永田和宏の近著『人生後半にこそ読みたい秀歌』を読んでいます。
人生百年と言われて久しいですが、老化を病と捉え、うまく治療することで、健康寿命もまだまだ延ばしていくことが可能だ、という研究もあるのだそうです。
こうやってヒトにのみ与えられた生殖期以降の生がどんどん延長され、人類史上の新しい経験や課題を、おのがじし切り開いていかねばならない。歌人たちが、この人生後半をどう捉え、どう歌に詠んだかを、あたたかな眼差しで切り取った一冊です。
老いや病と向き合う歌、親の死、伴侶の死に向き合わざるを得ない歌など、どの歌も重たいものですが、それを受け入れて、ともあれ生きていこうという姿勢は、どこか吹っ切れた爽やかささえ感じます。
その中で、しばらく心にとどまって離れないのが、次の一首です。
今しばし死までの時間あるごとく
この世にあはれ花の咲く駅
(小中英之『翼鏡』)
若くして病をかかえ、命の限界を常に意識せざるを得なかった作者が、小さな駅に咲く花と、みずからに残された時間とを、重ねあわせる歌です。
先月は列車による移動が多かったので、無人駅に花が咲いていて、溢れるほどの日差しに照らされている景色をいくつかみました。
こういう目の醒めるような経験も、列車が過ぎれば車窓は新しい景色にとって変わられます。人生の時々の感動は、車窓に一瞬現れた無人駅に咲く花のようなものだ、とも思いました。
こんな感動があった、まだ残された時間はあるのだ、というこの歌の響きは、しかし決して暗いものではありません。むしろ残された時間の感覚とともに、この一瞬の景が切り取られることで、駅に咲く花に永遠の命が注がれたように思います。
限りがあればこそ、無人駅の花が車窓に現れることを、かけがえのないものとして、捉え直すことができます。人生の残された時間という感覚は、見るものに永遠の命を与える力があるのではないか、そう思いました。