goo blog サービス終了のお知らせ 

犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

あかあかと冴え

2025-09-08 22:01:55 | 日記

未明の空に、三年ぶりの皆既月食が訪れていました。さすがに起きて待つ気力はありませんでしたが、ニュース映像のなかで赤銅色に染まる月を幾度も目にしました。

赤い月といえば、斎藤茂吉の歌があります。

わがこころいつしか和みあかあかと冴えたり月ののぼるるを見たり

この「あかあかと冴える月」を月食の月とみる説もありますが、私は、地平線から姿を現すときの月の「赤」を詠んだものだと感じています。

かつて多摩丘陵の近くに住んでいたころ、武蔵野の地平線から登る月の赤さと大きさに驚かされたことがありました。大気の層の厚い地平線近くでは、波長の長い赤い光だけが私たちに届くという、自然の仕組みを知ったのもそのときでした。
天上高く白々と輝く月は、どこか近寄りがたい遠さを帯びていますが、いままさに登ろうとする赤い月には、茂吉の歌にあるように、不思議と心を和ませる力があります。

一方、今回の皆既月食は西の低い位置で観測されたそうです。月食の赤銅色は、大気の層を経て、いっそう深い赤に沈んでいたのではないでしょうか。

役者が舞台にせり上がる瞬間は、観客の心をつかみ、物語の始まりを告げる重要な場面だといいます。茂吉の詠んだ「あかあかと冴えた月」もまた、奈落から登場する役者のように、これからの展開を期待させる赤でした。
そして一方で、役者が舞台を下がることを「はける」と呼びます。未明の空に現れた赤銅色の月は、夜の舞台に余韻を残しながら、ゆるやかに「はけて」いったのだと思います。

月を役者に見立てる想像力は、月とともに歩んできたわが国の文化の一端でもあります。早く出ないかと待ち望んだり、もう少し余韻を楽しみたいと願ったり、そんな心の揺れが、夜空の月をいっそう身近な存在にしてきたのかもしれません。

ブログの移転先です


この記事についてブログを書く
« 藤袴の花 | トップ | 見立てる力 »

日記」カテゴリの最新記事