湯浅城
2012/12/2 和歌山遠征(1泊2日)
和歌山県湯浅町のお城めぐり
お城風の国民宿舎「湯浅城」の隣にある湯浅党の本城
≪ お城の概要 ≫
城名: 湯浅城
よみ: ユアサ
別称:
所在地: 和歌山県有田郡湯浅町青木
現状: 山
築城年代: 康治二年(1143)
築城者: 湯浅宗重
形式: 丘城
遺構: 本丸・二の丸・三の丸・帯曲輪・土塁・堀切・竪堀・石垣
規模: 150m×100m
文化財:
訪城日: 2012/12/2
≪ 訪城記 ≫
和歌山遠征(1泊2日) 2日目
雑賀城から湯浅城へ向かう。
国道42号熊野街道をひたすら南下、海南市、有田市で有田大橋を渡り、宮崎交差点を左折して、熊野街道を有田川に沿って東へ、国道42号熊野街道の道なりに湯浅町へ入る。湯浅交差点を左折、紀勢本線の踏切を渡り、500m程行くと川があるので、この川に架かる橋を渡って突き当りの三叉路を右へ曲がり、小さな山すそを左へぐるっと回ると大地の上にお城風の国民宿舎「湯浅城」が見えてくる。このまま大地を上がり国民宿舎「湯浅城」の駐車場に駐車する。
国民宿舎「湯浅城」のロビーで中を見せてほしいと頼むと、快く中を見せてもらえる。奥のエレベーターで5階の展望台で、4階に湯浅城の模型や説明が展示してある。
実際の湯浅城は、この国民宿舎「湯浅城」の南にある小高い山が城跡で、天守閣はありませんでした。
湯浅城への登城口を探して、ミカン畑をあがってみたりしましたが見つからず、登ってきた坂を徒歩で下っていて、川まで来たら小高い山の南側に行けそうだったのでミカン畑と川の間の道を川沿いに下って行ったら、ミカン畑が終わり山になったあたりでお手製で「紀州最古の城跡」と書かれた看板を発見、山へ入る道があるではないか。
ここが湯浅城への入口とよろこんで山道を登っていくと、ちょうど地元の方たちが保全作業をされている所で、二の郭で冠木門を作成中の様子でした。気軽に主郭へ登る場所を教えていただき感謝です。
城の案内に戻ります。
登城口にはお手製の縄張図などが設置されていて、階段登り口に湯浅城址の石碑があります。登っていくとすぐに櫓台跡や横矢がかりの削平地、二の郭入り口に虎口、南側に湯浅九郎、楠木正親、楠木正友の墓がある出郭があります。
二の郭には湯浅城址碑があり、主郭切岸の東側に主郭へ登る階段を教えてもらいました。
主郭には築城者の「湯浅宗重」と書かれた木柱があり、小ぶりな台状とです。奥に搦手虎口があり、降りていくと土橋や竪堀、堀切が見られます。
二の郭に戻って、主郭登り口を奥へ行くと、右側の竹林の中に薬研堀の堀切があり、北側には土塁と土橋を見られます。
帰り道によく見ると、木々の間に石垣が見え隠れしていて、これからの整備によって良く見られるようになるのが楽しみなお城です。
≪ 歴 史 ≫
康治二年 (1143) 湯浅党の祖、湯浅宗重がこれまでの本城である広保山城を廃して、青木山に湯浅城を築く。
平治元年 (1159) 平清盛が熊野詣りの隙に源義朝が挙兵した折に、湯浅宗重三十騎で清盛に味方して以降、平家の家人となる。
平家滅亡後、鎌倉方の御家人となり、湯浅荘の地頭に任ぜられる。
康暦元年(天授五年) (1379) 南北朝時代に南朝方に味方して、三月に北朝方の山名軍に城を攻略される。
その後、楠木の残党が後村上天皇の孫義有王と共に入城する。
文安四年 (1447) 守護の畠山氏の軍勢が攻め寄せ、攻防を繰り返したが、二月に落城し、義有王は城内で自害したといわれる。
≪ 写 真 ≫
国民宿舎「湯浅城」
国民宿舎「湯浅城」から見た湯浅城全景
登城口の案内板
登城口
登ってすぐの櫓台跡
二の郭手前の湯浅九郎・楠木正親・楠木正親の墓
二の郭虎口の冠木門(製作中)
二の郭
二の郭にある湯浅城址碑
主郭
搦手側土橋
搦手側堀切
二の郭奥の土塁
二の郭奥の土橋
二の郭奥の薬研堀
主郭西側の曲輪にある櫓台跡
登城道から見られる石垣跡
現地お手製縄張図(リンク付サムネイル)
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
JR紀勢本線湯浅駅から車で5分。
<車>
湯浅御坊道路湯浅ICを降りて取り付け道路を左折、約200mの川沿いの三叉路を斜め左に進み、約200m行った三叉路を今度は真っ直ぐに進み、約700m進んだ青木集落を抜けた十字路を右折、青木団地を抜けたところで川を渡り、川沿いに200m程で湯浅城の登城口に着く。駐車場が無いので国民宿舎「湯浅城」の駐車場を利用するといいでしょう。
≪ 位置図 ≫
国民宿舎「湯浅城」
登城口
湯浅城
紹介したお城の数 25城
2012/12/2 和歌山遠征(1泊2日)
和歌山県湯浅町のお城めぐり
お城風の国民宿舎「湯浅城」の隣にある湯浅党の本城
≪ お城の概要 ≫
城名: 湯浅城
よみ: ユアサ
別称:
所在地: 和歌山県有田郡湯浅町青木
現状: 山
築城年代: 康治二年(1143)
築城者: 湯浅宗重
形式: 丘城
遺構: 本丸・二の丸・三の丸・帯曲輪・土塁・堀切・竪堀・石垣
規模: 150m×100m
文化財:
訪城日: 2012/12/2
≪ 訪城記 ≫
和歌山遠征(1泊2日) 2日目
雑賀城から湯浅城へ向かう。
国道42号熊野街道をひたすら南下、海南市、有田市で有田大橋を渡り、宮崎交差点を左折して、熊野街道を有田川に沿って東へ、国道42号熊野街道の道なりに湯浅町へ入る。湯浅交差点を左折、紀勢本線の踏切を渡り、500m程行くと川があるので、この川に架かる橋を渡って突き当りの三叉路を右へ曲がり、小さな山すそを左へぐるっと回ると大地の上にお城風の国民宿舎「湯浅城」が見えてくる。このまま大地を上がり国民宿舎「湯浅城」の駐車場に駐車する。
国民宿舎「湯浅城」のロビーで中を見せてほしいと頼むと、快く中を見せてもらえる。奥のエレベーターで5階の展望台で、4階に湯浅城の模型や説明が展示してある。
実際の湯浅城は、この国民宿舎「湯浅城」の南にある小高い山が城跡で、天守閣はありませんでした。
湯浅城への登城口を探して、ミカン畑をあがってみたりしましたが見つからず、登ってきた坂を徒歩で下っていて、川まで来たら小高い山の南側に行けそうだったのでミカン畑と川の間の道を川沿いに下って行ったら、ミカン畑が終わり山になったあたりでお手製で「紀州最古の城跡」と書かれた看板を発見、山へ入る道があるではないか。
ここが湯浅城への入口とよろこんで山道を登っていくと、ちょうど地元の方たちが保全作業をされている所で、二の郭で冠木門を作成中の様子でした。気軽に主郭へ登る場所を教えていただき感謝です。
城の案内に戻ります。
登城口にはお手製の縄張図などが設置されていて、階段登り口に湯浅城址の石碑があります。登っていくとすぐに櫓台跡や横矢がかりの削平地、二の郭入り口に虎口、南側に湯浅九郎、楠木正親、楠木正友の墓がある出郭があります。
二の郭には湯浅城址碑があり、主郭切岸の東側に主郭へ登る階段を教えてもらいました。
主郭には築城者の「湯浅宗重」と書かれた木柱があり、小ぶりな台状とです。奥に搦手虎口があり、降りていくと土橋や竪堀、堀切が見られます。
二の郭に戻って、主郭登り口を奥へ行くと、右側の竹林の中に薬研堀の堀切があり、北側には土塁と土橋を見られます。
帰り道によく見ると、木々の間に石垣が見え隠れしていて、これからの整備によって良く見られるようになるのが楽しみなお城です。
≪ 歴 史 ≫
康治二年 (1143) 湯浅党の祖、湯浅宗重がこれまでの本城である広保山城を廃して、青木山に湯浅城を築く。
平治元年 (1159) 平清盛が熊野詣りの隙に源義朝が挙兵した折に、湯浅宗重三十騎で清盛に味方して以降、平家の家人となる。
平家滅亡後、鎌倉方の御家人となり、湯浅荘の地頭に任ぜられる。
康暦元年(天授五年) (1379) 南北朝時代に南朝方に味方して、三月に北朝方の山名軍に城を攻略される。
その後、楠木の残党が後村上天皇の孫義有王と共に入城する。
文安四年 (1447) 守護の畠山氏の軍勢が攻め寄せ、攻防を繰り返したが、二月に落城し、義有王は城内で自害したといわれる。
≪ 写 真 ≫
国民宿舎「湯浅城」
国民宿舎「湯浅城」から見た湯浅城全景
登城口の案内板
登城口
登ってすぐの櫓台跡
二の郭手前の湯浅九郎・楠木正親・楠木正親の墓
二の郭虎口の冠木門(製作中)
二の郭
二の郭にある湯浅城址碑
主郭
搦手側土橋
搦手側堀切
二の郭奥の土塁
二の郭奥の土橋
二の郭奥の薬研堀
主郭西側の曲輪にある櫓台跡
登城道から見られる石垣跡
現地お手製縄張図(リンク付サムネイル)
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
JR紀勢本線湯浅駅から車で5分。
<車>
湯浅御坊道路湯浅ICを降りて取り付け道路を左折、約200mの川沿いの三叉路を斜め左に進み、約200m行った三叉路を今度は真っ直ぐに進み、約700m進んだ青木集落を抜けた十字路を右折、青木団地を抜けたところで川を渡り、川沿いに200m程で湯浅城の登城口に着く。駐車場が無いので国民宿舎「湯浅城」の駐車場を利用するといいでしょう。
≪ 位置図 ≫
国民宿舎「湯浅城」
登城口
湯浅城
紹介したお城の数 25城
ビジュアル百科 日本の城1000城 1冊でまるわかり! | |
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