哲学者の鶴見俊輔さんは、アメリカ留学中の19歳のとき、捕虜収容所で「日本への交換船に乗るか、乗らないか」の決断を迫られました。鶴見さんは、戦争で日本が負けることはわかっているが「負けるときには負ける側にいたい」と思い、交換船に乗る決断をします。
バタヴィアの海軍事務所で、短波ラジオの英語放送を聞いて、それを新聞記事にまとめる仕事を続けていた鶴見さんは、その後、彼を悩ませ続ける「問い」に遭遇します。
第二〇水雷戦隊がインド洋でオーストラリアの貨物船をつかまえてしまった。それには女やポルトガル領ゴアの黒人がいた。その黒人がバタヴィアにきて病気になった。軍医は日本の兵隊にやる薬も乏しいのだから、薬はやれないといって、代わりに毒薬をくれた。隣室の人が命令を受けて、彼に薬をやったら、病院に入れてくれると思って拝んでいたそうだ。いやだと言っていたね。彼を運んで墓地に行くと、もう墓が掘ってあって、その中に放り込んだ。まだ生きているのにその上に砂をかけて、ずっと生きているといけないと思ってピストルを撃ち込んで帰ってきた。いやだったと言っていた。
もし垂直に私に命令が来たら、私はどうなったかというのは架空の問題だ。(中略)いまの状態で垂直に私に命令が下ったら、自分はどうしたかという問題が自分のなかで吹っ切れないんだ。戦後ずっとその問題を考え続けた。(『かくれ佛教』 鶴見俊輔著 ダイヤモンド社 2010年)
「人を殺してはいけない」という倫理規則は、それ自体としては行為の基準にはなりません。「人を殺さないことを、行為の目安として、生きるべし」とは何も述べていないに等しいでしょう。みずからが殺すことを望まないにもかかわらず、命令によって殺さざるを得ないとき、ひとはどう身を処すべきなのか。
隣室の兵士ではなく、自分がその命令を下されていたのかもしれないのですから、切実な問題です。鶴見さんは次のように語ります。
戦後十年くらいたって、私は解決を得た。「俺は人を殺した。人を殺すのはよくない」と、ひと息でいえるような人間になりたいと思った。戦後に私の会った本多立太郎はそういう人だ。いまは罰せられない。しかし、罰せられないからこそ、隠したまま墓に入っていくのはよくない。はっきりそれを言える人間になりたい。それが私にとっては自分に課する道徳の最大限、最上限なんだ。(前掲書)
実際には人を殺していない自分が、もし殺さざるを得ない立場だったら、という問いを立てて、それでも殺すことの是非を答えとするのではなく、戦争体験の語り部となった、「そのひとのようになりたい」というのが戦後十年目の答えでした。
「俺は人を殺した」と「人を殺すのはよくない」との間に、ためらいのない「ひと息」で言いきれる態度は、具体的な生きる姿勢です。そのような具体的な姿を措いて、空論を展開することは救いにはなりえなかった。鶴見さんにとって、殺してしまった「その後」の姿にしか規範となる姿勢を見いだせなかった、と私は解釈しています。