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犀のように歩め

この言葉は鶴見俊輔さんに教えられました。自分の角を道標とする犀のように自分自身に対して灯火となれ、という意味です。

アスリートたちはなぜ

2022-02-15 23:06:47 | 日記

オリンピックの時期になるとつくづく思うことは、アスリート達はなぜあれほどの重圧を、敢えて背負うのだろうということです。競技の一瞬にたった一人で夥しい数の注目を集め、自分の体も心もそれに応えるように強いられます。期待に応えられなかったときの悔しさや失望感も、一人で引き受けなければなりません。
その道の第一人者として認められる栄光はあるとしても、あまりにも過酷な重荷ではないかと思います。普通の人の人生では、おそらく一度も背負うこともない重圧でしょう。
だからと言って、それが不当な圧力だなどというつもりはありません。応援することしかできない人間として、彼らが重荷を背負ってでも何事かを成し遂げようとすることで、自分が何を受け取ることができるか、ということに思いを致したいのです。
これほど多くの人が、まるで自分のことのように、たった一瞬のパフォーマンスを見守る機会はないと思います。ちょうど、自分自身が檜舞台に立っているようにのめり込んでしまいます。

たとえば、こんな話があります。

河合隼雄のエッセイに、子ども劇場の主催者の話として、子ども達がクライマックスに達するのを妨げるように、ヤジを飛ばしたり騒いだりするのを嘆いているものがありました。我を忘れてものごとに没入することは実は恐ろしいことで、「自分を投げ出しても大丈夫」と受け止めてもらえる経験がないと、難しいことなのだと河合は述べます。とりわけ最近の子どもたちは、それでも大丈夫と受け止めてもらう機会が少ないために、ますます難しくなっているのではないかと。

オリンピックは、この得難い「我を忘れて」アスリートに見入る機会だと思います。そして、我を忘れて競技に没入する経験は、アスリートと自分を「同一視」する経験でもあります。競技への期待に始まり、成功や失敗の瞬間を目撃し、結果を受け止めるまでの、どうしようもなく重たい時間を共有しているために、我を忘れて同一視することになるのだと思います。

河合隼雄は別の本のなかで次のように述べています。

読者の皆さんも、子供だったころを思い出していただくと、先輩や教師、タレントなど、あるいは親戚の誰かなどを同一視の対象として選び、一生懸命になったことを思い出されるのに違いない。この経験をもたないと、人生に対して傍観者的になり、何となくシラーッとしてくる。(『こころとお話のゆくえ』河出文庫 45頁)

誰かに同一視し没入することの大切さと、それを体験できないことのさびしさを河合はここで強調するのです。

スキージャンプ混合団体の高梨沙羅選手の、2回目のジャンプに感動した人は沢山いたことと思います。誰の心のなかにも嵐が吹きすさんでいるのだと私は思っていますが、あれほど大きな暴風雨に心がさらされることは、本当にまれなことだと思います。それをものともせず心身を整えて結果を出すことは、誰にも想像ができなかったに違いありません。
少なくとも私にとっては、まったく新しいロールモデルであり、今後どれほど力づけられるか、計り知れないパフォーマンスでした。

困難に直面しても投げ出さず、持てる力をすべて出し切る。言うは易く行うは難しい道も「あの姿」をなぞることで実現される。普通の人生では背負うことのない重荷を選手たちが背負うことで、私たちは同一視すべきものを手に入れることができるのだと思います。