『論語』に「下学して上達す」とあります。
ふつう、しっかりと基礎的なところから研鑽を積めば、高遠な学理に到達するという風に解釈されます。それはそれなりに噛み締めるべき言葉なのかもしれないと思うのですが、孔子はわざわざそんなつまらないことを言おうとしたのかと、常々思っていました。
話は少し逸れますが、普段若い人たちと接していて感じるのは、一様に真面目でおとなしいという印象です。終身雇用制も崩壊するなか、長い老後をひかえて生き延びるためには、手に職をつけなければならないというのが、共通認識なのではないかと思います。私のなりわいによる偏りなのかもしれませんが、資格取得に追われて気の毒な気持ちにもなります。
と同時に、私が若い頃に浸り切った読書体験というものが、彼らにはほぼ無いということを知ると愕然とします。
数年前『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』という本がベストセラーになったとき、とても複雑な思いをしました。こんなふうに、消費者のニーズにものごとを置き直して考える高校生がいたら、とても嫌だろうと思いました。消費者とはなり得ない他人に出会ったとき、彼らはどう考えるのだろう。おとなしい若者たちが、こういう考え方に手もなく感化されるのならば、根深い問題をはらんでいるのではないかとも考えました。
冒頭の論語の言葉のなかの「上達」は、ものごとに上達するという意味とは、だいぶ違う意味があるのではないか。孔子は「君子は上達す、小人は下達す」とも述べています。とすれば、人間は「下達」というものに容易に陥りやすいことでもあり、それは「上達しない」ということよりも、もっとたちの悪い何かです。こんなことをずっと考えていたら、前田英樹が著書『定本 小林秀雄』(河出書房新社)のなかで、鮮やかに解き明かしてくれていました。前田は孔子が「下学」を重んじるならば、否定すべき「上学」を想定していたはずだ、というところから話を始めます。
一年で千冊本を読むという人は、嘘をついているに決まっている。なぜ、多くの物知りがその種の嘘をつくかというと、〈上学〉の可能性を何とはなしに信じ込んでいるからである。わが身を離れた情報の収集だか、整理だか、あるいは研究だかを有効なものと信じている。なるほど、有効な場合もあるにはあるだろう。人を出し抜いて、誰かの思惑の裏をかき、まんまと利得にあずかる、という場合は、みなそうである。孔子は、そういうものを決して君子の学問とは認めなかった。君子の学問は、己のために為されるので、束の間の利を得んがために、まして人を見下すために為されるのではない。
「君子は上達す、小人は下達す」とも孔子は言っている。「下達」とは、つまらぬ事情にむやみに精通することなのだが、小人の学問は、この「下達」からなかなかに逃れがたい。なぜかと言えば、彼の学問は、まず〈上学〉への軽信に赴くことを常とするからだ。身を離れた空想、とほうもない計算、理の上に際限なく積み重ねられる理、そうしたものの権勢に手もなくしてやられる。その先にあるものは、「下達」しかないということである。(前掲書 294-295頁)
「身を離れた空想」とは逆のものとは、いまじぶんがここに生きていることの事実に、どうしてもこだわらざるを得ない態度だと思います。それが若いころの渇くような読書体験となっていました。
手に職を付けなければ生きていけない、というのもまた若者たちの渇くような実感だと思います。そうだとするならば、いま大人が自分たちの若い頃のことを話してあげるべきではないかと考えます。決して自慢げにではなく、そのときの苦しみを話してあげる責任があるのだと思います。