心が何かに支配されていると、または
自分自身を神様以外の何かに、捧げてしまっていると
生きているのが、つらーくなる、
というところで先週は終わりました。
こんにちは ファーティマ松本です。
イブラヒームという名前の預言者さん(平安あれ)が神様にこうお願いしました。
『復活させられる日に、私の面目を失わせないでください。
その日には、財産も息子たちも役にはたちません。
ただ汚れのない心を、アッラーに捧げる者だけは別ですが。』
(クルアーン26:87~89)
復活の日というのは、最後の審判の日のことをさします。
このことについては、いつか詳しく書くつもりですが、
今日は簡単に「天国に行くか、地獄に行くか」を決められる日、としておきましょう。
その日は、どんなに現世でお金持ちであっても、どんなに子供の数が多くても
そーんなことは全くなーんの役にも立たないんだそうです。
「じゃあ、何が役に立つんじゃい?」
と、なりますよね。
答えは、
「汚れのない心をアッラーに捧げる者だけ」がなんとかなる、
らしいです。
汚れのない心とは、一体どんなこころなのでしょうか。
これは、先週お話しましたように
「自分自身の心を、アッラー以外の何かに捧げてしまっていない心の事」なんです。
つまり、
「アッラーにだけ自分自信を捧げ(託し)、アッラーが定めた決まりのみに服従する」と
確固に思っている心の事ですね。
それが汚れのない心です。
そのような心を持っている人だけが、復活の日にはなんとかなる!! みたいですよ。
しかし残念ながら、イスラム教徒の中には、「アッラー以外に神はなし」と口で言ってはいながらも
実際の頭の中、イヤ 心の中が、アッラー以外の何かによって支配されているというのは、よーーくあります。
たとえ決められた礼拝や断食、巡礼など あらゆる宗教的行いをしていたとしても、
このような人たちは、イスラム教の基本中の基本部分である土台がなっていないのです。
土台って、何事に於いても大事ですね。
皆さんは、土台が非常に不安定な橋や道を、歩くことができますか?
できるかもしれませんが、とっても危ないと思います。
ということで(!?)
今週は来世で、天国に招待してもらえるかどうか ではなく、
今現在生きている”この世” ”現世” において
”汚れた心”を持っているとどうなるのか、について考えてみたいと思います。
メインポイントは「現世、この世」です!
さて、先週も書きましたように、
ある人にとっては「人気があること、知名度が高いこと」などが人生で最も大事なことのようです。
またある人にとっては「お金があること」が何よりも重要なこと、かもしれません。
他にも「いつまでも若くキレイでいること」が何しろ大切、と思っている人もいるでしょう。
そして周りの人からどう思われているか、ということを非常に気にしながら生きている人達も多いですね。
それから「ある特定の人(例えば彼氏や彼女)の気持ちが常にこっちを見ていてくれること」が何よりも
何よりも大事だ!と思いながら生きている人も、かなりいることでしょう。
常に考えていること、思っていること、それが自分の生活(人生)で一番大事なものである、はずです。
そして”それ”が自分にとっての”主(あるじ)”で、自分はそのために何でもやる”僕(しもべ)”になっています。
残念なことに
人々が、常に考えていること(つまりその人にとっての主)というのは、
全てが全て(ぜーんぶが)一過性のものばかりです。
つまり、仮のものばかりなんです。
変わりやすく、不安定で、いつなくなるかわからないもの、
ある意味、とてつもなく”弱~い”存在のものばかりです。
このような変わりやすいもの、安定していないもの、一過性のもの、弱いもの
そういった物や人に、心が支配されていて(またはそれらを主と崇めていて)
心は安泰でいられるでしょうか?
心が落ち着くでしょうか?
『自分の心の支えになるようなものが不安定なものなのに、心が安定でいられるわけありません。』
そう!
汚れた心を持つことの(現世での)代償は、不安、心配、恐れ、といったネガティブな感情と付き合っていかねばならないこと。
それに反し、汚れのない心の持ち主はちょっと違うようです。
『そして主を信じる者には、恐れもなく、損なう事もなく、不正にあうこともない』
(クルアーン72-13)
ただ、ここで重要なのは、
人々が自分自身を託してしまっている”対象物”そのものが悪いのではない、ということですね。
例えば
「お金があれば幸せになれる、何でもできる、何でも手に入る、人の心だって買えるんだ。」
と思っている人たちは、「お金さえあれば、、、」と、いろいろなことに手を出します。
実際、お金があるのはとってもいいことです!
欲しいものは何でも手に入ります。行きたい所へもいつだって行けます。食べたいものもお腹いっぱい食べられるでしょう。
お金を使って人を助ける事もできます。
でも、、、、、
お金が全く役に立たない時だって、、
、、あるわけです。
例えば、雪山で遭難したとしましょうか。
ゴールドクレジットカードを持っていたとしても、それは多分何の役にも立たないでしょう。
「ほら!ここにカードがあるぞ、助けてくれたらお金を払おう!」と言ったところで
だーれも来てくれないかもしれません。
そして救助が来ないからと言って、カードに怒ることはできませんね。
「このゴールドクレジットカードを得るために、どれだけ働かなきゃダメだったか。
何年もの年月を、お金を得るために費やしたんだぞ、お金さえあればなんとかなると思っていたのに、、。」
この場合、
お金が悪いのではありません。
お金はその人を支えるために存在しているわけではなかった、というだけのことです。
もう一つ例をあげてみましょう。
船に乗っていたら、落ちてしまったとしましょう。
溺れないように、何かにつかまろうとしますが、近くに浮かんでいるのは、葉っぱやら わかめだけだとします。
それらに捕まって、助かることができるでしょうか。
ちょっとムリっぽいですよね。
やはり、船の中の人にちゃんとした救助ボートを出してもらわなければ助からないでしょう。
この時、海に浮いている葉っぱやわかめを責める人はいるでしょうか。
葉っぱに向かって
「どうしてもっとちゃんと引っ張ってくれなかったんだ。
溺れそうだったんだぞお。私はあなたに全てを任せていたのに!」
大事なのは、、やはり、
葉っぱやわかめは、人を助けるために創られたものではない、、ということですね。
大して強くもない物に、自分自身を託してしまうから、安泰でいられないのです。
”人間を助ける為に創られた物以外”のことに、自分の全神経を捧げてしまうから不安になってしまうのです。
お金や物だけではありません。
人の心だって、かなり変わりやすく、なかなかあてにできるものではありません。
まして、、彼氏、彼女の心変わりなんて、、、
結婚している人だったら、絶対分かりますよね。
「永遠の愛を誓って結婚したのに、、、」なーーんて、、、ねえ。
人の心なんて、ホントコロコロ変わっちゃうんですから。
私たちの心は、そのようにコロコロと変わってしまうものに捧げるためにあるのではないのです。
物には、全て”用途”というのがあります。
包丁は、料理をするときに使う物であって、人を刺すものではありません。
包丁で人を刺してしまったら、その代償を払わなければいけませんね。
LINEは人とコミュニケーションをとるためにあるものです。
しかしそれを違うことに使うと(例えばいじめとか)、やはりそれなりの代償を覚悟しなければならなくなります。
人間の心も全くおなじ。
”用途”というのがあります。
はかないもの、永遠に続かないものに捧げる為に、私たちの心はあるわけではないのです。
もしそうしてしまうと、その代償を払わなければならなくなります。
代償なんか払いたくない!
(つまり)ネガティブな感情に支配されたくない!というのであれば、、、
どうしたらいいのでしょう?
汚れのない心を得るためにはどうすればいいのでしょうか?
まずは、その汚れを取るために自分の心から間違った”主”を追い出して、
新しい”主”に入ってもらわなければなりません。
その新しい主は、決して一過性のものであったり、
コロコロ変わるものであってはいけません。
不安定なものもいけません。
そして、決して弱~いものでもいけません。
常に強くて、頼れて、なんでもできて、優しくて、愛情深くて、寛大で、何でも知っていて、そしてどんなことも許してくれる大きな度量の持ち主でなければなりません。
そのようなスゴイ対象に、自分自身を預けてしまえば、心は”安泰”でいられます。
そのスゴイ対象というのは、もちろんアッラー、神様のことです。
来年に続きまーす。
この記事が今年最後のものになります。
稚拙な文章でありましたが、今日まで読んでいただきましてありがとうございました。
来年も頑張って書いていきますので、どうぞおつきあいくださいませ。
では、みなさま良いお年をお迎えください。(^O^)
===================================
※5星レビューが5件もつきました。(o^^o)*
レビューを書いてくださった方々 どうもありがとうございました!!
アマゾンから電子書籍発売中!
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あなたは何のために生まれ、何をして生きていけばいいのでしょう。
人生の目的は?
せっかく生まれてきたのです。
神様に守られた平和な現世を歩きたくはありませんか。
そして来世では、天国に入って
”永遠に” ”幸せ” に暮らしたくはありませんか。
方法はとてもシンプルです。
今まで知らなかったイスラム教に出会える本です。
自分自身を神様以外の何かに、捧げてしまっていると
生きているのが、つらーくなる、
というところで先週は終わりました。
こんにちは ファーティマ松本です。
イブラヒームという名前の預言者さん(平安あれ)が神様にこうお願いしました。
『復活させられる日に、私の面目を失わせないでください。
その日には、財産も息子たちも役にはたちません。
ただ汚れのない心を、アッラーに捧げる者だけは別ですが。』
(クルアーン26:87~89)
復活の日というのは、最後の審判の日のことをさします。
このことについては、いつか詳しく書くつもりですが、
今日は簡単に「天国に行くか、地獄に行くか」を決められる日、としておきましょう。
その日は、どんなに現世でお金持ちであっても、どんなに子供の数が多くても
そーんなことは全くなーんの役にも立たないんだそうです。
「じゃあ、何が役に立つんじゃい?」
と、なりますよね。
答えは、
「汚れのない心をアッラーに捧げる者だけ」がなんとかなる、
らしいです。
汚れのない心とは、一体どんなこころなのでしょうか。
これは、先週お話しましたように
「自分自身の心を、アッラー以外の何かに捧げてしまっていない心の事」なんです。
つまり、
「アッラーにだけ自分自信を捧げ(託し)、アッラーが定めた決まりのみに服従する」と
確固に思っている心の事ですね。
それが汚れのない心です。
そのような心を持っている人だけが、復活の日にはなんとかなる!! みたいですよ。
しかし残念ながら、イスラム教徒の中には、「アッラー以外に神はなし」と口で言ってはいながらも
実際の頭の中、イヤ 心の中が、アッラー以外の何かによって支配されているというのは、よーーくあります。
たとえ決められた礼拝や断食、巡礼など あらゆる宗教的行いをしていたとしても、
このような人たちは、イスラム教の基本中の基本部分である土台がなっていないのです。
土台って、何事に於いても大事ですね。
皆さんは、土台が非常に不安定な橋や道を、歩くことができますか?
できるかもしれませんが、とっても危ないと思います。
ということで(!?)
今週は来世で、天国に招待してもらえるかどうか ではなく、
今現在生きている”この世” ”現世” において
”汚れた心”を持っているとどうなるのか、について考えてみたいと思います。
メインポイントは「現世、この世」です!
さて、先週も書きましたように、
ある人にとっては「人気があること、知名度が高いこと」などが人生で最も大事なことのようです。
またある人にとっては「お金があること」が何よりも重要なこと、かもしれません。
他にも「いつまでも若くキレイでいること」が何しろ大切、と思っている人もいるでしょう。
そして周りの人からどう思われているか、ということを非常に気にしながら生きている人達も多いですね。
それから「ある特定の人(例えば彼氏や彼女)の気持ちが常にこっちを見ていてくれること」が何よりも
何よりも大事だ!と思いながら生きている人も、かなりいることでしょう。
常に考えていること、思っていること、それが自分の生活(人生)で一番大事なものである、はずです。
そして”それ”が自分にとっての”主(あるじ)”で、自分はそのために何でもやる”僕(しもべ)”になっています。
残念なことに
人々が、常に考えていること(つまりその人にとっての主)というのは、
全てが全て(ぜーんぶが)一過性のものばかりです。
つまり、仮のものばかりなんです。
変わりやすく、不安定で、いつなくなるかわからないもの、
ある意味、とてつもなく”弱~い”存在のものばかりです。
このような変わりやすいもの、安定していないもの、一過性のもの、弱いもの
そういった物や人に、心が支配されていて(またはそれらを主と崇めていて)
心は安泰でいられるでしょうか?
心が落ち着くでしょうか?
『自分の心の支えになるようなものが不安定なものなのに、心が安定でいられるわけありません。』
そう!
汚れた心を持つことの(現世での)代償は、不安、心配、恐れ、といったネガティブな感情と付き合っていかねばならないこと。
それに反し、汚れのない心の持ち主はちょっと違うようです。
『そして主を信じる者には、恐れもなく、損なう事もなく、不正にあうこともない』
(クルアーン72-13)
ただ、ここで重要なのは、
人々が自分自身を託してしまっている”対象物”そのものが悪いのではない、ということですね。
例えば
「お金があれば幸せになれる、何でもできる、何でも手に入る、人の心だって買えるんだ。」
と思っている人たちは、「お金さえあれば、、、」と、いろいろなことに手を出します。
実際、お金があるのはとってもいいことです!
欲しいものは何でも手に入ります。行きたい所へもいつだって行けます。食べたいものもお腹いっぱい食べられるでしょう。
お金を使って人を助ける事もできます。
でも、、、、、
お金が全く役に立たない時だって、、
、、あるわけです。
例えば、雪山で遭難したとしましょうか。
ゴールドクレジットカードを持っていたとしても、それは多分何の役にも立たないでしょう。
「ほら!ここにカードがあるぞ、助けてくれたらお金を払おう!」と言ったところで
だーれも来てくれないかもしれません。
そして救助が来ないからと言って、カードに怒ることはできませんね。
「このゴールドクレジットカードを得るために、どれだけ働かなきゃダメだったか。
何年もの年月を、お金を得るために費やしたんだぞ、お金さえあればなんとかなると思っていたのに、、。」
この場合、
お金が悪いのではありません。
お金はその人を支えるために存在しているわけではなかった、というだけのことです。
もう一つ例をあげてみましょう。
船に乗っていたら、落ちてしまったとしましょう。
溺れないように、何かにつかまろうとしますが、近くに浮かんでいるのは、葉っぱやら わかめだけだとします。
それらに捕まって、助かることができるでしょうか。
ちょっとムリっぽいですよね。
やはり、船の中の人にちゃんとした救助ボートを出してもらわなければ助からないでしょう。
この時、海に浮いている葉っぱやわかめを責める人はいるでしょうか。
葉っぱに向かって
「どうしてもっとちゃんと引っ張ってくれなかったんだ。
溺れそうだったんだぞお。私はあなたに全てを任せていたのに!」
大事なのは、、やはり、
葉っぱやわかめは、人を助けるために創られたものではない、、ということですね。
大して強くもない物に、自分自身を託してしまうから、安泰でいられないのです。
”人間を助ける為に創られた物以外”のことに、自分の全神経を捧げてしまうから不安になってしまうのです。
お金や物だけではありません。
人の心だって、かなり変わりやすく、なかなかあてにできるものではありません。
まして、、彼氏、彼女の心変わりなんて、、、
結婚している人だったら、絶対分かりますよね。
「永遠の愛を誓って結婚したのに、、、」なーーんて、、、ねえ。
人の心なんて、ホントコロコロ変わっちゃうんですから。
私たちの心は、そのようにコロコロと変わってしまうものに捧げるためにあるのではないのです。
物には、全て”用途”というのがあります。
包丁は、料理をするときに使う物であって、人を刺すものではありません。
包丁で人を刺してしまったら、その代償を払わなければいけませんね。
LINEは人とコミュニケーションをとるためにあるものです。
しかしそれを違うことに使うと(例えばいじめとか)、やはりそれなりの代償を覚悟しなければならなくなります。
人間の心も全くおなじ。
”用途”というのがあります。
はかないもの、永遠に続かないものに捧げる為に、私たちの心はあるわけではないのです。
もしそうしてしまうと、その代償を払わなければならなくなります。
代償なんか払いたくない!
(つまり)ネガティブな感情に支配されたくない!というのであれば、、、
どうしたらいいのでしょう?
汚れのない心を得るためにはどうすればいいのでしょうか?
まずは、その汚れを取るために自分の心から間違った”主”を追い出して、
新しい”主”に入ってもらわなければなりません。
その新しい主は、決して一過性のものであったり、
コロコロ変わるものであってはいけません。
不安定なものもいけません。
そして、決して弱~いものでもいけません。
常に強くて、頼れて、なんでもできて、優しくて、愛情深くて、寛大で、何でも知っていて、そしてどんなことも許してくれる大きな度量の持ち主でなければなりません。
そのようなスゴイ対象に、自分自身を預けてしまえば、心は”安泰”でいられます。
そのスゴイ対象というのは、もちろんアッラー、神様のことです。
来年に続きまーす。
この記事が今年最後のものになります。
稚拙な文章でありましたが、今日まで読んでいただきましてありがとうございました。
来年も頑張って書いていきますので、どうぞおつきあいくださいませ。
では、みなさま良いお年をお迎えください。(^O^)
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※5星レビューが5件もつきました。(o^^o)*
レビューを書いてくださった方々 どうもありがとうございました!!
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あなたは何のために生まれ、何をして生きていけばいいのでしょう。
人生の目的は?
せっかく生まれてきたのです。
神様に守られた平和な現世を歩きたくはありませんか。
そして来世では、天国に入って
”永遠に” ”幸せ” に暮らしたくはありませんか。
方法はとてもシンプルです。
今まで知らなかったイスラム教に出会える本です。