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日曜学校 教義と聖約88:121-40

2021-08-15 09:41:15 | 日記
教義と聖約88:121-40

121 それゆえ、あなたがた​の​すべて​の​軽々しい​話、すべて​の​高笑い、すべて​の​みだら​な​欲望、すべて​の​高慢​と​軽薄、すべて​の​邪悪​な​行い​を​やめ​なさい。

122 あなたがた​自身​の​中​から​一人​の​教師を​任命​しなさい。そして、全員​が​同時​に​語る​こと​なく、一時​に​一人りを​語らせて、すべて​の​者​が​彼の​言う​こと​に​耳を​傾ける​よう​に​しなさい。それ​は、すべて​の​者が​語って、すべて​の​者​が​互いに​教化し​合う​よう​に、また​すべて​の​人​が​等しい​特権を​持てる​よう​に​する​ため​で​ある。

123 あなたがた​は​互いに​愛し​合う​よう​に​しなさい。むさぼる​の​を​やめ​なさい。福音​が​求めて​いる​よう​に、互いに​分ち​合う​よう​に​なり​なさい。

124 怠惰​で​ある​の​を​やめ​なさい。不純で​ある​の​を​やめ​なさい。互いに​非難​し​合う​の​を​やめ​なさい。必要​以上​に​長く​眠る​の​を​やめ​なさい。疲れる​こと​の​ない​よう​に、早く​床​に​就き​なさい。あなたがた​の​体​と​精神​が​活気きづけられる​よう​に、早起き​を​しなさい。

125 何より​も、完全​と​平和​の​きずな​で​ある​慈愛​の​きずな​を、外套​の​よう​に​身 に​まとい​なさい。

126 わたし​が​来る​まで、気​を​落さない​よう​に​常に​祈り​なさい。見よ、見よ、わたし​は​すぐに​来て、あなたがた​を​わたし​の​もと​に​迎え​入る​で​あろう。アーメン。

127 さらに​また、彼ら​に、すなわち​教会の​すべて​の​役員​に、言い​換えれば、大祭司​から​始まって​執事​に​至る​まで​教会​で​務め​に​召される​者​たち​に、必要​な​すべて​の​こと​を​教える​ため​に​設けられた、預言者​の​塾​の​塾長​会​の​ため​に​備えられた​家の​規律。

128 塾長​会​の​家の​規律​は、次​の​とおり​で​ある。塾長または​教師に​なる​よう​に​任命される​者​は、彼​の​ため​に​備えられる​その​家​で、彼の​いる​べき​場所​に​立って​い​なければ​ならない。

129 それゆえ、彼​は​神の​家に​最初​に​来て、大声​で​話さなくて​も​その​家​の​中の​会衆​が​注意​深く​はっきり​と​彼​の​言葉​を​聞ける​場所​に​いる​よう​に​しなければ​ならない。

130 また、彼は​その​家​に​最初​に​い​なければ​ならない​ので--見よ、これ​は​麗わしく、彼​は​模範と​なる--彼​は​神​の​家​に​入いる​とき、

131 永遠の​聖約​の​しるし、すなわち​記念​として、神​の​前​に​ひざまずいて​祈り​を​ささげ​なさい。

132 そして、彼​の​後に​だれか​が​入って​来る​とき、教師しは​立ち上って​両手​を​天に​向けて、まことに​まっすぐ​に​伸ばし、次​の​よう​な​言葉​で​その​兄弟、または​兄弟たち​に​あいさつ​しなさい。

133 「あなた​は​兄弟、または​兄弟​たち​です​か。わたし​は​永遠​の​聖約​の​しるし、すなわち​記念​として、主​イエス・​キリスト​の​御名​に​よって​あなた​に​あいさつ​します。この​聖約​に​従がって、わたし​は、神​の​恵​に​より、愛​の​きずな​を​もって、あなた​の​友​に​なり​兄弟に​なる​と​いう、また​感謝を​もって、罪が​なく、神​の​すべて​の​戒に​従がって​とこしえ​に​いつまで​も​歩む​と​いう、確固と​した​揺ぎない​不変​の​決意いを​もって​あなた​を​仲間​に​迎え​入れ​ます。アーメン。」

134 また、この​あいさつ​を​受ける​に​ふさわしくない​と​される​者が、あなたがた​の​中​に​場所を​得る​よう​な​こと​が​あって​は​ならない。わたし​の​家​が​その​よう​な​者に​よって​汚される​の​を、許して​は​ならない​から​で​ある。

135 また、入って​来る​者で、わたし​の​前に​忠実​で​あり、兄弟​で​ある​者​は、あるいは​彼ら​が​兄弟​たち​で​あれ​ば​彼ら​は、両手を​天​に​向けて​伸ばし、この​同じ​祈り​と​聖約​を​もって、または​その​同じ​しるし​として「アーメン」と​言う​こと​に​より、塾長じ​または​教師​に​あいさつ​しなければ​ならない。

136 見よ、まことに、わたし​は​あなたがた​に​言う。これ​が、神​の​家​に​おける​預言者の​塾​で​互いに​交わす​あいさつ​の​ため​の、あなたがた​に​とって​の​一つ​の​範例​で​ある。

137 あなたがた​は、祈り​と​感謝を​もって、また​御霊が​告げる​まま​に、以上の​こと​を​行なう​よう​に​召されて​いる。御霊​は、主の​家​に​おける​預言者の​塾​で​あなたがた​が​行なう​すべて​の​こと​を​告げる​で​あろう。この​よう​に​行なう​の​は、主​の​家が​聖所、あなたがた​を​教化​する​聖​なる​御霊​の​幕屋やと​なる​ため​で​ある。

138 また、あなたがた​は、この​時代​の​人々​の​血から​清められて​いる​者​の​ほか、あなたがた​の​中​の​だれ​も​この​塾​に​受け入れて​は​ならない。

139 そして、洗足​の​儀式​に​よって​受け入れ​なければ​ならない。この​目的​で​洗足の​儀式​は​制定​された​から​で​ある。

140 さらに​また、洗足​の​儀式​は、教会​の​大管長、すなわち​管理​長老​が​執行しなければ​ならない。

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(その他のリソース)


悔い改めによる清め

ダリン・H・オークス管長は次のように教えています。

「悔い改めは救い主から始まります。それは喜びであって,重荷ではありません。……

悔い改めによる清めを受けるには,自分の罪を捨て,主に対し,また必要な場合に現世の主の判士に罪を告白する必要があります(教義と聖約58:43参照)。

またアルマは,「義の業を行いなさい」とも教えています(アルマ5:35)。

こうした事柄はすべて,聖文で度々招かれているように,キリストのもとに来ることを意味します。

わたしたちは,毎週安息日に聖餐を受ける必要があります。

その儀式においてわたしたちは聖約を交わし,祝福を受けます。

それは,救い主がわたしたちを招いておられるように完全な者となるうえで妨げとなる,すべての行いと望みを克服する助けとなります(マタイ5:48;3ニーファイ12:48参照)。

わたしたちは「神の御心に添わないものをすべて拒み,勢力と思いと力を尽くして神を愛する」ときに,「キリストによって完全になり」,主の血が流されたことによって「聖められ」て,「染みのない清い者となる」ことができるのです(モロナイ10:32-33)。

何とすばらしい約束でしょう。

何という奇跡でしょう。

何という祝福でしょう。」

(「悔い改めによる清め」『リアホナ』2019年5月号,92)



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※ScripturePlusでは、以下の注釈がされています。 (英文だけです。)

Doctrine and Covenants 88:127–41 consists of a separate revelation received a few days later on January 3, 1833. It was most likely combined with the first revelation because it commands Joseph Smith and his associates to set up a “school of the prophets” in the house of God (D&C 88:136). The School of the Prophets would eventually meet in the Kirtland temple, but the Saints began organizing it almost immediately after receiving this revelation. The School of the Prophets was the beginning of an educational structure that would eventually come to include all of the quorums and organizations affiliated with the Church, all of whom regularly meet in classes to receive instruction and inspiration.

Over the next few years, several different schools were organized in Kirtland and Missouri. The initial School of the Prophets met from January 23 to April 1, 1833, in an upper room of the Newel K. Whitney store in Kirtland. Joseph Smith presided over the school and selected Orson Hyde to be its teacher. This school consisted of a small group, probably never exceeding twenty-five people. Zebedee Coltrin, a member of the school, recalled that the teacher “saluted the brethren with upheld hands” as they entered and “they also answered with uplifted hands.” Attending the school was a holy activity for those involved, with Coltrin remembering that “before going to school we washed ourselves and put on clean linen.” Members of the school came fasting at sunrise and remained until around four o’clock in the evening.[1]

Dramatic spiritual manifestations occurred in this School of the Prophets. Zebedee Coltrin shared the following experience, which occurred in one of the meetings of the School of the Prophets:

At one of these meetings after the organization of the school . . . Joseph having given instructions, and while engaged in silent prayer, kneeling, with our hands uplifted[,] each one praying in silence, no one whispered above his breath, a personage walked through the room from east to west, and Joseph asked if we saw him. I saw him and suppose the others did[,] and Joseph answered[, “]that is Jesus, the Son of God, our elder brother.[”] Afterward Joseph told us to resume our former position in prayer, which we did. Another person came through; he was surrounded as with a flame of fire. He [Brother Coltrin] experienced a sensation that it might destroy the tabernacle as it was of consuming fire of great brightness. The Prophet Joseph said this was the Father of our Lord Jesus Christ. I saw Him.

When asked about the kind of clothing the Father had on, Brother Coltrin said:

I did not discover his clothing[,] for he was surrounded as with a flame of fire, which was so brilliant that I could not discover anything else but his person. I saw his hands, his legs, his feet, his eyes, nose, mouth, head and body in the shape and form of a perfect man. He sat in a chair as a man would sit in a chair, but this appearance was so grand and overwhelming that it seemed I should melt down in his presence, and the sensation was so powerful that it thrilled through my whole system and I felt it in the marrow of my bones. The Prophet Joseph said: [“]Brethren, now you are prepared to be the apostles of Jesus Christ, for you have seen both the Father and the Son and know that they exist and that they are two separate personages.[”][2]

[1] Lyndon W. Cook, The Revelations of the Prophet Joseph Smith, 1985, 186–87.

[2] “Remarks of Zebedee Coltrin,” Minutes, Salt Lake City School of the Prophets, October 3, 1883, in Lyndon W. Cook, The Revelations of the Prophet Joseph Smith, 1985, 187-188.


主にお会いする用意をする

2021-08-15 08:43:31 | 日記
権能,儀式,備え




ダリン・H・オークス管長
大管長会第一顧問
救いと昇栄の儀式は,神が御自分の子供たちのために用意された偉大な計画の礎を成すものです。

ホンジュラス・テグシガルパ神殿の写真/コディー・ベル
聖文には再臨に関する記述がたくさんあります。その出来事を義人は待ち焦がれ,悪人は恐れ,否定します。「あなたがたの叫びをすべての人の中に出て行かせなさい。」回復に着手されたとき,主はそう警告されました。「見よ,見よ,花婿は来る。……主の大いなる日のために自らを備えなさい。」(教義と聖約133:10。34:6も参照)
神にお会いする用意をする
わたしたちは,「平和が地から取り去られ」(教義と聖約1:35),「すべてのものごとが混乱する。そして,……人々は気落ちする」と預言された時代に生きています(教義と聖約88:91)。困難な状況に取り囲まれていても,神を信じる信仰をもって,わたしたちは神の戒めを守って備える者に神が約束しておられる祝福に信頼を寄せます。

主にお会いする用意の一部として,主は次のように命じておられます。「主の日が来るまで,あなたがたは聖なる場所に立ち,動かされないようにしなさい。見よ,その日はすぐに来る……。」(教義と聖約87:8)これらの「聖なる場所」とは何を指すのでしょうか。その中には確かに,聖約を忠実に守る人たちが参入する神殿が含まれます。そして確かに,忠実な宣教師や神権の権能によって召されたそのほかの人たちが奉仕する場所も含まれます。聖なる場所に立つとき,わたしたちは神権の権能を行使し,またその影響下にあります。そして,昇栄と永遠の命のために必要な儀式を求めます。
回復された教会における神権の権能
30年前,わたしは末日聖徒イエス・キリスト教会における神権の権能が,ほかの種類の権能とどのように違うのか実際に経験をしました。ある著名なプロテスタントの牧師の奥様が,わたしの事務所を訪れました。長年の間,彼女は夫とともにクリスチャンの務めを熱心に果たし,主に仕えていました。そして今,回復された教会に加わりたいと望んでいたのですが,彼女はある懸念を抱えていました。

この女性がわたしのところに来たのは,なぜ自分がバプテスマを受けなければならないのかを尋ねるためでした。彼女はすでに,多くの信徒たちにバプテスマを施していた牧師である夫から,クリスチャンとしてバプテスマを受けていたからです。彼女は次のように尋ねました。「夫はこれまで多くの人たちにバプテスマを施してきたのに,夫にはバプテスマを施す権能が一切なかったと,あなたはおっしゃるのですか。」

こうした状況のときにわたしたちが祈り求めるように,御霊が訪れてわたしを助けてくださいました。

「いいえ。御主人は確かにそれらのバプテスマを施す権能を持っておられました」と,わたしは答えました。「御主人は御自身の教会,御自身の信徒たち,そして国の法律が与えることのできるすべての権能を持っておられました。そしてその権能を使って,バプテスマを施し,結婚を執り行い,教会の建物の物理的な必要を満たすために人を雇い,礼拝の儀式に参加する人たちを任じられたのです。わたしたちはその権能を疑うものではありません。ただ,それとは別の種類の権能について,あなたに知っていただきたいのです。それは,神が人間に託される力です。」


回復されたイエス・キリストの教会に改宗した人たちにわたしたちがバプテスマを求める理由は,イエスがペテロやほかの使徒たちに与えられた神の権能によるバプテスマが必要であるためだと,わたしは説明しました。その権能をもって,イエスは使徒たちに,彼らが地上でつなぐことは何でも天でもつながれると言われました(マタイ16:19;18:18参照)。言い換えると,それは死の幕の向こうでも有効であって効力を発し,天の要求を満たすということです。わたしは彼女に,この権能は回復されており,現在,末日聖徒イエス・キリスト教会にのみ存在することを証しました。それからしばらくの後,この女性は夫とともにバプテスマを受けました。彼らは長年の間,忠実な会員であり続けています。


権能の重要性は,救い主の地上での務めについて記した聖文の中の数多くの記録で明らかに示されています。聖文には次のように書かれています。イエスが教えた人々は,「その教にひどく驚いた。それは律法学者たちのようにではなく,権威ある者のように,教えられたからである。」(マタイ7:28-29。マルコ1:22;ルカ4:32も参照)会堂で人々は,イエスが「権威」をもって「けがれた霊にさえ命じられると,彼らは従う」ことに「驚き」ました(マルコ1:27。ルカ4:36も参照)。イエスは疑問を抱いている律法学者たちに,「人の子は地上で罪をゆるす権威をもっている」と言われました(マルコ2:10。ルカ5:24も参照)。

その後,祭司長と長老たちは,イエスが何の権能によって行われるのかを尋ねました(マタイ21:23-27;マルコ11:27-33参照)。答えを受けるために主が定めておられた条件を,彼らは満たすことができませんでした。しかし,後にイエスが言われたことや行われたことから,答えは明らかになります。使徒たちを召したとき,イエスは彼らを「立て」られました(ヨハネ15:16。訳注:「立てた」は英語では“ordained”で「聖任した」の意)。それは「彼らを……宣教につかわし,また〔病人を癒し,〕悪霊を追い出す権威を持たせるため」でした(マルコ3:14-15。マタイ10:1;ルカ9:1;使徒8:18-19も参照)。七十人を召したとき,イエスは彼らに「権威」を授けられました(ルカ10:19)。

救い主は神の力と権能をお持ちであり,それを分かち合われたのです。バプテスマのヨハネが言ったように,御父は「万物をその手にお与えに」なっていたのです(ヨハネ3:35)。
儀式の役割
神権の権能の行使の中で特になじみ深い例が,儀式に関するものです。儀式と神権は切っても切れない関係にあります。儀式とは,神権の権能をもって行われる,永遠の重要性を持つ神聖な行為です。儀式は,聖約を交わすことや祝福を約束することに伴って行われます。回復されたイエス・キリストの教会の儀式には,バプテスマ,聖餐を受けること(教会で最も頻繁に行われる儀式),神殿の儀式が含まれます。神殿の儀式には,この世と永遠にわたる結婚や,知識と聖約と約束された祝福から成るエンダウメントと呼ばれる賜物などがあります。

儀式の要件は神から与えられたものであり,永遠の効力を持っています。「創世の前に天において定められた不変の律法があり,すべての祝福はこれに基づいて」います(教義と聖約130:20)。そして「〔主〕から祝福を受けたいと思う者は皆,その祝福のために定められた律法とその条件に従わなければなら〔ず〕,その律法とその条件は,創世の前から定められたもの」です(教義と聖約132:5)。

救いと昇栄の儀式は,神が御自分の子供たちのために用意された偉大な計画の礎を成すものです。イエスは,神の王国での救いは「水と霊とから生れ〔る〕」ことによってもたらされると教えられました(ヨハネ3:5)。昇栄(永遠の命,すなわち「天の御父とその愛する御子が生きておられるように生きること」)は,神殿のより高い聖約と儀式によってもたらされます(教義と聖約14:7;84:38;88:107;132:16-17,20-21参照)。わたしたちの預言者であるラッセル・M・ネルソン大管長は次のように教えています。「現世は救いと昇栄に備える時です。神の永遠の計画において,救いは個人の問題であり,昇栄は家族の問題です。
主にお会いする用意をする


「主は再び来て治め,統治される」メアリー・ザウアー画
現代の啓示において,わたしたちは次のように言われています。「〔主〕を畏れる者は,主の大いなる日が来るのを,すなわち人の子の来臨のしるしを待ち望むであろう。」(教義と聖約45:39)この世での務めを終える前の最後の時期に,イエスは御自分の再臨について語っておられます。イエスは最初に訪れる艱難と,そうした艱難があろうとも「用意をしてい〔る〕」ことの重要性について述べられました(マタイ24:44)。そしてイエスはこう言われました。「主人が帰ってきたとき,そのようにつとめているのを見られる僕は,さいわいである。」(マタイ24:46。ルカ12:37,43も参照)

ネルソン大管長は次のように教えています。「わたしたちはまさに,救い主の再臨が現実となる,この神権時代のクライマックスを築き上げているのです。」再臨のしるしはわたしたちの周囲の至る所にあり,その頻度と明確さは増しているように思われます。世界中で,わたしたちは地震,飢饉,台風,洪水,疫病,武力紛争を経験したり,そうした事柄を耳にしたりしています。しかし,そうしたしるしはわたしたちを脅かすものばかりではありません。この時代における前向きなしるしには,預言されたイスラエルの集合があり,これについてネルソン大管長は,「今日地上で行われていることの中で最も重要な事柄」であると明言しています。

この集合が進むにつれ,わたしたちは「防御のためとなり,また嵐と激しい怒りが全地にありのままに注がれるときに,その避け所となる」ステークを築いていきます(教義と聖約115:6)。わたしたちはまた,神殿の建設を加速しています。そこは忠実な人たちが自国において集まり,永遠の命にあずかる資格を得るための聖約を交わすことができる場所です(教義と聖約84:19-22;131:1-3参照)。

モルモン書はこう教えています。「現世は人が神にお会いする用意をする時期である。」(アルマ34:32)わたしたちは用意をしているでしょうか。

もし主の再臨の日が明日だったらどうでしょうか。もし死や主の来臨によって,明日主にお会いすることが分かっていたなら,わたしたちは今日何をするでしょうか。何を告白するでしょうか。どのような習慣を断ち,どのような赦しの手を差し伸べるでしょうか。どのような儀式を求めるでしょうか。聖約を果たすために,さらにどのようなことをするでしょうか。その時にそうするのであれば,なぜ今しないのでしょう。備えのランプが消えかかっていたら,すぐに油を補充しましょう。

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※2021年8月号末日聖徒イエス・キリスト教会の機関誌リアホナの中から、ご紹介しました。
赤字は追加しています。