お茶の稽古の途中で女郎花が群生しているのを見かけました。
秋の七草にも数えられ、黄色い小さな花が可憐なので、茶花に格好のようにも見えますが、この花はお茶の世界では、かつて「禁花」とされていました。「女郎花」という名前がよくないというのがその理由だそうです。
万葉集に詠まれるおみなえしの歌は、いずれも好きな女性にたとえたもので、「女郎(おみな)」とはもともと「美しい女性」を意味していたものだそうです。万葉集のなかの「おみな」には「佳人」や「美人」の漢字が当てられていたことからも、もともとの語のニュアンスが理解できます。少し時代が下って、平安時代には「高貴な女性」を指していたといいます。
「遊女」の意味で使われるようになったのは、江戸時代になってからのことで、そうしてみると、この花は語の意味が変わることで大変な迷惑を被ったことになります。
良寛さんの歌に次のようなものがあります。
秋の野を我がわけ来れば朝霧にぬれつつ立てりをみなへしの花
朝早く秋の山をひとりで越えてくると、その道の辺で朝霧に濡れたままに、おみなえしの花が咲いていた、と良寛さんは詠みます。
良寛さんといえば、四十歳も歳の離れた「貞心尼」との交流が知られています。武家の出でありながら、夫婦関係がうまくいかず、実家に帰って出家したのが貞心二十三歳のことです。
七年間の修行の後も心が落ち着かない彼女は、良寛に会ってはじめて心を開く相手と巡り合ったように思うのでした。
ふたりの間には詩や歌を詠んだ書簡が残っていて、年の離れた恋人同士のように語られることもあります。良寛七十歳の時から七十四歳で亡くなるまでのあいだ交流は続き、良寛の枯淡な生涯が、とつぜんに華やぎに満ちたものに変わります。
前掲の歌に出てくる「をみなへしの花」に貞心尼の姿が重なります。良寛が貞心尼に会ったのも、おみなえしの咲く秋のことでした。貞心尼は非常に美貌の人と伝えられますが、この歌のおみなえしは、万葉の昔のように美しい人を意味するのではなく、どこか内向的でいて強い思いを持つ、この花の姿をそのまま体現する人を、指しているように思います。