「おおしたさん」のブログです

思っていることや考えていることを、気ままに書いています。

井の中の蛙と茹で蛙

2023年04月06日 | 考えていることとか思っていることとか





 

この本にある「願いを実現する努力もせずに嘆かない」は、鬱々としていた私を鼓舞してくれた言葉の一つだ。何かが欲しいにもかかわらず、買う努力やそのための行動は起こさない。そしてそれがいつの間にか、自分自身を今の状態にした人々への恨みに変わる。そうこうするうちに、励ましてくれる人やアドバイスをしてくれる人への怒りにも変わり、自分の惨めさに共感してくれるネットに埋没していく。そんな私に気持ちの整理のつけ方を加藤諦三先生の著書は教えてくれた。もしも先生の本に出会っていなければ、どんな人間になっていたかわからない。どこでどのような出会いがあるか、人生は本当によくわから現実を生きる事はとても大切な事だ。しかしネット社会に埋没し、想像の世界で生き始めると、それほど辛くないにもかかわらず「辛い」と思い込んでしまう事態が起きてしまう。そこに安住すると、頼み事を誰かにする前から「断れたらどうしよう」と思い、お願いができなくなる。そんなことはないのに、必ず断られてしまうだろうという錯覚、そんな人も現れてしまう世界。そしてどこの誰とも分からない、自分の思う通りに機嫌を取ってくれるネット住民にどっぷりはまり、井の中の蛙はその居心地の良さに沈んでいく。結果、茹で蛙とばかりにそこに慣れ、ネット社会に内在する危険を察知することができず、いつの間にかそこから這い上がれなくなってしまう。

目と耳だけでの情報はどうしても上辺だけのものになってしまう(視覚と聴覚)。人も動物、肌や匂いを通しての触れ合いが無いと、無意識の安心を刺激することができず、不安を鎮める事ができなくなる。そしてますます他人が羨ましくなり、嫉妬心に駆られていく。

実際に会う人は自分に都合の悪い話ばかりを言うかもしれない。でもその一歩を踏みだせば、実は自分が不安に思っていたことは、実はそれほど大変なことではなかった、と思うかもしれない。そしていつしかモデルとなる人が現れ、その人が私と同じ状況ならどうするだろうと考え始めるかもしれない。そして「井の中の蛙は大海を知らずに生きてきた。でも空の青さは知っている。」とばかりに、その世界にどっぷりとはまって得た事を、誰かのために役立てるかもしれない。フランクルの体験価値ではないが、あなたのその体験はあなたしか体験できなかったこと。その体験を誰も奪う事なんてできないということを、そしていつしか苦しい体験が誰かの生きる糧になるかもしれない。

私はどこで生きようとも幸せを感じる事ができる人間でありたい。アウシュビッツを生き延びたヴィクトール・フランクルはあの極限状況の中で、沈む夕日に涙する、そんな小さな事でも感動する気持ちさえあれば生きていけると言っていた(フランクル)。確かに毎日のちょっとした感動は生きる勇気を与えてくれるような気がする。そのためのリアルを少しでも意識したい。そして最高を目指し過ぎて思い通りに行かなかった人生を、最悪な事態にならなくてよかった、といった感じで、自分に課すハードルをできるだけ低くしたい。そのためのリアルな人付き合い、スーパーでもコンビニでもいいから、そこいらでの「こんにちは」から、軽い人付き合いをこなしていきたい。

いくらすばらしい技術があっても人は癒せない。人間的な触れ合いと愛の交流がなければ。
~ヴィクトール・フランクル~


小さい時に「見ることができても触れられないもの」に依存し過ぎると、他者と自分の区別がつかず自己形成が歪つになる。 

過酷な状況でどのようにして精神の平衡を保つのか?
人間の尊厳とは何か?
 
強制収容所の過酷な実態に読み進めることがかなり辛いです。
しかし読み終えた後に「生きる」ことを強く考えさせてくれる名著です。

「~すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。~」

「人生はわれわれに毎日毎時問いを提出し、われわれはその問に、詮索や口先ではなくて、正しい行為によって応答しなければならないのである。人生というのは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果たすこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことにほかならないのである。」

夜と霧 フランクル著作集1 霜山徳爾訳 P183



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