犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

咲き定まる花

2023-04-09 16:18:30 | 日記

茶道の稽古場の床の間には、薄桃色の牡丹が活けてありました。木曜の稽古の時には蕾だったものが、週末には大輪の花になったのだそうです。
この時期、この立派な花を見ると、必ず思い浮かぶ歌があります。

牡丹花は咲き定まりて静かなり はなの占めたる位置の確かさ
(木下利玄『一路』)

四方に大きく広がる花弁は、周りの空気をも震わせているようで、その位置の確かさは侵し難いものです。少し前に、命懸けで生に向き合おうとする茶の花のことや、静かに震える薔薇の花のことを書きましたが、そのいずれの姿とも違う、圧倒的な存在感です。
こうやって、揺らぐことのない大輪の花を、人も咲かせることができるだろうかと思いました。主義主張は人の借り物で済ませることができるかもしれませんが、そうではない、もっと確かなもの。

前回ご紹介した、坂本龍一さんと福岡伸一さんの対談集『音楽と生命』のなかで、坂本さんが9・11のあと、線形でない音楽を求めるようになったと述べていました。
世界はおのずから民主化されて、より自由になって行くという意味での、直線的な考え方から離れることを指しているのではないでしょうか。それで坂本さんがシニシズムに引きこもったのではなく、むしろ愚直なほどに社会活動に取り組んでいました。私は、坂本さんの心に「咲き定まる」花が咲いたのではないかと思います。

こんな話も思い出しました。
鶴見俊輔さんがバタヴィアの海軍事務所にいたとき、捕虜が病気になって与える薬も乏しいので、殺してしまえという話になりました。鶴見さんの隣室の同僚に命令が下り、捕虜に毒薬を与えて墓地の穴に放り込みました。ずっと生きているといけないと思い、その人は被せた砂の上からピストルを撃ち込んだのだそうです。鶴見さんはこのことがあって、もし自分に命令が下っていたらどうしただろうと、戦後ずっと考え続けました。
戦後十年くらい経って、ようやく結論を得たと鶴見さんは言います。「俺は人を殺した。人を殺すのはよくない」と、ひと息でいえるような人間になりたいと思った、と。
私はこの言葉にも「咲き定まる花」を見るような思いがします。

自分は弱い存在で、いつ利害得失に流されるような行動をとってしまうかもしれない。そう思うからこそ、将来の弱い自分に向けて、強い命令を発する自分がいるのだと思います。そうやって咲き定まった花を心に抱いていることで、外からのどのような命令にも屈しない自分を保てるのではないでしょうか。
そうだとすると「自由」とは、目先の利益に釣られて勝手気ままに振る舞うことではなく、咲き定まる花を心に抱くことではないかと思います。

咲き定まる牡丹の花を見て、坂本さんの晩年の活動を思い起こし、そんなことを考えました。

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