仕事のうえで思うにまかせぬことが続くと、ついつい気持ちが塞ぎがちになります。毎日うち続く容赦ない暑さにさらされるとなおのことです。
こんなときには、私は次のように考えるようにしています。
苦しみが原因で、気持ちが塞いだり、意気阻喪したりするのではなく、塞いだり、意気阻喪してしまう身体の状態を指して「苦しみ」と勝手に名付けているのだと。そして、自分はその身体の状態に身をまかせているのであって、けっして自分の心に正直なふるまいではないのだ、と。
そんなことを思いながら、若松英輔さんの著書『光であることば』(小学館)を読んでいて、『荀子』宥坐篇の言葉が引かれていたのに出会いました。まさに我が意を得た思いです。
君子の学は通ずるが為めに非ず。窮するとも困(くるし)まず、憂うるとも意の衰えず、禍福終始を知りて心の惑わざるが為めなり
若松さんの本にも意訳したものが記されていますが、私なりに次のように意訳してみました。
—学びは富貴栄達のためにあるのではない。困難にあって己を見失わず、試練のなかで意気阻喪することもなく、哀しみ苦しみがうち続く人生であっても、やはり生きるに値することを、心の底から知ることが、学ぶことの本義だ—と。
これを読むひとは、最初のフレーズの「君子の学は」の主語のところを忘れて、次のフレーズ「窮するとも~為めなり」のところに、しばし身につまされるものを感じるのではないでしょうか。我々は、容易に己を見失い、意気阻喪し、生きる意味を喪失しているのですから。
しかし、このようなだらしない姿が、「学ぶ」ことによって克服されるのだとすると、「学び」の力について改めて思いを致さざるを得ない。荀子の言葉はそのような仕掛けになっているのだと思います。
放っておくと、外から強いられた刺激によって、人は混沌の状態に引きずられ目まいを起こします。己を見失い、意気阻喪し、生きる意味を喪失するのは、この眠りこけた状態にほかなりません。そして「学ぶ」ということは、この状態から目覚めさせ、起き上がらせることなのだと思います。
ここで言う「学ぶ」とは、思想や学理を身につけることではなく、何かによって「考えさせられる」ことなく、みずから考えることをやめないよう修錬することだ、そのように理解すると腑に落ちるのではないでしょうか。
むろん、私にそれをやり遂げられていると語るつもりもなく、あまりにもたやすく塞ぎの虫にとりつかれ、意気阻喪してしまう情けなさから、このようにありたいと痛感しているのが正直なところなのです。