犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

「あるがまま」と「ないがまま」

2024-01-21 13:40:13 | 日記

 

初釜茶会では、床の間に「結び柳」が飾られていました。入門して最初に初釜茶会に参加したときには、なぜ柳の枝が床の間に、しかもこんな形で、と驚いたものでしたが、茶席と柳とは縁の深いものだということが次第に分かってきました。
たとえば茶席によく掛けられる言葉に「柳緑花紅(りゅうりょくかこう)」があります。北宋の詩人、蘇軾は「柳がみずみずしい緑の葉におおわれ、花は紅く咲いている」という、ただそれだけの事象を、そのままに受け入れるのだと詠いました。

「あるがまま」を受け入れようという蘇軾の詩は、政治に翻弄されて、役人としては不遇な生涯を送った蘇軾の境遇に鑑みると、その切実さを感じるところです。しかし、柳は緑、花は紅という、それだけの事実に触れて「あるがまま」を受け入れたとしても、あるがままの現実は矛盾に満ちています。矛盾を「込み」で受け入れようとしても難しいでしょう。

玄侑宗久が著書『ないがままで生きる』(SB新書)で面白いことを書いています。人生論には大きく分けて2種類ある、「あるがまま派」と「ノウハウ派」なのだと。
「あるがまま派」は怠惰に陥る可能性があるけれども、自己肯定感が強いから明るく、活発になりやすい。一方「ノウハウ派」は、まじめで立派だが、光がないといった印象をもたれやすい、というそれぞれ一長一短があります。

前者の「あるがまま派」は蘇軾の「柳緑花紅」の姿勢と言えるでしょう。
しかし、これでは、何を積極的に肯定すべきなのか、迷いが深まって自縄自縛に陥ってしまいます。そこで、勢い「ノウハウ派」に軸足を移そうともするので、振り子のようにゆらゆらと腰の落ち着かないことになってしまう。こう玄侑さんは述べます。

それならば、いっそのこと「ないがまま」で開き直って、その場で新たに自己を立ち上げるしかない立場に立ってみてはどうだろうか、というのが玄侑さんの提案です。あらかじめの自己イメージを捨てたところから、その時その場の自己を立ち上げる。そうすれば、結局のところ怠惰にも陥らず、ノウハウにも逃げない、程よい立ち位置に収まるのではなかろうか、と。

それでは「ないがまま」の立ち位置とはどういうものでしょうか。
芭蕉の晩年の句に、次のようなものがあります。

よく見れば薺(なずな)花咲く垣根かな

「よく見る」ことによってようやく気づく密やかな美の境地です。そして芭蕉をして「よく見る」ことをさせたのは、なずなの花の醸し出す枯淡な風情、言い方を換えれば、盛りを過ぎた芭蕉自身の「喪失体験」を重ね合わせることができる対象だったからだと、玄侑さんは指摘します。
「ないがまま」の立ち位置から、なずなの美、なずなと自らの関係を立ち上げる姿。ここには単なる自己肯定にとどまることのない、しなやかな姿を見ることができます。


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