大濠公園に散歩に出かけると、池に浮かぶ夥しい数の鳥に驚かされます。
留鳥のアオサギやマガモに混じって、ユリカモメやホシハジロなどの渡鳥が、池を覆いつくすのです。石橋の欄干の柱にユリカモメが一羽ずつ行儀よく並んでいる姿は、ユーモラスでもあります。
人はみな馴れぬ歳を生きているユリカモメ飛ぶまるき曇天
(永田紅 『日輪』)
この歌は作者が二十歳のときの作なのだそうです。
双子の娘たちもいま二十歳。彼女らも馴れぬ歳を生きているのだろうか、と考えます。この子たちが成人するときには、自分はもう六十三歳になっていて、ちゃんと生きて働いているだろうか、と子どもたちが小さい頃には思っていました。
実際にその歳になってみると「やっとここまで」という達成感も、「まだまだこれから」という意気込みも湧いてきません。「馴れぬ歳を生きている」のは、去年やおととしとまったく変わらないのです。
ところで、「馴れぬ歳」という感慨は、自分の歳としっくり折り合いをつけているような自分を想定して、それとは程遠い自分があるから、生じるものではないでしょうか。だとすれば、折り合いのつかない自分が、いずれ見出すはずの解答のようなものとして「折り合いをつけた自分」をどこかで夢想しているのだと思います。折り合いのつかない現在によって、無限に繰り延べられる解答が置かれるのです。
『医者、井戸を掘る』(石風社 2001年)のなかで、滅多に弱音を吐くことのない中村哲医師が、珍しく「ただ訳もなく哀しかった」と述懐している箇所があります。
砲声の中、村人は黙々と作業に励み、ポンプが水を吐き出すたびに、鍋やバケツを手にした女子供が水場に群がる。中にはロバの背に革の水袋を載せた少年の姿がある。向こうの村から何時間もかけて歩いてきたという。
私はただ訳もなく哀しかった。「終末」。確かに、そう感じさせるものがあった。ふと時計を見ると、9月15日、アフガン時間午後12時45分、私の誕生日である。五十四歳にもなって、こんなところでウロウロしている自分は何者だ。ままよ、バカはバカなりの生き方があろうて。終わりの時こそ、人間の真価が試されるんだ、そう思った。(『医者、井戸を掘る』32頁)
五十四歳になった自分と「終末」を思わせる現状との折り合いが、どうしてもつかないことを、中村医師は「訳もなく哀しい」と述懐したのだと思います。それは、みずからの志と現在の自分、そして現在の世界との折り合いのつかなさ、に対するものでもあったのではないでしょうか。
馴れぬ歳を生きることは、決して心地よいものではないと思います。そして場合によっては「哀しい」ものであるのかもしれないけれど、それはひとをジタバタと突き動かす力になりうるのではないか。
そう考えると「折り合いのつかない現在」が、とても愛おしいものに思えるのです。