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太田城

2013-02-02 22:26:06 | 和歌山県
 太田城

2012/12/1  和歌山遠征(1泊2日)

和歌山県和歌山市のお城めぐり

 日本三大水攻めのお城

≪ お城の概要 ≫

城名: 太田城
よみ: オオタ
別称:
所在地: 和歌山県和歌山市太田2丁目3-7
現状: 来迎寺・市街地
築城年代: 天正四年(1576)
築城者: 太田源太夫
形式: 平城
遺構: 大門(移築)
規模:
文化財:
訪城日: 2012/12/1


≪ 訪城記 ≫

和歌山遠征(1泊2日) 初日、和歌山城から太田城址のある来迎寺へ

和歌山城公園駐車場を出て三年坂通りを東進、和歌川を渡り、紀勢本線ガード下を越えて、太田の信号から2つ目の信号で左折して、駐車する場所がないか来迎寺近くの路地をグルグル回りましたが、見つからないので太田の信号から2つ目の信号を過ぎた右側の洋服の青山の駐車場に車を駐車させてもらいました。

ここから徒歩で、二つ目の信号の交差点を渡り、北へ50m程の信号のある交差点を左折、80m程行った三叉路を右折、約70m行った右側が来迎寺です。

寺の山門横に説明板があり、日本三大水攻めのお城で豊臣秀吉の紀州攻めについて書かれています。寺の中に入り、大御堂の前にある立派な太田城址碑があり、この来迎寺が本丸跡だそうです。
寺の東に墓地があり、この墓地の北東隅には秀吉に降伏し自害した城将太田左近ら武将五十一人の首塚「小山塚」があります。塚はほかにも2か所あるそうです。

ここから太田小学校近くに太田城水攻めの時の堤防の一部が残っているそうなので、そちらに向かう。
来迎寺から約150m西の広い道の交差点を左折して、600m程北上した城北通りの広い道を左折、300m程東進した次の信号を左折、次の信号を右折、約200m東進したところの川を渡った道の右側の土の盛り上がったミカン畑が水攻めの時の堤防跡で道沿いに50mくらい残っています。
駐車する場所がないので近くのTSUTAYAの駐車場に止めさせてもらい、徒歩で見学に行きました。
この道は非常に狭く歩道がない上に、車の交通量が多いので注意してください。道側から見学して、川附近のきのくに信用金庫駐車場の塀越しに覗くと堤防跡の裏が見られます。裏は田んぼが残っていて、表の繁栄とはちがう往時の様子に近い状態です。

ここから今度は、太田城にあった大門が移築されている大立寺へ向かう。
堤防跡前の狭い道を西進して、先ほどの広い道の交差点を左折、太田交差点を右折、三年坂通りに出て、柳通りとの交差点信号を越えた右側が大立寺です。この交差点を越えて直ぐに右折して、少し北上すると道の左側に大立寺の駐車場があります。ここから徒歩で三年坂通りに出て、左側が大立寺で三年坂通りに面して大立寺山門があり、この山門が移築された現存する大門です。


≪ 歴 史 ≫

一説に延徳年間(1489-92)だとも、文明年間(1469-87)に国造紀俊連が日前神宮の保護のために築城したと言われている。
天正四年 (1576) 太田源太夫が築城。
天正五年 (1577) 織田信長の雑賀攻めに太田党は信長軍の先導役をして、太田党と雑賀党が激しい戦いを展開する。
天正十三年 (1585) 天正十三年三月十日、秀吉は秀長、秀次を副将として紀州征伐に向かう。二十三日には根来寺を攻め、焼き払われ、次に太田城が攻められた。
太田城は容易に落ちないとみた秀吉は、天正十三年三月二十五日、紀の川の水をせき止めて得意の水攻めを行い、城兵はおよそ1か月の籠城で疲れ、四月二十四日、城将太田左近ら五十一人が自害し、ついに城は落ちた。


≪ 写 真 ≫


来迎寺


来迎寺にある太田城址碑


来迎寺墓地の北東隅にある小山塚


太田城水攻めの堤防跡


太田城の大門を移築した大立寺山門

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR紀勢本線和歌山駅より徒歩15分
<車>
阪和線和歌山ICを降りて和歌山バイパスを南下し、阪和道の下をくぐり、みちなりに県道138号三年坂通りを西進、日前神宮を過ぎて洋服の青山が左手に見えてきたら、洋服の青山の駐車場に車を駐車させてもらい、徒歩で北へ50m程の信号のある交差点を左折、80m程行った三叉路を右折、約70m行った右側が来迎寺です。


≪ 位置図 ≫

来迎寺


太田城水攻めの堤防跡


大立寺


紹介したお城の数 22城



日本の城 (山川Mook 1)
クリエーター情報なし
山川出版社


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