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お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

二条城

2014-02-15 08:27:34 | 京都府
 二条城

2014/2/1

京都府京都市のお城めぐり

 徳川慶喜が二の丸御殿で大政奉還を上表した江戸幕府始まりと終焉のお城 国宝 日本100名城

≪ お城の概要 ≫

城名: 二条城
よみ: ニジョウ
別称: 二条離宮
所在地: 京都府京都市中京区二条城町541
現状: 二条城
築城年代: 慶長七年(1602)
築城者: 徳川家康
形式: 平城
遺構: 天守閣跡・本丸御殿・本丸庭園・二の丸御殿・二の丸庭園・櫓門・東橋・唐門・東大手門・北大手門・南門・西門・西橋・桃山門・鳴子門・北中仕切門・南中仕切門・東南隅櫓・西南隅櫓・番所・収蔵庫・米倉・内堀・外堀・石垣
規模: 560m×430m、標高40m
文化財: 国指定史跡・国指定特別名勝・国宝・重要文化財・世界文化遺産
訪城日: 2010/11/2・2012/1/18・2014/2/1


≪ 訪城記 ≫

自宅から二条城へ向かう。

名神高速京都東ICで降りて直進、府道143号三条通りを西進、蹴上の峠道を通って鴨川前の三条交差点信号を右折、北上して次の川端御池三叉路信号を左折、御池通を西進、京都市役所前を通って堀川御池交差点信号を右折、堀川通を北上して、次の信号を越えた道の左側に二条城があります。東大手門入口前に有料駐車場があります。ここに車を駐車する。

入場料のチケットを券売機で買い東大手門から入城しました。入場料600円です。
立派な門をくぐって右側に番所があり、左へ曲がり、右手に二の丸御殿入口の煌びやかな唐門が迎えてくれます。この付近は人の波がほとんど途切れません。唐門をくぐり二の丸御殿を見学、幕末に徳川慶喜が大政奉還を上表した大広間や障壁画が見どころです。西側の二の丸庭園もすばらしいです。
唐門から出て、立派な土塀に沿って西へ入って行くと南門があり、さらに進んで土塀の角を右へ曲がると桃山門があり、内堀と石垣に囲まれた本丸跡、北側には鳴子門、内堀中央の東橋と櫓門をくぐると桝形があり、本丸庭園へと続き、北側に本丸御殿、南西隅に天守閣跡があります。本丸御殿西側の西橋から出て休憩所の南側に旧二条城の石垣が展示されています。南へ行くと米倉と南仕切門、天守閣の石垣がすばらしい、北へ行くと米倉と北仕切門、清流園を抜けると北大手門を見て、東大手門から外へ出て外堀沿いに一周しました。
外堀沿いに東南隅櫓、西南隅櫓、南門、西門、北大手門、石垣と堀に感動です。
最初入った雰囲気は御殿があり、お城と言う感じがあまりしなかったのですが、本丸の石垣や外堀沿いに見ていくと、やっぱりお城なんだと感じます。
見るものほとんどが現存でまたまた感動です。


二条城の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

慶長六年 (1601) 将軍上洛の際の居館として畿内の大名に造営費を課して造営を始める。
慶長七年五月一日 (1602) 所司代板倉勝重の総指揮で完成する。
慶長九年三月 (1604) 徳川家康が初めて入城する。大坂の陣には、家康・秀忠が在駐して本営となった。
慶長十六年三月 (1611) 徳川家康と豊臣秀頼が二条城で会見する。
元和五年 (1619) 徳川和子の入内に備えて女御御殿が造営される。
寛永三年九月六日 (1626) 後水尾天皇が二条城に行幸する。
寛延三年 (1750) 落雷で天守閣を焼失。
天明八年 (1788) 本丸の殿舎、櫓と二の丸の櫓の一部が火災によって焼失。
文久三年 (1863) 将軍徳川家茂の上洛で殿舎の整備が行われる。
元治元年 (1864) 家茂が上洛して材駐する。
慶応二年 (1866) 徳川慶喜が二条城で将軍宣下を受ける。
慶応三年十月 (1867) 徳川慶喜によって二条城大広間で大政奉還が上表される。
慶応三年十二月 (1867) 徳川慶喜が二条城を退去。
明治元年 (1868) 朝廷が二条城を接収して、明治四年(1871)京都府に移管され、二の丸御殿が府庁舎となる。
明治二十六年 (1893) 宮内省の管理に戻り、桂宮御殿が本丸跡に移築される。
大正四年 (1915) 二条城において大正天皇の即位礼が行われる。
昭和十四年 (1939) 京都市に下賜される。
平成六年 (1994) 古都京都の文化財のひとつとしてユネスコの世界遺産に登録される。


≪ 写 真 ≫


東大手門


東大手門附近の外堀


番所


唐門


二の丸御殿


二の丸庭園


桃山門


本丸石垣


本丸石垣と内堀


南中仕切門


鳴子門


本丸櫓門


櫓門枡形


天守閣跡からの本丸御殿


天守閣跡からの西橋桝形


本丸御殿


旧二条城の石垣


天守閣石垣


米倉


北中仕切門


土蔵


東南隅櫓


南門


西南隅櫓


西門(埋門)


外堀の西北隅石垣


北大手門


北大手門附近の外堀


外堀


現地二条城案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR東海道本線・東海道新幹線京都駅から市バスで二条城前下車、徒歩すぐ。市営地下鉄東西線二条城前駅から徒歩すぐ。
<車>
名神高速京都東ICで降りて直進、府道143号三条通りを西進、蹴上の峠道を通って鴨川前の三条交差点信号を右折、北上して次の川端御池三叉路信号を左折、御池通を西進、京都市役所前を通って堀川御池交差点信号を右折、堀川通を北上して、次の信号を越えた道の左側に二条城があります。東大手門入口前に有料駐車場有。


≪ 位置図 ≫

二条城


紹介したお城の数 181城



日本100名城公式ガイドブック―日本の文化遺産「城」を見に行こう (歴史群像シリーズ)
福代徹,日本城郭協会
学習研究社

槇嶋城

2013-07-15 06:08:05 | 京都府
 槇嶋城

2013/6/16

京都府宇治市のお城めぐり

 将軍足利義昭が織田信長に反旗を翻し籠城したお城

≪ お城の概要 ≫

城名: 槇嶋城
よみ: マキシマ
別称: 真木嶋城・薗場城
所在地: 京都府宇治市槙島町薗場
現状: 住宅地・槇島公園
築城年代: 承久三年(1221)
築城者: 長瀬左衛門
形式: 平城
遺構:
規模: 200m×220m
文化財:
訪城日: 2010/11/2・2013/6/16


≪ 訪城記 ≫

勝竜寺城から槇嶋城へ向かう。

勝竜寺城を出てガラシャ通りを北上、長岡京駅前を通り突き当りの三叉路を右折、小畑川を渡り、見場走り三叉路信号を斜め直進、府道79号を西進、名神高速高架下をくぐり、西羽束師川を渡ってすぐの信号を左折、川沿いを北上、菱川交差点信号を右折、府道79号を西進、桂川を渡り、宇治川沿いに出て観月橋北詰信号を右折、桂川に架かる観月橋を渡って国道24号を南東へ、槙島町へ入って右に大きく曲り南下、京滋バイパスをくぐり府道69号をそのまま南下、小倉交差点信号を左折、府道249号と合流する三叉路信号を東進、府道249号をそのまま東進、付近に駐車する場所がないためコーナンの駐車場に車を駐車させてもらう。

コーナンの東側の道を北上、ユニチカの工場地を抜けて、突き当りの三叉路信号を右折、任天堂工場前の住宅街に北上する道を100m程で住宅内の緑地公園に突き当たる。この公園の入り口に槇島城址碑と説明板があるだけで、遺構などはない。
さらにこの住宅街を東に抜けて、小川沿いの道を約300m北上すると田んぼの中に槇島公園がある。この公園にも槇嶋城記念碑と説明板がある。


≪ 歴 史 ≫

承久三年 (1221) 承久の乱で後鳥羽上皇方が長瀬左衛門を槇嶋城の守備に配置している。
明応八年 (1499) 宇治・槇島の合戦で細川政元の攻撃を受け落城、文亀三年(1503)まで細川政元の居城となる。その後、赤沢宗益が城を守る。
天正元年 (1573) 将軍足利義昭が織田信長に反旗を翻し槇嶋城で籠城、七月十八日、信長軍の攻撃に城を開け渡し、足利幕府は滅びる。その後、信長は細川昭元を配した。
天正十一年 (1583) 豊臣秀吉が一柳市介に槇嶋城を守らせている。


≪ 写 真 ≫


住宅街の公園にある槇島城址碑と説明板


住宅街の公園


槇島公園


槇島公園にある記念碑と説明板


現地槇嶋城図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR奈良線宇治駅から徒歩30分。
<車>
京滋バイパス宇治東ICを降りて府道7号を南下、宇治川に架かる宇治橋を渡り、宇治橋西詰の信号を右折、宇治川沿いに府道241号を北上、約600mで堤防を左折、住宅街を西進、任天堂工場前の道を北へ入った突き当りの公園に碑がある。


≪ 位置図 ≫

槇島城址碑のある住宅街の公園


槇島公園


紹介したお城の数 97城



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勝竜寺城

2013-07-14 09:35:02 | 京都府
 勝竜寺城

2013/6/16

京都府長岡京市のお城めぐり

 織田信長から与えられた細川藤孝の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 勝竜寺城
よみ: ショウリュウジ
別称:
所在地: 京都府長岡京市勝竜寺13-1
現状: 勝竜寺城公園・神足神社
築城年代: 室町時代中期
築城者: 畠山義就
形式: 平城
遺構: 本丸・沼田丸・模擬天守・多聞櫓・南門・北門跡・井戸・土塁・空堀
規模: 100m×600m、標高20m
文化財:
訪城日: 2010/11/3・2013/6/16


≪ 訪城記 ≫

淀城から勝竜寺城へ向かう。

淀城を出て京阪電車淀駅前の通りを通って旧京阪国道の納所複合交差点信号を斜め左を直進、桂川に架かる宮前橋を渡り、府道204号を西進、名神高速の高架下をくぐり、小畑川手前の落合橋交差点信号を右折、堤防沿いの府道211号を北上、大門橋で道なりに左へ曲がり、大門橋を渡ってガラシャ通りを北上すると左側に勝竜寺城公園が見える。勝竜寺城の内堀沿いの道を西へ入って行くと沼田丸にある「ガラシャのおもかげ水」の前に5~6台分の駐車場がある。ここに車を駐車する。

駐車場の北側が沼田丸で「ガラシャのおもかげ水」の横に井戸跡、入口に沼田丸跡の説明板、北端に空堀跡がある。
沼田丸の東側が本丸跡で南門前に説明板、「明智光秀公三女玉お輿入れの城」ほ石碑、橋を渡ったところに本丸跡の説明板があり、門をくぐると模擬天守、本丸西側に土塁跡、北門跡、北東隅に多聞櫓と土塁が復元されている。
井戸跡もいくつかあり、本丸内にも「ガラシャのおもかげ水」が置かれていて、南東側に細川忠興・玉(ガラシャ)の像がある。
本丸から200m程北に行くと神足神社があり、神社の西側竹藪内に土塁と空堀跡が見られる。
大門橋北詰にも大門橋の説明板がある。


勝竜寺城の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

応仁の乱ごろに山城守護畠山義就が郡代役所として築く。
永禄九年ごろ (1566) 三好三人衆の一人、岩成友通が守っていた。
永禄十一年九月二十九日 (1568) 織田信長の攻撃により落城、以後、細川藤孝が配される。
天正九年 (1581) 細川藤孝が丹後国へ入封すると、京都所司代村井貞勝の被官矢部善七郎と猪子兵助が城代として配される。
天正十年 (1582) 本能寺の変後は明智光秀の支配下に置かれ、山崎の戦いで落城、廃城となる。


≪ 写 真 ≫


南門と模擬天守


明智光秀公三女玉お輿入れの城の石碑


南門虎口


南門


沼田丸の井戸跡


沼田丸


沼田丸北側の空堀跡


本丸西側の土塁


北門跡


本丸にあるガラシャのおもかげ水


本丸井戸跡


細川忠興・玉(ガラシャ)の像


東側土塁と土塀


本丸側からの多聞櫓


多聞櫓


内堀


神足神社


神足神社の西側土塁


神足神社の西側空堀


大門橋


現地説明板細川藤孝居城時の復元図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR東海道本線長岡京駅から徒歩約15分。
<車>
名神高速大山崎ICで降りて国道171号を名神高速沿いに北東へ進み、勝竜寺交差点信号を左折、小畑川手前の落合橋交差点信号を右折、堤防沿いの府道211号を北上、大門橋で道なりに左へ曲がり、大門橋を渡ってガラシャ通りを北上すると左側に勝竜寺城公園が見える。勝竜寺城の内堀沿いの道を西へ入って行くと沼田丸にある「ガラシャのおもかげ水」の前に5~6台分の駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

勝竜寺城(勝竜寺城公園)


神足神社


大門橋


紹介したお城の数 96城



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大野 信長,加唐 亜紀,有沢 重雄
西東社

淀古城

2013-07-13 05:08:53 | 京都府
 淀古城

2013/6/16

京都府京都市のお城めぐり

 豊臣秀吉が側室淀殿に与えたお城

≪ お城の概要 ≫

城名: 淀古城
よみ: ヨド
別称: 藤岡城
所在地: 京都府京都市伏見区納所北城堀46
現状: 妙教寺
築城年代: 室町時代中期
築城者: 畠山政長
形式: 平城
遺構:
規模: 標高15m
文化財:
訪城日: 2010/11/3・2013/6/16


≪ 訪城記 ≫

淀城から徒歩で淀古城へ向かう。

淀城跡公園を出て淀駅前の通りを西北へ歩き、旧京阪国道の納所変速交差点信号を渡り、北へ向かう千本通りを300m程住宅街の道を進んだ三叉路を右折するとすぐに妙教寺の門が見える。
門を入ったすぐの鐘楼堂の隅に淀古城址碑がひっそりとあり、戊辰戦争のときに大砲の弾が御堂を貫通したことが書かれている。
妙教寺付近が淀城跡です。


≪ 歴 史 ≫

応仁の乱の折、畠山政長が西軍の畠山義就に備えるため守護所を勝龍寺から淀城に移したの始まりのようです。
明応二年 (1493) 細川氏の山城国掌握によって守護代級の被官が守りについている。
永正元年九月 (1504) 摂津守護代薬師寺元長が淀城に拠って細川政元に反旗を翻す。
永禄二年八月 (1559) 三好長慶は細川氏綱を淀城に配置するが、同六年ごろに氏綱が死去、以後は三好義継、松永久秀の部将が配置されている。
永禄九年七月 (1566) 三好三人衆に奪回され、三好長逸の手の者が入部する。
永禄十一年 (1568) 織田信長の入京により落城する。
天正十年六月 (1582) 本能寺の変後、明智光秀によって修理される。
天正十七年三月 (1589) 羽柴秀長が淀城を修築し、豊臣秀吉の側室淀殿が入る。
文禄元年 (1592) 木村常陸介が居城とする。
文禄四年 (1595) 廃城となる。


≪ 写 真 ≫


妙教寺の門


淀古城址碑


妙教寺の御堂

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
京阪電車京阪本線淀駅から徒歩10分。
<車>
名神高速京都南ICを降りて国道1号京阪国道を南下、大手筋交差点信号を斜めに右折、府道13号旧京阪国道を南西に進み、納所複合交差点信号を左折、京阪本線淀駅へ向かう。駅前の路地を南に向かい、京阪本線に沿いの道を斜め右に行くと踏切前のサンクス裏に与杼神社の有料駐車場がある。納所交差点付近にも有料駐車場有、ここから徒歩約5分。


≪ 位置図 ≫

淀古城(妙教寺)


紹介したお城の数 95城



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淀城

2013-07-12 18:16:29 | 京都府
 淀城

2013/6/16

京都府京都市のお城めぐり

 二代将軍徳川秀忠の命で松平定綱が築いたお城

≪ お城の概要 ≫

城名: 淀城
よみ: ヨド
別称:
所在地: 京都府京都市伏見区淀本町
現状: 淀城跡公園
築城年代: 元和九年(1623)
築城者: 松平定綱
形式: 平城
遺構: 本丸・天守台・石垣・内堀
規模: 450m×300m、標高20m
文化財:
訪城日: 2010/11/3・2013/6/16


≪ 訪城記 ≫

伏見城から淀城へ向かう。

伏見桃山城跡運動公園有料駐車場を出て住宅街のぐねぐね坂を降りて、桃山駅北側の通りに出て、桃山駅北側のJR奈良線踏切を渡り西進、御香宮神社前の道を西へ大手筋交差点信号を斜め左に直進、府道13号旧京阪国道を南西に進み、納所複合交差点信号を左折、京阪本線淀駅へ向かう。駅前の路地を南に向かい、京阪本線に沿いの道を斜め右に行くと踏切前のサンクス裏に与杼神社の有料駐車場がある。ここに車を駐車する。

与杼神社と稲葉神社の参道を西へ歩くとすぐに天守台跡の前に説明板が建てられている。天守台跡は崩れやすくなっているため立入禁止で中に入れません。
南西側に石垣と内堀跡が残っていて、南西方向と北西方向に櫓台跡があり、西側石垣中央下に淀城址碑が建っている。
内堀南側の京都競馬場臨時駐車場から内堀と石垣を見ることが出来ます。
石垣はかなり草が生えていて管理状態は良くないし、内堀も水が滞留していて蚊が多くて残念です。
一般的に淀城と言うと豊臣秀吉が淀殿に与えたお城のイメージが強いですが、この城は徳川幕府の初期に松平定綱が淀に入部して築城した新しいお城です。


≪ 歴 史 ≫

元和九年閏八月 (1623) 二代将軍徳川秀忠から淀を与えられた松平定綱が築城を開始し、寛永二年(1625)に完成、二条城の旧天守閣が移築されたと言われている。
寛永十年 (1633) 松平定綱が美濃国へ転封、代わって永井尚政が入部する。
寛文九年 (1669) 永井尚往が丹後国へ転封、代わって石川憲之が入部する。
宝永八年 (1711) 石川総慶が転封、代わって戸田光熙が入部する。
享保二年 (1717) 松平乗邑が入封する。
享保八年 (1723) 松平乗邑が下総国へ転封、代わって稲葉正知が入封して幕末に至る。
慶応四年 (1868) 鳥羽伏見の戦いで幕府軍を城に入れなかった。


≪ 写 真 ≫


天守台


天守台正面


天守台内部


南面石垣の土塁


西面石垣の土塁


北西櫓台の石垣


淀城址碑


稲葉神社


内堀側からの北西櫓台


内堀と南西櫓台の石垣


西側内堀と石垣


内堀と石垣


内堀側からの天守台石垣


南側内堀と石垣

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
京阪電車京阪本線淀駅から徒歩5分。
<車>
名神高速京都南ICを降りて国道1号京阪国道を南下、大手筋交差点信号を斜めに右折、府道13号旧京阪国道を南西に進み、納所複合交差点信号を左折、京阪本線淀駅へ向かう。駅前の路地を南に向かい、京阪本線に沿いの道を斜め右に行くと踏切前のサンクス裏に与杼神社の有料駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

淀城


紹介したお城の数 94城



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