは人をその行いや言葉で裁く傾向があります。しかしたいていの場合,外見で判断してしまいます。服装や髪型,体型など,数え上げればきりがありません。
外見で人を裁くことについての古典的な話が,ずっと昔,アメリカ国内向けの雑誌に載りました。これは実話です。聞いたことのある人もいるかもしれませんが,繰り返し聞くに値する話です。
メアリー・バートルズという女性の家が,病院の玄関の向かいにありました。メアリーの家族は1階に住んでおり,上の階の部屋は病院の外来患者用に貸していました。
ある晩,非常に醜いの老人が戸口にやって来て,一泊できる部屋はないかと聞いてきました。老人は腰が曲がっていて,しわだらけで,赤いはれもののせいで顔はいびつになっていました。老人は昼からずっと宿泊できる部屋を探しましたが見つかりませんでした。「この顔のせいでしょうな」と老人は言います。「確かにひどい顔なんだが,治療すれば良くなるだろうと医者に言われていましてね。」老人は,ベランダのロッキングチェアで寝られれば十分だと言います。話しながら,この背の低い老人が小さな体に似合わぬ大きな心の持ち主であることがメアリーには分かってきました。満室ではありましたが,メアリーは「腰掛けて待っていてください。横になれる場所を見つけますから」と老人に言いました。
就寝時間になると,メアリーの夫は老人のためにキャンプ用の簡易ベッドを用意しました。翌朝メアリーが見に行くと,シーツがきちんとたたんであり,老人はベランダに出ていました。老人は朝食を断りましたが,バスに乗るために家を出る直前,次の治療のときにも泊めてもらえるかと聞いてきました。「ご迷惑はおかけしません」と約束し,「いすで寝させてもらえればけっこうですので」と言いました。メアリーは,ぜひまた来てくださいと答えました。
この老人は数年にわたって治療に通い,メアリーの家に泊まりました。職業は漁師だということで,魚介類や自分の庭で取れた野菜を必ず持って来てくれました。また,小包を送ってくることもありました。
そのような心のこもったプレゼントを受け取ると,メアリーは,この醜い腰の曲がった老人が初めて彼女の家に泊まり,翌朝出て行った後に隣人から言われた言葉を度々思い出しました。「夕べあの醜い老人を泊めたのですか。わたしは断りました。あんな人を泊めたら客が逃げますから。」
確かに客が「逃げた」ことが1,2度ありましたが,メアリーは「あの老人と知り合いになってさえいれば,彼らの病苦も少しは楽になっていたでしょうに」と思ったのです。
その老人が亡くなった後のことです。メアリーはある日,温室で家庭菜園をしている友人と話していました。友人の育てている花を見ていると,あちこちへこんでさびついた古いバケツに見事な黄色の菊が植えられているのに気づきました。友人の説明はこうでした。「鉢が足りなかったの。でもきれいな花が咲くって分かっていたから,まずは古バケツでいいと思ったの。花壇に移せるようになるまでの少しの間だから。」
メアリーは天国でも同じなのではないかと思ってほほえみました。神は,あの背の低い男性のところに来てこうおっしゃったのかもしれません。「彼は特別に美しい人です。この小さくて不恰好な肉体に宿って地上の生活を始めることをいとわないでしょう。」しかし,それは遠い昔のことです。神の庭園でこの立派な人物は,胸を張って立っているに違いありません!
見かけというものは当てにならず,人を評価する尺度としてはあまり役に立ちません。救い主は,「うわべで人をさばかない」 ようにと勧告しておられます。
ある女性団体の会員が,団体の代表に選ばれた女性について抗議しました。本人に会ったことはないけれども,写真からすると太りすぎていて不適任だと言うのです。彼女はこのように発言しました。「この組織には何千人もの女性がいるのですから,もっと良い代表を選ぶことができたはずです。」
確かに,選ばれた女性は「モデルのような体型」ではありませんでした。しかし,彼女を直接知り,その人となりを知っている人は,写真からはとうてい分からないことを見ていました。写真からは人懐っこい笑顔と自信に満ちた表情が見て取れましたが,写真から見て取れなかったことは,彼女が忠実で思いやりのある友人であり,主と主の子供たちを愛して奉仕する女性だということでした。地域社会でボランティアとして働いており,親切で世話好きな女性であることは写真からは読み取れませんでした。つまり,写真は彼女の真の姿を映し出していなかったのです。
質問します。態度や行い,霊的な特質が身体的な特徴に反映されるとしたら,抗議した女性は,彼女が批判した女性と同じくらい美しいでしょうか。
愛する姉妹の皆さん,あなたという人は一人しかいません。皆さんは互いに多くの点で違っています。結婚している人もいます。子供と一緒に家庭にいる人もいれば,外で働いている人もいます。また,子供が独立して出て行った人もいます。結婚はしていても子供がいない人もいます。離婚した人もいれば,夫を亡くした人もいます。独身の女性も大勢います。学位を持っている人もいれば,そうでない人もいます。最新ファッションの服を買う余裕のある人もいれば,日曜日にふさわしい服が1着あれば幸せだという人もいます。このような相違点を挙げれば,きりがありません。違っていることが原因で,互いを裁きたくなるのでしょうか。
生涯の大半をインドの貧民街で暮らしたカトリックの修道女マザー・テレサは,深遠な真理を語っています。「人を裁いていたら,愛する時間がなくなってしまいます。」 救い主はこのようにお教えになりました。「わたしのいましめは,これである。わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたもに愛し合いなさい。」 質問します。互いを裁いていながら,互いに愛し合うことができますか。答えはマザー・テレサと同じです。「いいえ,できません。」
使徒ヤコブはこのように教えています。「もし人が信心深い者だと自任しながら,舌を制することをせず,自分の心を欺いているならば,その人の信心はむなしいものである。」
「愛はいつまでも絶えることがない」 という扶助協会のモットーを,わたしはいつも愛してきました。愛すなわち慈愛とは何でしょうか。預言者モロナイは,「慈愛はキリストの純粋な愛」であると教えています。モロナイは,レーマン人に別れを告げる言葉の中でこう宣言しています。「あなたがたに慈愛がなければ,あなたがたは決して神の王国に救われない。」
慈愛,すなわち「キリストの純粋な愛」は,批判することや裁くことの対極にあるとわたしは考えます。慈愛といっても,ここでは物資を与えて苦痛を和らげるということには触れません。もちろんそれは必要で,行うべきことです。しかし今晩は,寛大になり,人の行動をおおらかな心で受け止めるときに示す慈愛について考えています。すという慈愛,忍耐するという慈愛です。
わたしが考えている慈愛とは,病気のときや悩み苦しむときだけでなく,相手の欠点があらわになったときにも,間違いを犯したときにも,相手の立場になって考え,同情し,慈しみを示すことです。
忘れ去られている人に目をかけ,落胆している人に希望を与え,苦しんでいる人を助ける慈愛が大いに必要とされています。真の慈愛は,行動する愛です。慈愛は至る所で必要とされています。
必要とされているのは,当事者のためになる場合を除き,他人の不幸なうわさを聞いたり人に話したりすることを喜びとしない慈愛です。アメリカの教育者であり政治家でもあったホーレス・マンはかつてこう言いました。「悩みに同情するのはただの人間,悩みを和らげてこそ神の子となるのだ。」
慈愛とは,自分を打ちのめす者に忍耐することです。ささいなことに腹を立てないように気持ちを抑えることです。人の欠点や失敗を受け入れることです。人をありのままに受け入れることです。外見の奥にある,時が過ぎても衰えることのない特質に目を向けることです。レッテルをはろうとする衝動を抑えることです。
キリストの純粋な愛である慈愛は,独身ワードの若い姉妹たちが,自分たちの扶助協会の会員の母親の葬儀に出席するために一緒に何百マイルも移動するときに表れます。慈愛は,献身的な訪問教師が,興味を示さず多少批判的な姉妹を何年にもわたって毎月訪問する姿の中に示されます。夫を亡くした年配の女性が忘れ去られずにワードの行事や扶助協会の活動に連れて来られるとき,そこに慈愛があります。扶助協会でぽつんと独りでいる姉妹に「一緒に座りましょう」と声をかけるときに慈愛が感じられます。
幾つもの小さな方法で,皆さんのだれもが慈愛を示すことができるのです。完璧な人生を送っている人などいません。互いを裁かず批判せず,この人生を一緒に旅する人たちにキリストの純粋な愛を示そうではありませんか。だれでも自分に降りかかる問題に全力で取り組んでいるのです。そのことを認めて,助けるためにわたしたちにできる全力を尽くしましょう。
慈愛は「最も気高く,尊く,しかも強い愛」 と定義されています。慈愛は「キリストの純粋な愛であって,……終わりの日にこの慈愛を持っていると認められる人は,幸い」です。
「愛はいつまでも絶えることがない。」長年にわたって引き継がれてきたこの扶助協会のモットーは永遠の真理です。このモットーが,何を行うときにも皆さんの指針となりますように。このモットーがまさに皆さんの魂に刻み込まれ,皆さんのすべての思いとすべての行動に表れますように。
姉妹の皆さんにわたしの愛を伝え,天の祝福が皆さんのうえにあるよう祈ります。イエス・キリストのによって,アーメン。
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このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2010年10月の総大会からご紹介しました。
お読みいただいてありがとうございます。
良い1日になりますように。
小さいわらべに導かれ
ボイド・K・パッカー会長
十二使徒定員会会長
夫と妻は,自分たちの第一の召しは,お互いに対するもの,それから子供に対するものであって,この召しから解任されることは決してないことを理解するべきです。
遠い昔,ある寒い夜に日本の駅で,寝台車の窓をこつこつとたたく音が聞こえました。見ると,ぼろぼろのシャツを着て,腫れあがったあごに汚いぼろきれを巻いた少年が凍えながら立っています。頭はかさぶただらけでした。さびたブリキの缶とスプーンを持っています。物乞いする孤児のしるしです。お金を上げるために必死でドアを開けようとしているうちに,列車は出発しました。
寒空の下,駅に一人残されてブリキ缶を持ったまま立つ,飢えた幼い少年のことをわたしは決して忘れません。そして,プラットフォームに立ち尽くす少年を後に,列車がゆっくりと走り始めたときに感じたやるせない気持ちも,忘れることができないでしょう。
それから数年後,ペルーのアンデス高地の都市クスコでA・セオドア・タトル長老とわたしは通りに面した細長い部屋で聖餐会を開きました。夜のことでした。タトル長老が話していると,6歳くらいと思われる男の子が戸口に現れました。ひざまで届くぼろぼろのシャツ以外は何も着ていません。
わたしたちの左手には小さなテーブルがあり,聖餐で使うパンが皿の上に載っていました。飢えて路上をさまようこの孤児は,パンを見ると壁伝いにゆっくりと近づいて来ました。テーブルまであと少しという所で,通路にいた女性がこの子に気づき,険しい顔で首を振って,闇の中に追い出したのです。わたしは心が痛みました。
後でその小さな子供は戻って来ました。壁に沿って足を滑らせ,パンからわたしの方へちらっと目を移しました。先ほどの女性にまた見つかりそうな場所に近づいています。わたしが両手を広げると走って来たので,ひざの上に抱き上げました。
そして,何かを象徴するように,わたしはこの子をタトル長老のいすに座らせたのです。閉会の祈りが終わると,この空腹の幼い男の子は,夜の闇の中に一目散に走って行ってしまいました。
わたしは本国に帰ると,スペンサー・W・キンボール大管長にこの経験について話しました。大管長は深く心を動かされて,「あなたは一つの民をひざの上に置いたのです」とわたしに言いました。そして,「その経験には,あなたにはまだ分からない大きな意味があります」と何度となく言ったのです。
わたしはラテンアメリカの諸国を100回近く訪問していますが,その度にあの幼い少年を人々の中に探しました。今では,キンボール大管長の言葉の意味が確かに分かります。
また,ソルトレーク・シティーでも路上で震える少年に出会いました。これも寒い冬の夜が更けたころのことです。クリスマスディナーが終わってホテルを出ると,通りの方から少年が6人か8人,どやどやとやって来ました。皆寒い外に出ないで家にいればいいのにとわたしは思いました。
一人の少年はコートを着ておらず,寒さを払いのけるために小刻みに跳びはねていました。その少年はわき道を走って見えなくなりました。きっと,狭く粗末なアパートに帰って,体を温めてくれる寝具も十分にないベッドに入ったのでしょう。
夜布団に入るとき,暖かいベッドのない人たちのためにわたしは祈りをささげます。
第二次世界大戦が終わったとき,わたしは大阪に駐屯していました。町はがれきの山で,道にはブロックや建物の残骸が散らかり,爆撃で地面のあちこちに穴が開いていました。木はほとんどなぎ倒されていましたが,中には枝や幹を吹き飛ばされながらもまだ立っていて,けなげに小枝を伸ばし,葉を付けている木も何本かありました。
ぼろぼろになった色鮮やかな着物を着た小さな女の子が,黄色いカエデの葉をせっせと集めていました。周囲の荒廃に気づいていないかのように,がれきの中を歩き回って葉っぱを見つけては束に加えていました。自分の世界に一つ残された美しいものを見つけていたのです。恐らく,この幼子こそ世界に残された美しいものだと言うべきでしょう。この幼子のことを思うと,なぜかわたしの信仰は増します。子供とは希望そのものなのです。
「幼い子供たちは,……キリストによって生きている」ので悔い改める必要がないとモルモンは言っています。
20世紀に入ったころのことです。二人の宣教師が合衆国南部の山岳地帯で働いていました。ある日,ずっと下の方の空き地に人が集まっているのが丘の頂上から見えました。この宣教師たちは大勢の人の中で福音を伝える機会があまりなかったため,その空き地に下りて行きました。
小さな少年がおぼれて亡くなり,葬儀が行われようとしていました。両親は息子の葬式で話してもらうため,牧師を呼んでいました。悲しむ父と母を前にしてこの巡回牧師が説教を始めると,宣教師たちは驚いて後ずさりました。両親はこの聖職者に慰めを期待していたとしたら,がっかりしたことでしょう。
幼い男の子にバプテスマを受けさせなかったことで,牧師は両親を厳しくしかったのです。あれこれ理由をつけてバプテスマを先延ばしにしていたから,今となってはもう手遅れだというのです。幼い男の子は地獄に行ったと牧師はにべもなく両親に言いました。親のせいでその子は果てしなく苦しむことになるというのです。
説教が終わって墓に土がかけられると,長老たちは嘆き悲しむ両親のもとに行き,「わたしたちは主の僕です。お伝えしたいことがあります」と母親に言いました。泣きながら耳を傾ける両親に,二人の長老は啓示の中から言葉を読み,死者と生者の両方を贖う鍵が回復されたことを証しました。
わたしはこの牧師にも幾らか同情を感じます。彼は自分が持っている限りの光と知識で最善のことをしていたのです。しかし,この牧師が伝えられたはずの知識がすべてではありません。完全な福音があるのです。
この長老たちは慰める者として,教師として,主の僕として,また,イエス・キリストの福音の権威ある教導者としてやって来たのです。
わたしが話した子供たちは,天の御父のすべての子供たちを代表しています。「子供たちは神から賜わった嗣業であり,……矢の満ちた矢筒を持つ人はさいわいである。」
命を生み出すことは夫婦の大きな責任です。信頼できるふさわしい親となることは,この世の人生で最も大きな課題の一つです。男性も女性も,一人で子供をもうけることはできません。子供には両親がいることになっているのです。つまり,父親と母親です。これに代わり得る形態やプロセスはありません。
ずっと前のことですが,ある女性が,大学生のころボーイフレンドと重大な過ちを犯したと泣きながらわたしに言いました。ボーイフレンドが手続きをして堕胎したのです。やがて二人は卒業して結婚し,何人か子供が生まれました。彼女は今どれほどつらい思いをしているか話しました。自分の家族,自分のかわいい子供たちを見ていると,子供がもう一人いるはずの場所にぽっかりと穴が開いているように感じるそうです。
この夫婦が贖いを理解してその恵みにあずかるならば,そのような経験とそれに伴う苦悩はぬぐい去られるということを知るでしょう。永遠に続く苦しみなどありません。簡単なことではありませんが,そもそも人生とは簡単なものでも公平なものでもないのです。悔い改めれば赦され,その赦しによって永遠に続く望みが得られるのですから,努力する価値があります。
別の夫婦ですが,自分たちの子供を持つことはできないだろうと医者から言われて帰って来たところだと涙ながらに語った若い夫婦がいました。彼らは嘆き悲しんでいました。実はあなたがたは非常に幸運なのですよと言うと,彼らは驚きました。なぜわたしがそんなことを言うのか分からなかったのです。わたしが彼らに言ったのは,親になる能力がありながらも親になることを拒否し,自分たちのことだけを考えてその責任を避ける夫婦よりも,彼らの状況の方がはるかに良いということでした。
わたしは言いました。「お二人が子供を望むなら,その望みによって,この世でも次の世でも祝福をもたらすでしょう。それによって霊的にも情緒的にも強められるからです。最終的には,子供を望んでも得られなかったお二人は,得ることができるのに得ようとしなかった人々よりもはるかに祝福されることでしょう。」
さらには,結婚しないでいるために子供のない人々もいます。中には,自分ではどうすることもできない状況のために独身で子供を育てている母親や父親たちもいます。必ずしも現世でではなくとも,永遠の計画の中で,義にかなった強い望みはかなえられるのです。
「もしわたしたちが,この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとしたら,わたしたちは,すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。」
教会のすべての活動の究極的な目的は,夫と妻と子供が家庭で幸福に暮らし,福音の原則と律法によって守られ,永遠の神権の聖約によって間違いなく結び固められるようにすることです。夫と妻は,自分たちの第一の召しは,お互いに対するもの,それから子供に対するものであって,この召しから解任されることは決してないことを理解するべきです。
子供を育てる中で分かる最も偉大なことの一つは,ほんとうに大切なことは,自分の親からよりも子供から学ぶことの方がはるかに多いということです。「小さいわらべに導かれ〔る〕」というイザヤの預言が真実であることをわたしたちは悟ります。
エルサレムで「イエスは幼な子を呼び寄せ,彼らのまん中に立たせて言われた,
『よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ,天国にはいることはできないであろう。
この幼な子のように自分を低くする者が,天国でいちばん偉いのである。』」
「イエスは言われた,『幼な子らをそのままにしておきなさい。わたしのところに来るのをとめてはならない。天国はこのような者の国である。』
そして手を彼らの上においてから,そこを去って行かれた。」
モルモン書には,キリストが新世界を訪れられたことが書かれています。キリストは人々を癒し,祝福し,幼子をみもとに連れて来るようお命じになりました。
モルモンは次のように記録しています。「彼らは幼い子供たちを連れて来て,イエスの傍らに降ろした。イエスはその真ん中に立っておられた。また,群衆は道を譲って,幼い子供たちが皆,イエスのもとに来られるようにした。」
イエスは次に人々にひざまずくよう命じられました。子供たちに囲まれて救い主はひざまずき,天の御父に祈りをささげられました。祈り終えると救い主は涙を流されました。「また,イエスは幼い子供たちを一人一人抱いて祝福し,彼らのために御父に祈られた。
そして,イエスはこれを終えると,また涙を流された。」
救い主が子供たちに抱いておられた気持ちがわたしには理解できます。救い主の模範に従って「幼い子供たち」のために祈り,祝福し,教えようとするときに,多くのことが学べます。
わたしは11人きょうだいの10番目でした。わたしが知るかぎり,父も母も教会で目立つような召しを受けて奉仕したことはありません。
両親は親という最も大切な召しを忠実に果たしました。父は家庭を義のうちに導き,怒ることも家族に恐れを抱かせることも決してありませんでした。そして,父の頼もしい模範は,母の優しい助言によって倍加しました。パッカー家の一人一人に福音は強い影響力がありました。そして,わたしたちが見るかぎり,その影響力は次の世代にも,そのまた次の世代にも,そのまた次の世代にも及んでいます。
裁きのときに,わたしも父のように良い男性と言われたいです。天の御父から「よくやった」という言葉を聞く前に,まずわたしは肉親である父親からその同じ言葉を聞きたいと望んでいます。
わたしは「教会にあまり活発でない」と言われてもおかしくない父親のもとで育ちながら,なぜ使徒に召され,次に十二使徒定員会会長に召されたのだろうか,と何度も考えました。このような家庭で育ったのは十二使徒の中でわたしだけではありません。
ようやくわたしは,このような家庭で育ったからこそ,自分は今の責任に召されたのだということが分かり,理解できるようになりました。そして,教会で行われるすべてのことの中で,家族で一緒に過ごす方法を指導者が親と子供に提供する必要があるのはなぜかが理解できました。神権指導者は,教会が家族に祝福となるように注意を払わなければなりません。
イエス・キリストの福音に従って生活するということについては,出席簿の数字やグラフでは測ることのできない事柄がたくさんあります。教会員は建物や予算,プログラムや手順のことで忙しく働きますが,それらのことにかかわっているうちに,イエス・キリストの福音の持つほんとうの意味を見過ごしてしまう恐れがあります。
「パッカー会長,これをしてもいいですか」とわたしに聞きに来る人があまりにもたくさんいます。……
わたしは普通,彼らを遮って「だめです」と言います。それをすると新しい活動やプログラムができて,時間的,経済的な負担が家族にかかることになると思うからです。
家族の時間は神聖な時間ですから,守り,尊重するべきです。わたしたちは家族に献身的な愛を示すよう教会員に強く勧めています。
結婚当初,妻とわたしは生まれてくる子供を受け入れ,その出産と育児に伴う責任も受け入れると決心しました。やがて子供たちは自分の家族を持つようになりました。
わたしたちの息子のうち二人は,生まれたときに医師から「この子は長く生きないと思いますよ」と言われました。
どちらのときも,その言葉を聞いて,この小さな息子が生きられるのなら自分の命をささげてもよいとわたしたちは思いました。そんな気持ちになったとき,これこそ天の御父がわたしたち一人一人に対して持っておられる思いなのだということを悟りました。何と神聖な気持ちでしょう。
人生も終わりに近づいた今,家族は永遠に続くものとなり得ることをパッカー姉妹とわたしは理解し,また証します。戒めを守って福音に完全に従うならば,わたしたちは守られ,祝福されます。子供や孫,そしてひ孫のためにささげる祈りは,それぞれの家族が幼い子供に同じように献身的な愛を注いでくれるようにということです。
父親と母親の皆さん,生まれたばかりの子供を次に腕に抱くときには,命の神秘と目的について奥深い洞察を得ることができるでしょう。この教会がなぜこのような教会なのか,なぜ家族は現在と永遠にわたって基本的な組織なのか,皆さんはさらによく分かるようになるでしょう。イエス・キリストの福音は真実であり,幸福の計画とも呼ばれる贖いの計画は,家族のための計画であることを証します。教会の家族が,親と子供たちが祝福され,この業が御父の御心のままに転がり進むように主にお祈りします。このことをイエス・キリストの御名によって証します,アーメン。
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このお話は、末日聖徒イエス・キリスト教会2012年4月の総大会からご紹介しました。
青字赤字は、個人的に付け加えています。
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12 But little children are alive in Christ, even from the foundation of the world; if not so, God is a partial God, and also a changeable God, and a respecter to persons; for how many little children have died without baptism!
モロナイ8:12(モルモン書)
12 幼い子供たちは、世の初めからキリストによって生きている。もしそうでなければ、神は不公平な神であり、気まぐれな神であり、人を偏り見る御方である。何と多くの幼い子供たちが、これまでバプテスマを受けることなく死んだことであろう。
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Isaiah 11:6
6 The wolf also shall dwell with the lamb, and the leopard shall lie down with the kid; and the calf and the young lion and the fatling together; and a little child shall lead them.
イザヤ 11:6 (旧約聖書)
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本日も、お読みいただいてありがとうございます。
夜寝る前に、祈りの言葉を付け加えたいと思います。
" 夜布団に入るとき,暖かいベッドのない人たちのためにわたしは祈りをささげます。"
あわただしい12月ですが、
良い1日となりますように、
愛を示せる機会がありますように。