犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

『目的への抵抗』を読む

2023-04-22 23:07:17 | 日記

だいぶ前に読んだ、玄侑宗久さんの著書『禅語遊心』(ちくま文庫)に、こんな話が載っていました。

セメントを作るため、砂利を一輪車で運んでいる人に向かって、代わってあげようと言えば、その人は喜んで受け入れるかもしれない。しかし、砂場で一心に砂遊びに興じている子どもに、大変だろうから代わってあげようと言っても、無視されるだけだろう。
会社の仕事の基本形というものは、前者の作業と同じではないか。つまり入れ替えがきくことが、会社において層の厚みになっており、どの社員も「かけがえのない」人ではないのだ。しかし、それだけにとどまるならば、悲しすぎる。我々は入れ替え可能な役割を引き受けつつ、「遊び」の心によってその仕事を賦活させなければならない。

多少違っているかもしれませんが、そんな内容だったと思います。

國分功一郎さんの近著『目的への抵抗』(新潮新書)を読んで、真っ先に思い至ったのが、この玄侑さんの話です。我々の行動の全ては、いつのまにか何らかの「目的」のための手段になり下がっていて、知らないうちに窮屈な生を生きている。この目的と手段の関係から逃れる言葉が「遊び」なのだと、國分さんは言います。
『目的への抵抗』は、高校生、大学生を対象にした講演会の語りを起こしたもので読みやすく、読後の印象も清々しいので、一読をお勧めします。

上記の論点からはずれてしまいますが、私が同書の中で深く感銘を受けたのは、聴衆である学生達に向けて語ったイントロ部分でした。少し長くなりますが、引用させて頂きます。

僕がよく学生に言っているのは、とりあえずまずは目の前にある短期的な課題に一生懸命に取り組みなさいということです。(…)
その上で、自分の人生においてものすごく遠くにあること、将来についてのものすごく漠然としたことを、何となくでいいので考えておいたらいい。(…)
つまり、ものすごく近くにある課題とものすごく遠くにある関心事の両方を大事にする。なぜこんな話をするのかというと、その間にある中間的な領域のことはなかなか思い通りにならないんですね。どんな大学に行きたいとか、どんな会社に行きたいとか、そういったことはなかなか思い通りにはなりません。ですからそこに目標を置いてしまうととても苦しいことになる。(…)
短期的な課題を一つ一つこなしていくと、課題で求められていたこと以上の何かが身につきます。人の話の聞き方だったり、自分の特性についての理解だったり(…)短期的な課題はたくさんのことを教えてくれる。その上で、遠くにある自分にとっての大切なことをボンヤリとでも思い描いていたら、人生におけるブレを不必要に大きくしないで済むように思います。先ほど言った、中間的な領域での思い通りにならないことによって必要以上に振り回されずに済む。(20-21頁)

これは若い人にだけ当てはまる言葉ではないと思います。私がお会いする優れた経営者の多くは、遥か遠くの理念を追うと同時に、短期的な課題にも決して手を抜きません。そして、いつお会いしても同じ態度で接してくださる。それは「中間的な領域」のことに一喜一憂しないからなのでしょう。
そして、その人たちの多くはまた、場を和ませるような「遊び」の雰囲気を醸し出しているように思います。


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