Shane (シェーン)-"The call of the far away hills"
今のテレビのコメンティターらの話を聞いていると、ずいぶん偏った意見がまかり通っていて、しかもそれがトレンドのごとく世論をリードしています。しかしよく見ると、それはテレビ界をはじめ日本のメディアの中だけの話であり、実際の世間を動かしているのは健全な日本的精神です。
アメリカのトランプ氏が共和党の代表者として確定したみたいです。彼の日本に対する見方は、もうこれ以上日本の面倒は見られないから、日本は独自に、自国の防衛はやってくれという、アメリカの本来の内向きな態度を示したということです。
日本のテレビのコメンティターのこれからの対応が見ものです。甘ったれた人任せの平和論が木っ端みじんに吹っ飛んだ感じです。その点でトランプ氏がアメリカの大統領になるということも、一概にダメとは言え無さそうです。
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【正論】 2016年5月5日付
「民主主義」に善悪のレッテル貼る傲慢さ
いま熟慮すべきことは何か?
日本大学教授・先崎彰容
幽霊の特徴のひとつに足がついていない、というものがある。足元は消えていて、地上からふわりと浮いている。姿全体がかすんで見えにくい。
この存在の危うさこそ、実は現在、私たちの周囲を囲繞(いじょう)している「民主主義」という言葉の特徴を示しているのではないか。
≪シュミットが与えた思想的影響≫
そもそも、第二次安倍晋三政権が誕生してからというもの、前回の衆院選後は特に、民主主義への懐疑がささやかれるようになった。その特徴は、これまで民主主義を擁護するように思われた人びとの中から、民主主義を批判する言葉が現れたことである。
たとえば、現行の選挙制度を運用する限り、どうやら安倍政権の「一強多弱」の状況を早々に覆すことはできそうにない。
なぜだ、なぜ自分たちの思惑どおりに、政権を選挙で倒せないのか。答えは2つ。第1に、選挙で投票する民衆たちが「大衆化」してしまったからだ。
彼らはその時々の風評に乗り、あるいは目先の経済成長ばかりを優先する愚民であり、時代を「的確」に-それは安倍政権を否定するという意味である-捉えることができない。
そして第2に、民主主義それ自身のなかに、実は独裁者を生みだす傾向があるからだ。最良の例が、ヒトラーを生み出した第一次大戦後のドイツ民主主義である。
彼らの2つの言い分は、おそらく安倍政権を独裁とみなし、それと民主主義は矛盾しないと言いたいものと思われる。現在の選挙制度を用いている限り、現政権を倒せない。それと同じ現象がドイツにあったという論理になろう。
思い出すのは、カール・シュミットのことである。法哲学者として、ヒトラーの知的参謀のような役割を果たしたこの人物は、日本の思想界にも甚大な影響を及ぼした。
丸山眞男は、自らの政治思想をつくりあげる際、常に彼のことを意識した。一世を風靡(ふうび)した論文「超国家主義の論理と心理」でシュミットの国家観を取りあげ、日本のそれと比較した。
≪安倍政権批判のための論理≫
また丸山の弟子である橋川文三は、自らの戦争体験を描く際、シュミットのロマン主義批判を参考にした。シュミットの著作を読む。すると、自分が戦前に経験した日本の文化と古典へのうなされるような情熱の根源をすっきりと理解できる。
だから貪(むさぼ)り読んだ。では日本の知的情熱を支えたシュミットとは一体、何者なのか。
シュミットは言っている。私たちは自由主義と民主主義を分けなくてはいけない。自由主義とは、議会制のことだ。議会では議員同士による自由で多様な討論が行われる。だから議会制=「自由」主義と呼ぶ。
確かに、多様性といえば聞こえはよいだろう。だが実際は何にも「決められない政治」ではないのか。多様性とは意見が分裂し、何も決定できないとも言えるからだ。
ところが民主主義は違う。民主主義の特徴は多様性ではない。民意をまとめ、皆が同じ意見になることだ。そのためには強力な指導者、つまり意見を集約する独裁者の登場が必要なのだ-シュミットはこう言っているのである。
大衆化した民衆が、拍手喝采して同じ意見になだれ込む。多様性をほうり出すことで、ヒトラーは劇的に登場してきたのだ。自由主義ではなく、民主主義によって。
だとすれば、この議論を握りしめ、現在のわが国政権を批判していることは、一目瞭然のはずだ。安倍政権を批判するために、民主主義という言葉をやすやすとほうり出し、あるいはシュミット流に読み替え、民主主義などよくないと言い募るわけだ。
≪善悪のレッテルを貼る傲慢さ≫
ところが今度は国会の周囲に眼を転じてみると、議事堂の前では議会制を無視した人びとが、我こそは「民主主義なり」と絶叫しているではないか。集団的自衛権をめぐって、一つの問題で意見が「同じ」人びとが議会の外で熱狂し、それを民主主義であると言っているのだ。
以上から言えることは何か。それは、私たち日本人が「民主主義」という言葉を、いかに状況にあわせ適当に使っているかということである。結局、自ら思うところの正義にかなっているときは民主主義=善、自分の思いどおりにならなければ、民主主義=悪として言葉を乱用しているのだ。
詳しい議論は、14日刊行の拙著『違和感の正体』(新潮新書)をご覧いただこう。現政権という一時的なものを否定したいからといって、先人が血の滲(にじ)む思いを込めてきた言葉「民主主義」に善悪のレッテルを貼るほど傲慢なことはない。
この国では、やはりどうみても民主主義は、幽霊のように存在が希薄で、浮足立ち、かすんでいるように思えてならないのである。本当は誰ひとり民主主義など、信じていないのだ。
むしろ今こそ、安易に民主主義を否定したり絶叫したりせずに、議会制について、大衆社会について熟慮すべきではないのか。私は地に足を、つけ続けたいと思う。日本大学教授・先崎彰容(せんざき あきなか)