犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

名将たちの戦後

2022-05-23 23:35:58 | 日記

「どんこ舟」の行く岸辺に菖蒲の咲き誇る様子が、テレビで放送されていました。柳川の川下りの終点は料亭「御花」です。
もともと柳川藩主立花家の別邸であった屋敷は、維新後に立花家が伯爵家となって洋館を増築し、現在のかたちに整えられたものです。戦後に料亭旅館として生まれ変わった後も、立花家の文化を伝える重要な資料になっています。私にとっては、部下の結婚式で祝辞を述べたこともあって「御花」は特別な場所でもあります。

柳川藩の藩祖 立花宗茂は古今無双の勇将と称えられながら、関ヶ原の戦いで西軍についたため、改易され浪人を余儀なくされます。その後、多くの大名の仕官の道を断って軍歴を重ね、旧領に藩主として返り咲いた唯一の例になりました。

立花家16代の立花和雄さんは、15代鑑徳さんの次女文子さんと結婚し、婿養子として立花家を継いだ人です。和雄さんの実父は日露戦争で、連合艦隊司令長官東郷平八郎のもと、参謀長を務めた島村速雄です。葉室麟のエッセイ集『曙光を旅する』(朝日新聞社)で知りました。バルチック艦隊が日本海コースをとるか太平洋に回るかで判断に迷ったとき、島村の意見を東郷が採用して対馬海峡で迎え撃ち、大勝を導いた功労者です。

島村はオランダのハーグで開かれた第2回万国平和会議に秋山好古とともに出席中、和雄さんの出生を知ります。すでに家族がつけていた「和雄」という名前を聞いて「平和」の「和」の字が入っていたことを、ことのほか喜んだのだそうです。日露戦争の名将は平和を強く望む人でもありました。
小学生の和雄さんが、海軍軍令部長の職にあった父の部長室を訪ねていったことがあります。島村は2人の客に対して烈火のごとく怒っていました。
その時の様子を葉室麟は次のように書いています。

客は特殊潜航艇の設計図らしきものを持ってきていた。島村は真っ赤な顔をして怒気をみなぎらせ、「こんなものを乗せていたら士気に影響する。武器じゃないッ。こんなもの」と言って、手にしていた図面を机の上にたたきつけた。
後の太平洋戦争で使われた特殊兵器「人間魚雷」の原型のようなものだったようだ。(前掲書92頁)

名将であり、戦後処理と平和の維持に情熱を傾けた人ということでは、島村速雄は立花宗茂に通じるところがあります。
「たとえ軍事衝突が起きても、いかに終結させ、平和を構築するかを考えない安全保障の議論は無意味だろう」と葉室は述べており、この指摘は、とりわけ今の時期には重く響きます。このビジョンの欠如が、敵の殲滅だけを目的とした兵器、軍略を生み出すのです。マリウポリの製鉄所を焼き尽くす、白リン弾とも言われる地獄の火は、まさに将来のビジョンを失い、正気を無くすことの恐ろしさを表しています。

ところで、大河ドラマの主人公に立花宗茂を推そうという運動が毎年のように福岡にはあって、たくさんの「のぼり旗」が藩祖ゆかりの地、福岡市の「立花山」近辺にはためいています。私も、毎年期待を裏切られながら、心待ちにしているひとりです。


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