さて東北被災地ツーの続きです。
海の日の月曜日は、朝から晴天。
朝9時に一関の東横インを出発し、国道343号線で三陸沿岸部を目指します。
山沿いの気持ちのいいワインディングを快走し、陸前高田市に入ります。
陸前高田や南三陸町などの沿岸部は、震災直後の去年3月末以来、まったく立ち寄っていませんでしたので非常に気になっておりました。
そもそも、今回、被災地にツーリングに行こうとした理由は、震災以来1年4ヶ月でどの程度復興が進んだかを取材するためでした。
その取材内容の一部を、ブログにてご紹介させていただきます。
岩手県陸前高田市。
高田松原をはじめ、きれいな松林の立ち並ぶ景勝地として有名な場所でした。
前回は震災直後に来ましたが、どこもかしこも瓦礫だらけ。
自衛隊の行方不明者捜索もようやく始まったばかりで、道路のそこかしこにブルーシートや毛布に包まれたご遺体がありました。
そんな陸前高田に、1年4ヶ月ぶりに足を踏み入れました。
瓦礫はきれいに撤去されていましたが、建物の基礎や土台はそのまま。
津波に流されて放置されていた郵便局のカブ。
4階建てのマンションをも飲み込んだ大津波。
人命救助の第一線である消防署も津波にのまれました。
そして生死の明暗を分けた、陸前高田市役所。
この建物の屋上を残して、付近一帯は大津波に飲み込まれたそうです。
屋上に逃げ延びた、わずかな人数しか助からなかったそうです。
建物内部は当時のまま。
屋内には流されてきた自動車がそのままの形で残されていました。
市庁舎の向かいに建つ、公民館。
津波警報が出た当時、多くの市民がこの場所に避難したそうです。
そして屋根の一部を残して、大津波に飲み込まれたそうです。
公民館に逃げ込まずに市庁舎に逃げていれば、もっと多くの人が助かったのかもしれません。
正面玄関には慰霊の祭壇が設けられており、多くの花や千羽鶴がたむけてありました。
去年、救援物資の運搬でこの市役所を訪れた際は、あまりの瓦礫の多さに近づくことも困難な有様でした。
ましてや、この公民館に逃げ込んだ人が全員死亡したなんて、知る由もありませんでした。
引き波が直撃して大きく崩れた公民館の外壁。
この日は、会社の社員旅行なのか、観光バスが停まっておりました。
現地を案内するのは、元市役所職員の方。
ボランティアで、被災地の案内をしているそうです。
一人でも多くの人に、この震災の酷さ惨さを知ってもらいたいと、心のこもった語り部に、参加者の皆さんも耳を傾けている様子でした。
そして高田松原において、大津波に飲み込まれながら一本だけ流されずに残った、奇跡の一本松へ行きました。
地元関係者の地道な努力の甲斐なく、残念ながら枯れてしまったそうです。
カメラに三脚を立てて撮影されている、一人の初老の男性にお話を伺いました。
地元にお住まいのこの男性によると、もう枯れてしまった松ですが、少しでも記録に残したいからと、定期的に撮影に訪れているそうです。
この周辺は、震災前はアサリやシジミがよく取れる場所として有名だったんだとか。
いまでは瓦礫の置き場となっていて、当時の面影がないのが辛いと語られておりました。
そんな陸前高田を後にし、次に向かった先は隣町の気仙沼市です。
宮城県気仙沼市。
サンマやカツオなどの水揚げや水産加工の街として、古くから知られた漁業の町。
そして気仙沼は、震災直後に1週間ほど救援ボランティアとして活動したところ。
その時の記事
その後も定期的に訪れていますが、今回は今年の3月11日以来。
その時は追悼式典に参加しようとして、気仙沼に行ってきました。
その時の記事
あれから4カ月しかたっていませんので、町の様子もあまり変化が感じられません。
前回行けなかった、街の外れの集落に行ってみました。
見渡す限りの緑に覆われた平野部ですが、ここでは多くの人が津波にのまれました。
同じ場所の、去年の3月18日写真です。
救援物資を輸送中、道に迷ってこの場所にたどり着いた時の写真です。
当時は、まだ消防団による行方不明者捜索の真最中でした。
そんな悲惨な光景を覆い隠すように、いまは深い緑に覆われておりました。
そして気仙沼をぬけて、国道45号線をさらに南下して、南三陸町へ向かいます。
その3へつづく